いきなりですが、心理学的な2択問題です。

あなたはどちらを選択しましたか? 統計的にはAを選ぶ人が多いようです。
では、条件を変えてみましょう。

今度はどうだったでしょうか? この場合、最初の質問でAを選んだ人も今度はDを選択することが多いようです。
獲得と損失の絶対的な価値としてはA=C、B=Dですが、人は10万円持っているというような状況(獲得のドメイン)でBのようなリスクを冒そうとはしません。反対に、10万円の借金がある状況(損失のドメイン)では、人はより大きなリスクを受け入れて挽回しようとする傾向があります。
こうした心理学的な傾向を理論化したものが プロスペクト理論 です。
上記の選択問題で見たとおり、意思決定者は置かれた条件によって絶対的な価値に対して主観的な評価をします。この評価の基準となるのが、参照基準点です。国際政治で現状維持というときの「現状」とは、すなわち参照基準点のことです。
現状=参照基準点は刻々と変化します。意思決定者の現状に関する主観的な理解(獲得/損失どちらのドメインにいるのか)だけでなく、欲求や期待水準によっても規定されるからです。しかも、人や国家は以下のようなやっかいな傾向があります。
したがって、奪い合ったモノの所有者が入れ替わっても、しばらくは獲得者と損失者双方が同じものを「自分のモノ」だと思い込む状態が続くわけですね。
意思決定者は、自分の考える現状=参照基準点に影響を受けてしまいがちな傾向があります。これを現状維持バイアスといいます。
領土問題を例にとってみましょう。中国が日本から尖閣諸島を奪い取ったと仮定します。中国は尖閣諸島を歴史的に中国固有の領土と考えており、日本から奪ったのではなく奪い返したのだと認識したとします。この場合、尖閣侵攻は中国にとって原状回復行動だったことになります。もちろん、日本は日本で現状を回復するための行動として尖閣諸島を取り戻そうとするでしょう。
このシナリオでは、両国とも現状維持を図っており、尖閣の奪還は損失のドメインで意思決定されたことになります。日中両国ともに現状維持バイアスに引っ張られた結果、高いリスクを受け入れてより大きなギャンブルをすることになったのです*1。
尖閣諸島の例では過去の歴史的背景が参照基準点に影響を与えましたが、未来が影響を与えることもあります。
ここでも中国を例にしてみましょう。中国は近年目覚ましい経済発展を遂げ、その配分として軍事力を拡大し地域の覇権を握らんとしています。中国の国民は自国の繁栄に相応しい生活レベルの向上や、国際社会における中国の威信の確立を将来に期待するでしょう。設定される参照基準点はおのずと高いものになります。しかし、生活レベルや国家の威信がいつまでもその参照基準点に達しなかった場合、国民の心理は損失に陥り、現状=参照基準点を回復しようと反乱や内紛という手段をとるかもしれません。高い経済成長を遂げているときにこそ国内の政情不安が起きるという論理を相対的剥奪といいます。
実際に、習近平政権になってからの中国は相対的剥奪への焦りを抱いているのではないか、と見られる節がありますね。
抑止政策は、相手国に対して将来の獲得の否定を要求します。一方、強制政策は過去の行動の解消・現在の行動の中止を迫ります*2。プロスペクト理論に従うなら、強制政策は相手国に損失を受け入れることを求めるために、抑止政策よりも難しいものとなります。
ところが、ここでも問題になるのが参照基準点です。「仮に相手国が参照基準点を現時点の状態よりも上位においている場合、現状は不満足となり(損失のドメイン)、現状にとどまることを要求する抑止は相手国にとって獲得の否定ではなく損失を受け入れることを意味」*3してしまいます。
彼我の現状=参照基準点を見誤れば、抑止政策でさえも相手には強制とみなされ、難しいものとなってしまう危険性があるのです。
プロスペクト理論は、基本的に個人の心理・情動を分析対象としたものです。ゆえに、本来はケネス・ウォルツの提唱した3つのイメージ*4でいうとファースト・イメージを取り扱った理論となるのですが、それをサード・イメージである国家(集団的意思決定)に適用することに対してかねてから論争があります。
また、心理や情動は個体差が及ぼす影響が大きいものですから、プロスペクト理論の予測能力には限界があることも留意しておかなければなりません。
外交に絶対的な勝利などありません。せいぜい 5.5:4.5くらいで妥協点を見出します。しかし、プロスペクト理論が示す通り、自分の譲歩(損失)は相手よりも大きいと感じてしまうために、自分たちは常に損失のドメインにあると考えがちです。それが過剰なリスクを受け入れてギャンブルに挑む原因となったり、深刻なエスカレーションや安全保障のジレンマを生んだりもします。
国民の多くが「自分たちは損失のドメインにいる」と強く思い込んだとき、その国の外交は利害の計算によってではなく、危うい熱情によって突き動かされてしまうかもしれません*5。私自身も参照基準点を意識することで、自分が過度の被害者意識を持って不要なリスクを国の対外政策に負わせようと望んでいないかどうかを省みるようにしています。
他にも、日中間の外交駆け引きや中国の三戦を眺めるとき、オフェンシブ・リアリズムなどのサード・イメージだけでは説明できないところのヒントをプロスペクト理論が与えてくれたりもします*6。例えば宣伝戦・国際メディア情報戦を考える際、当事者同士の主観的現状を認定するだけでなく、第三者の参照基準点を探っておくこともまた重要だよなあ、とか。
新聞やニュースを見るときに、こちら(日本)だけでなく係争相手の主観的現状をも意識するのに役立つモノサシになるかな、と思ってプロスペクト理論の中から参照基準点に焦点を当ててみました*7。
理論の詳細及び正確な解説については下記参考資料を。
【参考資料】
*1 プロスペクト理論の事例研究は土山本に詳しく紹介されています。湾岸戦争、ミュンヘン危機、イラン米国大使館人質救出事件が題材に取り上げられています。
リチャード・ネッド・ルボウも、第一次世界大戦をプロスペクト理論で分析し、欲求、恐怖、精神、さらにはコンテクスト(この場合は帝国主義)の重要性を説いています。ルボウのコンテクストは、ジェフェリー・タリアフェロのいう歴史の教訓と同じで、どちらも歴史的な文脈を重要視したものです。当然、何をコンテクストまたは歴史の教訓とするかによって参照基準点は変わります。さらにルボウは、動機によっては意思決定者が獲得のドメインでもリスクのある行動を好むとしており、これは従来のプロスペクト理論に挑戦するものと位置づけられています。
*2 伊藤、113ページ。
*3 伊藤、113ページをもとに。
*4 ケネス・ウォルツ、『人間・国家・戦争: 国際政治の3つのイメージ
』
*5 高坂正堯、『国際政治 恐怖と希望』、35-36ページ。
*6 プロスペクト理論は、「国家は力の増大ではなく安全の確保を第一義目的としている」(土山、153ページ)という見方を提供しており、ディフェンシブ・リアリズムを説明する理論ともなっています。
*7 プロスペクト理論は、「獲得したものを失う時の意思決定を説明するもの」(土山、144ページ)です。人が獲得よりも損失に敏感に反応する傾向だとか、獲得するときには慎重になり、損するときは大胆な判断をする、といったことが主テーマです。参照基準点はプロスペクト理論の一部にしか過ぎません。
【関連過去記事】

あなたはどちらを選択しましたか? 統計的にはAを選ぶ人が多いようです。
では、条件を変えてみましょう。

今度はどうだったでしょうか? この場合、最初の質問でAを選んだ人も今度はDを選択することが多いようです。
獲得と損失の絶対的な価値としてはA=C、B=Dですが、人は10万円持っているというような状況(獲得のドメイン)でBのようなリスクを冒そうとはしません。反対に、10万円の借金がある状況(損失のドメイン)では、人はより大きなリスクを受け入れて挽回しようとする傾向があります。
こうした心理学的な傾向を理論化したものが プロスペクト理論 です。
参照基準点
上記の選択問題で見たとおり、意思決定者は置かれた条件によって絶対的な価値に対して主観的な評価をします。この評価の基準となるのが、参照基準点です。国際政治で現状維持というときの「現状」とは、すなわち参照基準点のことです。
現状=参照基準点は刻々と変化します。意思決定者の現状に関する主観的な理解(獲得/損失どちらのドメインにいるのか)だけでなく、欲求や期待水準によっても規定されるからです。しかも、人や国家は以下のようなやっかいな傾向があります。
獲得したものは短期間で「現状」になる――つまり、獲得したところまでが参照基準点となる――のに対して、失ったときにはなかなかそれを受け入れない――つまり、そこがすぐには参照基準点にはならないのである。
したがって、奪い合ったモノの所有者が入れ替わっても、しばらくは獲得者と損失者双方が同じものを「自分のモノ」だと思い込む状態が続くわけですね。
現状維持バイアス
意思決定者は、自分の考える現状=参照基準点に影響を受けてしまいがちな傾向があります。これを現状維持バイアスといいます。
領土問題を例にとってみましょう。中国が日本から尖閣諸島を奪い取ったと仮定します。中国は尖閣諸島を歴史的に中国固有の領土と考えており、日本から奪ったのではなく奪い返したのだと認識したとします。この場合、尖閣侵攻は中国にとって原状回復行動だったことになります。もちろん、日本は日本で現状を回復するための行動として尖閣諸島を取り戻そうとするでしょう。
このシナリオでは、両国とも現状維持を図っており、尖閣の奪還は損失のドメインで意思決定されたことになります。日中両国ともに現状維持バイアスに引っ張られた結果、高いリスクを受け入れてより大きなギャンブルをすることになったのです*1。
相対的剥奪
尖閣諸島の例では過去の歴史的背景が参照基準点に影響を与えましたが、未来が影響を与えることもあります。
ここでも中国を例にしてみましょう。中国は近年目覚ましい経済発展を遂げ、その配分として軍事力を拡大し地域の覇権を握らんとしています。中国の国民は自国の繁栄に相応しい生活レベルの向上や、国際社会における中国の威信の確立を将来に期待するでしょう。設定される参照基準点はおのずと高いものになります。しかし、生活レベルや国家の威信がいつまでもその参照基準点に達しなかった場合、国民の心理は損失に陥り、現状=参照基準点を回復しようと反乱や内紛という手段をとるかもしれません。高い経済成長を遂げているときにこそ国内の政情不安が起きるという論理を相対的剥奪といいます。
実際に、習近平政権になってからの中国は相対的剥奪への焦りを抱いているのではないか、と見られる節がありますね。
中国国民自身による大国意識の増大が、国家の韜光養晦を許さなくなっています。地域覇権への発展途上にある状況を理解できない国民から覇権国としての威厳を要求された国家指導部が、押し出されるように平和台頭路線を踏み外しつつあるのが現状なのかもしれません。
抑止に比べて強制は難しい
抑止政策は、相手国に対して将来の獲得の否定を要求します。一方、強制政策は過去の行動の解消・現在の行動の中止を迫ります*2。プロスペクト理論に従うなら、強制政策は相手国に損失を受け入れることを求めるために、抑止政策よりも難しいものとなります。
ところが、ここでも問題になるのが参照基準点です。「仮に相手国が参照基準点を現時点の状態よりも上位においている場合、現状は不満足となり(損失のドメイン)、現状にとどまることを要求する抑止は相手国にとって獲得の否定ではなく損失を受け入れることを意味」*3してしまいます。
彼我の現状=参照基準点を見誤れば、抑止政策でさえも相手には強制とみなされ、難しいものとなってしまう危険性があるのです。
プロスペクト理論に対する批判
プロスペクト理論は、基本的に個人の心理・情動を分析対象としたものです。ゆえに、本来はケネス・ウォルツの提唱した3つのイメージ*4でいうとファースト・イメージを取り扱った理論となるのですが、それをサード・イメージである国家(集団的意思決定)に適用することに対してかねてから論争があります。
また、心理や情動は個体差が及ぼす影響が大きいものですから、プロスペクト理論の予測能力には限界があることも留意しておかなければなりません。
◇ ◇ ◇
外交に絶対的な勝利などありません。せいぜい 5.5:4.5くらいで妥協点を見出します。しかし、プロスペクト理論が示す通り、自分の譲歩(損失)は相手よりも大きいと感じてしまうために、自分たちは常に損失のドメインにあると考えがちです。それが過剰なリスクを受け入れてギャンブルに挑む原因となったり、深刻なエスカレーションや安全保障のジレンマを生んだりもします。
国民の多くが「自分たちは損失のドメインにいる」と強く思い込んだとき、その国の外交は利害の計算によってではなく、危うい熱情によって突き動かされてしまうかもしれません*5。私自身も参照基準点を意識することで、自分が過度の被害者意識を持って不要なリスクを国の対外政策に負わせようと望んでいないかどうかを省みるようにしています。
他にも、日中間の外交駆け引きや中国の三戦を眺めるとき、オフェンシブ・リアリズムなどのサード・イメージだけでは説明できないところのヒントをプロスペクト理論が与えてくれたりもします*6。例えば宣伝戦・国際メディア情報戦を考える際、当事者同士の主観的現状を認定するだけでなく、第三者の参照基準点を探っておくこともまた重要だよなあ、とか。
新聞やニュースを見るときに、こちら(日本)だけでなく係争相手の主観的現状をも意識するのに役立つモノサシになるかな、と思ってプロスペクト理論の中から参照基準点に焦点を当ててみました*7。
理論の詳細及び正確な解説については下記参考資料を。
【参考資料】
- 土山實男、『安全保障の国際政治学 -- 焦りと傲り 第二版
』、143-172ページ。
- 伊藤隆太、[PDF] 国際政治研究におけるプロスペクト理論 : 方法論的問題と理論的含意、法学政治学論究 : 法律・政治・社会 (98), 103-132, 2013.
- 久保田 徳仁、プロスペクト理論の国際政治分析への適用――理論及び方法論の観点から見た現状と課題――、 『防衛大学校紀要(社会科学分冊)』第92輯 (2006年、1〜24ページ).
*1 プロスペクト理論の事例研究は土山本に詳しく紹介されています。湾岸戦争、ミュンヘン危機、イラン米国大使館人質救出事件が題材に取り上げられています。
リチャード・ネッド・ルボウも、第一次世界大戦をプロスペクト理論で分析し、欲求、恐怖、精神、さらにはコンテクスト(この場合は帝国主義)の重要性を説いています。ルボウのコンテクストは、ジェフェリー・タリアフェロのいう歴史の教訓と同じで、どちらも歴史的な文脈を重要視したものです。当然、何をコンテクストまたは歴史の教訓とするかによって参照基準点は変わります。さらにルボウは、動機によっては意思決定者が獲得のドメインでもリスクのある行動を好むとしており、これは従来のプロスペクト理論に挑戦するものと位置づけられています。
*2 伊藤、113ページ。
*3 伊藤、113ページをもとに。
*4 ケネス・ウォルツ、『人間・国家・戦争: 国際政治の3つのイメージ
*5 高坂正堯、『国際政治 恐怖と希望』、35-36ページ。
*6 プロスペクト理論は、「国家は力の増大ではなく安全の確保を第一義目的としている」(土山、153ページ)という見方を提供しており、ディフェンシブ・リアリズムを説明する理論ともなっています。
*7 プロスペクト理論は、「獲得したものを失う時の意思決定を説明するもの」(土山、144ページ)です。人が獲得よりも損失に敏感に反応する傾向だとか、獲得するときには慎重になり、損するときは大胆な判断をする、といったことが主テーマです。参照基準点はプロスペクト理論の一部にしか過ぎません。
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