北朝鮮の核・ミサイル開発をめぐって我が国周辺の危機レベルが上がっていると見る雰囲気があります。現時点で米海軍の展開にそこまでの緊急性は見られず、今すぐに戦争が起きるという状況ではありません。北朝鮮が対米核抑止態勢を追及する限り、日米韓に対する軍事的脅威が増大し続けるのは間違いありませんが、それがすなわち"危機"を押し上げるわけでもないので、ここに来て突然戦争の兆候が高まったかのような見方にはやや違和感があります。

しかしながら、「戦争が起きるなんてありえない」とタカを括るのも危ない考えです。確かに、世界大戦規模のものを想像するなら、めったに発生するものではないでしょう。しかし、19世紀、20世紀と比べてみても、2001年以降の約10年で戦争が減っているわけではないんですよね。大規模なものだけでもアフガニスタン、イラク、ダルフール、東ティモール、イスラエルとパレスチナ・レバノン、グルジア、リビア、シリアなどで戦争が起きています。2014年にクリミアで生起した危機もまだ記憶に新しいところです。北朝鮮では「まだ」「すぐに」戦争が起きる兆候にないだけです。


戦争が起きる3つの理由


紀元前ギリシャの歴史家であるトゥキディデスは、人間とその集団の行動の源泉が名誉恐怖利益にあるとしました※1

これはリアリズムの真髄であるとされ、今では戦争の3大原因とされています。国際政治学者のリチャード・ネッド・ルボウも、精神(spirit)、物欲(appetite)、理性(reason)、そして恐怖(fear)の4つのイメージを人間の行動原理として掲げています。その上でルボウは、「戦争は国民感情によって引き起こされる」と主張していますね※2。軍人よりもシビリアンの方が戦争を好む、という傾向に関しては、三浦瑠麗氏の著作が大変参考になります※3


戦争が起きる2つの動機


こうした名誉、恐怖、利益をベースに、戦争発生の2つの類型が考え出されました。ひとつめは、「機会を動機とした戦争(wars of opportunity)」です。

「機会を動機とした戦争」は、とある機会が訪れた際、軍事力を行使すれば望むものを獲得できるんだ!という計算に基づいて行動することです。例えば、ある地域を支配していた大国のプレゼンス(存在)がなくなり、そこにぽっかりと「力の真空」が生まれることがありますよね。この場合に「機会=隙」に乗じた野心的なアクターが、「あれ、これイケるんじゃね?」と楽観的な判断をすることで戦争が起きやすくなるわけです。

ロシアによる対日戦争(1904)、ドイツの対ロ戦争(1941)、金日成による朝鮮戦争(1950)、そして湾岸戦争におけるフセインの対米評価及びアメリカの対フセイン評価(1990)、サーカシュビリによるグルジア紛争(2008)が実例として挙げられます。

もうひとつは、自国の安全が脅威にさらされていると怯えていたり、もしくは今の優位を近い将来に失うかもしれないという予感に耐えきれず武力行使に訴える場合です。「脆弱性を動機とした戦争(wars of vulnerability)」と呼ばれます。

脆弱性とは、対外的(国際政治)な脆弱性もあれば、対内的(国内政治)な脆弱性もあります。戦争は、外に向かって侵略的野心を持った国が「機会を動機」として引き起こすものだ、とばかり考えるのは間違いなのです。例えば、第一次大戦前夜の欧州。この時期、露仏への脅威を抱いていたドイツは軍備増強を進めていました。ロシアはこれに危機感を抱き、鉄道網を拡大しますが、ドイツにとってみればこれは対独戦争準備に映りました。ドイツが自分の戦略的脆弱性がますます高まっていると感じていた矢先、サラエボ事件でロシアがドイツ抑止のために陸軍を動員したことで、ドイツの不安は爆発。その結果、何もしないでいると敗北する恐れを感じたドイツが先制攻撃を仕掛けたのです。ドイツが開戦を決意した動機は、戦略的優位ではなく自らの戦略的脆弱性でした。

「脆弱性を動機とした戦争」の例は他にも、太平洋戦争、第3次・第4次中東戦争、そしてフォークランド紛争などで見られます。いずれも自分が相手に勝てると確信したからではなく、自分の国内外における戦略的脆弱性を相殺(または挽回)しようとして強硬な行動をとったのです。恐ろしいのは、その判断の多くは誤った楽観主義に由来するために、上手くいかない事例が多いところです。

現今の北朝鮮情勢を振り返ってみると、米国が北朝鮮に対してかけている軍事的圧力は、「強制外交」と言われるものです。抑止政策が相手国に対して将来の獲得の否定を要求するのに対し、強制政策は過去の行動の解消・現在の行動の中止を迫ります。プロスペクト理論に従うなら、強制政策は相手国に損失(脆弱性)を受け入れることを求めるために、抑止政策よりも難しいものとなります。

また、脆弱性を感じているのは北朝鮮だけとは限りません。日本、韓国は言うまでもなく、北朝鮮の核ICBMが米本土へ攻撃可能な射程を持ったり、西太平洋の米軍基地が弾道ミサイルの脅威にさらされつつある中、米国もまたある種の脆弱性を感じており、 先制攻撃/予防攻撃の選択をとる可能性は否定できません。


危機におけるリーダーの心理


戦争の可能性をゼロにはできません。しかしながら、人類が2度の大戦や数々の悲劇から何も学んでいない、と見るのは極論です。外交交渉の機会を増やすノウハウやエスカレーションを食い止めるメカニズムを機能させようという試行錯誤は続いてます。

例えば 危機管理 というモデルがあります。これは、戦争は計算された結果というよりも、政策の失敗によって起こることの方が多い点に着目したものです。政策の失敗がすぐさま戦争へとエスカレートしないために、「危機」という平時でも戦時でもないグレーゾーンを設け、この期間を利用して互いの誤解を解いたり、妥協点を探り合ったりすることで、多くの犠牲者を生む戦争を回避するのです。

危機管理

この危機の度合いが高まれば高まるほど、当事国のリーダー/指導層の心理は通常のものではなくなる傾向があります。国際政治学者のブルース・ラセットは以下のように定義して警鐘を鳴らしています※5

  • 危機の時期、緊張が増すにつれ、コミュニケーションは短くなり、いっそう定式化する傾向を示した。
    定式化は事実を歪めるばかりではないそれらは事実を黒白のイメージに分解し、「敵のイメージ」の創出を促す傾向にある
  • 危機は、相手方の行動に対して、敵意と暴力のレベルにおける過剰な知覚を発展させる。言い換えれば、敵意が存在しないようなところに敵意を見てとる(希望的観測ないし自己充足的な予測によって)。
    他方、自分の行動が示す敵意と暴力については、過小の知覚しかなされない
  • このような過程を経て、紛争のらせん状況となる。つまり、互いを敵と知覚する二国間のミラー・イメージ状況である。懸念や恐怖といった知覚が、この状況下で増幅される。
    意思決定者は、能力についての知覚を無視するかもしれない。自分や彼我の同盟国、双方の強弱に対する知覚が薄くなる。
  • 危機が増大するにつれ、意思決定者たちは次第に自分たちの選択肢の範囲がいっそう限定されるようになると感じる
    一方で、意思決定者たちは、相手の選択肢は広がっているとみなす
  • 高い緊張にさらされた意思決定者たちは、自分の苦境を宿命論的なものだと反応し、怒りや絶望に落ち込む。そして、戦争をさらに回避する方法を探し求めることを止めてしまうことがある。

私も含めて、どうしても人は他者を何らかのバイアスをもってとらえてしまいがちです。「ドナルド・トランプだから…」とか「どうせ金正恩は…」といった個人的レッテルで定式化して互いの国の出方を憶測し、彼我の選択肢を狭めてしまうこともまた危機管理に失敗する原因となるという点は自戒しておきたいと思っていますし、関係各国の意思決定者たちがこうした事情をわきまえていてくれることを信じたいと思います。


対決も宥和も望ましくない

平和の維持のためには、対決政策も「融和政策」もともに望ましくなく、その中間的方策が必要だが、ある特定の時点で、ある特定の事態に、どの程度対決的で、どの程度「融和」的な政策をとるかという判断はまことに難しい。

高坂正堯、『外交感覚 ― 時代の終わりと長い始まり 』、99ページ。

国際政治学者・高坂正堯の言葉です。

「汝平和を欲さば戦に備えよ」という警句のとおり、高坂も軍事力を整えることの重要性を否定するどころか繰り返し説いていました。例えばフォークランド紛争に関しては以下のような評論をしています。

イギリスの誤りとは、いくつかの兆候にもかかわらずまさかアルゼンチンが軍事力を用いてフォークランド諸島をとるとは考えず、対応策をとらなかった点にある。イギリスは艦艇を送るとか、海兵隊を増員することによってアルゼンチンの行動を抑止することができたし、1977年はそうした。それが今回はアルゼンチンの意図を誤認したのであり、それが自らも損をし、他国にも迷惑をかけることになった。

高坂正堯、『外交感覚 ― 時代の終わりと長い始まり 』、151ページ。

キューバ危機などから得られる教訓として、危機管理における対話の重要性は自明です。国連決議や六か国協議といった20年以上にわたる対話をベースにした国際社会の外交的アプローチを北朝鮮が無視しし続けた事実は重いものと言わざるを得ません。

対話チャンネルは維持しつつも軍事力を背景に、すべき時にすべき事をするというのも大事です。 朝鮮半島ではクリントン政権、ブッシュ政権、そしてオバマ政権などの各時期に、北朝鮮のミサイル戦力が整わない段階でもっとすべきことがあったかもしれないと愚考します。

加えて、金大中・盧武鉉政権下での太陽政策に見られる宥和政策が北朝鮮問題において悪しきものであったように、これ以上の譲歩が事態を好転させるというスタンスにも無理があります。"中間的方策"を見出す、というのは最も困難なことなのかもしれません。


誤解・誤算を避けるために


ただ武力衝突(戦争)を回避できたとしても、相手の攻勢を止められなかったり、原状回復ができなかったりすれば、それもまた危機管理の失敗です。危機管理を行う上で難しいのが、戦争の回避と原状回復のジレンマの克服ですが、どちらを優先させるかはその時の状況やアクターによってさまざまです。

アレクサンダー・ジョージは、戦争を回避する条件として次の6つを挙げています。すなわち、強制する側の政策が;
  1. 相手に最後通牒と受け取られ、相手を挑発していないか、
  2. 強制政策と戦争回避の政策の間に衝突が起きていないか、
  3. 相手は強制側の決意を理解しているか、
  4. 相手が強制側の決意を理解するまで交渉を遅らせられるか、
  5. 相手が要求を受け入れやすくするための「ニンジン」は与えられているか、
  6. 相手が反撃の決意を固める前に「ニンジン」と「ムチ」をタイミングよく適用されたか、※5
です。

現在の北朝鮮情勢でいえば、米朝どちらにも当てはまりますね。

戦争の多くは「意図せざる不注意な戦争(inadvertent war)」です。思い込みによって自ら勝手に誤解・誤算の淵に落ち、相手にとっては明白な動機を、戦争が起こってしまった後で「まさか」…と悔やんでも後の祭りです。

本稿で挙げた以外にも、武力行使の動機にはいくつか種類があります。抑止や強制外交を施す側は、相手の動機によってアプローチの仕方を変えることが求められます。さもなければ、相手の退路を断ってむやみに戦争をけしかけることになるかもしれませんし、反対に宥和と取られるようなメッセージを送れば、相手につけ込まれてしまう危険もあります。抑止力のための軍事力を増強するにしても、相手の動機を読み誤ったまま進めるとリソースの無駄遣いになりかねません。

中江兆民が1887年(明治20年)に著した『三酔人経綸問答』では次のようなくだりがあります。
二つの国が戦争を始めるのは、どちらも戦争が好きだからではなくて、じつは戦争を恐れているために、そうなるのです。こちらが相手を恐れ、あわてて軍備をととのえる。すると相手もまたこちらを恐れて、あわてて軍備をととのえる。双方のノイローゼは、月日とともに激しくなり、そこへまた新聞というものまであって、各国の実情とデマとを無差別に並べて報道する。はなはだしいばあいには、自分じしんノイローゼ的な文章をかき、なにか異常な色をつけて世間に広めてしまう。そうなると、おたがいに怖れあっている二国の神経は、いよいよ錯乱してきて、先んずれば人を制す、いっそこちらから口火を切るにしかず、と思うようになる。そうなると、戦争を恐れるこの二国の気持ちは、急激に頂点に達し、おのずと開戦になってしまうのです。今も昔も、どこの国も、これが交戦の実情です。もし片一方の国が、ノイローゼにかかっていないときは、たいていのばあい、戦争にまではならず、たとえ戦争になっても、その国の戦略はかならず防衛を主とし、ゆとりがあり、また正義という名分を持つことができるので、文明史のうちに否定的評価を記入されることは、けっしてないのです。

中江兆民、『三酔人経綸問答 』、106〜107ページ。

これは『安全保障のジレンマ(security dilemma)』の本質を突いたもので、現在の危機管理にも敷衍しうる見方ですね。

「戦争なんか起こるわけがない」という思い込みは危険ですし、当事国がよほどの注意を払わなければ、戦争なんてちょっとしたきっかけで始まってしまいます。平和を維持するのは本当に難しいものなのですよね。



注※4 ブルース・M・ラセット、『安全保障のジレンマ―核抑止・軍拡競争・軍備管理をめぐって 』。
注※5 Alexander, L, George and William Simons, eds., The Limits Of Coercive Diplomacy: Second Edition , 1994.