2013年04月22日

眠りについて眠りのようにまとまりもなく

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この半月ほど、なぜだかわからないがとにかく眠い。寝ても寝ても眠い。朝、目が覚めるとすでに泥のように眠い。眠いのだから目が覚めなけければいいものをと思うのだが、とりあえず目は覚める。覚めるが、疲労困憊しているのである。睡眠がまるで綿花摘みか鉄道敷設の過酷な労働であるかのように。
寝すぎるから眠いのだろうと濡れた新聞紙をはがすように起き出して散歩に行き、朝風呂に入ってみたりするとまあかなりすっきりする。するのだが、それでも眠い。
困ったことに、今度はすっきりとさわやかに眠くなるのだ。
で、やらなければならないあれやこれやをとりあえず後回しにして、すっきりとさわやかに朝寝をする。
それでたちまち半月が過ぎた。


困ったことにと思わず書いたが、私以外、いまのところ誰も困っているわけではない。締切り仕事で動かなければならないのはもう少し先だ。
ではなぜ、私は朝寝することにあるいは昼寝することにある種の後ろめたさを覚えるのだろう。

動物を見ればわかることだが、原初、眠りは全き善であったはずである。
「はじめに眠りがあった。目覚めと言葉はそのあとに、遅れてやって来た」
私の創世記にはそう書いてある。
多分、眠りが微妙な翳りを帯びたところに近代は発端する。
勤勉な市民として人々は、ある時から適切に眠らなければならなくなったのである。
適切に。つまり労働力としてもっとも効率的に(寝すぎてもいけないが、寝ないことで健康を毀損してもいけない)。
近代的市民の眠りのモラルにおいて、私の眠りは適切を逸脱したところに広がる沼なのだ。


わが家のトイレの壁にはずっと前から上掲のような古い美術展のポスターが飾ってある。
エドワード・バーン・ジョーンズの「眠り姫」。飾ってあることに特別な意味はない。壁が殺風景で、たまたまポスターがあっただけのことだ。しかし、図像はやがて見えない意味の枝葉を四方に伸ばし茨のように空間を覆う。
私がいつも眠いのは、もう何年にもわたってこの絵を見続けているせいかもしれない。


いまごろ気が付いたのだが、童話「眠り姫」(=「いばら姫」「眠れる森の美女」)に登場する王子さまは、しかるべき努力を何もしていない。
たまたまお姫さまが眠りから覚める100年目にめぐり合わせただけである。その前に幾多のチャレンジャーが城を覆った茨の前に命を落としているのだが、呪い解除の時にめぐり合わせた彼はすいすいと城の中に入っていき、眠っている美女を発見する。王子の側から言えば話はそれだけだ。Almost no pain.

いい話だ。
努力すればいつもうまくいくというわけでもない。がんばれば勝てるというものでもない。
(あの童話には、結婚後、大変なことが起きる別バージョンもあって面白いが)、私にとって眠り姫とはまあとりあえずそのような話だということにしようと、眠りながらそう思う。

nor_sasaki at 23:34│clip!その他 | 江戸詰め