更新しないと書いてしまい、申し訳ありませんでした。自分の弱さに負けてしまったことが原因です。しかし、疑問にはできる限り答えたいと思います。蒸し返す結果になるかもしれませんし、批判的な方には単なる言い訳にしかならないかもしれませんが、素直に書いていきたいと思います。
10. Posted by あ 2006年02月14日 03:02
君は嘘が下手だね。
君が共産党とつながりが無いというのは、君の帰国会見を仕切った弁護士を見てても、また、君のご両親の、君の人質の間に語った言葉は、そんな生易しいものじゃなかった、君が人質であると言う事実が、国の責任であり、自分達(親としては常識を疑う行為すら認識できなかったらしいが)は国の被害者であると言う主張を繰り返すばかりだった、そしてあの15万の署名騒ぎ、共産党の組織動員じゃなかったのかね?

今井 弁護士といっても多くの方が僕の知り合いでしたが、いろいろな考えを持っている方がいらっしゃいます。また、15万の署名騒ぎについて、私もこんなに集まるのか、と当時は驚きましたが、中学の同級生から彼らの友人、高校の同級生たち、私の知人または市民団体の方々、一般の方々が街頭になって札幌では署名活動が行われたそうです。また、東京でも僕の友人たちから僕の知らない方々も署名活動に加わったと話を聞いています。そう考えれば、全国的な展開というものはあったのでしょう。


12. Posted by あ 2006年02月14日 03:05
> 私が行動すれば、私と年齢の近い人々が興味や関心をいだいていただけるのではないか

じゃあ、何故イラクなわけ?君の周囲には、もっと社会的な弱者や、社会的に苦しんでいる人はいなかったわけ?君の頭の中ではイラク人そして劣化ウランの問題だけしか見えなかったわけか?

傲慢だな。

今井 私は高校1年のときから3年間、一日ほぼ一食で生活しお金をためてきました。それをボランティアの資金に使い、今まで多くのことについて問題意識があったと思います。たとえば、私は中学の卒業前から毎朝学校に通う前に通学路のゴミ拾いを行い、中野川というものが私の家の付近にあるのですが、その川を重点的に拾い続けました。こういったことは高校に通い始めた後も続け、学校の周りに森林があるのですが、そこでも不法投棄を業者と協力して片付けてきました。
 これは自慢話のような響きを持たすので、これ以上は語りませんが、同級生とバンドを組んで老人ホームを回って演奏活動をしたりバイトをしたり、いろいろしてきました。その中で社会的ないろいろな問題を見てきましたが、やはりすべてのことは繋がっていると思います。その中で集中してすることはひとつしかできません。すべてのことを一人で行うことは物理的に不可能です。なので、一人ひとりが何かを考える、それは趣味でもいいのですが、考えていくのが大切だと思っていました。


 昨日は私が書いた東京新聞の手記を紹介して終わったと思います。これからはなるべく簡潔に解放後のことを書きたいと思います。

 当時、私たちは自分たちが人質だったということは知りませんでした。日本では当時、「72時間以内に殺される」と報道されていたそうですが、僕らはそのことすら知りませんでした。一日目、ビデオが撮られた後言われたのは「3日で帰す」とのことだけでした。その後、9日間人質にされていたわけですが、僕ら側からみれば1日目と2日目は恐怖の体験が多くありましたが、3日以降は移動の自由が制限されていただけでした。僕ら自身はずっと拘束されているだけで、たぶん彼らが何らかの事情で出せなくなってしまったのだろう、と考えていました。ただ、8日目にアルジャジーラを見て家族を見たときは「何か大変なことが起こっている」とは感じましたが、そのときは人質になっていることは気付いていません。

 解放後、私たちはモスクに連れて行かれアルジャジーラのスタッフと日テレのステッカーをつけたビデオを持つイラク人通釈者と会いましたが、そのとき高遠さんが「イラクに残りたい」といいました。また、私たちはイラク人通訳者に「乾杯しよう」といわれて乾杯しました。しかし、そのとき日本で起こっている現状などはまったく知ることもありませんでした。

 モスクから日本大使館に移動後、NHKのテロップに「人質解放」と書いてあることから、あれ、私たち人質だったんだ、ということに気がついたと思います。しかし、実際に私たちが日本での現状を知ることは、日本に帰るまではあまり飲み込めていなかったと思います。私たちは日本大使館に一泊した後、ドバイで一度「入院」させられましたが、病院に入るときに多くの報道陣がいたことはもちろんわかります。しかし、そのときは事件の重大さはほとんどわかっていませんでした(少なくとも私は)。

 これはかなりギャップがあるのですが、私は日本に帰国後は「自分が悪い」というか、プレッシャーみたいなものがあって、寝込んでいました。そのため、あまりテレビを見ていませんでしたので、いったい何が語られているかはその当時、まったく知りませんでした。しかし、記者会見をしなければならない、ということで私と郡山さんは4月30日に記者会見を開きました。
 あのとき、私は最初の20分間だけで退席しました。確か、あのとき、PTSDとか何かの理由で退席したように思いますが、PTSDというよりも具合が悪かったことは挙げられます。僕は確かにあの当時の夢はけっこう見ていましたが、そこまで苦しんでいるわけではありませんでした。それでは何に苦しんでいた、というとよく自分でもわからないのですが、とにかく吐き気と自分がどこかに行ってしまったんじゃないか、と思えるような空虚さでした。正直、今でも不思議なのですが、あのとき自分の中で自分が消えているような感触を受けていました。
 また、一番の日本に帰ってからの恐怖は視線でした。また、街を歩けば人だかりができましたし、声を何人にもかけられました(これは今でもありますが)。もう自分の中で、完全に世界が変わってしまいました。僕の知らない人が僕を知っている、そして「あの事件の人だ」といわれていること。毎日、冷や汗を書きました。

 次は書き込みからの質問を取り上げます。よろしくお願いします。