2006年04月
2006年04月17日
復活祭はやっぱり羊肉!
今朝目覚めると、昨夜はよく眠れたとフィオレッラが言う。前の日は、元恋人の話などでちょっと気持ちが沈んでいたのかもしれない。
少し気持ちを吐き出し、昨日は町を歩き回り、町の歴史を知り、気持ちが少しずつ和らいだのかなと考え、そうだったらいいなと思う。
私の家まで響く鐘は、聖ピエトロ教会のものである。
今朝はまず、そこへ行ってみた。
天に向かってそそり立つ鐘楼の白さと尖端さが特徴的な教会である。聖具室には、ペルジーノとカラヴァッジョの小品がある。
この教会のガイドブックを買って、フィオレッラは丁寧に見学し、管理人のおじさんに質問をしていた。
それから、国立ウンブリア美術館へ行った。ウンブリア派を中心に、1200年代から1世紀ごとに仕切ってあり詳細な説明がついてある。中には、ラッファエッロの師匠ペルジーノの作品など重要な作品がたくさんあって、2時間くらいかけて見た。
イタリアでは、復活祭に子羊を食べる習慣がある。イエス・キリストの換称が「神の子羊」だからだそうな。昨日も今日も、町を歩いていると何処からかともなく「ジンギスカン」の香ばしい匂いが漂っていて、肉にそれほど熱心でないフィオレッラも「せっかくだから食べよう」と言い出し、レストランに入った。
子羊のうち、1年未満の子羊はアニェッロと呼ばれる。アバッキョと呼ばれるものは、乳離れする前に畜殺された子羊で、復活祭にはアニェッロが通常、食されるようだ。親切なウエイトレスと相談した結果、子羊の内臓を刻んでトマトソースで煮込んだコラテッラという料理も味見してみることにした。
まず、コラテッラが登場。
内臓には躊躇しない私でも、あの独特な羊の香りと内臓の匂いで、どうかと疑ったが、口にしてみるととても美味しいことが分かった。心臓やレバー、肺といった各内臓が細かく刻まれ、ピリッとしたトマトソースと煮てある。部位によって歯ごたえが異なり面白い。門構えのわりに、ここのレストランはかなり期待できそうだ、とフィオレッラと話す。
そうこうするうちに、お待ちかねの子羊の炭焼きがやって来た。
イタリアや日本のイタリアレストランで、上手いと言いかねる羊を何度か口にしてから、あの独特な匂いがあまり好きでなくなり、やはり羊はニンニクの利いたタレで食べるジンギスカンにかぎる!と決めかかっていた私だったが、肉自体が良いものだったのと、炭火焼きの効果と、もちろんコックさんの腕によって羊肉の美味しさを再発見し、目からウロコだった。
ローズマリーと細かく切ったニンニク少々が散らされている、いたって素朴な調理法だ。レモン汁をたっぷりとかけぺロリと食べてしまった。本当に、本当に美味だった。
昨日も今日もかなり私たちは歩いたし、この二日間お喋りで遅くまで起きていたから、少しはグッタリしてもいいはずなのに、アニェッロ(羊)効果か、回復した天気と共に、私たちは益々元気一杯だった。
ペルージャの人たちは親切で礼儀正しい人が多い、という私の前宣伝がこの数日でフィオレッラもわかったようだった。
レストランや喫茶店での金額も手ごろに設定されているし、レストランの味に関しては、きっとどこでもだいたい良い線を行くのではないか、と観光都市フィレンツェと比べて話す。
イタリアでは、普通、喫茶店は立ち飲みだが、座るとなると金額が数パーセントアップする。しかし、ここペルージャはそういう習慣がない。私が毎朝ショウウインドーに釘付けになる老舗のケーキ屋さんの奥には席がいくつかあり、座ってゆっくりコーヒーが飲める。赤いジャケットが制服の店員さんたちがテキパキ働く姿といい、すっかり彼女のお気に入りになり、
「イタリアの何処へ行っても席料は取られるのに、ここはいいね」
と安心してお茶をする。
フィレンツェとペルージャは2時間の距離だけれども、イタリア人の彼女が、異国にでも来たかの様に、色々な違いや共通点を発見し、興味深げに感想を言っていたのが、私には興味深かった。
駅までフィオレッラを見送りに行く。
電車に乗り込む時、彼女は穏やかな声でこう言った。
「おかげで、気分がすごく良くなったよ。」
2006年04月16日
ペルージャ、よいとこ
昨夜は、恋愛談義が夜中まで続き、8時の起床だった。なんでも積極的な彼女に任せて、私は何も計画してなかった。
彼女としばらく考えて、とにかくペルージャ観光をしよう、と昼近くに家を出た。
町は、昨夜同様、人でごったがえしていた。観光客も多いし、復活祭の昼食会のため、家族連れ立って町に出てきたと思われる人たちも多くいた。
ペルージャからバスで1時間程度の所にグッビョという町がある。階下のアンナマリアさんの故郷でもあり、いつか行って見たいと思っているところだ。
彼女は、初めグッビョへの小旅行を考えていたが、バスの本数も少なく、天気も芳しくなさそうだし、ということで次回に延ばすことにした。
そういうことで、今日と明日はのんびりペルージャ観光!と決意し、24時間内に、好きな市内の観光施設を5つ周れるお得なチケットを購入する。
私のペルージャでの生活は大学と家の往復で、国立美術館などは見たものの、ほとんど無知と言っても良いくらいである。私も街を知る良いチャンスだ、と興味がわいた。
復活祭のミサをしている大聖堂内を見た後、エトルニア時代の井戸を見下ろし、ペルージャでは唯一、ラッファエッロのフレスコ画がある聖セヴェーロ教会へ行く。
ペルージャのステキな所は、何処に連れて行くのだろうと思わせる細い路地がいくつもあり、複雑に他の道と交差して、エトルニア時代の起源を持つ町であることを納得させる。
当時、まさか、後世に車どころか馬車さえ登場するとは誰も考えもしなかったわけで、道という道がとても狭いのは当然のことである。何気なく横道にそれて、路地に入ってみる。
真ん中の溝のような道が、昔は水を運ぶ水路だった
両脇の古い建物が上階で繋がり、アーチを作る。その下をくぐりながら視線を上に向けると
小窓にゼラニュームの鉢植えに気づいた。
古いレンガの色とゼラニュームの赤色、見上げると、細く切り取られた青い空。
こんな入り組んだ旧中心街で生活するのはどういう気持ちなのかな、と考える。
右にあるのが大噴水大聖堂は、大噴水が中心にある11月4日広場に面している。かつて、この大噴水に水を引いていた水路は、現在「水道通り」という名で、もちろん歩くことが出来る道になっている。
大噴水の周りは、鉄柵が囲む。以前、ペルージャは鉄製品の技術が高い町として知られていたという。鉄打ちというのは筋力が必要な重労働で、子供の頃から弟子入りして体を作る必要があった。そういった子供が成長し、りっぱな職人になり、文化は引き継がれる。しかし、時代が変わると、子供にこんな重労働を、と嘆く大人や、子供はまず学校へ通わせなければ、というもっともな言い分によって、ペルージャの誇る鉄文化はすっかり消えてしまった、と中世史の先生がしてくれたことがあった。
この鉄柵は、ペルージャが鉄文化が豊かだった時代の作品である。
そんな風に、イタリア人のフィオレッラに聞きかじりの知識を、得意顔一杯でいくつか披露する。
歴史が好きな彼女は、ふむふむと私の説明に耳を傾ける。
歴史的中心街のずっと北のほうへ歩いて行くと、聖アンジェロという名の、ペルージャ一古い教会に行き当たる。ガイドブックには5世紀末から6世紀初めに建てられたと書かれている。初期のキリスト教の聖堂で、真ん中に祭壇があり、その周りを、16本の大理石の円柱が囲む円形型の教会である。彼女も私も、その教会の持つ独特な雰囲気が気に入った。
その隣には聖アンジェロ門天守閣がそびえる。ペルージャでは最も大きい中世時代の門である。屋上からは360度広がるパノラマが望め、またペルージャに残るいくつもの門の細かい説明と、ペルージャの歴史がわかる博物館にもなっている。
フィオレッラにとってペルージャは初めてではないが、町が教会勢力に抵抗し、自治体制を存続させつつも1540年には教皇領になる町の歴史は、新しい情報として彼女の知的刺激を満足させたらしかった。
2006年04月15日
フィオレッラ、ペルージャ入り
昼過ぎに、フィレンツェの友人、フィオレッラがペルージャにやって来た。
2週間前、彼女の家に置き去りにしてしまった私の荷物を持って!
この2週間、手帳や電子辞書がなく不便を感じていたので、自分の物たちに出会えてほっとした。
日本の友人が以前送ってくれた餅で、チーズのり餅のランチをした。
彼女は、自称「日本人に生れなかったのが不思議なくらい」日本食が好きだ。何でも興味津々で味わう。このチーズのり餅もかなり気に入ったようだった。
フィオレッラは数週間前に、2年間付き合っていたビアッジョと別れた。彼のほうが「一人になって考えたい」という理由を言い、去った。それは突然のことであり、彼女はまだ苦しんでいた。
仕事で疲れていた彼女は、ペルージャに来てのんびりしたのか、昼食後、1時間ばかりソファで横になった。
「リラックスはしたけど、眠れなかった。」
と言って、立派なアスパラガスを仕入れて、台所で夕食の準備をしていた私のところに来て話し始める。
私は、会ったこともないビアッジョの考えというものを第三者として想像し、数日前に「私の考え」として短いメールを彼女に書いていた。
彼女は、あのメールの内容が気に入ったと言った。
彼が「一人になったことがないから」という別れの理由は、ごまかしの言葉ではなく、本当に一人になって、考えたかったのだろう、と私は思った。
彼は結婚前は家族と生活し、結婚後は奥さんや子供たちが傍にいた。
離婚して、少ししてフィオレッラと知り合い、それから約2年間付き合ったのだが、精神的支えとなる人が常に彼の側にいたことになる。
一方、フィオレッラは、18歳で北イタリアの実家を出た。田舎で農作業をしていた両親とはしっくりいった記憶もなく、互いに愛情はあるはずなのに、素直に甘えたりすることが難しかったようで、特にお母さんとの間に確執があったようだ。
そして、その状態が回復しないまま、両親は亡くなってしまった。彼女は一見強い女だが、「クリスマスが嫌い」という彼女を見ていると、イタリアでは、特にクリスマスは、家族が集い会う祭りなので、いっそう悲しくなる時期なのだろうな、と私は考える。
そんな風に、ビアッジョの歩んで来た道は、彼女のものとは違う。
もしかしたら、彼女の独立した強さをビアッジョは感嘆する一方で、強さを急かされているようにも思ったのではないか。
別れの話しがあって、彼女は彼の希望を受け入れたが、まだ、10日くらいしか経ってないのに、預かっていた彼女の物を返したいというメールがあった。この言葉はより一層彼女を悲しませた。
そんな風にせっかちに、事務的に関係を処理しようとする彼の気持ちがわからなかった。
それ以降、彼からの電話を受信拒否し続けたが、少しして気持ちが落ち着いた頃、
「物なしだったら(会うことは出来る)」
と携帯にメールを送った。そして、現在公開されている修道女たちの生活を映したドキュメンタリー映画を話題に出して、こう締めくくった。
「あなたが好きそうな映画だと思う」
すると、映画に興味を示した彼から
「明日の夜、(自分は映画を見に行く)時間があるけれども…。
でも、君は(自分に)会いたくないのだったから無理だよね。」
という返事が来た。
修道女たちは会話を禁じられて生活しているという。
つまり、3時間という上映時間中、無言の状態が続く映画で、
そんな映画を彼と一緒に見る気にもなれず、私のところに来る約束をしていたこともあって「明日は無理」とだけ返事した。
でも、何だか今になって気持ちが動揺している自分に気づいたという。
「何故か分からないのだけど」
私は、もしかしたら彼に会う可能性のないペルージャという距離がもたらすものではないか、と話す。
少し時間を置くと自分の気持ちに素直になる場合は普通のことだし、映画が良いクッション役になるとも、無意識に考えたのかもしれない。
2006年04月14日
復活祭って?
ブォーナ パースクワ(復活祭おめでとう)!
ここ数日、耳にする挨拶。
パスクワとは復活祭のこと。
十字架に付けられ亡くなったイエス・キリストが3日目によみがえったことを記念する祝日。移動祝日なので、その年によって日付が変わるが、春分の日の後の最初の満月の次の月曜日に祝われる。
世間はお祭り気分で、来週の月曜までの休日を利用して旅行に出かける人などが多い。そのため、イタリア全体が交通ラッシュにあっているようだが、日本人の私には、今ひとつ実感がなく、図書館で「来週の月曜日は開いてますか?」という馬鹿な質問をしてしまった。日本で、1月3日に図書館は開いてますか?と訊くようなものであろう。
さて、この際、復活祭のことを調べてみる。
元をたどると、ユダヤ教のぺサーPesach(“過ぎ越”しの意味)という言葉が由来だという。これは、ユダヤ教の「過ぎ越しの祭り」から生まれたことを示しているが、英語ではイースターである。こちらのほうは、ゲルマン神話の春の女神“Eostre”に由来するということ。その昔、ゲルマン人が春の到来を祝っていたらしい。
スーパーやケーキ屋のショウウインドーには、卵をかたどったケーキやチョコレート、また、雑貨屋では卵型の飾り物などが所狭しと並んでいる。黄色やピンクに色を塗ったり、細かい模様が描かれた美しい卵にリボンをつけたものが、木にぶら下がっていたりする。
その中には、ウサギを模った物もある。
何故卵か、というと色々な説を耳にするが、先日研究者が語っていたところによると、卵は「始まりと終わり」がない、どこから始まってどこで終わったという「印」が何処にも見あたらない。それは生命の「無限」「永遠」の象徴であり、つまりイエス・キリスト復活を表す、ということであった。
卵と同様に見られるウサギは、というと多産の象徴であるからだそうだ。
2006年04月12日
総選挙 ベルルスコーニVSプロディ
今月9, 10日に総選挙があった。
ベルルスコーニ首相の元、2001年から続いた中道右派政権だったが、長引く景気低迷で徐々に支持を落とし、イラク戦争後の2003年には、アメリカ、イギリスに次ぐ約3200人の部隊を派遣し、国民の不評を買っていた。日本と同様、この派遣によってイタリア人は標的となり、イラクで活動していたジャーナリストが狙われて命を落としている。そんなわけで、5年ぶりの今回の選挙では、政権交代が囁かれていた。
与党というのは、国民の支持が一番に多い党である。
外国人のわたしにとってのミステリーは、与党の代表である彼を支持するイタリア人にまだ会ったことがないということである。
それどころか、みんな口を揃えて悪口を言うのしか聞いたことがない。
この数週間、階下に住むアンナマリアさんに会う度、この総選挙の話しによくなった。彼女の意見はいつも、支持したいと思う人が誰もいない、という嘆きにはじまり嘆きで終わった。ベルルスコーニも、その敵陣になるプロディも、「どちらもどちら」とため息。
外野の私の勝手な意見を述べると、ベルルスコーニーの顔があまり好きでないということ。ブスというのではない。プチ整形、はたまた植毛手術と、自分の外観に余念のない70歳(1936年生まれ)で、歯も俳優並みに真っ白で整っている。黄色でデコボコの歯並びよりは清潔感があって良いのかもしれないが。外見にやたらと熱心な男性というのはどうでしょう?私は偏見に満ち満ちている。
そういうと、アンナマリアさんは、イタリア人として首相の肩を持たなくてはと思ったのか、彼は苦労人である、という話をしてくれた。
政治家以前に、セールスマンであった彼だが、駆け出しの頃は、バール(喫茶店)を一軒一軒まわり、自慢の喉でコマーシャルをし、販売製品であった掃除機を売りさばいていたそうだ。
私は思わず、北島サブちゃんが、ギター片手に“流し”で飲み屋を一軒一軒回る下積み時代の話しを思い出してしまった。
彼はサブちゃんのように“流し”で着々と成功し、何人もの部下を持つようになり、今や世界の億万長者リストの上位にいる。
アンナマリアさんの話はまだ終わらない。ベルルスコーニは流し時代を過ごした後、あれよあれよという間に大企業の社長になったのだが、クリスマスには一人ひとりの部下にクリスマスプレゼントを渡していたという、イタリア人が好きそうな逸話で締めくくられた。
ふむ、悪い人ではなさそうだ。
とどのつまり、彼は実業家としては素晴らしい才能がある、ということ。だからといって政治家としてはどうだろう、というのが私の意見。
彼は、大金持ちである。
ACミランのオーナであり、メディア王の名前もある。4つあるイタリア民放のうち、3つは彼の所有なのだ。つまり、メディアの70パーセントをコントロールしている計算になるという。
政治というのはお金がなくては出来ないものらしいが、ここまで大金持ちで、テレビ局を牛耳っている人は、普通に考えて政治をしてはいけないと思う。彼の傘下では、正しい意見も言えなくなるだろう。
さて、彼と一騎打ちしたのは、プロディである。
経済学の教授から政界に転身し、欧州委員長も勤め、「経済の建て直しには財源が必要」とし増税政策を立てる現実派である。
彼が指揮をとる中道左派「ユニオン」は、事実婚や同性愛のカップルに法的権利を与えると公約をだした。
これには、キリスト教関係者の批判が相次いだ。一般的なカトリック信者のアンナマリアさんは、同性愛者カップルの養子縁組を認める、というのに我慢ならないらしい。
「男ふたりの間で、どうやって正常な子供が育つの?」と興奮気味。
たしかに、日本だったらいじめにあったりと、なかなか難しそうだ。ただ、私個人の意見として、同性愛は仕方がないことだと思う。脳の仕組みによるものらしいが、同性にしか興味を持てないというのは、他人が責められるものでないと考える。
異性に対して普通に気持ちが向けば、彼らの人生はこう面倒にはならなかったはずだから。
事実婚は、日本でも増えているようで、来伊前、事実婚がテーマになったドラマをNHKで放映していた。イタリアは、ヨーロッパの中ではこういったことに、「とても保守的」と他の国に非難される。
確かにイタリア人以外の私の(外国の)友達を見渡しても、事実婚のカップルが多いし、それにこだわる人も少なく、実に自由な考えをもっている。
この件に関して、私は深く考えたことがなく、何故に事実婚にこだわるのか、その辺からわからないので、なんとも言えないのだが。
そういうわけで、カトリックの総本山があるイタリアでは、特にお年寄りにはプロディの公約は開いた口がふさがらないもののだったようだ。
この二人のテレビ対決が先月あり、50%の視聴率を得た。私は、翌日友達から内容をザット耳にした程度だが、ジャーナリストの質問に腹を立てたベルルスコーニーはその場から去ったという。
そんな風に、彼はアクが強い。
この二党の大接戦で、11日の午前になっても集計作業は混乱していた。今日の新聞では、プロディの中道左派連合が、ベルルスコーニ中道右派連合を上下両院でおさえ、5年ぶりの政権交代という見出しだった。
しかし、ベルルスコーニは敗北を認めず、不正行為があったものとして抗議している。
今月28日には、上下両院の選出議員が初招集されるが、このベルルスコーニの圧力で予定通り進まないことが予想される。
それにしても、日本人の私からすると、イタリアの投票率の高さに驚く。今回は、83.6%だった。
理想的なリーダーがいない、と嘆くアンナマリアさんでも、結局、誰かには政権を任せなくてはならないし、そのために国民の責任が一票という形でかかっているわけだから...という考えの元、しっかり投票してきたらしい。
日本の投票率は50%を切るのが当然のようになっている。
理想的なリーダーがいない、という理由よりも、無関心による数字ではないだろうか、とイタリアの投票率を見てつくづく思った。