2008年08月

2008年08月26日

ユアニス戻る

2008 agosto 057

今日、ユアニスがフィレンツェ空港に到着した。

到着時間をきちんと聞いていたから、ちゃんと出口から出て来る彼を迎えるつもりだったのに、空港行きのバスを逃してしまった。


現在、フィレンツェでは、
路面列車導入のための工事を駅周辺でしていて、そのため、各バス停の場所は変更し、空港行きの乗り場を探しているうちに、バスは行ってしまったというわけ。

 

大抵、飛行機は遅れるから、と高をくくっていたら、予定よりもだいぶ早く着いた彼が、逆に、私のバスの到着を迎えてくれる形になった。

 


ユアニスは何故か、白ワイシャツにネクタイ姿というエレガントさ。日本でできた彼女のリクエストとかで
髪も伸びていた。

 

町へ向かうバスの中で、さっそくユアニス節が始まる。東京でのインターンの様子を話してくれた。

「久しぶりのイタリアはどう?」

と問う私に

「何も感じない。イタリアはもういいんだ。」

などと怒った口調。

「何もないはずないでしょう。あなたにとって第二の国なんだから。」

「まあね。」

 

日本の留学で、少しくらいイタリア語忘れてもいいんじゃない?と

思うほど、彼のイタリア語は流暢で、機関銃のように次々と話す日本は、彼ならではの視点で、本当に面白いなぁと思う。そうだ、これがユアニスだった。

 

10月には、会社から最終の返事がくる、ということだった。それがOKであれば、来年の5月から働き始める。その間の9ヶ月の間に卒業しなきゃね、と私は念を押す。


上司の様子や、会社のこと、
3週間の間にした仕事の内容など、特に、彼の人間観察は面白かった。彼の日本語はまだまだなので、話題の人たちが、ここまで彼が観察し、理解しているとは思ってないかもしれない。

 

東京は大都会で疲れるでしょう?と訊くと、都心にも自然は残っていて、とにかく刺激的で飽きない、と若者らしい言葉が返ってきた。

 



norichetta at 21:54|PermalinkComments(0)TrackBack(0) ペルージャの大学生活 2005~2008 

2008年08月20日

面白い歴史資料から見えること

Valignano e 4 ragazzi

この夏、フォリーニョの古文書館で、常長よりも30年前になる天正遣欧使節団の資料を発見した。


フォリーニョ市が日本からはるばる来た使節団を迎えるために
支払った経費が細かく記されている。

 

彼らは、ローマからやって来て、一晩フォリーニョに泊まる。そこを基点に、巡礼先として知られたアッシージとペルージャを訪れ、翌日フォリーニョに戻り、また一晩過ごしている。その間、フォリーニョ市は、4回分の食事を提供している。その内容が面白い。

 

一回目は、1585年6月7日木曜日とあって、リストは、「インド雄鶏2羽とインド雌鳥1羽」と始まる。インドの鳥?と首を傾げるが、七面鳥のことを当時そう呼んだそうだ。金額は、2スクーディ40バイオッキと続く。当時の通貨単位である。


その他、去勢した雄鶏やら、野ウサギ、鳩、子ヤギ、
若鶏、乳牛、牛の頭、ラード、バター、サラミ、フレッシュチーズに、熟成チーズ、乳製品、タルトやパスタ用の小麦粉、朝鮮アザミ、フェンネルなどスープにするための野菜、ケーキ用のレモンリキュール、グリンピース、プルーン、胡椒、サフラン、クローブ、生姜、ナツメグ、シナモン、松の実、パン、ワイン、揚げドーナッツ、水、薪、コックや料理補助の人件費...

 

材料を見るだけでも、ボリューム満点だが、出だしに「マッティーナ用」となっているので、どうも、朝食らしい。

 

2回目の食事は、材料を見る限り1回目と変らず、大いに肉の名前が連なっている。

 

3回目に提供した食事の経費リストは、一転して、魚ベース。ウンブリア州は、海がないので、トラメズィーノ湖からのものだろう。

 

私が想像するのに、その頃、日本での肉食は、鶏以外稀だったろうし(もしかして野禽類は食べたりしてたのかしら?)、日本人の食生活が、一日2食だったことを考慮すると、この心づくしの豪華な肉料理の数々も、日本人大使たちにとったら、美味しいものには感じ得なかったのではないか。ただでさえ、小食な当時の日本人である。

 

1,2食を終えて、フォリーニョ市長は、何故に日本人の食が進まないのか考えた末、「どうも、魚は食べる」という情報を得、3食目が、魚ベースの献立になったのではないだろうか。

 

面白いのは、これからである。
この日、日本使節団は、サンフランチェスコの聖地アッシージと、聖母マリアのものと伝えられる結婚指輪を見るために、ペルージャに向けて旅立つ。夜には戻ってくることになっていたのだが、ペルージャは、大々的に日本使節団を歓迎し、「どうぞお泊まり下さい」ということになったのだと思う。断りきれずに、ペルージャの歓迎を受け、その夜は留まることになった。

 

可哀想なのはフォリーニョである。すっぽかしを食わされたのだから。ものの本には、市長が数時間も門の前で到着を待っていたとさえある。

 

用意したせっかくの魚ディナーを無駄にしないよう、市長は、急遽、プリオーリ(行政高官)らを呼んで食べ尽くしたそうだ。

 

翌日、そんなことも露知らず、日本使節団はフォリーニョに戻り、そのまた翌日に発つのだが、この手厚い歓迎にもかかわらず、
「我が市長に、いくばくかの心付けも、金のカップ、または、宝石さえも与えることなく、6月12日月曜の朝に、フォリーニョを去った。」
ちょっと怒り口調で記録されている。

 

最後のページには、日本使節団の厚顔さに、気持ちの高ぶりが頂点に達したようで、「日本大使」がいつの間にか「インド大使」と筆記ミスしているのだった。

 



norichetta at 11:21|PermalinkComments(0)TrackBack(0) Rubrica コラム | イタリアの食材と歴史

2008年08月18日

自分の国を別の角度で見ること

2008 agosto 065

ユアニスのインターンは、3週目をむかえる。


大阪の大学での留学を終え、東京にあるインポート子供服を扱う会社で3週間インターン経験させてもらえることに決まったのは3週間前。東京の友人に頼んで、彼の”ホームファザー&マザー”になってもらった。
もちろん、ユアニスとは会ったこともないので無理なお願いだったのだが、返事ひとつで引き受けてくれた。

その友人とは、5月にイタリアへ新婚旅行に来たシンさんと陽子さんのこと。

時々、陽子さんが「ユアニス観察記」
とでも名づけたくなるような楽しいメールを送ってくれている。


知らない外国人を受け入れて、大変なことは沢山あるだろうが、シンさん陽子さん
は、日本ではそうメジャーではないギリシャ人から色々な発見をしているようだった。

 

大阪の八百屋でバイトしていたユアニスは、野菜の名前を良く知っているので、びっくりしていた。
東京生活にも慣れた彼は、朝と夜と走っているらしい。汗玉をいっぱいつけて戻ってくると、シャワーを浴び、お昼のサンドイッチを用意し、友人夫婦と朝食を摂って、慌しく駅に駆けていく、というのが彼の朝の姿らしい。


先日の週末は、新しい日本語テキストを欲しがる彼に付き合って、
八重洲の書店まで連れて行ってくれたそうだ。

その後、もんじゃ焼き屋に連れて行った。たこ焼きもメニューにあるため、テーブルにはおたふくソースが置いてある。彼の味覚は、すっかり大阪人のそれなので、もんじゃ焼きにも、おたふくソースをかけて食べていると、店の人がやって来て注意された。焼きそばのソースは、それ専用があるから、という店のこだわりだったらしいが、彼は、外国人であることを利用して、その後も判らない素振りをして、ソースを掛けて食べ続けていたそうだ。

 

ユアニスのホームスティは、友人夫婦のメンタリーの広さと好奇心もあって、順調に進んでいるようだ。

 

日本でのギリシャの知名度は、本当に低い。

そういう私も勉強中。ギリシャといえば、青い海と哲学がイメージに浮かぶ程度。現在インターン中の彼は、会社でも、色々質問される、と言っていた。それは、とても良いことだなぁと私は思っている。

 

イタリア人と、ギリシャ人は、いうなれば兄弟。

その昔、南イタリアはギリシャの植民地だった。古代ローマ以前に花開いた古代ギリシャは、演劇、文学にしてもギリシャから導入され、そこからローマ人の好みに合わせて変化を遂げた。だから、古代ギリシャ文化は、ヨーロッパ人にとって、古代ローマと共に重要な共通点、下地である。


ヨーロッパにいて、ギリシャのことを訊かれる機会は、
日本ほどではなかったかもしれない。

 海外に出ると、意外な質問を外国人から受けて、それがあまりに慣例的なものだったりすると、考えたことすらもなかったため、説明するのに四苦八苦する、という機会に恵まれる。


たとえば、日本人の宗教の話しになると、
「大部分は、仏教と神道教を同時に信仰している」と答えるが、二つの宗教を持つという考えに、びっくりされるのが通常だ。信仰という概念がまず違っているから、そこから説明する必要が生じる。

 

この作業は、自分の国を別な角度で見る、ということで、すごく大切だと私は経験上感じている。自分が何者か、という問いかけであり、外国文化を受け入れる土台作りの意味でも重要だ。自国のことを知らずに、他国の知識を深めるのは難しい。

 

ユアニスは、ギリシャ知名度があまり高いとは言えない日本で、沢山の質問を受けて、答えに困りながらも、否が応でも母国を別な視点から見ているのだろう。

 

私が興味を持つ国は、その5年後、日本でブレイクする、という方程式が存在する。イタリア然り。

そんなわけで、現在、日本では知名度の低いギリシャだが、私が、今、興味津々のギリシャ料理を発端に、ギリシャブームが5年後やってくると予言している。


そう言うと笑う人もいるが、私は本気である。

 



norichetta at 21:44|PermalinkComments(0)TrackBack(0) イタリア人 | Rubrica コラム

2008年08月15日

フェラゴーストとルーマニア人一家②


2008 agosto 026修道院からの眺めは、美しかった。
山や丘が見渡せ、トスカーナ特有の起伏のある風景。町の中とは10度の温度差はあるようだった。昨晩は、暑さと蚊であまり眠れないほどだったが、ここは別世界。

 

食堂は、私たち一般用と、祝日に修道士を訪ねてやって来る家族用に別れていた。教会の周辺は緑に囲まれているので、キャンプする人や、デッキチェアーを木陰に置いて読書する人など多く見かけた。

 

小さな食堂には行列が出来ていて、働く人は不慣れなボランティアらしくのんびり注文をとっている。注文する私たちは、急ぐ必要もないので、精算に葛藤しているボランティアの人たちを微笑ましく眺める。

 

ラザーニャはまだ焼き上がってないということで、スペルト小麦のサラダと、デザートにジャムタルトを食べる。

ここの修道士たちは、
山で採れる野草を使った食後酒を生産販売している。坊さんというのは、何故に美味しいもの、健康に良いものを作り出す能力に長けているのだろうか。

 

長いテーブルに知らない人と相席になって食べる。注文したものは、どれも素朴で美味しかった。

 

天気はいつの間にか曇り、気温もずいぶん低くなり、肌寒いほどだった。昨日、フィレンツェに出てきた時は、日陰を探し探し家に向かったというのに、今日は、山の中で日向ぼっこをしている。

 

ここには、バールもある。

そばにいたおじいさんが、バリスタ(コーヒーを淹れる職人)は、修道士なんだ、と言っていたので、興味津々になる。黒い聖職服を身に着けた修道士が、コーヒーを淹れている図は、想像しただけで楽しくなる。

しかし、入ってみてがっかり。Тシャツ姿の3人のバリスタは、修道士なのだろうが、見たところ、町の中のバリスタと同じだったから。

 

教会の壁画には、創設者の6人の聖人の絵が描かれていた。

 

2008 agosto 027「行きはヨイヨイ、帰りは怖い」というのは本当で、私たちはバスなしに、フィレンツェまで戻れるのか?

しかし、山の下り坂は楽チンだ。松や杉の香りも心地よく、人間には自然が大切であること、現代人はすっかり忘れてしまっている大切なことをテーマに、フィオレッラと語りながら歩くのは悪くなかった。


しかしそれは、ポツリポツリと雨が降ってくるまでのことである。


フィオレッラがウンドーブレーカーを貸してくれた。

「雨に濡れるのも悪くないね」

などと言いながら歩いていたものの、雨脚が激しくなるにつれ、私が履いていたサンダルでは滑って歩きにくくなった。

 

残る手は一つ。

そう、ヒッチハイク!

ずぶぬれの見ず知らずの者を、自分の車に乗せたがる人は希少だろう。とにかく、この世の中、関わらないことが安全、無関心でいることが、身を守るには必須なのだ。


車が次々に素通りしていく。
                                  

この世は無情だ。と勝手に悲観していると一台の車が停まった。


なんとベンツ車。

いったい、どんな人?と思ったら、ルーマニア人一家だった。彼らもフィレンツェに住んでいるということ。ルーマニアのフォークソングを音響大でかけていた。


奥さんが歌詞を説明してくれる。

「あの世は何があるかわからないのだから、今を十分楽しもうじゃないか」

スーパーポジティブな歌詞同様、メロディも底抜けに明るい。

 

そういえば、夕方になるとペルージャのあちらこちらに集団が出来る。ポーランド・コミュニティ、ブラジル・コミュニティ、フィリピン・コミュニティという具合に、公園などに、同じ出身者同士が集まる。車でやってくる人たちは、車窓を全開にして、カーステレオからの音楽を響かせる。

「俺たちの国の曲なんだぜ」と言わんばかりに。

 

北島三郎の曲をバックミュージックに今日の出来事を報告しあっている日本コミュニティを見たことはないが、例えれば、そういうことだろう。


長く住んでいると、
母国のものにこだわる気持ちが強くなるのか、それとも日本人よりも、母国の音楽に親しむ気持ちが強いのか。

 

私たちを乗せてくれた親切なこの夫婦は40代くらいで、助手席に座っている息子は小学校4年生といった。フィレンツェの生活が長いのだろう、ベンツ車に乗るということは、成功している証だし、イタリア人が運転する多くの車が素通りする中、この家族は、ずぶぬれの私たちを助けてくれた。

 

誰もが、他人に親切でありたい、と思うものだと思う。それが難しい現在、この家族の優しさは貴重なものであり、助けてもらった立場に立ってみて、時代が変れども、これは、忘れてはならないことだとしみじみ思った。

2008 agosto 032
やっと着きました!
チンクエジョルナーテのフィオレッラの家


norichetta at 21:13|PermalinkComments(0)TrackBack(0) イタリア人 | Rubrica コラム

フェラゴーストとルーマニア人の一家①

2008 agosto 025今日はフェラゴースト。「聖母被昇天の祝日」というのが日本訳だ。

この祝日の起源は、古代ローマ時代、アウグストゥス帝が自分の誕生日にちなんで設定したものらしいが、現在は、マリア様があの世に去った記念日として

重要な休日である。


「そうか、マリア様は今日亡くなったのね」

と合点している私に、イタリア人の友人が「うーん、正確に言うとそうじゃない」

と説明してくれた。


マリア様は、死んだのでなく、
あの世からお呼びがかかり召されたのだそうだ。

ふーん、そうか。

 

日本では終戦記念日、そしてイタリアではフェラゴーストの今日、ヴァカンス真っ只中のイタリアで何をするか、フィオレッラは、私のために考える。


私は、割合難しい性質なので、
知らない人がわんさと集まるパーティとか興味がなければ、せっかくフィオレッラの提案でも、スッパリ断る。なので、わたしに提案する時の彼女は、いつも少し緊張気味。

 

はじめ、フィレンツェで新しく出来た写真博物館へ行こうか、と言った。世界じゅうの海を撮った有名なカメラマンの展示会らしい。

「あなたも海が好きでしょう?」とフィオレッラ。


私の反応がいまいちなのを悟り、
今度は、バスで30分ほど山へ行ったところにある修道院の話しを始めた。1200年代にフィレンツェの7人の貴族出身聖職者が、一緒に教会と修道院を設立した。生前7人は、他にも色々な良い行いをしたのだろう。死後、聖人の列に加えられた。


今日はお祭りだから、そこでお昼が振舞われるという。
「ま、ラザーニャとかスペルト小麦のサラダとかそんなものらしいけど。」

と、またフィオレッラの表情に緊張が走る。

 

山の中は涼しい。湿気と暑さのこもる町の中にいる場合でない。

第一、  山の中の修道院参りだなんて、今日の祝日にぴったりでないか。

私が興味を示したので、フィオレッラは急に元気になり、詳しい説明を始めた。

 

さて、修道院までバスを乗り換える必要がある。一つ目のバスは15分待って乗れたが、今日は祝日。イタリアでは祝日になると、交通機関の本数がぐんと減る。乗り換えのバスが午前中にないことを知った。


イタリアは、他のヨーロッパ諸国に比べて
本当に交通機関がなっていない。自家用車がなければ、どこへ行くにも不自由だ。

 

そして、フィオレッラといると、全てがサバイバルになる。

そういうわけで、私たちに残された手段、つまりヒッチハイクをすることになった。


イタリアでは、日本と同様、毎日変な事件が起こっている。
自分の身を守るには、他人と関わらないことである。

フィオレッラが突き出す親指のサインを横目に、過ぎ去る車ばかり。もし停まったとしても、変な下心がある人なのではないだろうか、と私も心配する。


半分諦めかけていると、一台の車が停まった!
早速乗り込む。

EU機関で働いていると言うおじさんは、私が日本人と知ると、「日本以外はほとんど歩いている」と仕事と趣味で、世界をかなり旅行したと話す。


2008 agosto 023おじさんが向かう場所と、私たちの修道院との分岐点で降りる。

そこから坂道を3km歩く。その頂点に目指す教会の鐘が見えた。


空気は新鮮で、ずいぶん涼しい。
歩く山道沿いに、ブラックベリーがすでに熟して、たわわになっている。時々立ち止まっては、実をもいで味見する。帰りにジャム用に沢山摘むことにして、今は先を急ぐことにした。

「私たちのお昼ご飯がなくなっちゃう!」

 

教会に近づくにつれ、木々が茂る深い森に到達した。そこには、神聖な空気が流れ、何故7人の聖人がここに修道院を建てたのかが頷ける。



norichetta at 21:12|PermalinkComments(0)TrackBack(0) イタリア人 | Rubrica コラム