2019年10月09日

フィオレッラの日本旅①

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20年来のイタリアの友人フィオレッラが初めて日本に来ました。

私が生まれて初めて、イタリアどころか、ヨーロッパ自体初めて、語学留学先のフィレンツェへ到着したのは1998年4月のことです。駅のそばのホテルで3日間滞在する間に、なんとか住む場所を決める必要がありました。

前もって、日本から、フィレンツェのある代理店へ、当時はネットなどないのでFAXで、アパートを探していること、「〇日に伺うので、頃合いのアパートを2~3つ見繕っててください」とお願いしていました。

といっても、NHKラジオで独学していた程度ですから、ちゃんと私のイタリア語が通じているかさっぱり自信がなかったのですが、少しすると「了解です。ではお待ちしています。」という返事が返ってきたので胸をなでおろしました。

しかし難しいのはこれからです。
地図を手に、方向音痴の私は、その代理店へ迷いに迷いながら、やっと着きました。イタリア人の女性とドイツ人男性の二人で経営する代理店でしたが、対応してくれたドイツ人、ペーターのイタリア語が、当時の私には、ものすごく難解で、ノックアウトされました。

そこへ同僚のイタリア人、アンナ・マリアが女神のごとく現れ、アパート3か所案内出来ること、今から大家さんに連絡してみるから、と言って(不思議と彼女のイタリア語は理解できた)、それぞれの大家さんとアポイントを取ってくれました。

翌日は、アポイント通りにアパートめぐりです。
2つはドォーモすぐそばのアパートで、家の小さな窓からはクーポラが間近に見えるほどの中心地でしたが、わたしには全く魅力的ではありませんでした。

というのも、きっと昔の貴族か、家柄のいい館なのでしょう、赤いじゅうたんが敷き詰められ、歴史がありそうな調度品に、クリスタルのグラスやカップなど高価と思われるものが、びちりと並び、壁には、ドレスを着た貴婦人の肖像画などがかかっていて、素敵というよりは、日常生活にふさわしくない重々しい雰囲気で、私の気に合いませんでした。

また、歴史的中心街というのは、水道事情があまりよろしくなく、町の中だから便利なようで、不便極まりないことが多々あります。

大家さんは通常郊外に住んでいて、案内してくれたのはシェアメイトとなる人でした。その人は調度品など触れてはならないこと、壊さないよう気をつけなくてはいけないことなど、山ほどのルールを言ってきたので、より一層、この館の点数が悪くなりました。

なにより暗い。外は燦燦と4月の陽光に満ち溢れているのにもかかわらず、この家に一歩踏み入れた途端、薄暗く、建物に囲まれている中心街ならではの陰気臭さがただよっていました。そして、窓がほとんどないこと、窓から山が見えないことは、わたしにとって致命的であることが分かりました。

もう一つのアパートもほぼ同様でした。

その翌日、最後の望みを託しながら、3つ目のアパートへ向かいましたが、それは、チェントロではなく、離れている場所にあったので、例によって、方向音痴の私は、道を行ったり来たりぐるぐる回って、ようやくたどり着きました。

アンナマリアに言われた通り、大家さんに前夜電話して、訪問時間を決めてました。「明朝早く」と言われたので、朝食も取らずにホテルを出たため、アパートの場所を確認してから、近くのバールでパニーノを買って、公園のベンチでかじりつきました。それは前日の残り物かわかりませんが、ものすごく硬く、味気もそっけもない代物で、これから見るアパートがどんなところか、大家はあまり優しそうな声ではなかったな、あの人と一緒に住むのかしら....?、などと思いながら、食べていると、余計に喉に通りにくく、それでも、自分に気合を入れるため、無理やり硬いパンを噛みちぎり、胃袋に押し込んだ記憶があります。

時間になったので、アパートに戻り、インターフォンを押してみましたが、さっぱり返事が返ってきません。約束の時間はとうに過ぎている。私は途方にくれました。私が時間を間違ったのだろうか、番地は間違いないけど、うっかり者の私だから、何か勘違いをしているのかもしれない、これから代理店に電話をして確認してみようか、それにしても、どこに公衆電話があるのだろうか....などと考えていたら、自転車に乗った女性がスーッとやって来ました。

私を見て、それほど反応もせず、自分のペースでゆったりと自転車に鍵をかけると、私の方へやって来たので、ああ、この人が大家さんだと思いました。

これがフィオレッラと私の初めての出会いです。

語学学校のある中心街から、彼女のアパートは離れていましたが、私の部屋となる場所には、大きな窓があって、そこからフィエーゾレの山が見えました。あんな陰気クサいアパートの住人になるくらいだったら、30分間歩く方がずっといい。

見学を終えた私が、ここに住みたいと言うと、今度は、彼女が私を頭の先から足先までじっくりチェックし始めました。これから一緒に住んでいくわけですから当然ですが、彼女には、女性的なにこやかさもなく、大きな目でじっと品定めされているような気持ちでした。

4月中旬を過ぎたフィレンツェは、この日、真夏に近い暑さだというのに、わたしに出された水は、室温で生ぬるく、さっぱりおいしくありません。(イタリア人は、冷たい飲み物を体に悪いものとして敬遠することは、ずいぶん後になって知りました)

それでも何か話さなくてはいけないと思った私は、生ぬるい水を飲み干した後、思い切って、「Buona」と言ってみました。女性系名詞「水Acqua」に合わせて、「おいしい」という形容詞を、瞬時にちゃんと女性系に語尾変化させた成功の瞬間でした。それは、萎える気持ちを抑えて発した言葉であり、「イタリア語なんて、わけないのよ」と、威勢を張ってみたわけでしたが、そのネイティブスピーカーは無反応でした。

とにかく、今晩がホテル宿泊3日目ですから決めなくてはいけません。

フィオレッラは代理店に電話をして、何やら話していました。その後、わたしに代理店へ行って手続きをするように、というようなことを言いました。

それから、彼女のアパートでの生活が始めりました。
はじめは、緊張感のある関係だったように思いますが、私のイタリア語が上達するにつれ、コミュニケーションも取りやすくなり、1年半後、帰国する頃には、ずいぶん仲良しになっていました。

私は台所を占領して、例によって、やたらと料理を作っていましたが、料理があまり好きでない彼女とかち合うことはまずなく、でも食べることが好きなフィオレッラは、当時はまだ未知とされていた日本料理に興味を持ち始めていて、「いい匂い」と言って、よく台所を覗きに来ては、一緒に食事をしました。
彼女は健康志向で、そういう意味でも、日本食にすっかり魅了されたようでした。

食事をしながら、日本の話しも沢山しました。私は学校で覚えてきた言葉や文法を実際に使う絶好の相手として、フィオレッラにイタリア語を実践できるのが嬉しくて、夜遅くまでいろんな話をした記憶があります。つたない私のイタリア語に、よくもまぁ付き合ってくれたものだと、今振り返ります。

それから数年後にペルージャ大学へ留学した際は、大学が休みになると、フィレンツェへ「里帰り」し、フィオレッラのアパートでバカンスを過ごしました。彼女はバカンスを取って、海外へ旅行することが常でしたから、留守の彼女の代わりに、間貸ししていた学生をチェックする大家代理になることもありました。

私から、日本という異文化を洗脳されたフィオレッラは、いつの間にか、日本が、いつか行ってみたい憧れの国になっていました。
しかし、今まで、仕事や、もろもろの事情で来たことはなく、ようやく、本当にようやく、今回の来日となったわけです。

私はまず東北から攻めてもらおうと思い、仙台空港に降りてもらいました。

IMG_7276翌日、名取イオンモールで開かれている尚絅学院大学イタリア語講座へ、ゲスト出演してもらいました。

生徒さんたちは、フィオレッラに、どんな仕事をしているのか、日本に来てみてどうかなど色々質問をしました。

フィオレッラは、生徒さんのイタリア語がとても上手だと驚いていました。そして、どうしてイタリア語を学んでいるのか、イタリアは好きか、イタリアには来たことがあるか、などと質問を返していました。

IMG_7292午後からは松島を案内しましたが、あいにくの台風で、本来ならば穏やかな松島の風景を見ながら一服いただこうと思っていた観月亭は、私たちしかおらず、暴風が吹き乱れる中、お抹茶をいただきました。(一番上の写真)

フィオレッラは、抹茶や和菓子が大好きです。特にあんこに目がなく、あんこの煮方をイタリアで教えてたので、イタリアのErboristeria(薬草屋・自然食屋さん)で手に入る北海道産の立派な小豆を買って自分で煮ているくらいです。

IMG_7349部屋に海が面した旅館に宿泊しました。彼女は一般的なイタリア人とかなり違っているので、水着をつけない日本の温泉でもなんの問題もなく、露天風呂などは特に、海風を感じながら楽しんでいました。

翌朝は台風一過、旅館向いの島から、美しい朝日が拝めるほど良い天気になっていて、午前中、松島遊覧船に乗った後、平泉に向かいました。

IMG_7346毛越寺や観自在王院跡など、当時の建物が残ってない場所は、ちょっと分かりにくかったようですが、5月に行われる「曲水の宴」の写真があったので説明をすると、その雅な雰囲気に興味を持ったようです。

都が焼きもち焼くほど、この辺りは素晴らしい文化が発達し、金の採掘や北方貿易で、巨万の富を蓄えていたこと。世界遺産に登録されたのは、2011年東北大震災から3か月あまりのことで、12世紀、藤原清衡が経験した悲壮な戦争を乗り越えて、争いのない浄土という理想郷をつくろうとした、という経緯と重なって、困難を極めた東北の人たちに元気と勇気を与えてくれた出来事だったと話しました。

あの大地震と津波の被害は当時イタリアでもずいぶん放映されましたが、こうして東北を回っても、爪痕を目の当たりにすることがなかったので、、ああ、そうだった、と思い出していたようです。

IMG_7332イタリア料理よりも日本料理が大好きな彼女は、私が宮城は牡蠣が名物であることを良く言っていたので、「牡蠣はどうした」「牡蠣食べたい」と、何度も言ってきます。一ノ関から仙台に戻ってきた足で、いろは横丁の「牡蠣小屋ろっこ」へ連れて行き、生ガキ、蒸し牡蠣と8つづつ食べさせました。(私が止めなければエンドレスで食べ続けていたでしょう)

ろっこの牡蠣は、まだシーズンでないにもかかわらず、大きくて新鮮で安くて本当においしかったです。

3日目は山寺へ向かいました。
フィオレッラは体を動かすのが大好きで、ぜったいにエスカレーターは利用しません。彼女のアパートは5階なのですが、エレベーターを極力使わない、という決まりを自分に課しています。

IMG_7321誰かと一緒に旅行をする場合、興味となることや、経済面など、互いの歩み寄りは必要ですが、忘れてならないのは体力。うっかりすると、「疲れた」「いつまで歩かせる気?」などと言われかねません。フィオレッラは私より9年先輩ですが、上記の通り体力になんの心配いらないので、連れて回る方としては、ありがたかったです。逆に、乗り物に乗ってばかりとなると、「体がなまる。歩こう」と文句が出ますから、山寺の上り下りなどまったく問題ではなりません。

フィオレッラは、仏教にとても興味があり、ミャンマーなどのお寺で修行をした経験があり、私の仏像説明では物足りなく、今まで、イタリア人観光客から細かい説明を要求されたことがないので、如来、菩薩、明王、天、流派...と、持参した仏教ガイドブックが重宝しました。

IMG_7363本当は東北をもっと案内したかったのですが、4日目は東京へ移動し、志向を変えて、神田駅そばのカプセルホテルに宿泊してみました。新しい場所だったこともあり、なかなか快適で私もびっくりしました。

洗面所、シャワールーム、ロッカールーム、カプセルベットなど、限られたスペースにまとまっていて、使いやすく、何もかも整っていて、清潔であるところなど、フィオレッラは感心しきりでした。

IMG_7388東京では、渋谷、明治神宮、浅草、原宿、浮世絵の太田記念美術館、築地、歌舞伎を二幕見て、夜のはとバスツアーにも参加しました。

私は旅行好きなほうだと思いますが、疲れると観光などどうでもよい気持ちになります。
しかし、彼女は根っからの旅人で、旅行先の文化を徹底的に知りたいという好奇心や学習意識がとても高く、いつも驚かされます。

連れて行く先々を、じっくり時間をかけて見てくれるので、ガイドのし甲斐があります。
築地で朝食                       
IMG_7366食に関しても同様です。
彼女は、「名物を食べる」となったら、何としてでも食べて、舌の上での経験も逃してなるまい、という気持ちが旺盛です。
一方、私は食いしん坊ですが、けっこう土壇場になると、「ま、いいや」とあきらめてしまうところがあるので、彼女の強い信念に尊敬の念を抱きます。

例えば、築地を案内するときによくすることですが、まぐろの赤身、中トロ、大トロと売られていて、値段が全然違うことを見せながら説明した時。同じマグロなのに、部位によってここまで値段が違う!と、とても驚き、どれほど味に違いがあるのか、どうしても食べ比べしたくなったようでした。
  まぐろ3種食べ比べ中
IMG_7374築地場外市場に、そのまぐろ三点盛が売られています。しかし、すでに朝食で刺身どんぶりを食べ、イタリアでは生で食べることはほとんどない帆立の貝柱の刺身を屋上のフリースペースで堪能した後だったのですが、三点盛のために、長蛇の列に並び、じっくりと味わっていました。
どうだった?と訊ねる私に、大トロが口の中で一瞬にして消えてしまったこと、あのおいしさだったら、高価であることも仕方ない、でも私が一番おいしいと思ったのは中トロかな、と興奮した表情で言ってました。

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夜は夜で寿司屋で寿司を落ち着いて食べてみたい、と言うので、神田駅周辺の寿司屋に入り、寿司ざんまいの東京となりました。

「三鈷の松」
唐から投げた法具がかかっていたという松。
伽藍を建立する場所を決定した。

IMG_7417フィオレッラを案内するのは10日間で、その後の1週間、彼女一人で四国お遍路さんをすることになっていました。

彼女は、スペインのサンティアゴ・デ・コンポステーラや、イタリアのヴィア・フランチジェーナなど、色んな巡礼に今まで参加しています。
敬虔なクリスチャンだから、というのではなく、巡礼することで、何か生き方に発見があるとか、心が落ち着くとか、達成感を味わう、ということを目的としているように見えます。

2年前、フィレンツェで会った時、四国巡礼の話しや、弘法大師の話をすると、すっかり日本での巡礼意識が高まったようでした。

IMG_7427ならば、四国の前に、弘法大師に挨拶をしてもらわなければ、ということで、次に彼女を連れてきたのは、高野山です。
高野山では、宿坊に泊まり、精進料理を堪能しました。彼女はベジタリアンではないけれども、本当に野菜が大好きで、動物タンパク質が一切ないのに、色んな料理法、いろんな味つけで、植物ばかりの素材とは思えないバラエティーさ、手の込んだ料理に深く感動して全部完食していました。

ゴマ豆腐はやっぱりおいしかった!

高野山は噂には聞いてましたが、観光客のほぼ7~8割は外国人でした。
標高800mという場所なので、秋を通り越してとても寒かったです。
夜の帳が下りれば、高野山はみごとに真っ暗で、宿坊の看板替わりの提灯がぼんやり辺りを照らす程度です。

IMG_7415東北と同様、もっと高野山でも時間があればよかったのですが、案内できたのは壇上伽藍という二大聖地のひとつで、弘法大使が一番最初に設備に着手した場所です。写真はシンボルとして建てられた日本で最初の多宝塔。胎蔵界と金剛界を一つにした立体曼荼羅を見ることが出来ます。

食べることで一つおすすめは、「かさ國」という和菓子屋さんです(創業150年、金剛峯寺御用達)。店の奥にお茶がいただけるテーブルが用意されているので、みろく石、という名物のお饅頭など、食べながら一息入れることができます。(フィオレッラは目移りして3ケも食べてました)

仏手柑という柑橘の一種がありますが、そのままではとても食べられない味だという実を長時間煮るなどの処理をしてから、白あんに加えた「高野通宝」はとてもおいしいです。仏手柑は唐より、弘法様が持ってきたとか。

奥の院をずっと先に進むと、弘法大師御廟があります。弘法大師ご入定のあと、弟子たちが遺言通り、足元に玉川の清流が流れているこの地に廟を建て、今でも弘法さまは変わらない姿でおられると信じられ、人々が必ず訪れる場所になっています。

ここにはお札やお守りなどが並んでいます。私も一つ求めようと眺めていると、フィオレッラが、「これは何か?」と聞いてきました。その指先を見ると、護摩だったので、説明すると、なにやら英語で書き始めました。

若いお坊さんが窓口にいて、そちらに申し込むようになっています。
私は、話しが通じるかどうか、間に入る必要があるのか、でも外国人が沢山来る場所柄、そんな必要もないか、などと思いながらも、少し離れたところで様子を見ていました。

燈籠堂にいるお坊さんはみな、若くて賢そうで、懸命に修行を重ねている純真な美男子に見えました。
フィオレッラに対応してくれたお坊さんは、「何と書いてあるのですか?」と英語で質問したようでした。(フィオレッラの字は、通常、読解不可能)
フィオレッラは「私の心がどこまでも強く、広くなるように」とか何とか忘れましたが、そんなことを言いました。お坊さんは純真な目で、フィオレッラが言う英語を繰り返し、理解しようとしています。「マイ ハート...ストロング」 フィオレッラも真剣な顔です。私は噴き出しそうになりました。

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次は奈良→京都→広島→宮島です。
奈良以降はまた次回に報告します。



norichetta at 00:45│Comments(0) 通訳ガイド | イタリア人

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