それでも、永山則夫が好きだ

死して尚、人々を狂わせる永山則夫(…といっても、狂わせられてるのは一部の人だけど)

永山則夫著『反-寺山修司論』

なかなか読み終わらない迷作『反-寺山修司論』が出版された背景

偏差値40以下の私が読み終わるのに一ヶ月かけた、
永山著『反-寺山修司論』について、武田和夫著『死者はまた闘う』を基に記事にします。
武田和夫氏は、永山裁判元支援者の方です。

反―寺山修司論 《復刻版》


過去記事にも書きましたが、
《反-寺山修司論》は2016年5月現在Amazonで14万円してますが、
私は1年前に数千円で買いました。
なんで、突然14万まで跳ね上がったのか?理解不能です。

※そして、2019年5月に追記しますが、
復刻版が出版されていますので、とても手に入れやすくなりました。
2016年に1万円以上出して買わなくてよかったです


それと、《反-寺山修司論》は、ブ厚い、字が小さい、文が長すぎる、目次はほとんど意味をなしてない…という感じ。そんな本をマゾッ気出して嬉々として読み続けるのは、私のような永山則夫ファン(フェチ)くらいだと思う


《反-寺山修司論》について、私が、真面目に長く感想を書こうと思えばいくらでもできますが…“視点を変えた”ツッコミを入れますと…

「無論、私は永山の味方だが…寺山も永山も癖強すぎてドリアンとクサヤの戦いみたいだったやうな…
「寺山って、当時、永山より遥かに年上だったくせに、大人げねえ奴…」
「世相を反映している文章なので、ブルジョアとかルンプロとか、左翼言葉や左翼表現が炸裂していてスゴイ」
「文…長げえ…読み終わらねえ…長すぎて結局、何が言いたかったのか頭に残らねえ…」
「一体発行部数は何冊で、何冊売れたのか?」
「これを全部タイプ打ちした人は、真性Mじゃないのか?」
「獄中の人間関係を赤裸々に伝えたかったということは分かるのだが…
永山に対して、“時間がない人は読んでくれないだろうから、もっと要点をまとめて簡潔に書くようにしようよ!”と提案した支援者は当時居なかったのか?」
「読ませてもらっていると、話が堂々巡りしている所があったような…」
「永山が救おうとしていた低学歴者や、日々生きるのに必死な社会の底辺の人らは、これを隅々まで読む余裕があったのか?内容が理解できたのか?」


すいません。私は死刑反対派であるし、『永山の思想』を受け取っていることは言うまでもないので(100%理解はできてませんが)、これ↑は視点を変えた『裏感想』でしかないんですが…
だが、永山ファンの私とすれば、「なんだこの本~読み終わらねええええ~」とツッコみながらも、同時に(読んでいて)死ぬほど楽しかったのは確かで…
逆を言えば、“相当な永山好き”じゃないと相手にもされない本というか…人を選ぶというか…
野菜に例えると、パクチーかセロリといったところか…(というか永山自体が野菜に例えるとそんな感じ。)


考え方の問題になりますが…死刑囚にとって『著名人や巷からいじられなくなる』というのは、世間から忘れられることを意味するため、いじられているうちが花というか…
『国民から忘れ去られた囚人』というのは、国家権力からすれば最も抹殺しやすい対象というか…
永山にとっては、寺山(ある種の有名人)からいじられるというのは、ある意味、良いチャンスだったとも思える。
いかにも“聞いたふうな”言い方をすれば、『人が本当に死ぬときというのは、人々から忘れられる、語られなくなる時』だと思う…
青森県民には悪いが私は寺山修司が何やってた人なのか、ちょぴっとしか知らないし今もまったく興味がない

死者はまた闘う
武田 和夫
明石書店
2007-11-12



武田さんの《死者はまた闘う》より、どうして《反-寺山修司論》が出版されたのか?事情を書いて行きます。

前の記事にも書いたが、1977年「弁護士抜き裁判」法案化でモメていた頃、巷では文化人らも、永山則夫のことを雑誌などで評論するようになり、その対処に、永山の支援団体「反省―共立運動」の方々も忙しくなっていた。『死刑事件』の裁判で闘っている最中に事実誤認をふんだんに含んだ身勝手な評論を有名文化人らから公表されるのは、永山達にとって、えらい迷惑だったそうです。
そして、その、永山バッシングをする文化人の中には、永山と同じ青森県出身の寺山修司がいた。
寺山は、「静岡事件」を審理すると約束した1976年6月の準備手続きの調書を掲載した運動パンフを読んでいたらしく(その手のパンフは運動関連の出版物を扱うごく一部の書店でしか入手できない)、それからの引用を含む評論を、その年の12月号『現代の眼』に掲載した。

手短に言うと、寺山はその雑誌の中で、「永山は、自分の犯罪の原因を、自分以外のせいにしている。万年犠牲者を演じている」と、永山を批判していた。(まあ、永山が現代に生きていても、今もまったく同じことを世間から言われると思う

寺山は、永山氏が、イメージを巧みに操って「責任転嫁を続ける万年犠牲者」を描き出す手法はさすがで、例えば、逮捕された直後、獄中に面会に来た母親に、永山氏が「死んだ人さ、手えついで、あやまれっ」と津軽弁でなじるという、さもありそうでありもしなかった「責任転嫁」の場面が描かれていた。

76年6月の準備手続きは、裁判所が静岡事件審理を決めた重要な法廷手続きである。寺山氏は、裁判官に静岡事件の審理を求めるその準備手続きでの永山氏の発言を、前後関係がわからないきわめて不十分な一部のみ引用し、「責任転嫁を続ける万年犠牲者」という自分の「永山像」に重ねて「ああ、変わらないなあ」と概嘆して見せるのだ。
「表現者」にとって、「素材」であるべき存在(永山)が、発言を続けていることに対する、いらだちなのだろうか。仮にそうであったとしても、その政治的意味と責任は問わなければならない。

『現代の眼』編集部が設定した対談は、私たち6名と寺山氏で、あるひなびた旅館の一室で行われた。冒頭寺山氏は、私たち1人ひとりに、永山氏とどのような立場でかかわっているのかを表明するよう求めた。
《略》
「デマを流している」という私たちの批判に対して「デマゴーグというのは非常に革命的だと思っています」と切り返す寺山氏に、「革命的なデマゴーグって誰がいたんですか」とまじめに問い質すと、「トロツキーです。」

―デマを用いたのは、トロツキーを追い落としたスターリンのほうだろう。もちろんそれは「革命的」ではない。デマは本来、権力支配の道具だ。

現在の歴史に「想像力」を対置する寺山氏は、「君たちは裁判闘争というが、『事実』を審理する裁判に対しては、『空想』を対置する戦略のほうが有効ではないか」と言った。
これに私は、「いや、私たちは、いまの裁判が『事実』を隠そうとしているから、『事実』を武器にして闘っているんですよ」と応えた。

この対談は、ぜひ公表してほしかったが、テープを起したゲラに対する寺山氏の「修正」があまりに多いのである。

たとえば先の、「トロツキー」失言は、「シーザーやナポレオンもそうです。トロツキーなんかも偉大なデマゴーグだ…」とカムフラージュしてある。
「これが常識だ」というのだが、対談の片方をあまり修正すると、私たちの発言の辻褄が合わなくなる。私たちは「なんのために対談したのかわからないじゃないか。元に戻してほしい」と抗議したがいれられず、結局掲載は中止になった。

寺山氏に対する永山氏の反論は原稿用紙1000枚に及び、抜粋70枚分が『現代の眼』に体裁された。「反論」にことよせて彼の主張を全面展開したものだが、逮捕から当時までの獄中での軌跡と、人とのかかわりがよくわかる。全文は本一冊になり、『反-寺山修司論』として年末にJCAから出版された。エンゲルスの『反-デューリング論』をもじったというが、語呂はよくない。
《略》
反論体裁が拒否された場合は、民事訴訟に及ぶこともあった。すべて代理人なしの本人訴訟で、私が訴状を作り、準備書面は永山氏自身が書いた。私が証人となって、東京拘置所の庁舎内で証人尋問が開かれ、永山氏と障壁なしに対話したこともある。ある雑誌社は労組が闘争中で、その本社集会で発言し、「永山さん」の反論文を掲載しろ!とシュプレヒコールを上げてもらったこともあった。掲載はいずれも勝訴しなかったが、『判例時報』に掲載されたものがあったと記憶している。
武田和夫著『
死者はまた闘う』P.78より抜粋



…原稿用紙1000枚ですか…('A`|||)


…それは置いといて、武田さんら支援者の皆さんには敬服する、という感じです。
それと、寺山って永山を批判はしたけど、永山が嫌いだったわけじゃなかったらしいですが…そのことについては、私はよくわからんネット検索すると、こんな詩が出てくる。寺山が書いたらしいが…


永山則夫への70行

俺のどこかに二十歳がある
俺のどこかに二十歳がある
飢えて追いつめられた 貪欲な野良犬よ
俺のどこかに二十歳がある
高倉健がものの見事に斬り死にして
スティーブ・マックイーンが笑みを浮かべて逃走する
映画館でつちかったつぎはぎだらけの俺の思想
そしてもろくも崩れ去った惨めな幼い賭け
俺のどこかに二十歳がある
 いつも心の片隅に苦しい言葉を何度も何度もくりかえし
地下鉄に揺られながらはるかなるマルコ・ポーロを思い出す
俺のどこかに二十歳がある

東京よ 尊大な群集の街 タンツボの街よ
雨の日よ
東京よ メカニックなたたずまいの懐でこまぎれの肉の欲望をばらまいている俺
 俺のどこかに二十歳がある

東京よ 俺の二十歳は涙の汚物なのか
東京よ 俺の二十歳はこんなにやさしい
俺のどこかに二十歳がある
砂漠のど真ん中に放り出されても砂を食って生きてゆく
スフィンクスの謎の東京戦争
奥浩平は書いた二十歳
そして翌年死んだ
俺のどこかに二十歳がある
拳銃よ 拳銃よ 拳銃よ 拳銃よ
俺のどこかに二十歳がある
魂の地中海はるか彼方に捨ててきた書物
その名のラスコーリニコフよ
俺のどこかに二十歳がある
街の灯よ 見れば切なく燃えており
 わが去りし言葉残さん カモメよ
俺のどこかに二十歳がある
俺の殺したガードマン達のマイホーム
夜明けの屋根裏で酔いしれてなお語る
浪漫的亡命者にせトロツキー
俺のどこかに二十歳がある

貞子よ その干し忘れた洗濯干し場のシミーズの汚れよ
君の澄んだ瞳は茜のなごりを
 まだ西の空に求めているのだろうか
俺のどこかに二十歳がある
貞子よ インスタントコーヒー一杯分の幸せ
 お前の目元からはまだ東京タワーの灯がもれているのだろうか
俺のどこかに二十歳がある
孤独な街路の無数の灯の歴史
ビレッジ・バンガードよ
深夜スナックのさみしいスパゲティー・ナポリタンの孤独よ
貞子よ 笑おうとして泣いてしまった女よ
 あの晩のやくざ映画は最高だった
俺の二十歳よ それらしきものよ
大人ぶりたい二十歳番外地 無知の魂よ
 やがて北国の港でドラの音がするだろう
 それはまた暗くさみしい冷たい牢獄へ向けての俺の船出よ
俺のどこかに二十歳がある
俺のどこかに二十歳がある
俺のどこかに二十歳がある
俺のどこかに二十歳がある


抜粋以上


貞子って誰?^^;

はっきりとはよくわかりませんが…寺山は、永山のことを表現題材として気に入っていただけで、
寺山の心の中で、彼〝独自の永山則夫〟という勝手にイメージを作っていただけな気がする。

「寺山修司、永山則夫」で検索かけると、「二人があの世で仲直りしているといいなア」なんて、個人ブログに書いている人を見つけましたが…ドリアンとクサヤが仲良くできるだろうか…



「反-寺山修司論」がAmazonで○万円になっている件


反-寺山修司論

私が、永山則夫著書の中で、最も好きなのは、【反-寺山修司論】なのですが…

さきほど(2016年4月)に、Amazonで【反-寺山修司論】の金額をチェックしたら、
13万9000円になっていました※2016年4月29日現在
以前、ここに、証拠としてアマゾン画面をスクショしてたのですが…アマゾンって海外企業だし…
スクショをネットに載せていいのかどうかわからないので、載せるのを止めました。


私は、2015年夏くらいに、【反-寺山修司論】を数千円でAmazonから購入しました(当時は「Amazonから買う」という入手方法しか知らなかった。)
去年の夏は、まだ数千円という値をつけていたのが数冊リストにアップされていたと記憶しています。ほんと、そのときは、「これくらい出してもOK」というレベルの金額でした。

ちなみに、『ETV特集 永山則夫 100時間の告白』が初めてテレビで放映されたのは、2012年の秋だったと思うのですが(私が初めて「100時間~」を視聴したのは2015年春です。その時まで、私はまったく永山則夫を知りませんでした。)それが放映された直後、古書【反-寺山修司論】の売れ行きってどうだったんでしょうかね…?

話戻しますが…
2015年夏の時点で、既に、Amazonにリストアップされていた【反-寺山修司論】のうち1冊は、10万円以上したと記憶してますが、さすがにその金額には呆れてしまい、馬鹿馬鹿しくて無視しました。
しかも、その10万円以上していた商品の補足説明にこうありました (- -;)

「永山の出身地は網走です。網走刑務所にいた囚人が掘った木彫りの熊を、特典としてつけます。」


常識的にも、あの補足説明は馬鹿馬鹿しいと思いましたが…“永山則夫ファン”としても気分が悪くなりましたね…
永山は自分の生まれが「網走番外地呼人」と知り、自分は「網走刑務所生まれなのか?」と勘違いしてしまい、
雇い主から戸籍謄本の提出を求められた際、応じられず、非常に苦悩し、結果として、その職場も逃げるように辞めるしかなかった…というエピソードがあります。


しかし、【反-寺山修司論】は発売したときは、そんなに売れなかったんじゃないかな~?
※「反-寺山修司論」は昭和52年発行。当時は1200円だった。当時と物価は違いますが…
それが、今、ネットで13万9000円の値がついているとは、皮肉だと思います…

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【追記】
上の記事は、2016年春に書いた内容なのですが、2017年6月の今、更新します。
2017年6月現在、【反‐寺山修司論】は、Amazonで2,480円になっていました。これは、“買い”だと思います。ちなみに、古本屋街で1000円で購入された方もおられるそうです
調べてみると、各都道府県の図書館に【反‐寺山修司論】、置いてあるみたいです。全ての市や区の図書館にあるわけじゃないのですが、各都道府県の図書館に、ちらほら蔵書されているので、借りて読めばいいだけだから無理に大金を出して購入はされないでください。

以上(2017.6.3)


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さらに、2019年5月12日に追記です。

反―寺山修司論 《復刻版》
永山 則夫
アルファベータブックス
2017-08-23


2017年8月に、復刻版が出版されました。
3年前まで入手困難だったのですが、今は余裕しゃくしゃくで買えます






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