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午前のテーマも午後のテーマも、何年もぶち当たってきた壁の正体の再確認になりましたが、それぞれ講師の先生からの新たな視点のヒントを頂いた形となりました。

防災を全面に押し出さない、地域に溶け込んだ触れ合いを通した防災力の底上げ。

長年それらを担っていたと思われる伝統行事の重要性。

結局は笑顔の溢れるコミュニティがその根底にありますね。

人口よりも、人効。

正に、でした。


何だが、曇りが晴れた気がする。

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先日、大川小の訴訟に関し、ご遺族勝訴の判決とニュースで拝見しました。

そしてその後、県と市が控訴するという記事も。

それらの中にあった、

地域住民ら一般人と異なり、教員には児童に対する非常に重い安全配慮義務が課され、津波の予見義務や被災を回避する義務がある』

を目にし、遣る瀬無い気持ちのまま改めて

喪失

の齎すものを考えています。


親しい人間を、前触れも無く失ってしまう……

この種類の衝撃については、何回となく繰り返されている経験から多少なりとも理解しているつもりです。

何年経とうと、どんなに悲しみ嘆こうと、その命はひとつとして還らず、また心の奥に巣食う傷は例え薄く小さくなる事は有っても消えることがありません。

そしてその古傷が疼く日には、ただひたすらその痛みに耐えるしかない、身を以てそう感じます。



この小学校のケースでは、ただの判断ミスだけでなく、当時校長が留守だった為に機能不全(命令系統無視)に陥り、教員同士の意見が纏まらず著しい避難への影響が出た、派閥があったなどまで、様々な話が出てきているようです。

まあ、校長が留守だったから機能しない、それ自体が一般常識的にはおかしいものなのですが、一体いつの頃からなのか、日本の教育の場では危機管理の意識どころか体制自体が欠落していたのでは、と感じる場面が私自身も何度かありました。  これは、教師個人の話ではなく、組織としての話です。

当時の学校の法的な立場は確認していないので責任の所在は分かりませんが、私が初めて遭遇したのはとある学校の校外イベントです。  

行程表が全てで雨天などへは考慮するものの、班に分かれて広域のエリア内に散らばっている全学年の生徒たちが想定外のアクシデントに見舞われた際の、生徒からの連絡手段含め何も考慮されていない。

それに気付いたのはイベントの資料配布後でした。ふと思いついて初歩的な質問を幾つかぶつけたものの、全てにおいてその様なパターンの回答を聞き、恐らく私は驚きを隠せてなかったのでしょう。当の学校側は晴天の霹靂の様な面持ちだった事を今でも鮮明に覚えています。

個人的にはその類の教育はまず家庭からという環境で育ちましたので、その時すでに他との意識差も感じていた私としては特に指摘も要望は出しませんでした。が、その時に関わった教員は臨機応変に対応出来る方々だった様で、そのイベントでは付け焼き刃的ながら対応策が講じられたと後から伺い、決めつけず、変えられる可能性がある事を教えていただきました。

少し話が逸れましたが、私個人としては被災誘導時の死亡に関しては、引率する側(支援者・救助者・救援者等)もされる側(要支援者・要援護者・要救助者・要介護者)も、先ずはどちらも被害者だと捉えます。
 

あの規模の災害時、誰に対しても完璧な対応を求めるのはどだい無理な話。

十人十色と同様、地域特性、生活形態、季節、時間、その時のその場の人的含めた資源の有無などの状態により、小さなコミュニティ内でも対応の格差は生まれます。  

防災や災害対応のどれひとつ取っても、地域住民自体が受動の意識では成り立ちません。
先ず、被災者となる、若しくはなった自らが周囲の方と力を合わせて動き、生きる努力をしなければ孤立どころか軋轢をも生みかねず、例えば避難所でのトラブルに繋がる事も考えられます。そして、それを避ける為にも、有事だけではなく可能な鍵日平時から意識的に地域に根付いて動く事も必要かと思います。

そして忘れないで頂きたいのが、災害時参集する立場の方々……その後地域をサポートする為に家に帰らず対応する各機関の職員も、災害出動する方々も全て皆んと同じ人間です。

実は、この事は今日お邪魔した某訓練で思い知らされた事でも有ります。


人間は神で無い以上、どうしても対応しきれないものも出て来る。

勿論、その要因が個々の資質であったり、経験不足であったり、この理由も十人十色なのだと。

対応の不備を訴える事も時と場合により必要なものですが、考えて欲しいのは、『何でも揃っている状況で災害が起きる保証は無い』ということです。

つまりは、よく言われる『人の都合で自然災害は起きない』という事なのですが。

機材、人材、そしてそのスキル。

経験豊富なプロが付きっ切りでサポート出来る保証も無いのです。プロの人数も限られていますから。

その事を念頭に、万が一の場合には我も我もと言わずに地域で支えあって欲しい。     

その為にも、地域で行われる、または職場で関わる訓練には積極的に参加して欲しいものです。

参加すれば、地域で救助に当たってくれる方々の技術だけでなく、その『顔』も間近で見る事が出来ます。これも、とても大切な一面を持ちます。


長くなりましたが、大川小の場合は冒頭で書いた様なくだらない理由で避難の機会を逸したのであれば確かに学校側の責任は否めませんが、先ずは証言が全て出揃い、真実を明らかにして欲しい。そう思います。それは勿論、後の災害対応時の新たな礎のひとつとなる可能性がある事と、それこそがご遺族の真のご希望であるのでしょうから。

では、部外者の私たちがすべき事、できる事は何か。
この様な悲劇を繰り返さない為にも、先ずは各ご家庭で教えられる防災や有事対応の基本くらいはしっかり教えてあげてください。  

『愛する存在を失うことは恐怖でしか無い』 

本当にその通りなのです。

大切なわが子の命を守る為にも、時々にでも家族の団欒の場で防災について話す時間を設けて頂けたら。

何を話せばいいのかわからない、よく相談されますが、今はゲーム形式で学べる環境も豊富に整っています。楽しんで興味を深めてもらう為、そんな形の入り口でも良いのでは。


改めて、全ての被害者の魂が安らかであります様に。


最後に。

よく訓練でトリアージが取り上げられる際、
『医療拠点にグリーンを寄越すな』
と言われますが、それこそそんな医療従事者側の都合は被災した地域住民に伝わらないかと思います。特に人口密集地帯では、逆に安心を求めて一時的に集中する事も前提にし、トリアージ対応・簡単な介助ができる市民ボランティアや、グリーンにも値しない避難者を誘導するボランティアの養成&招集できる様にした方が効率が良いのでは。その為には、国としても法的な問題含めて本格的な取り組みをして欲しい。

因みに、既に幾つかの自治体は市民トリアージに取り組んでいる様です。

この動きが広まります様に。

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