【読切】私の履歴書

私の履歴書シリーズ開始!

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『私の履歴書』シリーズ

目次『私の履歴書』シリーズ

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最初は二週間程度で終わると思っていた「私の履歴書シリーズ」。アイムの事業を始めてから、生徒父兄や仕事関係者から私のことをよく聞かれるので簡単にお話ししようと思っていた。かっこいい話もかっこ悪い話もそのままストレートに描いてある。自分では結構地味な話だと思っていたのだが、周りから「かなりおもしろい」といわれ、調子にのって書いたらいつのまにか役一年がかりのシリーズとなってしまった。というわけで、後から読む方のために分かりやすくチャプターに区切っておく。

◼︎1◼︎画家になりたいと思っていた若き頃(笑)

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海外転勤族として育つ、ハワイのティファニーでバイト、青春を宗教で過ごす、グラフィックデザイナーになる。
http://blog.livedoor.jp/norism_blog/archives/1988417.html

◼︎2◼︎試しの転職時代
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営業に転身し即ダメ出しされる、BSジャパンで社長賞を、9.11で転職に失敗、貧乏生活。
http://blog.livedoor.jp/norism_blog/archives/1988572.html

◼︎3◼︎ヤフー入社で大きな転機をむかえる
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社長に直訴して入社、仕事がないので社内営業を本業に、がっちゃんの自閉症発覚。
http://blog.livedoor.jp/norism_blog/archives/1988591.html

◼︎4◼︎バブっていた東京ガールズコレクション時代
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一世風靡のガールズウォーカー、LAセレブを立ち上げる、TGCが大ブレイク、ファッションウォーカーを交渉する、ビジネス本を出す。
http://blog.livedoor.jp/norism_blog/archives/1993042.html

◼︎5◼︎好奇心に任せて企画を乱発
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ウンコマン、パイナップル君、音楽制作、写真集配信、オカマちゃんビジネス、サイキックエージェント。
http://blog.livedoor.jp/norism_blog/archives/1995452.html

◼︎6◼︎華やかな時代の終焉
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なりゆきで会社を登記、パーティーばっかり、キットソンを担当、Yoshikiとシンガポールとファッションショー、波が一斉に引く、中目黒から引き上げる。
http://blog.livedoor.jp/norism_blog/archives/1995664.html

◼︎7◼︎再び困難の波に突入
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オハイオの衝撃、過去の宗教体験を振り返る、ドアカルの執筆、宗教とは何か、忍術でぎっくり腰、友達がサイキックになる。
http://blog.livedoor.jp/norism_blog/archives/1999583.html

◼︎8◼︎サブカルファッションとロス
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Tシャツ事業、今度はサブカル、真面目と効率と英語の話、ハリウッドのアニメ企画、ロスにやっと馴れる。
http://blog.livedoor.jp/norism_blog/archives/2001755.html

◼︎9◼︎突如の日本帰国から次を模索
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介護のコンサル案件、リーディングと決別、人生の意味と覚悟、日本へ突如帰国、マルチの誘惑、宗教をつくれ?、依存ではなく自立を売る。
http://blog.livedoor.jp/norism_blog/archives/2015384.html

◼︎10◼︎アイムの始まり
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放課後デイを調べる、母親の早とちり、物件と資格者が出てくる、書類地獄?、申請が通っちゃった!、三大ストレス、いきなり挫折モード、大賞受賞、高津を検討、がっちゃんが軸。
http://blog.livedoor.jp/norism_blog/archives/2018928.html

以上、お好きなところ読んでいただいて結構です!

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私のことをお教えします(知りたいか!?)

アインシュタイン放課後を初めて半年。おかげさまで生徒の数も増えて、父兄の方々とも話す機会がある。それとうちのスタッフや、福祉関係で新しく知り合った方々と、何気ない会話をしていて感じることがある。「あ、そうか、それはオレの背景を知らないからだ…」と当たり前なことに気づく自分がいる。

前々から私と付き合いのある友達はみんな知っているのだが、そうでない人の方が最近私の周りで増えてきた。というわけで、これまでの私のビジネス上の経緯を書いてみる。とはいっても、いろいろと多すぎてどこから手をつけたらいいのか分からないので、時系列で印象に残っていることを書いていく。

中には「意外!」と思われることも、「何それ!?」と変に思われる内容もあると思う。しかしそれらすべて引っくるめて今の自分があるのも事実。変わった考えの持ち主といわれるが、それらにはちゃんと理由があるわけで、その出処だけは知っておいてもおもしろいだろう。

というわけで、10月は私の話です。11月は自閉症に関してもうちょっとつっこんだ記事を考えている。
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うちの奥さんありきです

アイムの教室には毎回美女ゲストがやってくる。スタッフからも、いつも美女に囲まれていいわね、と言われる。私から見れば、変わりものの私を優しく相手にしてくれるので、いつも感謝。それはそれなんだけど、実は私の身近で一番の美女はうちの奥さんだと思っている。これは昔から変わらないし、今後も変わらない。だからうちの奥さん以上の美女がでてくるとも思っていない。

何を基準に美女かというと、内面の心がである。私にとっては聖母マリアみたいな存在である。私の存在そのものが成り立っているのは、うちの奥さんのおかげ以外のなにものでもない。波乱天候な私の人生に文句をいわずについてきてサポートしてくれている。もし逆の立場だったら、私自身のような旦那は持ちたくない、である(笑)。

また私が自由気ままに生きているのも、彼女の力量のおかげだ。彼女の器がなければ、私は息がつまってしまっていただろう。そういうことすべてをひっくるめて、今の私がある。というわけで、もしアイムの父兄にとって、私の仕事(存在)が役に立っているなら、私でなくてうちの奥さんに感謝していただきたい。というわけで、私の話をするにあたって、うちの奥さんの話からでした。
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子供が生まれる前の時のもの。私がまだデブになる前の話(汗)。

 

メイド・イン広島です

実家がハワイなので、よくハワイ生まれだと思われてしまうが、私は広島生まれである。もっとも、うちの両親が私の「メイド・イン」活動をどこでしたかは知る術もないが、出荷された場所は間違いなく広島である。私の祖父母は原爆手帳の保持者だった。つまり原爆のグランドゼロから4.5km以内の半径にいたということだ。子供の頃からいつも原爆が落ちた時の話を聞いて育ったので、原爆というのは常に身近なテーマだった。

生まれて三ヶ月でロンドンに引っ越した時から、私の変化が激しい人生が始まっている(笑)。父親は海外転勤の多い銀行マンだったのもあるが、私はこれまで14回引っ越している。学校は平均して約一年に一度変わっている。高校だけでニューヨーク、東京(ASIJ)、ハワイと変わっている。

正直5歳より前の記憶があまりない。それで私の明確な記憶は5歳の時に、武蔵小金井に引っ越した頃からである。小学校に上がった頃には、ロンドンと英語の記憶は無いに等しかった。だから私にとっての海外生活は、9歳の時のロスアンジェルスへの引越しを皮切りにスタートしている。それに続いて、アーバイン、サンディエゴ、トーランス、ニューヨークへの引越しが続いている。

ちなみに、私としては日本とアメリカの文化の両方を理解しているつもりだ。よく海外長いから日本文化を理解してない!といわれがちだが、別にそんなわけではない。理解しているがあえて横においているだけの話。当事者の感情論も大切だと思うが、同時に感情先行型のリスクも重々承知している。よって常に相手の感情を優先させることが、必ずしもその人のためになるとは限らない、といううえでの判断である。
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学生の時は漫画家になりたかった!

【将来の夢】これは小学二年生の文集にあった一つのコーナーだった。みんな、野球選手とか宇宙飛行士とか書いていた。私は「ドリフターズの人」と書いていた。う〜む……、だな。お笑いが好きというよりコントが好きなのだ。
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そのあとになりたかったものは映画監督だ。これに関してはかなり明確なビジョン(妄想)があった。しかし高校生の時は、より身近になれそうな気がした漫画家か画家になりたかった。上の絵はハワイでの高校の時の私の部屋だ。ご覧のとおりお片付けできない症候群で、親からは豚箱だといわれて嫌がられていた(汗)。
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ここにでてくるのはは全て高校の時に描いたイラスト。上のものは12cm四方の上に製図用のサインペンで描いた機械の模様。授業中に毎回コツコツと1cm四方づつ描いていく。今改めてみれば、完全に自閉症の気がある(笑)。
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木が人の足の形をしているイラスト。題材はリンゴの実を食べたイブ。私の骸骨ものには定評があり、よくパンクの上級生が私のイラストを買ってくれていた。これもちまちま授業中描いていた。私はもともと左効きだったのだが、当時の親の風習にならって「ぎっちょはよろしくないから右に」と強制的に直された。確かにひらがなの書き取りノートの「の」が左右反対なのは困るだろう(笑)。というわけで、今だに字を書く・箸は右手、絵を描く・ボールを投げるは左手である。結果的にこれが両方の脳を使う結果になってよかったと思う。
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こちらは私オリジナルのロボット。中学生の時は自分の描いたロボットの絵をコピー屋さんで5セントでコピーして、学校の生徒たちに25セントで売っていた。今おもえば、ビジネスの感覚はこのころからあったのかもしれない。あと、私はアニメ大好きであったので、今の娘のオタク度も、私の血をひいたのだと思う。彼女にはなかなかアーティストとしての才覚がある。
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さて、両手が使えるため、授業中私の机の上には常に落書き帳とメモをとる学習帳の二つがおいてあった。常にペンを両手にもって、順番に作業をしていた。当然学校の先生もそれを見ていたが、成績はいい方だったので免除されていた。時々イラストが仕上がると、先生がみんなの前に披露することもあった。
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ニューヨークの高校では、社会の先生に絵の腕をかわれて、授業中ずっと壁に絵を描いてもよい、という条件をだしてもらった。成績はA(5)であった。テスト様には隣の女の子がいつも授業内容のメモをコピーしてくれていた。またNYの高校は授業中ランチを食べてもよかったので、サンドイッチを食べながらそうしていた。そういう自由な環境で多感な時期を過ごしたのは大きく影響していると思う。
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高校時代の私は結構な発達障害ぶりな出で立ちであった。なぜか毎日同じ服を着ることにこだわっており、夏にもかかわらずスエットシャツを着ていた(小学生の時は真冬も短パン半袖だった)。そして休み時間はいつもヘッドホンをして一人で絵を描いていた。全くモテるわけもなく、そもそも友達がいたのか、今思うとかなり疑問である。というか結構人見知りだった。今の私を見ている人は「まじ!?」と、大笑いするだろう。(笑)

→高校生の時のイラスト集(PC用)はこちら

私の若い時の特殊な体験

実はアマゾンで検索すると私の本がでてくる。『ドアの向こうのカルト』という本で、私の若い時の体験談である。実は私がロスに引っ越した9歳の時に、うちの母親がかなり濃い宗教(カルト)に入信してしまった。私はそのような特殊な環境で育ったため、35歳まで洗脳の自覚のないまま親族ぐるみで熱心な信者をやっていた。結論からいうと、36歳の時に自分で洗脳を解き脱退し、一年で親族全体を脱退させることに成功した。

実はこのネタはデイサービスを始めるにあたって若干悩んだ。私の子供時代の特殊な過去をどう扱うべきかである。放課後デイの経営者として、変な宗教の匂いはついてほしくなかった。しかし本がでているので、名前で検索すればすぐにでてくる(汗)。とういうわけで、どうにでもなれ、という結論になった(笑)。

実は実は、この本の執筆依頼を受けた時も、本名じゃないとだめ、といわれてかなり迷った。その時はフリーでビジネスのコンサルをしていたので、もちろん変なイメージを自分につけたくなかった。だからかなり躊躇したのだが、いざ出してみたら周りのビジネス仲間からの反響がよかった。本を読んで頂いた方たちからは、おもしろすぎて週末でいっき読みしてしまった、という感想を沢山頂いた。というより、人がこういうネタに関心を持つということすら私は想像していなかった。

本の評価は出版業界内でもよかったらしく、時事通信、読売新聞、サイゾー、サンデー毎日などに掲載された。なんか心配とは裏腹に、ビジネス・コンサルとしての信用・評価がこの本で増した節がある。ちなみにうちの人気スタッフの本田さんも、偶然私の本を図書館で読んでファンになって頂いて、うちの面接にやってこられたのがご縁だった。人生、物事がどう転ぶものかわからないものだな、とつくづく思う。

◼︎サンデー毎日の取材記事(画像をクリックして拡大)
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 ◼︎読売新聞の書評(画像をクリックして拡大)
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 ◼︎新潮45の書評(リンクをクリック)
http://www.gruri.jp/article/2013/04241300/ 
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 ◼︎日刊サイゾーの取材記事(リンクをクリック)
http://www.gruri.jp/article/2013/04241300/ 
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◼︎『ドアの向こうのカルト』の購入はこちらから!(笑)
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私の若い時の特殊な体験

私が属していたカルトは、バリバリのキリスト教系原理主義者であった。これはアメリカのどの保守的な原理主義団体にもいえるのだが、かなりストイックな聖書原理が働いている世界である。よって、他の原理主義者同様に、自分たちの教団以外は全て悪魔サタンの支配下にあると信じている。これはキリスト教とイスラム教にも共通する聖書原理なので、中東問題が解決されることは一生ないと心得ておいた方がいいだろう。

よって私は子供の頃から、大学や企業への就職など、布教活動から時間を奪いさるものはサタンの罠だと教えられてきた。それで私は大学へ行くのも断念しており、後のキャリア選択に関してとても大きな影響を受けている。ヤフー時代は、熱心な母親や信者仲間から、正社員を辞めて新聞配達をするように、という圧力を受けていた。私には育てるべき子供二人がいたにもかかわらずである。

エンターテインメント業界はサタンの腐敗した世の中の中心だと信じ込まされてきた。だから東京ガールズ・コレクションの会社に転職した時は、大きなカルチャー・ショックを受けた(驚)。自分が一番警戒していた業界のまっただなかに放り込まれたわけだ。同時に、この時期に宗教洗脳からの覚醒が起きている。

というわけで、まずここで知っておいて頂きたいのは、私が今から語るキャリアの経緯には、まずこの特殊な背景が横たわっていた経緯があったということ。それゆえに普通のサラリーマンとは違って、仕事をすること自体に葛藤をしなければならない自分がいた。これを理解しておかないと、なぜそうなったのだ?という話が出てくるかと思う。

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高校の後はNYにあった教団の本部で4年間ボランティア活動を行っていた。教団の中ではエリート・コース扱いであった。写真の右は同じく本部にいた弟と、真ん中は当時同じグループに在籍していた矢野顕子さん。
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元信者で、今は亡きクレヨンしんちゃん著者、臼井さんとギリシャへ旅行にいった時のもの。
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私が属していた教団でもっとも有名だったのはマイケル・ジャクソンとプリンス。プリンスは今も現役で、彼に聖書を教えたのがこの写真のラリー・グラハマム。彼自身はベーシストの神様として知られている。



宗教体験が意味するもの

なぜここであえて宗教体験に触れたかというと、その後の私の人生観と哲学に大きな影響を与えた一因となっているからである。おもに三つの点があげられる。

●ビジネスの事業戦略として
宗教の本質を理解することにより、ブランドとマーケティングの本質を理解することができた。マーケティング産業は、キリスト教国であるアメリカの産物である。これはブランドを創り上げていく上で欠かせない理論に繋がる。

●常識を疑ってみる
私にとって子供の頃からあった宗教観は「常識」であり「道徳・倫理」であり、世界の「全て」であった。これが一夜にして崩れ去った時に、私の価値観はいっきに崩れ去った。この経験値があるからこそ、私は普段から「常識を疑ってみろ」といっている。なぜなら学校の教育や親から教えられた価値観も一種の「社会洗脳」だからである。ビジネスでも生活でも一番の壁は「無用な既成概念による縛り」である。特に自閉症の子供は既成概念の枠に収まらないから、なおさらそうだといえる。

●がっちゃんに感謝している
私と親族が宗教から解放されるための引き金を引いてくれたのは、うちの息子である。だから佐藤親族はがっちゃんという存在に対して多大な感謝の念を持っている。私が第二の自由な人生を手にいれることができたのも、がっちゃんあっての話である。よって私は、第二の人生を使ってがっちゃんの人生に貢献していきたいと思っている。

以上、この三つの要素が今のアイムの事業に直結している。私が発達障害の生徒たちの未来に熱心なのは、自分の息子に対する恩返しがあるから。そして私が既存の福祉業界の常識を変えようと思っているのは、既成概念を疑う癖がついているから。そして最後にアイムというブランドを創り上げる際に、私のマーケティング理論が強みとなっている。

これら三つの要素は他社との大きな差別化につながっており、最終的にはうちの生徒の家族のメリットに繋がると信じている。アイムの事業はこれまでの私の経験を全て集約した事業モデルとなるだろう。
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ティファニーの横で朝食を

私の仕事の話に戻す。厳密にいうと、私の始めての仕事体験はハワイにあった建築事務所であった。18歳の時、夏休みにインターンとして二ヶ月ほど仕事をさせてもらった。最初は図面の消しゴム消しだったのだが、うまくビルの模型のお手伝いに自分を持って行った(笑)。その時に創った模型の写真がこれ(自分のデザイン)。その時の社長さんからは、建築デザインの才能があるからと、大学で建築を勉強するように勧められた。
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その次は19歳の時のティファニーでのバイトだった。ハワイのモアナ・サーフライダーにある、あのティファニーである(笑)。そんなわけでいつもティファニーの横にある屋台とかでいつも軽食をとっていた。10代でブランドの世界に入れたのはある意味楽しかった。ちなみに私は売るのが上手であったが、リボンを結ぶのが不器用で下手だったので、いつも誰かにお願いしていた(笑)。

当時はバブルの真っ只中で、あのお店に人が入れないほど日本人が押しかけていた。オープンハートが文字通り飛ぶように売れていた。多分私が変わっていたところは、毎日店長に店全体の売り上げ額を聞き出していたことだ。そんなことをする売り子はいなかった。そして私は毎日、店の売上と自分の売上た額の二つをメモして、自分の売上比率を計算していた。今思うと、ビジネスに関する関心はこのころからあったのだと思う。

それそれと同じ銀なのに、ティファニーのものと、向かい側のインターナショナル・マーケットの屋台で売っているアクセには、10倍近くの価格差があった。「ブランドというのはこういうことか」となんとなく肌で感じ取っていた。この頃は同じ道並びの各ブランド店舗の店員と仲良くなった。そしてお互い社割りでブランドものを安く買っていた。というわけで結構贅沢なブランドのスーツとかを持っていた19歳だった(笑)。
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当時の友達のカメラマンが写真をとってくれたもの(笑)
まだ痩せている!!
 
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