「ブラックスワン」は評判通りの映画だった。

あまり予備知識がないままだったが「心理ホラー」であることは想像していたので、最初から注意を払って観ていた。夢、鏡のイメージ、黒と白のトーン、ドキュメンタリー風の手ぶれカメラ、控えめなCG等のエフェクト、等々、計算された演出で緊張感のあるまま見終えた。もう一度見直せばその細かい配慮に再度気づかされるかもしれない。

(以下ネタバレを含みます)

そのなかで映画のひとつのテーマとして語られる言葉に興味を持った。それは「完璧さ(perfection)」である。 ナタリー・ポートマンが演じる主人公ニナは、バレエ団では年齢的にも技術的にもうすでにベテランの域だが、その臆病な性格のため未だに主役級の役をもらったことがない。彼女が舞台監督でもあるトマスに初めてプリマの役をもらい、「ホワイトスワンとブラックスワンの両方を演じ」なければならなくなる。

トマスは最初からニナに「抑制せずに自分を解放しろ」と命じる。そしてニナに「なぜ抑制しているのだ?」と訊ねる。そうするとニナはこう答える。「完璧を目指すため」だと。

しかしトマスは答える。「完璧さはコントロールすることでは得られない」。

このシーンはそれほど重要には見えないが、その後「完璧さ」はニナにとって大事だったことが徐々に明らかになる。ニナは前のプリマであったベスのところに行き、かつて彼女に憧れたことをこう告白する。「あなたの完璧さに憧れていたの」

斎藤環によれば、完璧さとは心理学では「死」を意味する。人間にとって完璧さ(完全性)とは決して到達出来ないものだからである。ニナはバレエ以外に私生活も母親によって抑制されており、そんな彼女が唯一求める「完璧さ」とは、逆にその「抑制」からの解放なのだ。

ニナの属するクラシックバレエの世界は、不自然な「抑制」のみで成り立っている。彼女が憧れていたベスはニナに先ほどの言葉を聞かされた後「私には何もない」と答える。ニナが憧れている彼女のなかにすでに「何もない(nothing)」と答えられたときにニナは動転して自分自身のまぼろしを見る。なぜならそれは実は彼女が求めている完璧さが無(死)であることをベスに言い当てられたからである。

したがって完璧さを求めるニナが、そのために排除しなければならなかったのは、自分自身であった。抑制を解放しようとするもうひとりの自分を殺し、初めて自分自身がホワイトスワンとブラックスワンの両方をものに出来たのである。その悲劇的な死は「完璧さ」を得る代償というより、当然の帰結である。

この映画を見て19世紀の米作家、ナサニエル・ホーソーンの短編「あざ(The Birthmark)」を思い出した。主人公の科学者エイルマーは完璧に近い容姿を持つ妻ジョージアナの顔にある小さなあざを取り除こうとする。最終的に彼は妻の完璧さを損なっている唯一のあざを消すことに成功するが、その結果妻を失うことになる。

この作品には様々な解釈があるが、ブラックスワンのニナと同様、エイルマーは妻のあざを消す「完璧さ」に取り付かれている。完璧さが死を伴う、ということでは同じだが、それ以上に彼らは完璧になることである意味逆説的に死を回避しようとしていたのではないか。(この説はShona M Trittのエッセイからヒントを得た)彼らにとっての完璧であることは時間を止め、彼らが永遠になること、すなわち不死である。

美しさのような芸術性が「完璧」であることは、そのような逆説的な不死を死によって実現することかもしれない。