能代市の中心市街地のイベントや風景などをお伝えします!
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2010年02月22日

大三の坂「でらっと街なか号」は、机の引き出しに眠っていた「のしろ町名覚」をめくりながら「街歩き」の構想を練っています。

『畠町のむかし(4)

 

次は大三の坂です。南角が「大坂三五郎」、商売は味噌、醤油醸造と卸小売だったと思います。筆者の記憶によると、大正期に「大三のアンサン」といわれた「オール能代野球クラブ」のレギュラーの名キャッチャーがいました。旧制大館中学時代も花形だったとか。

大三の後はすぐ藤田呉服店だったでしょうか。藤田呉服店の後は能代専門店会の事務所になりました。その両隣は、大久保忠左衛門ですが、大久保の前往者はカクアブラこと高橋彦司商店だったといいます。明治5年、初めて能代郵便取扱人(いまの局長)を命じられた人です。高橋家がいまの官庁街の秋田県信用保証協会の場所へ移ったあとへ、後町から富豪大久保家が引っ越してきて、その後さらに富町のヤマアブラ高橋与八郎のあとへ移り、明治27年にそこに大久保銀行を開業したのでした。

さらに南隣は嶋田治右衛門です。能代の富豪としては、当時大久保忠左衛門家に次ぐナンバー2といわれました。俳人五空の越中屋長右衛門家の本家です。明治311月設立された能代銀行は嶋田・平孫らが発起人に名をつらねましたが世人は初め嶋田銀行と俗称しました。大三の坂の北の角は、明治17年当時は「畠町持地」北隣が「小島健蔵」「泉運吉」その北隣が「泉太肋」でした。泉運吉は現在の大手町の泉薬店の先々代です。

大三の坂の周辺をもう少し見てみましょう。明治17年の地価帳によると、宮腰惣左衛門の南隣に「関根岩松」「関根仁左衛門」と関根が2軒ならんでいます。どっちの関根かわかりませんが、大正期に秋田駅前に進出して旅館業を営んだそうです。私の学生時代の大正12年ごろ秋田駅の向かいに関根旅館がありました。裏手が秋田聯隊、向かいが秋田駅という地の利に恵まれてなかなか繁昌している様子でした。

いまの柳町の太夫栗の西にあった蛭子小路の山田医院(院長は山田種助氏)は、以前は畠町の大三の坂の突き当りにあったと聞いたことがあります。

次に泉太助商店にちなむ話題です。明治23年、能代港町初代町長となった泉太助は現当主忠夫氏の曾祖父ですが、各種の商売を営んでいたようです。同店の番頭を務めた岡本家で、和薬種を大小取り合わせ3箇を船便で、大阪平野町堺筋の吉田万助宛てに送ったという書き付けを拝見したことがあります。年代は明治8529日、回船問屋は能代港の清水九兵衛と但馬の国の豊岡県十一ヶ村の吉津松五郎です。和薬種はセンフリとか、ゲンノショウコとかあるいはドクダミかでしょう。いまから117年さかのぼると、現在では想像もつかない世界が展開されます。但馬といえば兵庫県ですが、但馬には他に出石県、村岡県もあり、のちに兵車県として統合されたのです。』

………つづく




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この記事へのコメント

1. Posted by 嶋田3    2010年04月04日 19:30
島田ではなく嶋田です (子孫)
2. Posted by noshirofan   2010年04月04日 19:42
嶋田 様

> 島田ではなく嶋田です (子孫)

 ご指摘ありがとうございました。
 文字を修正しましたので、ご確認いただければ幸いです。

 今後とも「能代まちなかブログ」を宜しくお願いします。
3. Posted by 嶋田5    2010年04月05日 23:36
早々の訂正をありがとうございます。
これからも楽しく拝見させて頂きます。

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