能代市の中心市街地のイベントや風景などを日替わりでお伝えします!

能代の歴史ばなし

2017年02月26日

2016年08月27日


展望がサイコーです!


(12:24)

2016年07月11日

第1回国勢調査記念はがき市内在住のある方から、こんなのが有ったんですけど〜。

見せられたのは、なんと第1回国勢調査と印刷されたハガキ。

大正9年10月1日午前零時を基準に全国一斉に行われた模様です。

(15:00)

2012年05月02日

武田耕雲斎の銅像と墓市民プラザのブックフェアで、20年前に発刊された能代の歴史ばなしという本に出会いました。温故知新という言葉があります。能代の歴史を紐解きながら、これからのまちづくりを考えていきたいと思います。コメントなどお寄せいただければ幸いです。

38 敦賀市に武田耕雲斎の墓


檜山安東氏城館跡の整備の参考にしようと、福井の一城谷(いちじょうたに)遺跡などを視察したとき、敦賀市内で車窓から「武田耕雲斎等墓」と記した標柱を目にしました。慶応元年(1865)2月、武田耕雲斎ら天狗党一味353人が斬首されたのは、敦賀であったのかとあらためて思いました。それは多賀谷家臣にとっては、危いところで大悲劇とならずに済んだ事件でした。
嘉永5年(1852)角館の佐竹義許(よしもと)が16歳で逝去しました。義許は檜山の多賀谷家知の長兄ですが、生母お庫の方が角館の佐竹の出である縁故から角館へ養子入りしたのです。ところが義許の跡継ぎがないので弟の家知も養子に出す計画が伝えられました。それを聞いた家知は「わが家は佐竹家の賓客であって主従の関係ではない。しかも小過を指摘されて減禄をくり返し、いまは3千石余に過ぎない。今回の措置は多賀谷を佐竹の臣に下そうとするもの。むしろわが家士郎党を率い、所領を返上して下妻に趨(はし)り、旧家臣の有志を糾合して勤王の旗を揚げ、水戸の前家老武田耕雲斎の率いる天狗党に参加する」ことを決めました。家臣もこれに同調し、それぞれの家族を親戚に分散委嘱して単身で下妻へ赴くこととして悲壮な思いで血判しました。断り難いところですが、多賀谷のお家第一です。そんな動向が藩へ伝えられるとあわてて藩の方針をあらため、すべて3年前に藩家老を病気で退職した中安盛良が計画したせいとして処理してしまいました。
武田耕雲斎は水戸藩士。名は正生(まさお)、通称彦九郎、号は如雲ともいい、徳川斉昭(なりあき)の藩主擁立に尽くした改革派の重鎮として活躍、のち家老になった人です。元治元年(1864)3月、水戸藩の尊攘派天狗党が藩の攘夷延期を不満として筑波山に挙兵し、心事を一橋慶喜(ひとつばしけいき)将軍に訴えるという目的で大挙上洛の途に登りましたが、途中越前の新保で加賀藩に降伏し、翌慶応元年(1865)2月4目、武田耕雲斎と藤田小四郎ら353人が斬首され、墓は当時の刑場に建てられ、松島松原神社は耕雲斎らを祀っているそうです。
天狗党が筑波山を出発したときは8百人と、日本史辞典に書いてありますが、斬首されたのは353人、戦病死58人といいます。その差4百人たらずは逃亡したのでしょうか。あるいは斬罪、戦没以外の人数もあったのか、逃亡者もあったのか、降伏の前の脱落もあったのか聞きただしてみたいと思っても残念ながらその暇もありませんでした。
実は、県内の写真師第1号の玉井大麟翁も耕雲斎に漢学を教わったそうです。大麟翁の青年時代を知る文書類も第2次大火で類焼したといいますから、永久の謎になってしまいました。翁の孫豊彦氏が耳にした話を総合し、また翁が武蔵国玉井郷の生まれで戊辰のころ阿仁銀山に潜入していたことなどから天狗党の一味ではないかと見られるのもあるいは本当かもしれません。

著者のことば

能代の歴史の中から思いつくままに話題を選び、それを「能代の歴史ばなし」として1年半にわたって「広報のしろ」紙上で紹介しました。
取り上げた話題は分かりやすい表現を心がけましたが、用字・用語の面での制約からある程度の予備知識がないと理解してもらえない話題もいくつかありました。また、ふだんは人の目に触れにくい能代の古文書の類をたびたび文中に引用してみました。これを機会に、郷土の古い文献に関心を持っていただければ大変うれしく思います。
歴史は私たちの祖先がどのようにして国土や郷土をつくり育ててきたかを教え、それを知ることによって現在から未来を見通した私たちの問題の解決に示唆を与えてくれます。市民のみなさんが郷土を見つめ直す一助となれば幸いです。

著者紹介(発刊時)

越後昌二氏越後昌二(えちごしょうじ)
明治43年 能代市大町生まれ、現在同市宮ノ前に在住
能代市文化財保護審議会会長
秋田県文化財保護協会理事
同能代支部長
能代市文化功労者




(12:00)

2011年01月07日

深浦円覚寺山門市民プラザのブックフェアで、20年前に発刊された能代の歴史ばなしという本に出会いました。温故知新という言葉があります。能代の歴史を紐解きながら、これからのまちづくりを考えていきたいと思います。コメントなどお寄せいただければ幸いです。

37 深浦の隠し銅事件

青森県深浦町は、昔から能代とはつながりのある町です。文政3年(1820)の「隠し銅事件」も同様です。深浦町史の年表によって、この事件の顛末(てんまつ)をたどってみましょう。
この年8月22日、佐竹藩の御用銅廻船が深浦仲合で難破して荷打ち(難破船が船足を軽くするために積み荷を海に捨てること)をしたとの届け出があったのが事件の発端(ほったん)です。
次いで9月20日には深浦町奉行からさらに詳しい報告がありました。「佐竹様御雇船の雇われ船頭久左衛門ら、8人の乗った船が、能代から御用銅2百個、御払い米12百俵、大豆などを積んで出帆したところ、深浦沖合で難破したが乗組員には別条なかった。助かった積み荷は勤番所目付(きんばんしょめつけ)と町同心(どうしん)が立ち合って封印し、銅と廻米は太兵衛の倉庫へ保管、明春船積みすることにした。御用銅は昼夜番人をつけて監視を続ける」というものです。事故発生後の御用銅の管理に手抜かりのないことを強調しています。
ところが翌10月に入って、中田勇蔵奉行から町年寄(まちどしより)へ「御用銅廻船の船方どもが当町の者へ銅を隠し売りしたとの噂があるから、よくよく詮議して委細を報告するように」というお達しがあったのです。浜方や5人組合の者が調べてみると、前浜(まえはま)の3か所に銅47個、日和山に26個、寅平(とらべい)作場道に10個みつかりました。
津軽、佐竹両藩は相互に連絡をとってこの事件の解明に当たっています。当事者の家族までもが厳しい尋問をうけていますし弁明書や嘆願書も出ています。
11月21目、町同心花田惣太夫が手引きし、半蔵という男が久左衛門船から銅40個を41両で買ったこと、この外に陸上げされた銅は、猿神鼻の砂浜へ埋めたこと、9個は弘前表(おもて)へ運んだことなどが判明しました。さらに同心工藤与次兵衛が港番に出たところ、御用銅の隠し揚げ(密売)を見逃してくれるよう頼まれ金子(きんす)2歩を渡されたが断ったことや、船が危いところを入港できた祝儀として2歩もらっていたことなども明らかになりました。
結局この事件は、雇われ船頭久左衛門と乗り組員7人が謀議して御用船の荷打ちと称して銅や米の密売を図った事件でしたが、幸いにして不成功に終わったというわけです。容疑者たちは江戸まで連行されて取り調べを受け、しかも途中の旅費や滞在費は自己負担でした。
17世紀後半、幕府は金銀の減少に件って長崎における外国貿易に銅を用いることにし、正徳5年(1715)からは長崎御用銅の定額を各藩に供出させました。享保元年(1716)の秋田銅山(主として阿仁銅山を指す)の割当は170万斤(きん・327万キログラム)で、これは幕府の御用銅総額の38%を占めています。長崎御用銅は幕府が管轄して能代港から運び出されたのでした。
深浦円覚寺。山門の仁王は能代の日吉神社にあったものです。


(12:00)

2011年01月06日

羽賀寺にある安東氏の座像市民プラザのブックフェアで、20年前に発刊された能代の歴史ばなしという本に出会いました。温故知新という言葉があります。能代の歴史を紐解きながら、これからのまちづくりを考えていきたいと思います。コメントなどお寄せいただければ幸いです。

36 小浜市の羽賀寺のこと

NHKブックスの中に久野健著「仏像風土記」があり、その表紙カバーに福井県小浜市にある羽賀(はが)寺のご本尊で重要文化財の彩色木彫十一面観音立像(りゅうぞう)の上半身が掲載されています。作家井上靖も平凡社ギャラリーの「十一面観音」の文章に、羽賀寺の十一面観音を「明らかに地方造りの美しい観音さまである」と紹介しています。羽賀寺は霊亀2年(716)行基(ぎょうき)の草創と伝える真言宗の古刹(こさつ)で、勅願所(ちょくがんしょ)でもあり、桧皮葺入母家(ひわだぶきいりもや)造りの本堂はご本尊とともに国指定の重要文化財です。
そのほかこの寺院が永享8年(1436)に焼失した際、当待日のもと将軍といわれた安東康季(やすすえ)が11年がかりで莫大な金銭を奉加(ほうが)して再建し、さらに150年後荒廃したため文禄2年(1593)、青蓮印門跡尊朝(しょうれんいんもんざきそんちょう)法親王が康季8代の孫実季(さねすえ)に要請し修造に着手しました。実季は18歳の檜山城主のころでした。実季は弟玄蕃亮英季(げんばのすけふさすえ)を現地に派遣して作事奉行を担当させました。9年間に及ぶ工期中には京商人による木材買い占めなどによる支障もありました。結局工事は関ケ原役(慶長5年=1600年)の翌年までかかりました。同寺の重宝「勅筆羽賀寺縁起」は後鳥羽天皇の御宸筆(しんぴつ)ですが、安東氏2代にわたる復興尽力のことも明記されています。同寺院でも康季、実季を復興の大恩人として2人の座像を本堂左側にすえてまつっています。以上のようなわけで羽賀寺は遠い福井県小浜市にあるお寺ですが、私たちにとって身近かな関係のあるお寺なのです。
ところで昭和53年10月30日、県文化財保護協会の恒例の県外研修旅行で私たちは羽賀寺へ行きました。解体修理直後の清掃された寺内で住職の説明もありました。例の座像は右が僧形体(そうぎょうたい)の康季(やすすえ)、左が衣冠束帯姿の実季ですという住職の説明でした。実季は羽賀寺再興の功によって従五位下、侍従に叙せられたというから衣冠束帯の身なりをしているのだと思っていました。住職からは例の勅筆羽賀寺縁起の複製を頂戴し、2人の座像をカメラにおさめて羽賀寺を辞し、秋晴れの日程を喜び合いました。その後口伝えに広まったのでしょう。私が実季の座像の写真を所持していることが一部の人々に知られたもようです。10年前「秋田の歴史ものがたり」か出版されたとき私の所蔵写真がカラーの1ページ大になって採用されました。その後昭和60年の4月、福島県三春町で「安東・秋田氏展」が開催されたとき、会場を見て回って驚きました。羽賀寺の住職が康季と説明していた僧形体の座像が実季に変わっているのです。展覧会図録によると、僧形体の座像の背中に陰刻(いんこく)銘文が発見され、従来の住職の説明が変わらなければならなくなったというのです。つまり実季が入道して凍蚓(とういん)を名乗った晩年の座像だったのです。となると衣冠束帯の座像ははたして康季でしょうか。服装からみると、実季の父、愛季ではないでしょうか。従五位上だったからです。


(12:00)

2011年01月05日

磔(はりつけ)市民プラザのブックフェアで、20年前に発刊された能代の歴史ばなしという本に出会いました。温故知新という言葉があります。能代の歴史を紐解きながら、これからのまちづくりを考えていきたいと思います。コメントなどお寄せいただければ幸いです。

35 能代ではりつけの刑

能代奉行武藤七太夫が病没する3年前の延享3年(1746)といえば、劫火(ごうか)の寛保(かんぽう)大火の日から3年目です。町民の多くが家財道具を失い、貧しい人々が町にあふれていたといいます。
そんな時世にこの事件は起きました。当時馬口労(ばくろう)町に石戸谷有右衛門(いしとやゆうえもん)という人がいて、比内や阿仁から材木を商(あきば)いにくる人を相手に木宿(きやど)といわれた宿屋を営んでいました。
当時、秋田藩では「木本米(きもとまい)」という特有の制度がありました。米代川流域の村々(材木郷98か村)に村役(むらやく)と称して材木を伐り出させ、これに対して給付した米をいうのです。木本米は山掛(やまかけ)といって一定割合(4割が原則)を掛けて減じて給付されることに定められていました。
三輪文書「旧記抜書之ケ条(きゅうきぬきがきのかじょう)」によると、有右衛門は奉行の公印を盗用した額面152石の木本米を御蔵役(町の会計係)小泉新右衛門のところへ持参、内渡しとして22石を受取ったうえ、残りは越中屋善右衛門と馬口労町の権兵衛という人へ質入れして代金をせしめたというのです。
これが発覚して有右衛門は逮捕され、身柄は久保田へ護送されました。評定所(ひょうじょうしょ)で厳重な吟味をおこなった結果、有右衛門には磔(はりつけ)の刑が言い渡されたのです。2月26日、能代で処刑されたと記録されています。どこで誰が執行したかは書かれていませんが、能代ではおそらく驚天動地(きょうてんどうち)の大事件だったでしょう。
有右衛門がこの手形をどのようにして入手したか、その経緯は判りませんが、あるいは客筋から盗んだのではないかと思われます。とすると現在では窃盗罪、詐欺横領罪などが適用されるでしょうが、まさか死刑ということもないのではないかと思います。当時の判例も知りませんが、いかにも厳しい判決のように思います。また量刑に関して第三者の意思が反映される余地があったかどうかも知りませんが、犯した罪に照らしていかにも苛酷です。あるいは当時行き詰まっていた藩財政による綱紀粛正という背後事情もあったものでしょうか。
佐竹藩の3世義処(よしずみ)治世下の延宝3年(1675)ごろは藩主の参勤交代の出費にも困難をきたし、家臣の知行高から一斉に1割借り上げを申し渡したこともあります。藩の面子(めんつ)も背に腹はかえられなかったようです。
藩の下した量刑について地元奉行が減刑を願い出たという記録も見つかっておりません。それだからといって武藤七太夫は非情の人だと、いちがいに決めつけるわけにもいかないでしょう。やはり当時の社会事情も考え合わせてみなければならないようです。
処刑された有右衛門には1子清四郎がいました。父親の無残な刑死で人の世の無情をはかなみ、仏門に入って浄土宗順澄のもとで得度(とくど)しました。順応を名乗って師のあとを襲(つ)いで住職として宗徒に尊敬され、明和5年(1768)4月病没しました。古い時代の、傷ましい実在のドラマです。


(12:00)

2011年01月04日

倫勝寺の船繋ぎのケヤキ市民プラザのブックフェアで、20年前に発刊された能代の歴史ばなしという本に出会いました。温故知新という言葉があります。能代の歴史を紐解きながら、これからのまちづくりを考えていきたいと思います。コメントなどお寄せいただければ幸いです。

34 布晒沼(ぬのさらしぬま)と船繋ぎの欅(けやき)

東能代地区に関わる伝説を紹介します。医師会病院の西、檜山字新田沢(しんでんざわ)の小安沼(おともぬま)の北方に、布晒沼(ぬのさらしぬま)と称する小沼があります。沼とはいっても現在は水面いっぱいに葦が繁茂して、田んぼの中の葦原といった感じです。
ところで、JR東能代駅の駅名は昭和18年までは機織駅でした。またずっとさかのぼって明治9年に誕生した榊村は、旧大内田村、二井田村、機織村の3つが合併したものです。これらに見える「機織」という地名の起こりが、実はこの布晒沼の伝説にあるのです。
この伝説は故浅野虎太氏が著した「榊史話」の中で、二井田の旧家佐々木甚清の編集になる「二井田古跡遺伝記録」(文化12年=1815年)に記されていた話として紹介しています。原文は次のとおりです。
「二井田村の郷(さと)は遠く延暦(えんれき)のむかしを探(さぐ)れば、繁栄名におう姫の津とかや。エゾの船人も袖を引きつどいし里と聞きはべる・・・小安堤(おともづつみ)東山崎下に布さらしと云沼あり。此(この)沼のぬし美女なり。往古に外に出て布さらし居たるとなり。又天気よく静なる時沼の辺(へ)に立ち聞けば、沼の底にて機(はた)おる音聞えしとなり。此(この)由来にてや、機織村と云(いう)新村開く云々」
「二井田古跡遺伝記録」の原本は未発見です。編者の子孫が先年まで仁井田の倫勝寺門前に往んでいたそうですが、現在の消息は不明ですので探索もできません。「榊史話」には、故秋元利吉氏がその著書で述べたという布晒沼伝説のことも記しています。それには昔この付近に一向館(いっこうだて)という館(たて)があって、その館主の美しい姫君が日に幾反と織る織物を小沼で晒し丘に広げて干(ほ)したところから、機織村の名が起こったとしています。
この著述から現在も一向館の存在を信じている人もいるようですが、根拠はないようです。 
次に、倫勝寺境内にあるケヤキの老木について述べます。
むかしは今の能代から鶴形あたりまで海水が入り込み、東能代地区も仁井田の東まで入江になっていて、その岸に沿って3本の巨木がうっそうと茂っていたといいます。一番西はずれのケヤキは周囲10メートルもあり、今の新山(しんざん)神社境内にあったそうです。中央が倫勝寺のケヤキ、東はずれのサイカチの大木は、今の一本木の字名(あざめい)のもとになったようです。
倫勝寺のケヤキは、現在は主幹が枯れて大きな樹皮の一部だけが生きて枝葉(えだは)が繁茂しています。これが「榊史話」で「二井田のコブ林」と紹介されているケヤキの現在の姿で、阿倍比羅夫(あべのひらふ)が来たとき船をつないだと伝えられる老木です。かつてこの木は周囲五丈(15.2メートル)余り、幹の10何か所に大きなコブがあり、幹の内側の洞窟が高さ3メートルもあって、人が10人もはいれたといいます。樹齢は2千年以上といわれ、8百余歳の長寿を保った八百三助という夷人が植えたと伝えられていたとのことです。


(12:00)

2011年01月03日

来しかたのみちと能代市史資料市民プラザのブックフェアで、20年前に発刊された能代の歴史ばなしという本に出会いました。温故知新という言葉があります。能代の歴史を紐解きながら、これからのまちづくりを考えていきたいと思います。コメントなどお寄せいただければ幸いです。

33 体験記録のいまむかし

明和7年(1770)といえば、いまから220年前です。この年の7月28日の夜、能代でオーロラが見えたことを三輪文右衛門が『旧記抜書之ケ条(ぬきがきのかじょう)』に書き記しています。地震や火災など日常生活に直接影響のあることならともかく、自然現象の記録を古文書で見かけるのは、珍しいことです。後世の為に書き残しておく必要があると考えた文右衛門は、自然科学に対する目が開いていたと申せましょう。
本文は次のとおりです。
「北の方に当り、一面に雲赤く、あるいは薄くなりあるいは濃くなり、または東の方へ流れ西の方へ流れる時もこれあり、そのうちに虹の如く青きすじ見え侯など、右日記にも記す」
ごく簡単な記述に終わっているので、「日記にも記す」とあるその日記にはどう記されていたのか興味をそそられますが残念ながらこれは現存しません。
また、文右衛門は寛文3年(1663)8月3日北海道から江戸へ旅する人に聞いた話として臼ケ嶽(有珠(うす)山)の噴火があったことも記しています。もちろん元禄7年(1694)と宝永元年(1704)の能代大地震も詳細に記録しております。
ところで時代はグンと下って今から丁度32年前の昭和33年にも能代でオーロラが望見されました。ご記憶の方も多いことでしょう。この時のことを記録したものはたくさんあると思います。たとえば手元に私の恩師で能代にもゆかりのある蓮沼一太郎先生(秋出市・95歳)の米寿記念の著書『来しかたのみち』がありますが、この中に「昭和33年秋田のオーロラ」と題する文章があります。百年になんなんとする人生を顧みた随想の中でオーロラのことを取り上げておられるのを見て、2世紀を隔てて生きた知識人2人に、関心や知識の偏りのなさ、物を見る目の確かさなどの共通性を見る思いがします。
三輪文書と比べて蓮沼先生の記述はなるほど現代的です。それによりますとオーロラは昭和33年2月11目の午後6時ごろから同11時半ごろまで、北海道、東北、北陸、信越、関東、にかけて観測されたようです。この日は快晴で星空だったとあります。旭川気象台は午後8時に、秋田気象台も午後9時に、オーロラと断定したそうです。こうした客観的なデータの外に、毎日新聞横手通信部が秋田支局へ「北の空が赤い。河辺のどの辺か大火ではないか」と連絡してきたとか、NHK山形放送局が「秋田県の大火には何人の応援を出そうか」と照会してきたなどのエピソードも伝えています。
また能代市の観測についても午後6時20分ごろ、北方に暗赤色の怪光現われ、2回ほど淡黄色の縦の柱状の光を映じて次第に西に移動し、9時半ごろ一旦消えそうに見え、間もなく光を増し、午後10時半ごろ消えたと詳しく紹介されています。
2人の記録の違いは優劣ではなくて時代の差でありましょう。


(12:00)

2011年01月02日

今立家所蔵の文書の写し新年あけましておめでとうございます。

市民プラザのブックフェアで、20年前に発刊された能代の歴史ばなしという本に出会いました。温故知新という言葉があります。能代の歴史を紐解きながら、これからのまちづくりを考えていきたいと思います。コメントなどお寄せいただければ幸いです。

正月早々から、物騒な題目ですが....

32 天保の家壊(やこわ)しの記録

角川書店刊「日本史辞典」の「百姓一揆年表」に「天保6年(1835)8月1日に、出羽国秋田領能代町。物価騰貴から商家打毀(うちこわし)、300人」という記載があります。いわゆる天保の飢饉に端を発した家壊(やこわ)しは能代の近世史の上で特筆すべき大事件ですが、当時を物語る古文書などの資料は地元にもほとんど見当たりませんでした。ところがこのほど市史資料調査をしているうちに、市内西通町の今立わたやさん所蔵の今立家文書の中に、当主信右衛門の筆になるかと思われる日記風の文書が見つかりました。
今立家は能代の今立家の総本家といわれる下級の武家で、かたわら農地を持ち富裕でした。戊辰(ぼしん)の役(えき)前に沢三位(さわさんみ)一行が来た際は孫八十郎が町内警備をを命じられています。
この文書は半紙二つ折りにして綴じ「未(ひつじ)八月朔日暮半時(ついたちくれはんとき)より寺々鐘打ちならし、大勢打集(うちつどい)大騒動」という書き出しで始まり、狼藉の実態が克明に記されています。「馬口労町川上久五郎家を潰し、南部屋久米右衛門家は申すに及ばず、酒蔵へ入り込み、酒三十石余りを捨(す)たり申候。油屋彦左衛門家を潰し、播磨屋作兵衛方で酒を呑み、その勢いで八百屋茂兵衛へ入り込み、家潰し、穴蔵(あなぐら)より売物(うりもの)等引上げ、何品なり共乱(ともみだり)に仕候(つかまつり)。夫より手元(てもと・注=私の家)へ右人数入り込み、家を痛めその上穴蔵(あなぐら)より売物等引上げ右品物残らず取乱(とりみだし)、戸障子、鍋釜、御厨子(ずし)等に至(いたる)迄残らず痛め申候。その上向座敷へ入り込み、箪笥等迄取出し打割(うちわり)申候。其家紛失品も莫大これあり、売物等は申すに及ばず、誠に取乱し候事に付き・・・翌二日御検使を以て御見分相済(すまし)候上、取片付(とりかたずけ)申候。然れば御検使御見分の家数四十三軒、右の内侍分は熊谷、大渕、笠井、谷内・・・御見分に相成らず、小痛(こいたみ)およそ二十七軒、都合七十軒余」とあります。その後御会所からの仰渡(おおせわた)しによって被害報告書を提出したらしく「恐れながら書付けを以て申し上げ奉り候。昨夜五ツごろ(午後八時)多人数私方へ入り込み、居宅は申すに及ばずうんぬん」と書き記した末に「これに依って思慮(注=苦慮)仕り罷(まか)り有り候」と書いています。4日後には庄屋(注=相沢金十郎、村井久右衛門)から仰せ渡しがあって「家業も外出も御免」になっています。
事件後、藩の役人北村平四郎や大腰(おおごし)丹治、高橋利右衛門が続々来ていますが、そのつど出迎えたり樽肴(たるさかな)を届けたり、また米の値上がりで難渋する人々のためにお救い足し米として50石を献上する旨の申し込みをしているところなどから、今立家の富裕であったことがうかがわれます。この事件の被害者のひとりが書き残した点で貴重な文献です。
なお事件の5年前まで能代奉行だった野上陳令が、天保7年(1836)4月3日に能代の騒動の裁判を行い「入牢十月(じゅろうとつき)二人、同七月(ななつき)十三人、惣町払(そうまちばらい)二人、屹度御叱(きっとおしかり)一人」という判決を言い渡したことが、秋田図書館の所蔵する「御評定所御用日記」に記されています。


(12:00)

2011年01月01日

宇良乃笛多畿より杉沢の杜市民プラザのブックフェアで、20年前に発刊された能代の歴史ばなしという本に出会いました。温故知新という言葉があります。能代の歴史を紐解きながら、これからのまちづくりを考えていきたいと思います。コメントなどお寄せいただければ幸いです。

31 杉沢台のむかし

昭和55年に、向能代東雲台地の北方、杉沢台にある遺跡の大がかりな調査が行われ、そこが縄文時代、平安時代の複合遺跡であることがわかりました。たくさんの資料が出土、検出されましたが、中でも縄文時代前期の大型竪穴住居跡の発掘は注目を浴びました。この発掘調査は、51年から始まった国営農地開発事業に伴い破壊される恐れのある部分の記録保存をはかることを目標に実施されましたが、貴重な遺構、遺物を数多く検出したため工事地域から除外され、保存されることになって、現在は国の指定史跡として昔のままの形で埋めもどされています。歴史資料を破壊から守った関係諸氏の識見と努力は、本当にすばらしいものでした。
さて、そうした遺跡が出土しようとは夢にも考えず、今から184年昔に、同じ杉沢台に友人だちと連れ立って薬草をとりに出かけた人がいます。有名な菅江真澄です。そのときの模様を「浦の笛滝」と題する遊覧記に書き残しています。この原本は秋田市辻兵家の所蔵で県の文化財に指定されていますが、写本は能代市立図書館にもあります。遊覧記の第2部が、文化3年(1806)4月13日に能代の住吉社の藤の花を観賞したことと、5月7日に照井象賢(しょうけん・奉行の侍医)伊東浚(しゅん)、伊東祐信(ゆうしん)を誘って杉沢台を廻った記録です。
少々長くなりますが、原文を紹介します。( )は注釈です。
「・・五月五日雨のふりしかば、七日薬がりせまく(薬草採取をしようと)れいの人々と共に、旧(もと)野代(向能代のこと)を経て野路をはるばると行て、杉沢というやかた(村家)を弓手(ゆんで・左手)に見なして、めて(右手)に杉の木立のいやとしぶりし社(もり)の、おちくぼなりけるところにありて寒泉(しみず)きよげに流れたり。神のほぐら(祠)あり。何の神ととへば、ただ椙沢権現(すぎさわごんげん)としらへ(答え)てさらにしるてふ(知っているという)人もあらねば(中略)鸛(こうのとり)の木のうれ (こずえ)に群れ、朱鷺(とき)の巣ごもりてその声かまびすし(うるさい)。かくて、清水のもとにむすび盃をあらふ、水無月の廿八ごとには此神に祭して、野にすまいありてにぎはは(わわ)しう、この水にこころふと(ところてん)をうかべ、むぎなは(冷麦)を流して涼みとりぬと。うべも(なるほど)水の清さは檜山なる呉庵(ごあん)清水、はた鶴形の辞(ことば)の沢水にいやまさりぬらんか、この能代のほとりには、もともあらざる水にこそあらめ・・」
千年、2千年昔の遺構も、私たちの祖先の生活を鮮やかによみがえらせてくれますが、2百年たらず前に書かれた文もまた江戸時代の風俗や自然に親しませてくれます。それにしても、現在はその絶滅が心配されているコウノトリやトキが、当時は杉沢台に群をなして生息していたということは見過ごしてはならないと思います。いずれも特別記念物に指定されています。とくにトキは国際保護鳥として、佐渡に残った数羽に卵を生ませようと中国からオスを借りてくるなどの努力が続けられています。わが秋田はトキの豊かな餌場である八郎潟周辺にかなりの数が生息していたようです。


(12:00)

2010年12月31日

能代唐船御番処の平面図市民プラザのブックフェアで、20年前に発刊された能代の歴史ばなしという本に出会いました。温故知新という言葉があります。能代の歴史を紐解きながら、これからのまちづくりを考えていきたいと思います。コメントなどお寄せいただければ幸いです。

30 能代唐船番所のこと

能代公園の俗称本丸に、藩政時代に異国船を見張りする唐船番所があったことをご存知ない方や米代河口付近にあったと思っている方もあります。
天明8年(1788)佐藤哲阿弥(てつあみ)筆の「清街筆記」(国会図書館蔵)の6月朔日の項に「唐土船(もろこしぶね)を守れる番所、岡の上にあり。此処にて暫く眺望す。景色甚よし」とあり、折り込みの町絵図に、般若山上に唐船番所が建っています。また文化2年(1805)ごろ作成の能代町絵図(秋田図書館蔵)にも同じ位置に唐船番所があります。文化3年(1806)、菅江真澄遊覧記「霞むつきほし」第4図の文中に「磐石(はんにゃ)山いと高う露(ろ)台のごとく見やるは、ことさえぐから舟の遠見のさもらひどころ」とあり、明らかに唐船番所を描写した文章です。さらに天明8年(1788)、巡見使に随行した地理学者古川古松軒筆「東郵雑記」巻之4に「・・唐船番所ありて御巡見所なり。眺望もよく津軽の界までy』れより七里あり」とあります。
また筆者の幼いころ、能代公園は「ばにやま」でした。これは「番人の居る山」すなわち「番人山一のなまった呼び方です。
なお、東京・九段にある佐竹家家蔵の地図を納めている「千秋文庫」を訪れたとき、偶然発見した能代の港絵図には、本丸より西方の位置に唐船番所と書かれており、おそらく幕末の頃移されたと考えられます。
ところで唐船番所の文献は、秋田県史寛永20年(1643)領内各所に唐船見番所を設くとあり、その原典たる中村光得編「羽陰史略」寛永20年の項に「御領内海辺え唐船見御番所を建て置かる。男鹿の内渡賀(とが)、小浜、北浦、船川、山本郡八森、河辺郡新屋」とあるが、何故か能代は出ていません。ただし、能代市史稿年表の1643年の項に「九月領内沿海の戸賀、八森、小浜、北浦、船川、新屋に唐船番所を設く」とあってさらに「野代般若山上の唐船番所はこの年十月に設けたとのこと」とありますが付記の出典は不明です。
市内大手町の発明家で俳人の瀬川兵太郎氏は「能代唐船御番処」の平面図を所蔵しています。美濃紙に墨書きしたもので、多分2枚物であったらしく、記入の文が完結していません。年代の記入がなく恐らく幕末ごろ、番所を改築したときの仕様書でしょう。もと長根町西端にあった高等小学校や秋木の事務所を建設した亀吉翁は兵太郎氏の祖父で瀬川家は代々御用大工を務めました。
記入の文江「能代唐船御番処絵図面之通、本家行間(ほんやゆきま)三間、梁(はり)間弐間半。庇西之方三尺ニ而三間、北之方本家より三尺掛卸(かけおろす)。尤(もっとも)西北庇板縁(いたえん)也。東之方三尺ニ而三間、右之内入口(土間)水屋(みずや)、便処ニ成(なる)」とあり、本家は7坪半にすぎない掘っ建て家(や)だが、次に箇条書きで示した仕様書は方言と慣用語が多く容易には理解できません。いずれ往往27本とも土中に2尺5寸の深さに穴を掘って角石を置いて埋めるようにと指示しています。また柱と根太廻り等は新材を使うが桁(けた)、梁(はり)、屋根廻(まわり)、垂木やのし板はなるべく古材を使用とありますが、「藻?(もくれ)屋根」「猿」「せんさる桁包破風(けたつつみはふ)」など研究者を煩わしても解読は困難かもしれません。


(12:00)

2010年12月30日

松風庵の前の小山市民プラザのブックフェアで、20年前に発刊された能代の歴史ばなしという本に出会いました。温故知新という言葉があります。能代の歴史を紐解きながら、これからのまちづくりを考えていきたいと思います。コメントなどお寄せいただければ幸いです。

29 砂防林植栽の番小屋跡

能代公園の料亭松風庵の玄関前方に頂上が15メートル四方ほどの小山があります。今はあずま屋があるだけですが、年輩の方には「ああ、相治(あいじ)の稲荷さまのあったところ」と思い当たられる方もおありでしょう。この稲荷さまは、今は八幡神社境内の西に移されていましたが、竣工されたのは明治初期と推定されます。
ところで、相治の稲荷さまができる更に以前のことは従来知られていませんでした。それが能代市大町の越後屋・渡辺信夫氏所蔵の古文書を解読していくうちに見当がつきました。それは、能代奉行武藤七太夫から越後屋6代目太郎右衛門に宛てた寛延2年(1749)の覚え書です。
それによると「太郎右衛門が松林の見張りをさせるための番小屋を清助町の後山(今の能代公園周辺)に掛けたいと申し出たので、奉行所が庄屋や町の者とともに見分したところ、唐船御番所(からふねごばんしょ)から西へ60間(約109メートル)の、御番所山に続く森がよいとの結論が得られた。ここは御番所から海面を見るにも障害にならないし、念のために御番所の中田庄一郎にも見せて了解をとった。ここに小屋を建てれば、新町、鍛冶町、出戸町など付近一体の砂留めの見張りのほか、清助町南側の裏の要心にもなろう。白坂新九郎、鈴木助七郎にも了解をとった」と記されています。
唐船脚番所から西方へ109メートル離れた見張りに適当な場所ということになると、丁度松風庵前の小山の位置に当たるようです。
番小屋の場所を想定することによって「代邑聞見録」の越後屋太郎右衛門に関する記載が生き生きと具体性を帯びてきます。「代邑聞見録」には次のように記されています。
 「問屋越後屋太郎右衛門多年心を尽くし、手前入目(いりめ・自費)にて端々(道ばた)に捨て置きし塵芥(ちりあくた)を運び彼(かの)崩るる所へ敷ならし、稗(ひえ)その外生(は)えやすき草の種を年々蒔(ま)きけるにより、最早青山になり、今は松なども所々に見ゆ。是等の勲功により隠居扶持(ぶち)五人くだされ渡辺休慶と改め、七十有余なれど、日和にはかの普請所へ往還隙(ひま)なし」
以上のように、植林のためにまず町のゴミを集めてきて砂地に撒(ま)き土地を有機化したなどの土壌改良の苦労については、越後屋文書にはほとんど書かれていませんが、第三者によって書き残されている点に注目すべきでしょう。この文献の著者である宇野親員(ちかかず)が太郎右衛門の成し遂げた事業を高く評価し、彼の人物に心服している筆致を感じとることができます。
なお、越後屋の番小屋設置を認めた奉行武藤七太夫の覚え書は寛延2年(1749)に書かれているわけですが、これは太郎右衛門が最初に砂留め普請の許可を藩に願い出てから38年経っていることになります。太郎右衛門自身齢(よわい)70有余になっています。隠居扶持5人分をもらい、いねば功成り名遂げた今もなお、天気が良ければ毎日のように普請所へ通ったという記録から、1つの大事業にかけた彼の情熱と執念が感じられます。


(12:00)

2010年12月29日

現在の四ッ屋市民プラザのブックフェアで、20年前に発刊された能代の歴史ばなしという本に出会いました。温故知新という言葉があります。能代の歴史を紐解きながら、これからのまちづくりを考えていきたいと思います。コメントなどお寄せいただければ幸いです。

28 松苗の出所が判明

能代市の海岸砂防林の造成が始まったのは、正徳元年(1711)11月とみてもいいのでしょうが、最初の数年間は試行錯誤の期間だったことでしょう。実際に黒松を植えるまでの苦労は大変であったと思いますが、具体的にそれを記した記録はありません。昭和60年、能代市史資料第15号に越後屋・村井文書を取り上げたときも、そのことを強く感じました。それとともに砂防林の黒松の苗木を一体どこから持ってきたのかを記した文書の見付からないことも物足りない思いでした。
ところが前記の市史資料を刊行して間もなく未調査の越後屋文書が大町の渡辺信夫さん宅で見つかりました。その中に「男鹿の宮沢村内の松林」と「檜山郷四ツ屋村の松林」からそれぞれ松苗2千本を人をやって適当な時季に掘り取って植え付けなさいと記した覚え書が見つかりました。男鹿の宮沢村というのは、現在の行政区分では南秋田郡若美町の宮沢海岸です。また四ツ屋村は檜山行きバス停留所になっています。追分の松並木の手前で田ン圃の向こうの村落です。両地区を合わせても4千本に過ぎませんが、現在の砂防林の松の木の本数にくらべると、全体の何百分の一に過ぎません。しかし松苗はこうして調達されたという方法を例示したことになりそうです。おそらくこの種の文書がもっとあったのだろうと推測されます。
その覚え書の第2頂には「両所の林役へもいっておくから肝煎へ自分の合判を渡しておき、松苗を掘り取るとき、その本数の受取手形を肝煎へ渡しておきなさい。肝煎からその手形を林役へ差し出すようにする」と決めたのでした。また第3項として「山中みだらなる伐採などをしないように申し付ける」とあり、末尾に「右のように御老中が仰せ渡されたので心得申すべく侯」と書いてあります。越後屋太郎右衛門へは能代奉行が渡したのでしょうが、問題はこの文書の年代が単に「申正月」と書いてあるだけで年号はありません。まず砂留め工事が始まったころの申年を調べてみると、享保元年(1716)、享保13年(1728)が該当します。なお佐竹藩家老から越後屋父子に宛てた書状の日付が元文3年(1738)ですからそれ以前の申年を調べたのです。この書状に「1711年11月に申請してその後28年間に、かつての砂山は木立(こだち)になり、砂留め普請(ふしん)が成就の旨聞き届け侯」と書いています。つまり元文3年(1738)3月現在で木立となっていたからには植林後10年ぐらいたって、初めて砂山が木立に見えるようになるのではないでしょうか。
享保13年(1728)は現存する最も古い能代市街絵図を作成した年でもあります。また藩の家老たちの名前を入れて「砂留め普請の用地は通行も馬を放すことも禁止する」と書いた立て札をしたのは享保7年(1722)でした。


(12:00)

2010年12月28日

初祖達磨大師黄檗木庵書軸市民プラザのブックフェアで、20年前に発刊された能代の歴史ばなしという本に出会いました。温故知新という言葉があります。能代の歴史を紐解きながら、これからのまちづくりを考えていきたいと思います。コメントなどお寄せいただければ幸いです。

27 正宗献上と木庵招聘(しょうへい)


能代の檜山城主多賀谷氏の御一門「多賀谷将監(しょうげん)家来由緒書」に興味をひかれることが記されています。多賀谷家基(いえもと)の条(くだり)に次のように記しているのです。「延宝6年(1678)佐竹義処(よしずみ)公江 正宗刀泰(2)献上(1)、同八年黄金頂戴、御取次ハ梅津半右衛門、同八年四月十日黄檗(おおぼく)紫雲木庵大和尚先祖経明経忠法事執行勒(ろく)ス尚自筆書給所持」とあります。つまり秋田藩3世義処公へ多賀谷家基が名刀正宗を献上したところそのお礼に家老梅津半右衛門忠宴(ただよし)を遣わして黄金を下賜し、さらに多賀谷氏の先祖の法事を藩主の負担で多宝院で執り行うために京都から木庵禅師を招いて導師を勤めさせ、和尚自筆の書をくださったというのです。
昔も今も正宗は名刀中の名刀です。正宗を家蔵していたということは、流石(さすが)に多賀谷氏の名門ぶりを物語るものです。
日本史辞典によりますと、正宗は鎌倉末期の刀工だが、生没年は不詳といいます。号は五郎入道、名は藤三郎、相模の人。父の死後、新藤五国光について鍛錬の秘法を学んだといわれ、のち鎌倉幕府の御用刀工として生涯を終ったということです。身幅(みはば)の広い姿、硬軟の地金の組み合わせ、ノタレを基調とした大模様の刃文(はもん)などが特徴で、室町時代から江戸時代にかけて名刀として尊重されました。国宝、重要文化財指定の遺品も多いようです。現存する有銘作としては、不動正宗、大黒正宗、京極正宗などがあるといいます。高弟に郷義弘、兼光、長茂らの名工がいるといいます。
ところで義処公に献上した正宗はいまも健在だろうか気にかかります。刀剣に詳しい武田安一氏の話では、この正宗の消息は知らないが、佐竹秋広といわれる名刀が重要文化財に指定されているが、これが多賀谷氏献上のものかどうかは不明のようです。
木庵禅師は「木庵性?(しょうとう)」という中国僧で明暦元年(1655)、師隠元隆�湊(りゅうき)と一緒に来日し、隠元の黄檗宗(おうぼくしゅう)万福寺(宇治市)開創に協力し、同寺第2世を襲(つ)ぎました。4代将軍家綱にお目通りし、江戸に瑞聖(ずいしょう)寺など多くの黄檗寺院を開いた高僧です。黄聚の高僧たちは書道にすぐれ、とくに木庵の書跡は隠元の書とともに数奇者(すきしゃ)の至宝とされています。なお木庵は貞享(じょうきょう)元年(1684)73歳で病没しました。
由緒書に「和尚自筆書を給い所持」と書いてあるその書が、多賀谷家に現在も健在かどうかについても調査する手がかりはありません。
ところが、檜山の河田駒雄翁は近年、多宝院に木庵の落款のある書軸が秘蔵されていることを見付けたのです。はたして木庵禅師は多賀谷氏と多宝院の両方に各1枚を書いてくれたものなのか、あるいは多賀谷氏の子孫が後日多宝院に自家の所蔵品を奉納したものなのか、いまはナゾのままです。


(12:00)

2010年12月27日

旧記抜き書之ケ条市民プラザのブックフェアで、20年前に発刊された能代の歴史ばなしという本に出会いました。温故知新という言葉があります。能代の歴史を紐解きながら、これからのまちづくりを考えていきたいと思います。コメントなどお寄せいただければ幸いです。

26 善光寺如来のご開帳

いまから243年前の延享4年(1747)の夏、有名な信州長野の善光寺の秘仏阿弥陀如来像が諸国巡行の途次、能代へも逗留して、旧長根町にあった願勝寺でご開帳をおこなったという古い記録があります。
能代奉行の物書き役を務めていた三論文(ぶん)右衛門が書いた「旧記抜き書之ケ条(のかじょう)」という文書です。原文を現代文で表現してみると次のとおりです。
「善光寺如来尊像と本多善光、善スケの像が諸国ご巡行開帳ということで旧暦7月14日に能代へ到着した。一行は霊山院大僧都(だいそうず)ほか46人。21日と22日の2日間願勝寺でご開帳した。
あくる23日に一行は米代川を渡って向能代へ行き、浜づたいに岩館を経て津軽領へ巡行して行った」
善光寺は天台宗と浄土宗の2枚看板の寺院ですが、能代の願勝寺は昔も今も浄土真宗つまり一向宗寺院です。しかも能代に浄土宗寺院がなければ致し方もないでしょうが、願勝寺の東隣り浄明寺の隣りには浄土宗の西福寺があるのです。せっかくの本尊ご開帳というのに他宗派寺院を借用しなければならないような理由があったのでしょうか。
ところで善光寺は「牛に曳(ひ)かれて善光寺参り」と昔からそのご利益(りやく)がPRされています。そのせいか戦国の武将は抜かりなくそれを利用しています。第一は武田信玄です。永禄元年(1558)甲府に新善光寺を建立して長野善光寺のご本尊を移しました。織田信長はこれを真似たのでしょうか、天正10年(1582)岐阜へ移しました。そのあと豊臣秀吉も京都へご本尊を移したそうで、長野へご本尊が帰られたのは徳川家康の時代になってからといいます。転変の歴史は権力者の意思のまにまに流されて来たようです。
ご本尊の諸国巡行に際しては幕府のお墨付を携行したのでしょうが、当時の能代としては50人近い多人数の宿所を見つけるのには相当な苦労があったでしょう。夏のことですから寝具はよいとしても、蚊帳(かや)の調達には困ったのではないでしょうか。
ご開帳の寺院の選定は結局、畠町と長根町の交差点にある願勝寺が繁華街に近いことから善男善女を集め易い、従ってさい銭のあがりもよさそうだとみて願勝寺がご開帳の場に選ばれたのではないかと筆者は想像しています。それによる同宗派寺院が多少面子(めんつ)をそこなうことがあってもがまんしてもらうつもりだったのではないかと思います。
この年、佐竹藩では能代奉行を通じて町民へ御用銀60貢を仰せつけました。しかし町民から寄せられた金額は、大口が越前屋久右衛門15貫、相沢藤吉10貫以下17人で計50貫で、要請額には達しませんでした。やはり4年前の寛保3年(1743)9月の大火の傷跡が遺(のこ)っていたのかもしれません。善光寺如来のご開帳も、藩の御用銀も、町民には「それどころじゃない」思いであったのでしょう。


(12:00)

2010年12月26日

幻の願勝寺の鐘の鐘銘の一部市民プラザのブックフェアで、20年前に発刊された能代の歴史ばなしという本に出会いました。温故知新という言葉があります。能代の歴史を紐解きながら、これからのまちづくりを考えていきたいと思います。コメントなどお寄せいただければ幸いです。

25 幻の願勝寺の鐘

戦前に能代市で生活した人なら、願勝寺の鐘といえば知らない人はいないでしょう。あの鐘が戦争中、いやおうなく金属供出の憂目(うきめ)に遭って姿を消してから48年もたってしまいました。しかし年配者にはあの鐘の余韻が、いまも耳底に鮮やかによみがえることでしょう。
そのころまでの能代市民は、木材工場の汽笛と願勝寺の鐘の音で明け暮れしていました。
村井家文書によりますと、鐘の寄道者は初代村井久右衛門の妻妙立(みょうりゅう・法名)で、慶安元年(1648)のことでした。その後27年たって鐘楼が破壊し再建されたのち、元禄4年(1691)の類焼により鐘も破損してしまいましたが、2年後の妙立17回忌に再鋳造。鐘銘はもとどおり刻まれました。鐘楼は妙立50回忌にも改築しました。
銘文は大坂天満堀川の木泉寺の摂受院能化宜慧師に頂き、治工(鋳物師)には近江国辻村の住人田中伊兵衛尉藤原家次を招いて鋳造したと書いています。
鐘撞(つ)きの免許は多賀谷氏から受けたと記していますが、鐘撞きの時刻を朝の6時から夜10時まで1時間毎としたのは、明治期以降ですが、以前は朝夕だけではなかったかといわれます。
昭和17年1月、供出させられた鐘は鋳造後249年目でしたが、供出当時能代市助役を勤めていた故坂本定徳氏は生前次のように語っていました。「たしか荻原鱗次郎氏が県の係でしたが、能代市は供出率が振わないといってヤイノヤイノいうので、北高にあった私の胸像を出すからといって時間稼ぎして、一方で鐘のエボを数個、秋田大学と小坂鉱山で分析してもらいました。でも伝承のように金は析出されません。なんとかして供出を逃れようとして努力しましたが、駄目(だめ)でした。時代が時代だから止むを得なかったが惜しいことをしました。」
2世紀半に及ぶ願勝寺の鐘の歴史もさまざまな歩みを留めています。幕末のころの黒船来航さわぎでは、能代奉行は願勝寺に鐘の供出を求め、それを盤若山(いまの能代公園)上に移し人々に黒船来航を知らせることにしたといいます。
それが実際の用に供されることもかく明治維新を迎え、町の有力者が相談し、町の時鐘として活用することになりました。結局、当時鐘楼の向かいで伊勢屋菓子店を開いていた村木家が鐘撞き番を奉仕することになりました。毎日欠かさず1時間ごとに鐘を打ち、あるときは、近火を報じて打ち鳴らすなど、大変な大仕事であったと思います。よくも7、80年間も奉仕を続けたものです。店の使用人がおおぜい居ったことも永続した理由でしょう。村木家の先代遷一氏(畠兵商店勤務の正夫氏の父)は大正12年に生活改善同盟会から賞詞を受け、昭和の初め「時の記念日」が実施されてから村木遷一氏の受賞は恒例でした。
この鐘の寸法に関する記録は伝えられていませんが、供出の日、村井分家の重喜智さんが傍らに立った記念写真の残片があり、それから推測して直径1メートル、龍頭(りゅうず)までの高さ1.2メートルぐらいでしょうか。天候と風向きによっては檜山、鶴形まで聞こえたといいます。
なお村井家の檀家(だんか)寺は西光寺ですが、願勝寺角に奉納したのはここが旧能代の中央の賑やかな地で近くに高札場、駅馬役所などのある場所だからでした。鐘銘にも「能代中央」の文字がありました。




(16:00)

2010年12月25日

山王宮マンダラ市民プラザのブックフェアで、20年前に発刊された能代の歴史ばなしという本に出会いました。温故知新という言葉があります。能代の歴史を紐解きながら、これからのまちづくりを考えていきたいと思います。コメントなどお寄せいただければ幸いです。

24 廃仏毀釈の遺物

明治政府にとって新国家建設に取り組む国民の精神的な基礎づくりはまさに急務でありましたが、慌(あわただ)しい改革であっただけに行き過ぎた事態を招いたことも少なくなかったようです。慶応4年(1866)3月の神仏分離令(しんぶつぶんりれい)に伴って実施された「廃仏毀釈」もその例です。
日本の神社は千余年にわたって神仏混淆(こんこう)という形をとっていました。これはいわゆる「本地垂迹説(ほんじすいじゃくせつ)」によるものですが、「廃仏毀釈」令は従来一つの神社に同居していた仏教的なものを一切廃除せよという宗教政策です。その結果、それまで「鳳来山・能代寺(のうだいじ)」とも称した日吉神社や、「護国山・渟代寺(ていだいじ)」とも称した八幡神社では寺号を廃止し、山門の解体、所蔵品の譲渡などが強行されました。外にはこの時廃寺になった例もあります。青森県深浦町の円覚寺山門にあるみごとな仁王像一対をご覧になったことがありましょうか。体躯4メートル、彩色のあとの見える力作です。あの仁王像ならびに市内檜山の多宝院所蔵の仏画「釈迦三尊二十二善神像図」は明治初年までは旧能代寺に在ったものです。また八幡神社所蔵の仁王像の頭部は旧淳代寺山門の仁王像が廃仏毀釈のとき長慶寺に納められたものが再び返されたこともわかっており、能代市における廃仏毀釈の証拠品として貴重なものです。
このほか、日吉神社宮司坂本定夫氏所蔵の「山王宮曼荼羅(さんのうみやまんだら)」の掛軸(かけじく)も同様の貴重品です。先代定徳宮司が生前筆者に書いてくださったものによると、これは坂本家八代尊芳が安政4年(1857)5月京都に上ったとぎに醍醐(だいご)院に参上し、座主の法親王のお伴で皇居に参内したのを記念して絵師に頼んで描いて貰ったものだそうです。日吉神社では社宝の1つとして伝えていたのが廃仏毀釈により所蔵できなくなり、当時の主要講中の今立薬局に譲って永久保存を依頼しました。その後昭和24年2月の第1次大火で日吉神社も類焼し社宝の多くを喪ったため、当時の総代泉太助氏の口添えによって返却奉納されました。
掛軸はカット写真にあるように、御簾(みす)を巻き上げた神階付近に神猿3匹を描き、画面中央に大己貴神(おおなむちのかみ)、向かって右側に大山咋神荒魂(おおやまぐいのかみあらみたま)ほか3神、左側に鴨玉依姫神荒魂(かもたまよりひめかみあらみたま)ほか3神を配しています。これは神道曼荼羅(まんだら)という類のもので平安初期にできて本地垂迹説(ほんちすいじゃくせつ・日本に従来祭られていた神は仏たちの姿を変えたものであるという説)の推進に役立ちました。すなわち力ットの曼荼羅(まんだら)の大己貴神は釈迦如来、大山咋神荒魂は千手観音(せんじゅかんのん)、鴨玉依姫神荒魂は普賢菩薩(ふげんぼさつ)あるいは大目如来(だいにちにょらい)の化神という具合です。
以上4件のうち、製作者名のはっきりしているのは、円覚寺の仁王像だけです。京都の仏師吉田源之亟という人の作で、その子孫が現在も京都市中京区三条河原町西入、通称三条名店街で仏具商「吉田源之亟老舗(ろうほ)」を営んでいます。いまから420年前の元亀(げんき)年間(1570~1572年)に創業したと伝えられて、先祖には法橋(ほうきょう)や法眼(ほうげん)の称号を許された仏師もいるようです。制作年代は江戸時代中期の明和5年(1768)です。大坂(現在は大阪)の泉屋平兵衛の船に積んで能代まで海上輸送されたことが棟札(むなふだ)で明らかにされています。


(12:00)

2010年12月24日

景林神社の石碑市民プラザのブックフェアで、20年前に発刊された能代の歴史ばなしという本に出会いました。温故知新という言葉があります。能代の歴史を紐解きながら、これからのまちづくりを考えていきたいと思います。コメントなどお寄せいただければ幸いです。

23 景林神社の石碑

能代公園の景林神社は、昭和8年の賀藤(かとう)清右衛門景林(かげしげ)の百年忌記念に、能代の材木屋さんが中心になって創建されました。社殿の背後には「賀藤景林君之神霊」と刻んだ石碑があります。この碑文は、平田篤胤の長女千枝子に迎えた婿養子銕胤(かねたね)の執筆です。銕胤は愛媛県出身、秋田勤皇派の陰の人物といわれます。明治になって明治天皇の侍講や大教正、大学大博士にもなった学者です。
この石碑は、もと樽子山の一画にあって、嘉永3年(1850)の景林の16年忌記念に建立されました。建立は村木重誠(しげのぶ)と高橋政良(まさよし)が有志に呼びかけたといいます。その中には越後屋太郎右衛門、越前谷久右衛門、賀藤景琴(景林の長男)、中田錦江(大館の佐竹藩士)もおりました。
村木重誠は、万町の廻船問屋(現在の黒川産婦人科医院の位置)で勤皇歌人の村木息長(おきなが)の孫に当る村木家11代目です。もと上町の伊勢屋菓子店の故村木遷一氏や教職員村木悦也氏は村木家の分家筋です。村木家12代の故史郎氏はいまの第1小学校を卒業後、明治38年に能代印刷所の石版工となり、大正7年北海道に渡り札幌で石版画工として勤めていました。
また高橋政良は、富町のヤマ油(高橋与八郎)かマル油(同彦左衛門)の一族かと思いますが不明です。
ところで村木史郎氏が生前、父重誠の40年忌記念に作った小冊子があります。その中に 「賀藤景林君之神霊」碑に関する叙述があります。それによると、当初、石碑の左側面に次のような賀藤景琴の七言絶句が刻んであったといいます。
「満山ノ松樹緑成レ堆/曽テ是レ先人手自栽ウ/遺シ得タリ百年身後ノ計/千金ノ民戸ニ給ス(2)ニ薪炭ヲ(1)ー/男景琴拝題/錦江驥(き)書」
我流(がりゅう)で読むと「満山の松街、緑、堆(たい)を成す。かつて是、先人手ずから植う。遺(のこ)し得たり百年身後の計。千余の民戸に薪炭を給す。(長)男景琴拝題。錦江驥書く。」となりそうです。なお「遺し得たり百年身後の計]とあるのは、父景林の残した詩に「身後百年人ありて問はば、苦辛(くしん)まさに識(し)るべし旧山川(さんせん)」という言葉がありますので、その字句を踏襲して父の偉業を讃える気持ちを表現しているのです。碑文の書き手の中田錦江は、70歳を越す老齢で戊辰戦争に従軍した人です。
また碑の右側の面には、次の文字が刻まれていたといいます。「嘉永三庚戌(かのえいぬ)七月、村木重誠、高橋政良、与(2)郷人(1)共ニ建テ、以テ図ルニ報イントス(2)無僵ノ恵ニ(1)ブ 平田銕胤謹書」
彊の文字はキョウと読み、限の意味です。昔の町民が松葉をかき集めて燃料にするなど、松林から受ける無限の恩恵を言ったものでしょう。
石碑の左右に彫られていたというこれらの文字は、140年の風雪にさらされて現在は確認することが出来ません。石に刻んだ歴史上の事実も、風雪の力には耐えられないものだと痛感させられます。




(12:00)

2010年12月23日

日吉神社御神幸祭絵図市民プラザのブックフェアで、20年前に発刊された能代の歴史ばなしという本に出会いました。温故知新という言葉があります。能代の歴史を紐解きながら、これからのまちづくりを考えていきたいと思います。コメントなどお寄せいただければ幸いです。

22 豪華な山王神社御神幸

能代市史稿第3輯(しゅう)に「豪華な山王神社の御神幸(ごしんこう)」という項目があり、夏の山王社のお祭りのことを2つの文献を引用して叙述しています。その1つは天明8年(1788)佐藤哲阿弥(てつあみ・別号晩得)という佐竹藩士の俳人が当時の能代奉行佐々木伝五郎に招かれて能代に来遊した折の紀行文「清街(せいがい)筆記」、2つめは、安政3年(1856)当時能代奉行所に勤務した石井忠行(ただつら)筆の「伊頭園茶話(いずえんさわ)」3の巻です。哲阿弥は5月24日に能代入りして6月19日に発(た)っていますから、昔の恒例の夏の祭典の6月14、5日に際会し、その模様を克明にたどって文章にしています。
一方、「伊頭園茶話」の方は地元人が作成したらしい山王神事行列帳を転写しています。
「清街筆記」は原本が国会図書館にありますが外に公刊本は出版されなかったようです。能代市史稿を執筆された北条要氏は誰かに撮影を依頼したものらしく、いま井坂記念館に関係部分の4ツ切判写真が何枚か保存されています。コピー技術が普及しない時代には、歴史研究室は原本を筆写するか、あるいは写真に撮って引き伸ばして読まなければならなかったのでした。撮影の際のピントがボケていては誤読を招きます。そのような隠れた労苦はあまり知られていないようです。北条氏の誤読もそのような理由があったものと思います。「清街筆記」には町山の人形のことを記した部分に「・・・猩々(しょうじょう)、ゑびす、ほてい、せうき、三番叟・・・」と書かれています。しかも後町の町山の人形大黒を哲阿弥は布袋(ほてい)と見あやまり、北条氏は「せうき」を「せ〃き」と誤読したのでした。昔のかなづかいでは鍾旭(しょうき)を「せうき」と書く人もありました。そのようなことは百も承知のはずの北条氏が「せ〃き」と誤読してしまいました。そのために「清街筆記」のころは町山はまだ無かったと解釈してしまいました。
一方「伊頭園茶話」は原本が秋田図書館所蔵で、現在では新秋田叢書(そうしょ)で公刊されています。とくに山王神事行列帳は能代人が書いたものらしく、町山という行事のあることを承知しておりました。だから町山とかいて、壱番大町、弐番上町、三番万町と、町山の順序だけが記され、町ごとの人形の種類は記されていません。そうしなくとも誰でも判っていることで、ことしは何町が当番町かだけが問題でした。だから町山の行進する順序と当番が後町という必要事項だけを書いたのでしょう。
以上のようなわけで北条氏は「清街筆記」の時代は町山はまだ無かったと解釈してしまい、それから71年後の安政3年(1856)の文献に初めて町山が登場しているから、その71年間に町山が出来たものと間違った解釈をしていまいました。なお哲阿弥は能代の祭典を見てから土崎の祭典を見て両者を比べて「祭の行儀は能代に及ばず」と評しています。


(12:00)

2010年12月22日

市役所裏手にあった西光寺山門市民プラザのブックフェアで、20年前に発刊された能代の歴史ばなしという本に出会いました。温故知新という言葉があります。能代の歴史を紐解きながら、これからのまちづくりを考えていきたいと思います。コメントなどお寄せいただければ幸いです。

21 山本清之助の炯眼(けいがん)

勤皇に付くべきか、佐幕を貫くべか、佐竹藩は大揺れに揺れていました。藩主義堯(よしたか)公が最終的に勤皇の方向を決めたのは、家老小野岡右衛門義礼(うえもんぎれい)が夜陰(やいん)を冒(おか)して藩主の寝所を訪れ、奥羽鎮撫軍に参加するよう説得したためと伝えられています。
そのころ能代出身の山本清之助は神戸にあって、秋田藩救援のために駆け回っていました。
山本清之助は天保13年(1842)12月16目、西光寺15世行芳の嫡子大芳として生まれました。西光寺初代は本願寺8世蓮如上人の孫の大月法忍です。1570年ごろ(元亀年間)清助町山王屋敷に草庵を結び天正2年(1574)能代奉行所裏手に西光寺を創始しています。
大芳は長じて下岩川の旧家近藤八右衛門の娘里乃を辺えて俊瑞、保瑞の2男を挙げますが、慶応3年(1867)25歳のとき、本山東本願寺の学僧として派遣されます。単身京に上った大芳の勉学ぶりは並ひととおりのものではなく、生来の頭脳明晰もあって学寮中に断然頭角をあらわしました。折から本山ではキリスト教の伝播必至を予想して、学寮中の秀才を選び積極的に外人と接触させ、いち早く西欧事情と異教の動向を知ろうとしていました。大芳は本山の洋学生として神戸港へ派遣されることになります。その報告に一旦帰郷し、便宜上還俗(げんぞく)して山本清之助と名乗る許可を得ますが、その手続きを依頼された家人が清之助を誠之助と誤って届け出たのでした。
さて法城(ほうじょう)の束縛を脱した清之助の目に映る世界は従来と著しく変わりました。清之助は進んで英米の外国人や国内各藩の活動家だちと交流しています。鳥羽伏見の戦いで幕府軍が敗走するさまを自分の目でつぶさに見届け時代の流れに開眼した彼は、佐竹藩の小野岡家老に宛てて長文の上申書を執筆しています。
その主旨は、「わが藩の藩境は南北と東は険阻な山を巡らし西方は海で漁業の宝庫である。領内は五穀豊穣で鉱産にも恵まれているが、この際優秀な外国船を購入して運送と交易を行い商法を振興させて富国強兵策とされたい。外国船購入の資金調達には、秋田産銅千個を拝借して長崎や兵庫で売りさばいて商売すれば1年以内に元利は償還できる。あるいは領内の富豪15人から各千金を調達して無尽方式で返済すれば2年で完済できる。材木2万石を拝借しても同様である。速やかに20歳以上の秀才を選抜して京阪で洋学を仕込み指導者を養成すべきである」というものです。
20代なかばの青年山本清之助は、秋田藩の名義をかりてアメリカのブレーキ商会から軍艦アスロット号を購入、日本海を北上して新潟港にいた山県有朋軍の参謀を説得して九州兵80人と軍用金16万両を搭載、土崎に入港して官軍のために働いて秋田の危機を救ったのです。その緻密(ちみつ)で鮮やかな手際に恐れ入るばかりです。時代の動きを察知する炯眼(けいがん)に感服させられます。


(12:00)

2010年12月21日

浄徳寺墓地にある吉田謹一の墓市民プラザのブックフェアで、20年前に発刊された能代の歴史ばなしという本に出会いました。温故知新という言葉があります。能代の歴史を紐解きながら、これからのまちづくりを考えていきたいと思います。コメントなどお寄せいただければ幸いです。

20 能代の徂来、吉田謹一

藩政時代から明治初めごろまで、藩士や庶民の教育機関として郷学校(ごうがっこう・郷学・郷校ともいう)が置かれていました。能代の郷学校、温故書院(おんこしょいん)は今の能代市役所の位置の一角にあり士族の子弟の教育が行われていましたが、明治5年(1872)に廃止されています。
温故書院の最後の教授を勤めた吉田謹一は天保4年(1833)3月17日に生まれ、明治22年(1889)8月28日56歳で亡くなりましたが、「能代の荻生徂来(おぎゅうそらい)」といわれた大学者です。
9歳で本家の吉田俊彦に漢文の素読を教えられ、続いて温故書院で四書五経を学びました。
ところが3年後の弘化2年(1845)夏、遊んでいるうちに過って転んだはずみに小刀が左のてのひらを貫通する重傷を負いました。十分な手当ての方法もないまま傷は化膿し俊彦に連れられて大滝温泉で湯治をしたりもしましたが完治せず、手の不自由な身となってしまいました。
このことがもとで、吉田は武家に生まれながら刀や槍を捨て生涯漢書の勉学ひとすじに歩き始めることになりました。
15歳のときから秋田藩校明徳館に入り、寄宿生活をしながら平元謹斎に漢書史記を学びました。在校3年で史記列伝の試験、次いで漢書史記の試験にも合格して帰郷します。再び温故書院に復帰してのち、親戚に当たる阿仁前田の庄司家に逗留したり、比内・大森・八森・岩館と周遊して見聞を広めています。
その暮れに本家の養女で岩川の佐藤利肋の長女と結婚しましたが3年後に離婚、23歳の秋に菅原文益二女を後妻に迎えます。
24歳になった安政3年(1856)からは温故書院仮詰役となり、黒船来航に備える藩命が下ったときには日和山(ひよりやま)砲台(今の能代公園西側)にも詰めています。
その頃の同役に、後の第1回衆議院選挙(1890年実施)でトップ当選した成田直衛(鷹巣町)がおりました。成田も当時、海岸防備の藩命で能代に住んでいたのです。成田は吉田よりも15歳年少でしたが、吉田の学問の深さに敬服していました。戊辰戦争の時は、成田は8月10日、吉田は13日に従軍し、同じく10月19日に凱陣(がいじん)しています。
なお慶応4年(1868)5月沢三侍一行が来能の時は、滝田喜蔵、今立八十郎とともに吉田も市街巡回の役目を仰せつかりました。さらに明治2年(1869)8月には温故書院教授に、同6年(1873)に山本郡の第3大区1小区の副戸長に、半年後には戸長に任命されて翌7年(1874)3月にそれを辞しました。
成田直衛は明治19年(1886)9月、9代目山本郡長として着任したとき大先輩吉田に適当な職を斡旋(あっせん)したい旨の申し出をしました。これに対して「謹一は多病にて年老い、また昔のごとからず…」と辞退した書状の扣え(控え)が残されています。まだ53歳でしたが、謙譲な性格が書面に彷彿(ほうふつ)としています。



(12:00)

2010年12月20日

彗星略説市民プラザのブックフェアで、20年前に発刊された能代の歴史ばなしという本に出会いました。温故知新という言葉があります。能代の歴史を紐解きながら、これからのまちづくりを考えていきたいと思います。コメントなどお寄せいただければ幸いです。

19 相沢文五郎治信

伊能勘解由忠敬(いのうかげゆただたか)一行が能代へ来たときの庄屋は相沢6代目金十郎と三嶋嘉右衛門でした。幕府の天文方からお触れ書きが届いていましたし、日本地図を作るための測量が目的ということで庄屋たちの接待も一入(ひとしお)のものがありました。とくに三厩(みうまや・青森県)からの帰路は相沢庄屋宅(上町坂本クリーニング西隣り)に2泊して厚遇されました。
ところで忠敬が来能してから6年後の文化5年(1808)金十郎の養子文五郎治信(はるのぶ)が江戸で勉強したいといい出しました。金十郎はさっそく旧知の伊能忠敬宛に書状をしたためて相談しました。忠敬からの返信を故相沢正平氏(秋木製材所長)が所蔵していたそうですが、残念ながら昭和24年の大火で類焼したといいます。また故近藤八十二翁編「能代乃武加志」に『高橋作左衛門から相沢金十郎宛の書状を高橋梅亭氏が所蔵』とあります。梅亭氏は名前が彦之亟、喜多流謡曲の大家で書道、南画、尺八も名手でした。いまの信用保証協会能代支部の位置に居住していました。梅亭夫人は相沢家の長姉(ちょうし)です。生家から貰ったのでしょうが、この書状も類焼しました。近藤翁が書状の解読文や日付を残してくれなかったことが惜しまれます。実は高橋作左衛門という人は父子が襲名し、2代にわたって天文方筆頭です。父は至時(よしとき)、長男は景保(かげやす)です。だから作左衛門だけでは父子いずれか判らないのです。ただし、至時は文化元年(1804)正月、浅草の暦局長官舎で病没、40歳でした。景保は父の後を受けて天文方となり、父の名を辱かしめない学者でした。忠敬にとっては、父子とも歳下の師でした。忠敬と金十郎とのやりとりの内容はわかりませんが、文五郎治信は文化5年(1808)8月末に江戸へ出ました。36歳でした。翌年2月、治信は忠敬の先生高橋景保に入門しましたが、治信が暦学を勉強できるようにしてくれたほか天文方で働けるようにもしてくれました。
これで生活費の心配もなくなり、思い切り勉強に打ち込めるようになりまた。とくに職場の周囲の人々は、みんな天文学の専門家で、しかも筆頭は日本有数の学者です。治信の熱心と相俟って抜群の上達ぶりでした。入職3年目には彗星略説、彗星測算録、実測録、目窺録の各1冊を献上したといいます。
7ヵ年余の研修ののち文化14年(1817)、治信は帰郷しましたが、老中堀田摂津守は景保に対して「胎信は暦学に熱心で学術も相応にできるから郷里でも観測できるように器機類を持ち帰らせなさい」と命じました。
治信は帰国後も数年間能代にあって観測を続けましたが、病気になり文政5年(1822)3月27日に没しました。50歳でした。新しい時代の到来を信じてひたむきに生きた具眼(ぐがん)の俊才でした。



(12:00)

2010年12月19日

現在の相沢金十郎家跡市民プラザのブックフェアで、20年前に発刊された能代の歴史ばなしという本に出会いました。温故知新という言葉があります。能代の歴史を紐解きながら、これからのまちづくりを考えていきたいと思います。コメントなどお寄せいただければ幸いです。

18 伊能忠敬(いのうただたか)の足跡

徳川時代の地理学者・伊能勘解由忠敬(いのうかげゆただたか)の「晩学」についてはご存知の方も多いことでしょう。
「人生30年」といわれた時代に、50歳になって家督を譲って江戸に出て幕府の天文方の筆頭高橋作左衛門至時(よしとき)に入門し、西洋暦法や測量法を学びました。現代風にいっても生涯教育のお手本でしょう。それとともに彼の学問が物好き老人のものでなかったことは、彼が作成した日本地図が、日本で初めての本格的な地図といわれていることが物語っています。
忠敬は延享2年(1745)生まれですから、能代へ来た時は満57歳でした。今から188年前の享和2年(1802)のことです。前年の11月には菅江真澄が能代へ来ています。 真澄が気ままな漂泊の旅なのに対し、忠敬は、老中堀田摂津守の仰せ渡しにより天文方筆頭の命令書を携帯した公務旅行です。当面の旅行手当金60両も支給されています。
命令書によると「そこもとは一昨年と昨年エゾ地(北海道)測量御用のため伊豆からエゾ地まで行って海道地図を作ってくれましたが、陸奥、出羽などの分は備わっておりません。今度は陸奥三厩(みうまや)から西の方の出羽、越後、越中、能登、加賀、越前、尾張、三河、駿河などを測量して以前の地図を補ってもらいたい」というのです。その途中8月には日食も観測するつもりで心得ておくようにとして、人足5人、馬3頭、長持ち1棹(ひとさお)を運ぶ人足も同行しました。また道中筋の代官、地頭などの役人にはそれぞれお触れ書きが回され便宜をはかるよう手配されました。
一行は横手―大曲-久保田(秋田)-森岳と泊まりをかさねて能代へ入ったのは7月23日(旧暦)午前10時ごろでした。今の中和通り南端の出戸境まで庄屋相沢6代目金十郎と三嶋嘉右衛門、宿老村井久右衛門らが礼装で出辺えました。宿舎は能登屋半六(能久金物店の本家)でしたので、中和通り、畠町、長慶寺小路を通ったのでしょう。金十郎家は当時は上町のやま久向かい㈱秋田共立付近でしたが、その後営林署前に転居しました。モの跡地も現在は元秋本製材所長正平氏夫人マツさんが住んでいます。
忠敬は、「沿海日記」に毎日の詳細を書き留めていますが、能代逗留の第一夜も測量を実施しています。当時の測量は、恒星の位置が基本になりますから晴天の夜は貴重な測量日です。8月1日は日食でしたが、あいにく雲が厚く、観測は失敗でした。能代出立は8月4日で11泊したことになります。
大館、弘前を経て三厩まで行き、さらに日本海側を通り再び能代へ入ったのは29日午後10時でした。幸町の渡船場には庄屋金十郎らが出迎えました。宿舎は上町の金十郎宅でした。一行は2泊して9月1日朝6時に男鹿に向かい、庄屋らは町境まで出て一行を見送りました。


(12:00)

2010年12月18日

城郭型ネブナガシ市民プラザのブックフェアで、20年前に発刊された能代の歴史ばなしという本に出会いました。温故知新という言葉があります。能代の歴史を紐解きながら、これからのまちづくりを考えていきたいと思います。コメントなどお寄せいただければ幸いです。17 馬口労町嘉六(かろく)のこと
能代名物の城郭型ネブナガシを発明した人と伝えられる宮腰屋嘉六。あるいは京都の東本願寺再建に紀州の山から伐(き)り出した棟木(むなぎ)の巨材の運搬に、ロクロと滑車を使って、3日間でみごとに寺内に搬入してみせた清助町の工夫屋嘉六は、能代市史稿にも取り上げられています。いずれ伝説めいた記述で、年代は天保期のようです。
これに対して年代は2、30年繰り上がった文化6~8年(1809~1811)の能代奉行野上陳令(ちんれい)の「能代方御用日記」に馬口労町嘉六という人物が登場しています。苗字や屋号はありませんが名前は同じ嘉六です。両者の共通点は創意工夫を特技としている点です。はたして同一人物なのか、同名異人なのか、興味があります。
まず日記を点検してみましょう。文化6年(1809)8月7日に「石川権六(ごんろく・松野与下(くみした)の給人)の世話で『馬場為八郎(ばばためはちろう)伝来の遠方(えんぽう)』を図形に写し取る器物と水を汲み上げる器物の製作を馬口労町嘉六が申し付けられていたのが完成して代金を払った」、また同10日に「岡本家老から町送り便で嘉六細工物を受け取った由」の記述があります。馬場為八郎の名が、この日記の中に登場してくるのには驚かされる。この人物は、年譜によると、この年にエゾ地御用を解かれて郷里長崎へ帰り小通詞(しょうつうじ)に採用され、その19年後にはシーボルト事件に捲(ま)き込まれ、永牢となる運命にありました。さらに馬場は亀田の岩城隆喜(いわきたかひろ)にお預けとなり、天保3年(1832)から妙慶寺境内の一室に移され、土地の人々からは先生々々と慕われて70歳の生涯を終わりました。「為八郎伝来」とは、図面の設計者が為八郎という意味だろうか。あるいは「針穴写真器」や「押し上げポンプ」といった実物の器機なのでしょうか。
次は文化7年(1810)3月22目「嘉六はお細工物代金の外に賞銀300目頂戴し外に水時計、砂時計、潮より水を取る器物を拵(こしら)えることを申し付けられ」ているが、どんなものなのか分かりません。続いて同年3月27日「嘉六の間数車(けんすうしゃ)と●子鉑下(ひょうしはくさ)げ車(ぐるま)は、銅山で試みたところ至極宜しき由だから、その代金30貫文を銅山へ掛け合って受け取るようにいい付けたこと」、同28日は「嘉六の●子鉑下げ車の代金は畠半六から受け取るように申したこと」を書いている。翌8年9月28日「嘉六の米搗車(こめつきぐるま)は政右衛門殿から永治殿へ申し来りし由。座敷より火気を取る道具を拵(こしら)えるよう仰せつけられた」とあります。
馬場為八郎が関係したのは当初の1件だけなのか、どうか。外の5件は為八郎伝来の文字を省略したのかもしれない。あるいは為八郎伝来と無関係ルートがあったのかもしれません。いずれ実物や設計図面なり要領書なりが伝えられていないのは、まことに遺憾といわざるを得ません。

※ ●は、革へんに風

(12:00)

2010年12月17日

能代市立図書館にある倭漢三才図会略市民プラザのブックフェアで、20年前に発刊された能代の歴史ばなしという本に出会いました。温故知新という言葉があります。能代の歴史を紐解きながら、これからのまちづくりを考えていきたいと思います。コメントなどお寄せいただければ幸いです。

16 寺島良安のこと

正徳3年(1713)に出版された「倭漢三才図會略(わかんさんさいずえりゃく)」105巻は、当時の文部大臣クラスの林大学頭信篤(はやしだいがくのかみのぶあつ)が序文を寄せているほどの図入り大百科事典です。その編著者寺島良安は、能代人と信じている人が多いようです。ある時代秋田の知識人代表のように見られた安藤和風がその著書「秋田の土と人-人の巻」に「能代の問屋尾張屋が故ありて土崎に移り、良安は此の家に生まれ、浪華(なにわ)に至り、伊藤良玄の門に入り医となり、それより此の大著述をなしたのである」と書いていますから無理もありません。
川端の尾張屋は、菅江真澄が初めて能代へ来たとき草鞋を脱いだ家で、当主は伊藤八兵衛でした。この八兵衛が真澄に語ったのが発端(ほったん)で、真澄の地誌「雪の出羽路-平鹿郡9」〇熊野権現ノ宮(全集6巻)に「三才図會の選者は浪速(なにわ)の寺島良庵なり。良庵は山本郡能代の湊の産伊藤の良玄の弟子にて、図會編集の時、天象の部また出羽の国の部は医家伊藤良玄のかける由。良玄の玄孫なる八兵衛の物語に委曲(つまびらか)に聞こえたり」とあります。
年代がくだって、旧秋田藩士石井忠行の随筆(明治10年9月~同13年2月筆)「伊頭園茶話(いずえんさわ)」巻20には真澄の地誌から引用したと明記して、ご丁寧にも原文にはない「也」を挿入して「寺島良庵山本郡能代の産也(◎)伊藤良玄の弟子…」と誤って転用しました。その当侍、真澄筆の原本は佐竹家所蔵でしたので簡単に照合もできなかったでしょうから、石井忠行をあまり攻めるのも気の毒です。
真澄は「能代の産」は伊藤良玄の形容句のつもりだったのでしょうが、「能代の産]の次に 「也」の文字を挿入したのでは文意が変わって、良安は能代人になってしまいました。
安藤和風が「寺島良安の能代人」説を主張したのは、1回や2回ではありません。大正11年(1922)7月の魁新報学芸欄「秋田の10大著述家」にも時雨庵の筆名で書いています。執筆に当って能代の八幡神社の渟城栄和宮司に意見をただしたらしく、その回答も次のように添えています。「尾張屋は能代の問屋ですが、その株を谷内家に譲って土崎に移り、良安はこの家の出身です」とありますが、実際の会話はどんなであったのかはわかりません。会話といえば、尾張屋の伊藤八兵衛は菅江真澄に実際どのように話したのでしょうか。また伊藤良玄という医者が実存したかどうか、現在のところ不明といいます。寺高良安が伊藤良玄の弟子であるという話も根拠があやしいことになりそうです。真澄の文章によると[良玄の玄孫が八兵衛」ですが、八兵衛が自分の先祖を誇張して語ったことが、そもそもの「倭漢三才図會略」の編者は能代人説を生んだのではないでしょうか。せっかく能代人が鼻を高くできるところでしたが残念でした。


(12:00)

2010年12月16日

能代奉行武藤七大夫の町絵図の一部市民プラザのブックフェアで、20年前に発刊された能代の歴史ばなしという本に出会いました。温故知新という言葉があります。能代の歴史を紐解きながら、これからのまちづくりを考えていきたいと思います。コメントなどお寄せいただければ幸いです。

15 能代奉行武藤七太夫

歴代の能代奉行のうち武藤七太夫正甫(まさなみ)は近世中期に最も永く勤務した人です。元々この人は武藤家6代目で、父正幸(まさたか)は松江(島根県)藩主松平直政の家臣でした。ところが寛永元年(1661)佐竹藩主3代目義処(よしずみ)に直政の三女鶴姫が輿入(こしい)れしました。花婿25歳、花嫁は13歳だったといいます。幕府のおぼえ良からぬ佐竹藩としてはせめて家康の曾孫(ひまご)と縁組みし徳川家との接近を狙ったのでしょう。この輿入れのとき、正幸はお納戸役として鶴姫に随行して来秋し、以後武藤氏は代々佐竹家臣となりました。
佐竹義処は歴代藩主と同様、江戸屋敷での生活が多かったらしく、従って武藤正幸も江戸屋敷留守居役、側用人(そばようにん)としての勤めも長かったようです。正幸は正峯と改め順故と号しました。知行は350石。正徳3年(1713)没。77歳。
義処夫人となった鶴姫は宝明院と呼ばれ、20歳のときに生まれた長女をはじめ2男6女に恵まれましたが、35歳の若さで江戸屋敷で没しました。法名は宝明院殿仙巌宗鶴大姉です。
正甫は初め藩主義処の側小姓(そばこしょう)に取り立てられ、元服して側用人として仕え、その後32歳のときに本方(もとかた)奉行に登用されて能代奉行を兼任したのです。そのころはまだ武藤豊太夫と称し七太夫と改めたのは5年後の享保2年(1717)です。正甫が能代奉行に任ぜられたのは正徳2年(1712)、越後屋太郎右衛門が砂留め普請を始めた年です。1年遅れて越前屋久右衛門も協力を始めました。また宝永の第2次大地震から8年目で復興がまだ終わっていなかったことと思われます。
能代奉行の1人常勤制になったのが享保7年(1722)です。その後享保、元文、寛保、延享と経て没年の寛延2年(1749)までの38年という長い間、正甫は能代奉行を勤めました。さらに息子の七太夫も明和3年(1766)から5年半能代奉行を勤めました。いまの自治法による首長の任期に当てはめると、父親が9期半、息子が1期半です。
寛保3年(1743)の寛保の大火も七太夫の任期中です。万町2、3丁目と鍛冶町の各一部を残して能代が全焼した大火でした。山王社縁起にもある大火ですが、町中に猿が出現し、人々が追い回わすと屋根伝いに逃げ回わって、山王社境内に姿を消したといいます。ところが、火の手は猿の逃げ回ったとおりに延焼したといいます。この復興は老奉行の肩にのしかかったことでしょう。寛延2年(1749)、七太夫は古稀を祝いました。その2月9日医師柏木昌益に数10点に灸をすえてもらった翌日から中風(ちゅうぶ)の症状を呈し、次第に重くなり、久保田の本邸に帰って4月10日に亡くなりました。能代では全町3日間の鳴り物停止を実施して弔意を表わしました。法名は遺言によって「心光院念誉正甫居士(ねんようじょうほうこじ)」としました。



(12:00)

2010年12月15日

国指定史跡檜山城跡市民プラザのブックフェアで、20年前に発刊された能代の歴史ばなしという本に出会いました。温故知新という言葉があります。能代の歴史を紐解きながら、これからのまちづくりを考えていきたいと思います。コメントなどお寄せいただければ幸いです。

14 多賀谷宣家(のぶいえ)の周辺

佐竹氏が秋田に遷封された時檜山城に最初に配されたのは、小場義成(おばよしなり)でした。小場氏は佐竹氏の一族で佐竹西家ともいいました。小場氏は檜山城代として約6年間勤め慶長13年(1608)に大館城代に転じ、その後任に仙北郡白岩城の多賀谷宣家が着任しました。宣家(のぶいえ)は藩主義宣の4弟、母は伊達晴宗(はるむね)の娘宝寿院だから輝宗(てるむね)と兄妹、従って佐竹義宣、多賀谷宣家らは伊達政宗とは従兄弟同士です。
宣家は慶長3年(1598)に下妻(常陸)城主多賀谷重経(重経)の養子となりその娘を妻にしました。その2年後の慶長5年(1600)7月徳川家康は上杉討伐のため小山に軍を進め佐竹、多賀谷に合流を促します。ところが義宣はひそかに家康の本陣が白河に入ったら上杉景勝(かげかつ)と家康をはさみ打ちすべく、重経もまた家康が小山を発したら兵を挙げる約束でしたので、義宣も重経も病と称して動きません。家康は使者を送って不参加を責めたので、重経はことの露見をおそれ、ひそかに下妻を脱出して武蔵の府中に身を潜めました。
その2ヵ月後に関ケ原役です。石田方が敗れて佐竹方の陰謀も失敗に終りました。重経も降伏を申し出なかったため欠席裁判のうえ庶民に下し生涯蟄居、近江の井伊家お預け、下妻領6万石は没収となりました。
一方、豊臣方に終始した真田幸村は、大坂夏の陣で戦死し、妊娠中の妻隆清院殿と娘お田(でん)は徳川方に連行されました。しかし幸村の兄信之の計らいによって京都梅小路家にお預け、お田は人質として大奥勤めとなりました。その後3年お田の年季も明けて京都の母を訪ね、初めて見る弟幸信とともに母子再会を悦び合ったといいます。お田は16歳でした。
秋田藩主佐竹義宣は多賀谷宣家を従えて京都に上りました。宿所の朝、裏手で女衆の掛け声が聞こえてきました。宿の給仕に出る娘がりりしい装束をつけて他の女衆に薙刀(なぎなた)の指南をしているのです。娘の気高い容姿に感じ入った義宣は身元を聞き質(ただ)して幸村の忘れ形見と判りました。さっそく弟宣家の側室に迎えました。宣家の妻とは琴瑟(きんしつ)相和せず別居生活を続けていたのでした。
寛永5年(1628)、佐竹宗家の後嗣に亀田の岩城義隆が当てられ、亀田2万石の後嗣に檜山城主多賀谷二世重隆が命じられ、重隆がまだ2歳の幼少のため宣家も一緒に岩城家に入り宣隆(のぶたか)と改名しました。お田も亀田へ同行して顕性院殿と称し日蓮宗に帰依し彼女の創建した顕性山妙慶寺には遺愛の日蓮上人木像と薙刀が伝えられています。重隆は長じて歴代領主中の明君と仰がれ、さすがに顕性院殿の子どもにふさわしいといわれました。
宣隆(のぶたか)は寛永12年(1635)山形城在番を命ぜられ、従五位下但馬守に叙され、番代勤め30年、老後は隠居所に入り88歳まで長生きしました。多賀谷氏は横手の戸村隆経(たかつね)が継ぎました。


(12:00)

2010年12月14日

秋田御前の五輪の塔市民プラザのブックフェアで、20年前に発刊された能代の歴史ばなしという本に出会いました。温故知新という言葉があります。能代の歴史を紐解きながら、これからのまちづくりを考えていきたいと思います。コメントなどお寄せいただければ幸いです。

12 檜山生まれの戦国武将

安東(安倍、秋田)実季(さねすえ)は檜山生まれの戦国武将です。天正4年(1576)に生まれて慶長3年(1598)までは檜山で生活したようです。後年の勇猛才知、文武に秀でた武将の人格は檜山で育(はぐく)まれました。その後土崎に湊城を築いて本拠地を移し、さらに慶長7年(1602)には佐竹氏の秋田移封にともなって常陸(ひたち)の宍戸(ししど)城5万石に移されました。実季26歳のときです。
今の茨城県友部町にあった宍戸城の城主として29年間過ごした実季は、55歳を目前にした寛永8年(1631)正月、突然幕府から召喚され、老中酒井忠勝と土井利勝から宍戸城の没収を申し渡されて、夏には伊勢国朝熊(あさま)の永松庵へ蟄居させられます。これは実季には何もかも理不尽な事態でしたが、実は没収申し渡しの数日前に、実季の長男俊季に対してひそかに老中から宍戸5万石の知行の内意が伝えられていたのでした。
突然の城主交替の報に、その理由を詮索するさまざまの説が流布(るふ)しました。実季が隠れ切支丹であるという説、宍戸の龍穏院跡に幕府無認可の新城造営を図ったという説、あるいは領内に頻発した百姓一揆の責任を間われたとの説-。
しかし、領地没収には幕府側の思惑がのぞかれます。宍戸藩の隣りは徳川御三家の1つ水戸藩領です。外様(とざま)大名である実季をお膝下から退け、藩頷の拡大をはかることは、お上(かみ)にとって好都合です。しかしそうむやみに転封もできません。
ところが幕府にとって恰好(かっこう)の理屈が出来(しゅったい)しました。実季・俊季父子の不仲です。
実季の正室円光院は幼児から淀君に育てられ、秀吉の命により実季と結婚して生まれたのが俊季です。また円光院に仕えた瑞峰院と実季の間に季次(すえつぐ)が生まれました。季次は長じて2代将軍秀忠の小姓となり、主君から志の一字を拝領して志季と改名しました。実季はこの忠季を跡継ぎにする意向と噂されていましたが、忠季は寛永元年(1624)城中で小納戸役(おなんどやく)に殺害されてしまいます。真相は不明です。
俊季と忠季兄弟の跡目争いは、忠季の死去によって自然解消しましたが、宍戸城の実権は次第に俊季に移っていたようです。城没収の幕府の裁断はこうした情勢を見究め、暗に俊季を支持してなされたものと思われます。
朝熊蟄居後残年28年間の実季は、武将というより趣味人として評価されそうです。晩年の研究業績をまとめた文献が残されていますが、内4分の1は塗粧に関する論考で、「春慶塗之事]「留春慶之方」とあるのも目を引きます。
宿敵最上義光(よしあき)が家康に通じて57万石を手に入れたものの彼の死後瓦解するさまを見届け、また5人の妻、9人の子のうちの8人を見送って万治2年(1659)実季は83歳で波乱万丈の生涯を閉じました。


(12:00)

2010年12月13日

実季の墓石市民プラザのブックフェアで、20年前に発刊された能代の歴史ばなしという本に出会いました。温故知新という言葉があります。能代の歴史を紐解きながら、これからのまちづくりを考えていきたいと思います。コメントなどお寄せいただければ幸いです。

12 檜山生まれの戦国武将

安東(安倍、秋田)実季(さねすえ)は檜山生まれの戦国武将です。天正4年(1576)に生まれて慶長3年(1598)までは檜山で生活したようです。後年の勇猛才知、文武に秀でた武将の人格は檜山で育(はぐく)まれました。その後土崎に湊城を築いて本拠地を移し、さらに慶長7年(1602)には佐竹氏の秋田移封にともなって常陸(ひたち)の宍戸(ししど)城5万石に移されました。実季26歳のときです。
今の茨城県友部町にあった宍戸城の城主として29年間過ごした実季は、55歳を目前にした寛永8年(1631)正月、突然幕府から召喚され、老中酒井忠勝と土井利勝から宍戸城の没収を申し渡されて、夏には伊勢国朝熊(あさま)の永松庵へ蟄居させられます。これは実季には何もかも理不尽な事態でしたが、実は没収申し渡しの数日前に、実季の長男俊季に対してひそかに老中から宍戸5万石の知行の内意が伝えられていたのでした。
突然の城主交替の報に、その理由を詮索するさまざまの説が流布(るふ)しました。実季が隠れ切支丹であるという説、宍戸の龍穏院跡に幕府無認可の新城造営を図ったという説、あるいは領内に頻発した百姓一揆の責任を間われたとの説-。
しかし、領地没収には幕府側の思惑がのぞかれます。宍戸藩の隣りは徳川御三家の1つ水戸藩領です。外様(とざま)大名である実季をお膝下から退け、藩頷の拡大をはかることは、お上(かみ)にとって好都合です。しかしそうむやみに転封もできません。
ところが幕府にとって恰好(かっこう)の理屈が出来(しゅったい)しました。実季・俊季父子の不仲です。
実季の正室円光院は幼児から淀君に育てられ、秀吉の命により実季と結婚して生まれたのが俊季です。また円光院に仕えた瑞峰院と実季の間に季次(すえつぐ)が生まれました。季次は長じて2代将軍秀忠の小姓となり、主君から志の一字を拝領して志季と改名しました。実季はこの忠季を跡継ぎにする意向と噂されていましたが、忠季は寛永元年(1624)城中で小納戸役(おなんどやく)に殺害されてしまいます。真相は不明です。
俊季と忠季兄弟の跡目争いは、忠季の死去によって自然解消しましたが、宍戸城の実権は次第に俊季に移っていたようです。城没収の幕府の裁断はこうした情勢を見究め、暗に俊季を支持してなされたものと思われます。
朝熊蟄居後残年28年間の実季は、武将というより趣味人として評価されそうです。晩年の研究業績をまとめた文献が残されていますが、内4分の1は塗粧に関する論考で、「春慶塗之事]「留春慶之方」とあるのも目を引きます。
宿敵最上義光(よしあき)が家康に通じて57万石を手に入れたものの彼の死後瓦解するさまを見届け、また5人の妻、9人の子のうちの8人を見送って万治2年(1659)実季は83歳で波乱万丈の生涯を閉じました。


(12:12)

2010年12月12日

檜山浄明寺に保存されている実季の書状市民プラザのブックフェアで、20年前に発刊された能代の歴史ばなしという本に出会いました。温故知新という言葉があります。能代の歴史を紐解きながら、これからのまちづくりを考えていきたいと思います。コメントなどお寄せいただければ幸いです。

11 崇源院殿(すうげんいんでん)のこと

現代に生きる私どもにとって別世界の人間に思われがちな小説のヒロインも、案外に身近な歴史にかかわっていることがあるもののようです。
杉本苑子の歴史小説「月宮(つきのみや)の人」が朝日新聞に連載されました。この小説は、徳川二代将軍秀忠を中心に描かれています。
ところで徳川秀忠の正室は有名な淀君の2番目の妹で崇源院殿(すうげんいんでん)といわれた方です。父は浅井長政、母は美女のほまれ高いお市(いち)の方です。お市の方(かた)は織田信長の妹です。戦国の世の政略結婚の犠牲にされて浅井長政に嫁して3女2男をもうけたのです。それがのちの淀君ら3人娘でした。その後、織田、徳川対浅井、朝倉が戦った姉川の合戦で浅井方が敗れ二男は傷ましく殺され、お市の方は娘3人とともにかろうじて織田方に保護されました。
その後、お市の方は娘3人を連れて柴田勝家に再婚させられました。その後さらに、本能寺の変で信長自刃、あとをついだ豊臣秀吉は柴田勝家と不仲になり賎ケ岳(しずがだけ)の戦いで勝家が敗れて自刃、お市の方は娘たちを脱出させてから勝家に殉じました。
娘たちは秀吉に保護されて成長し、のちに長女は秀吉の側室淀殿となり、二女は小浜城主のちに大津城主京極高次(たかつぐ)夫人、三女お江(ごう・NHK「春日局]では、お江はお江与と呼んでいます。)徳川秀忠夫人つまり崇源院殿になりました。
お市の方の妹お犬の方は、初め佐治氏に嫁したが夫が戦没し秀吉の元に戻って、次に京都の細川昭元と再婚しました。ここで生まれた1女が、のちの秋田実季(さねすえ)夫人円光院殿です。つまり実季夫人は信長の妹の娘だから姪(めい)に当ります。お犬の方も円光院殿を生んで間もなく死んだので淀君が引き取って保育したといいます。そして成人したので淀君は嫁入先について秀吉に相談しました。秀吉は言下に実季に嫁することを命じたといいます。
円光院殿の新居は京都であったらしく、系図には京都で長男俊季と三男季信(すえのぶ)が生まれたと記されています。円光院殿もまた若死し、実季の居城土崎の湊城にも檜山城にも来た形跡がないようです。
また実季の妹秋田局(あきたのつぼね)は、崇源院殿つきの侍女を勤めそのほか俊季が三春藩主に移る時に5千石加増されたことや、俊季の弟季次(すえつぐ)は将軍秀忠の近臣に取り立てられたほか、将軍から「忠」の1字を贈られ「忠季」と改名しました。またその弟の季信は3代将軍家光の直臣に取り立てられましたが、このような殊遇を受けられたことは、すべて崇源院殿の配慮によるといわれています。
檜山安東氏すなわち秋田氏が譜代大名なみに遇されていたことの大半は崇源院殿のおかげかもしれません。


(12:00)

2010年12月11日

茶臼館跡市民プラザのブックフェアで、20年前に発刊された能代の歴史ばなしという本に出会いました。温故知新という言葉があります。能代の歴史を紐解きながら、これからのまちづくりを考えていきたいと思います。コメントなどお寄せいただければ幸いです。

10 茶臼館(ちゃうすだて)の住人

国の指定史跡「檜山安東氏城館跡」の1つに「茶臼館跡」があります。檜山城を本城として茶臼館は支城の1つとみられています。しかし現在のところ、茶臼館に関わる文献は皆無に近いといいます。檜山安東氏の4代目愛季(ちかすえ)の父舜季(きよすえ)が檜山城主のころ茶臼館を築城したと記した青森の文献かありますが、肝心の年代の記載がありません。
菅江真澄の遊覧記「霞むつきほし」の檜山の里を描いた絵の説明文にも「檜山の里の西なる茶碓(うす)館信といふあり。誰かいつの世すみしとさらにしりけん人なし。いまくだけたる茶臼を神とや斎(いわ)ふ鶏栖(けいせい・鳥居)をたてり。この館のあとにのぼり桜の真盛(まっさかり)なるをひとめに見やりたるさま、たぐふかたなし云々」と書いていますが、その当時も住人が誰であったのか、伝説からも忘れ去られていたようです。
ところが青森県浪岡町に檜山の茶臼館にかかわるロマンが伝えられていました。浪岡城主の北畠顕村(あきむら)は大浦為信(ためのぶ・のちの津軽藩初代)に攻められて天正6年(1578)に「ふるさとを夢にいで来(こ)し道芝の露よりもろきわが命かな」という和歌を遺して自決し、北畠氏は滅んだと津軽の歴史書に書かれています。この北畠顕村(あきむら)の奥方が檜山城主、安東愛季の長女で実季の姉です。
自決したはずの顕村(あきむら)には身替(みがわ)りがあって顕村夫妻は嗣子慶好(よしたか)を連れてまんまと逃げのびて檜山の愛季の元にきたというのです。愛季は顕村夫妻に知行3700石を与えて茶臼館に住まわせて家老扱いにしたといいます。いままでは浪岡城主であった人が、檜山へ来てからは安東氏の家臣になりさがったわけですが滅亡の恪印(らくいん)を押されることなく済んだのです。そして顕村は弾正(だんじょう)となり、慶好(よしたか)は右近と名前を改めています。
その後いくばくもなく北畠弾正は逝去したらしく、その後を継いだ右近は男鹿の岩倉城主に転じ、以後は岩倉右近と呼ばれるようになりました。安東実季の弟英季(ふさすえ)が大館城主になったときは、幼い城主の補佐役として岩倉右近が赴任しています。このことは「秋田沿革史大成」という書物にも書かれています。この書物は能代港の戸長を務め、中川原開発や港の改修にも功績を残したといわれる橋本宗彦が執筆し明治31年に刊行しています。なおこの「沿革史大成」によりますと、実季(さねすえ)と慶好(よしたか)は連歌をたしなみ、その百韻(いん)を増田町の人が所蔵していると記されていますが、これも現在は行方不明のようです。残念なことです。私ども文化財にかかわっている者としては諦めきれないものがあります。もうひとつこの「沿革史大成」に大高相模守が茶臼館に住んでいたと書いてあります。恐らく安東実季が土崎へ移って檜山が奉行地になっていた慶長7年(1602)までのことと思います。


(12:00)

2010年12月10日

安東氏(安倍・秋田)氏系図市民プラザのブックフェアで、20年前に発刊された能代の歴史ばなしという本に出会いました。温故知新という言葉があります。能代の歴史を紐解きながら、これからのまちづくりを考えていきたいと思います。コメントなどお寄せいただければ幸いです。

9 檜山安東氏の時代

檜山安東氏城館跡が国の史跡に指定されたのは昭和55年3月、文化財保護審議会がその保存と活用について答申したのが翌年4月でした。その後大館台地の公有地化の見通しがついた段階で、能代市の保存管理計画も策定されました。しかし、檜山安東氏とは誰から始まり誰までをいうのか、檜山城址にはどこにどんな施設があったのかなど、未だ判っていないことも多いのが実情です。まず、檜山安東氏は誰が初代かについて取り上げてみましょう。
「能代市史稿」は忠季(ただすえ)を檜山一世としています。
「檜山郷土史稿」も忠季を一世としていますが、政季(まさすえ)を檜山城主元祖と記しています。これは三春町龍穏院所蔵の安倍家系図によったのでしょうが、元祖と一世の違いは判然としません。近刊の「秋田安東氏研究ノート」も忠季を檜山一世としています。
ところが「東日流外三郡誌(つがるそとさんぐんし)」には「檜山築城之事」の表題で次のような異説を唱えています。
「…淳代なる米代川を登る処に檜山とぞ称する要害の地ありて安倍康季(やすすえ)が城柵を築かんとせしは嘉吉(かきち)元年(1441)の頃とぞいうなり。檜山の地は全山要害の地位備わり。享徳元年(1452)是を落慶せしめたり…」とあります。仮にこれが正確だとすれば、檜山一世は康季になりそうです。康季は忠季の三代前で、小浜市の羽賀寺(はがじ)縁起や安倍家系図によると後花園天皇の勅命によって、永享8年(1436)に前年焼失した羽賀寺本堂を再建したとされ、十三湊(とさみなと)に居たころは日之下将軍(ひのもとしょうぐん)と称せられたといわれます。しかし安倍家系図では、康季は嘉吉元年(1441)2月12日に没したとなっており、系図が正しいとすれば前掲の三郡誌の康季築城の事実には無理があると思われます。
同誌は「嘉吉元年、康季は檜山に菩提寺蒼龍寺を建立。三門の主柱には生けるさながらの双龍を彫刻し本堂は永平寺の釈迦堂にならって造り…」ともあります。ところがどうしたことか、3年後の文安元年(1444)同じ康季が土崎に蒼龍寺を建立したという記述もあるのです。
確かに同名の寺が土崎港中央1丁目に現存していますが、この寺は安東氏ゆかりの寺ながら、はじめ湊福寺といった寺が宍戸へ移ったあとに開かれた寺です。無住の荒れ寺であったのを土崎上酒出町の孝庵策電という人が復興を回り、光明寺4世月関領鶴和尚を招いて開山としたそうです。
結局「東日流外三郡誌」の檜山築城之事などの記載は、信憑性(しんぴょうせい)において問題がありそうに思われます。松前家の歴史を記した「新羅(しんら)の記録」ではやはり忠季が檜山築城となっており、諸資料を合わせて考えると、忠季(ただすえ)-尋挙(ひろすえ)-舜挙(きよすえ)-愛季(ちかすえ)-実季(さねすえ)の5代、実季が土崎湊城を築いて移るまでの103年間が、檜山安東氏の時代だったとみたらどうかと、私は考えています。


(12:00)

2010年12月09日

富町・横町全域図市民プラザのブックフェアで、20年前に発刊された能代の歴史ばなしという本に出会いました。温故知新という言葉があります。能代の歴史を紐解きながら、これからのまちづくりを考えていきたいと思います。コメントなどお寄せいただければ幸いです。

8 明治初期の富町町内

能代市富町の山木正成さん宅で明治初期の富町~横町の全域図が見つかりました。作製年代の記載はありませんが、全戸主の氏名に苗字がある点から判断して、平民の苗字公称が許可された明治3年9月以降の作製と見られます。あるいは明治5年2月のいわゆる壬申戸籍(じんしんこせき)の発布以降の作製かもしれません。いずれ明治初期の富町と横町の全域の戸生名と表口(おもてぐち・間口)、奥行きを記した貴重な地図です。
この地図に有名人が多いことが目につきます。その一人が堺良介です。家業は酒造業、屋号が南部屋、慶応4年(1868)5月、沢為量卿(さわためかずきょう)一行が能代へ来たとき、能代の首長として接待役をつとめた人でした。その後新町のガマ北岸に移りました。南部屋の向かいが小林吟右衛門(ぎにもん)、のちの能代港町々長小林徳太郎家です。ここから大町に引っ越したのはいつだったのかはっきりしません。
富町と横町との北西角(かど)、現在の泉タバコ屋さんの位置は、旧藩時代は砲術家熊谷氏の住居でしたが、この地図では甲斐藤左衛門となっています。熊谷宗ものちに大町西端の南側に移っています。歌人直安、直秀、筆者の恩師直元、元能代高教頭熊谷忠一各氏の家です。能代春慶の山打三九郎の住所も判明しました。すなわち前記の甲斐藤左衛門の裏の幅5尺5寸(1.6メートル余)の小路を隔てて横町方面へ2軒目が宮越五左衛門持地(もちち)、借地山打三九郎とあります。表ロ(おもてぐち)1丈4尺(4.2メートル余)と記されています。富町本通りの東側には山打三之助かいます。能代市の古い戸籍によると、三之助は三九郎の養子で、同町内の向い側にいる伊勢吉左衛門の出自(しゅつじ)であったと思います。三之助の次の代に中川原に移り、明治末期に峰浜村などへ移ったようです。山打氏が能代春慶の家元的栄光を放棄した事情はわかりません。
富町の横町からの突き当り付近に高橋与八郎がおります。屋印がヤマに油の字を配し、ヤマアブラと通称されていました。間口10丈1尺(30.6メートル余)という大商店でした。なおマルアブラこと高橋彦左衛門商店も間口7丈5尺(22.7メートル余)の店構えで、畠町のカクアブラこと高橋彦司とともに能代の代表的な商店だったようです。
このヤマアブラの南隣りに金谷勇助とあるのも興味があります。現在の柳町の料亭「金勇(かねゆう)」の初代です。この人が八幡神社の南側に建設した演芸館「米代座(よねしろざ)」は回り舞台や花道を備えた劇場でした。その支配人は平沢治助といいましたが、平沢治肋はこの町内図では金谷勇助のすじ向かいでした。
ところで前記ヤマアブラの跡は能代第一の富豪大久保忠左衛門が譲り受けて豪奢(ごうしゃ)な邸宅に改装しました。数年後、それを秋田木材KKが買い取って社員のクラブ偕楽社(かいらくしゃ)として利用しました。更に30数年後には秋田県と能代市の木工指導所に変わり、現在は秋田観光タクシーに変わっています。激しい変化です。(※その後、能松駐車場となっています。)

(12:00)

2010年12月08日

東講商人鑑の写し市民プラザのブックフェアで、20年前に発刊された能代の歴史ばなしという本に出会いました。温故知新という言葉があります。能代の歴史を紐解きながら、これからのまちづくりを考えていきたいと思います。コメントなどお寄せいただければ幸いです。

7 135年前の商店界

安政2年(1855)は、あと13年たてば明治です。この年江戸で刊行された「東講(あずまこう)商人鑑(かがみ)」と題する小冊子があります。現代風にいうとB6判70枚つづりの旅行案内東日本の巻とでもいいましょうか。あらかじめ東講に加入すればこの冊子に登載され、「東講」の看板を交付されるので、旅行者はこの看板のある店を目印にして行けば安心して宿泊や買い物ができる仕組みのようです。加入率は不明ですが、有名商店は網羅されているのではないかと思われます。
能代の場合は「羽州山本郡秋田領能代湊、諸商人細見」の表題で、44の商店を3段組みに印刷しています。その他1ページ大の全町図を加え、それには諸国商人宿小野孫右衛門、北村菊兵衛、業種は不明ですが勝長清右衛門、鶴屋羽右衛門、古屋八郎兵衛、それに浜茶屋5軒も名を連ねています。
少し煩雑になりますが44軒を掲載順に並べてみます。
廻船問屋は大町の小玉五兵衛、同市右衛門、谷内孫左衛門、清水九兵衛、川反町の越後屋太郎右衛門、万町の伊勢屋新三郎、清助町の野田清十郎、越中屋与惣左衛門。町名なしの平川文左衛門、廻船小宿が清助町の大坂屋庄左衛門と末尾の前の越後屋七郎左衛門です。
次は大町の国御用おまんじゅう桔梗屋惣右衛門。万町の国御用春慶御細工所石岡庄寿郎、富町の国御用春慶塗細工司山打三九郎。畠町の丸散薬種所中島屋宗助。富町の国御用御飴所平沢治助。上町の小間物卸売中島屋貞四郎、長慶寺小路の角屋与吉郎。富町の油酢醤油の油屋彦左衛門、酒造店堺陽七。畠町の万(よろず)小間物店大渕間兵衛。富町の酒造店油屋与八郎、油太物(ふともの)店八百屋久右衛門。畠町の太物古手(ふるて)酒酢醤油店相沢屋太助、木綿古手類大坂屋三五郎。上町の金物小間物店越中屋又五郎、酒造店今立兵十郎。中町の穀物太物酒造店西村正右衛門。畠町の太物古手店今立兵四郎。油酢醤油太物古手店納屋吉右衛門。万町の紙荒物丸散薬種店川口屋治兵衛、小間物卸売角屋勘十郎。畠町の太物古手店相沢屋治右衛門。幸町の太物油荒物平川孫兵衛。畠町の酒造店油屋彦司。町名なし灯心卸店越後作助。上川反町の土焼瀬戸大白焼瓶玉座纒御払座相沢屋勘右衛門。畠町の御膳御飴所桔梗屋吉太郎。清助町の廻船附舟宮越屋万古、同石戸屋勘太郎、同米沢燈源八、同安宅四五兵衛、同酒田屋甚兵衛、清助町の下船小宿越中屋長兵衛で終わっています。
同じ港町でも土崎に9軒もある導船が能代には1軒もないのも不思議です。また土崎には廻船小問屋が12軒もあるのに能代には廻船小宿が2軒だけというのも不思議です。
商売の表現や機能について、現在では不明のものも多く、太物古手は古着屋でしょうか。不明の多いのは135年の年代の隔たりの故でしょう。

(12:00)

2010年12月07日

渟二小グラウンドの西南角からの家並み市民プラザのブックフェアで、20年前に発刊された能代の歴史ばなしという本に出会いました。温故知新という言葉があります。能代の歴史を紐解きながら、これからのまちづくりを考えていきたいと思います。コメントなどお寄せいただければ幸いです。

6 赤館町かいわい

能代市役所の西南から旧赤館町の西南部にかけて、広い地域にわたって、かつては湿地あるいは沼地であったことが「代邑聞見録」でも明らかです。とくに現在の能代病院南側に広がっていた通称「新町のガマ」は、旧西光寺裏手のガマや大政家の前のガマと元来1つの広いガマであったようですが、明治25年秋に開通された国道工事に伴う埋め立てによって3分されたのです。能代を貫通する初めての国道が秋田方面から柳町新道~大町~上町~畠町を通って東能代に技けるというコース(国道7号)に決まるまでには町民大会が開かれたりもしています。
これまでも度々記した「代邑聞見録」は江戸中期、能代奉行所の下代(しもだい)役宇野弥一右衛門親員(やいちえもんちかかず)の執筆したものですが、これには赤館町のできたのは宝永年聞(280年ほど前)と記しています。同書には次のようにあります。
「赤館町は旧(もと)湿地にて沼あり。霖雨(ながあめ)の時は必ず水溢れ、柳町往還絶えける事度々(たびたび)あり。昔は野代給人(きゅうじん・能代に居る武家の使用人)は多賀谷左兵衛殿組下(くみした・家臣)ばかり成(なり)しに(中略)宝永年中松野源五郎殿組下檜山より移置(うつしお)かれ……」
「西光寺後稲荷社地向いも湿地成(なり)しに、御下代(しもだい・能代奉行の下役、ゲダイともいう)伊藤杢右衛門屋鋪(やしき)無之、正徳年中依願被割下(ねがいによりわりくださる)。後に沼ありて裏間数少なきにより、西光寺後土堰際(うしろどせききわ)より柳町裏間の外(そと)迄、無残被割下(のこりなくわりくださる)。享保13戊申(つちのえさる)、霖雨にて柳町より押来る水、杢右衛門後(うしろ)沼より溢(あふ)るる水、稲荷屋敷、西光寺土堰半分水下に成、往還難成(なりがたし)、給人屋鋪(やしき)も西北角より34軒水下になりけり。湿地故雨晴日数有て右水引(ひく)事なし。或者さらいとやらん忠進して水を汲捨(くみすて)けるに漸(ようやく)往還も成(なり)き・・・」
以上のように、湿地に造成した土地であり、沼で囲まれているために、度々水害を被っていたようです。
時代が下って昭和初期に和田�貎浦(おうほ・西光寺の先々代住職)の執筆した「西光寺史」の一節には「……不毛の地2218坪を乞い受けて湿地を埋め土地を平らにし自費開拓して堂宇(どうう)を移し……」とあります。これが寛文6年(1666年)のころといいますがらいまから324年前です。
「赤館町」の名称は、初めここに住んだ人々が檜山の赤館町出身だったことから名づけられたのでしょう。しかし住人の顔ぶれが年々変わってきているのは当然です。
享保13年(1728)作成の絵図では、町の東から順に、中田主鈴、中田五兵衛、大鐘主税、白坂杢助、佐良土一平、瀧田市兵衛、中田十兵衛、磯野治助、中田甚兵衛、吉田伝六です。また文化2年(1805)ごろの作成といわれる県立秋田図書館所蔵の絵図には同じく東から中田長蔵、石川権六、中田安五郎、嘉藤田文馬、白坂新九郎、鈴木道之亟、瀧田東馬、佐々木道也の8軒の名が記されています。


(12:00)

2010年12月06日

能代市街図(井坂記念館収蔵)市民プラザのブックフェアで、20年前に発刊された能代の歴史ばなしという本に出会いました。温故知新という言葉があります。能代の歴史を紐解きながら、これからのまちづくりを考えていきたいと思います。コメントなどお寄せいただければ幸いです。

5 能代市街の変遷

能代の市街絵図は、享保(きょうほう)13年(1728)に作成されたものが、井坂記念館に収蔵されています。現存する最古のもので、いまから262年前の能代の市街の姿を見ることができます。現物の寸法は縦106センチ、幅172センチの軸装(じくそう)で、これは庄屋三嶋勘左衛門(かんざえもん)、村井専右衛門(せんえもん)が調製し能代奉行武藤七太夫を通じて藩に提出したものの控え図です。
町は時代とともに膨張し周辺へ拡がっていきますが、能代の町の区割りや道筋等のおおすじは、享保時代も現在も格段に違ってはおりません。
変わった点といえば、柳町新道、大町新道ができ、疎開道路が設けられ、萩の台の墓地公園ができたことがまず上げられます。それらはいずれも明治以降の変化です。柳町新道は明治25年(1892)の国道開通に伴って開通した路線で、大町新道は明治33年(1900)の願勝寺火事のあとの火災善後策の1つとして新設された路線です。俗称疎開道路はその名のとおり太平洋戦争の遺物です。畠町から柳町へ下るたっぺの坂を真直ぐに付け替えたのも同じころです。
昭和初期の出戸沼埋立てによる昭南町の誕生ということもあります。出戸沼は菅江真澄遊覧記には波耆能乃沼(はぎののぬま)として登場しています。萩の台の墓地公園の造成は第一次大火後の都市計画で中心部にあった寺院をすべて萩の台に移す構想によったものです。これが一番の変革でしょうか。
沼といえば能代はガマの多い町でした。国道開通とともに元は1つのガマが西光寺のガマ、新町のガマ、大政(だいまさ)のガマと3つに区分されました。柳町のガマは幕末には南岸に芝居小屋があったようですが、そこに明治期に原口(はらぐち)医院が開業したので原口のガマと呼ばれ、原口がなくなり、東側に岸医院ができると、岸のガマとも呼ばれていました。
八幡神社の参道東側には弁天池があって風情がありましたが、戦後住吉町に下水管が埋設されると、付近一帯の地下水位が低下し、渇水して埋め立てられてしまいました。
八幡神社の南に明治中期、演芸館米代座(よねしろざ)ができました。入りロは北向き、間口(まぐち)10間(けん)、奥行き15間で廻り舞台や花道もある劇場でした。米代座の前は広大な広場で、夏には恒例の大相撲の巡業地でした。米代座の西側も細長いガマでした。この劇場は大正10年1月6日夜、映画上映中にフィルムの引火で惜しくも焼失しました。
鎌倉時代の歌人鴨長明(かものちょうめい)の言い草を借りると「たましきの都のうちに棟(むね)を並べ甍(いらか)を争える高きいやしき人の住まいは世々を経て尽きせぬものなれど、これをまことかと尋ぬれば昔ありし家は稀なり・・・住む人もこれに同じ・・」です。時代とともに変わるという点で著しいのは、道筋よりもむしろ住む人だと言えましょう。住む人の生活の中身を、きちんと書き残しておく手立てがないものでしょうか。


(12:00)

2010年12月05日

宇野親員が執筆した代邑見聞録の原本の該当ページ市民プラザのブックフェアで、20年前に発刊された能代の歴史ばなしという本に出会いました。温故知新という言葉があります。能代の歴史を紐解きながら、これからのまちづくりを考えていきたいと思います。コメントなどお寄せいただければ幸いです。

4 焼き場の移り変わり

能代の歴史書「代邑聞見録(だいゆうけんぶんろく)」は焼き場のことも記しています。それによると「昔葬送はその寺々にてありしに、風荒き処故、火難あやうく、元禄8年(1695)畑町東方後を葬場にくだされけり」とあります。のちの通称焼き場小路は295年前に始まったことがわかります。
続いて次のように記しています。「右火葬場守、西福寺道心(若い仏教の弟子)の内よりばかり移り居りける。これまた七太夫(奉行、武藤)殿仰せ立てられ『以来は何宗にても、その時々の吟味次第移し置き侯様』享保年中に仰せ付けらる」
また、「御用当座覚」の末尾には火葬場守のことを記しています。どうした縁故か刈和野の本念寺の弟子が、西福寺の支配を受けて砂山に庵室を設けたという記述です。年代でいえば享保~寛延(1716~51)のころのようです。この砂山とあるのが現在と同じかどうか不明です。
その後、文献としては明治期まで見つかりません。かつて焼き場小路にあった浄国寺の資料も見つからないようです。とにかく浄国寺は明治期に廃寺となって、八森町の資料によると、明治38年に長く徳善寺のワキ寺であった一向宗浄徳寺が浄国寺跡へ独立したとあります。 
それと前後して焼き楊は、現在のサンホーユーの東南方の五能線の西側に移りました。筆者の幼い記憶では、窯は2メートル位の方形で煉瓦積みで2基あって、窯(かま)の中央に棺を置いて周囲や上に薪(まき)や藁(わら)を山積みして四方の焚き口から点火するしくみでした。
そのころはどこの喪家(そうか)も焼き場まで葬列をつくって行くしきたりでした。夕方になると喪家では若者に「野場(のば)サ出てけらんしぇー」と、触れて廻らせ、有志と近親者が夜の焼き場へ集まって御詠歌を合唱するのでした。
現在の中和通り一帯は松が繁茂し、その中を久保田街道が通っていました。文化会館からの坂道を下って中和通りを横切って越前ビルの横を入る道は、当時の焼き場小路だと思いますが、所々に地蔵さまが立っていて昼でも物寂しい路でした。
昭和3年9月、焼き場は出戸沼西南へ移されました。この年12月、五空島田豊三郎氏も新しい窯で火葬されました。焼き場の移転とともに喪家の葬列や野場という風習も激減しています。
古くから大内田村(当時は榊村)と能代港町との境界線は、出戸沼南の山神社(さんじんじゃ)を通る東西線でした。いまのシルパー人材センター付近に山神社がありました。ところがこの神社は出戸地区の鎮守さまでした。大事な産土(うぶすな)さまが四六時中、焼き場の煙害をこうむることになったのです。そこで、村人たちの遷座運動が起こり、10年後の昭和14年、現在の出戸公園東南地に移って遷座祭が行われました。
昭和24年の大火後、萩の台墓地公園構想により焼き場も移転することになり、現在の能代市斎場と相成ったわけです。



(12:00)

2010年12月04日

屋敷願市民プラザのブックフェアで、20年前に発刊された能代の歴史ばなしという本に出会いました。温故知新という言葉があります。能代の歴史を紐解きながら、これからのまちづくりを考えていきたいと思います。コメントなどお寄せいただければ幸いです。

3 般若町のはじまり

能代の昔のことを記した代邑聞見録(だいゆうけんぶんろく)の町々覚(まちまちおぼえ)によると、能代で一番早くできた町は大町です。それは弘治2年(1556)といいますから、いまから434年前のことです。続いて5町組の親町(上町、万町、清助町、後町)ができたようです。一番新しい町は立林町の正徳年間(1711年~1715年)ですから270~80年前のことです。立林町という町は出戸町と改称されましたが、もともとは砂防林を造るための見張りをするように越後屋太郎右衛門と越前屋久右衛門に藩から下付(かふ)された町でした。
ところが代邑間見録には記されていない新しい町、般若町ができたのは寛政11年(1799)のことです。そのいきさつを記した「屋敷願諸書留(やしきねがいしょかきどめ)」が秋田市土崎の柳谷直正氏宅に所蔵されています。柳谷氏の父上は前に渟城第二小学校長であった直比古氏(故人)ですのでご存知のかたもおられるはずです。
この文書(もんじょ)によると、能代奉行所の下代(しもだい)という役目の7人が一緒になって、般若山の南の土地の無償払い下げを願い出て認可されてできた町です。初めは柳谷兵九郎と熊谷新一郎も願書に名前を連ねていましたが、勤務先が能代奉行所でない理由から除外されました。般若山つまりいまの能代公園下のタバコ屋のところから渟城第一小学校の南はずれまでを7等分し、それぞれ間口10間(18.1メートル)としました。奥行きは50間(90.5メートル)、つまり1戸分500坪(1652.9平方メートル)が無償で払い下げられました。なお奥行き50間の内西方の20間は預かり地ということでした。それにより従来鍛冶町西端から清助町東端への通り道にすぎなかったところが公道となり、住民の意思よって般若町と命名されたことも明記されています。
どの屋敷を誰の所有とするかについては、くじ引きで決めた結果、北側から順に、吉田源右衛門、金沢亀太郎、柳谷小五郎、清水和兵衛、清水甚兵衛、村水甚右衛門、村井藤左衛門の7軒の片側道でした。第一小学校と工業高校の間の俗称清水小路は当時はありませんでした。
願書には願い出の理由をしたためた“覚(おぼえ)”が添えられていますが、モれを現代文に直してみると『私どもの屋敷は町なかにありますのでいろいろ出費も多く、また家族どもも万事世聞なみに習うことになって迷惑しています」といっています。理由は薄弱なようでもあります。地価高騰の昨今の時価で評価すれば、おそらく1戸当り数千万円に及ぶ土地を無償で払い下げられたということは驚きです。
能代工業高校の税務署側の通路上に植えられている松の木について、ご存命中の柳谷直比古氏は「あの松の木は私のうちの庭の松でした。なつかしいですね」と語ったことがありました。枝ぶりに特徴のある松の木も200年近い歴史を物語っています。


(12:00)

2010年12月03日

天正18年秋田地方諸氏領知高市民プラザのブックフェアで、20年前に発刊された能代の歴史ばなしという本に出会いました。温故知新という言葉があります。能代の歴史を紐解きながら、これからのまちづくりを考えていきたいと思います。コメントなどお寄せいただければ幸いです。

2 能代の町のできたころ

いまから434年前の弘治2年といえば、西暦1556年です。この年は清水治郎兵衛政吉(じろびょうえまさよし)が姥ケ懐(うばがふところ)から大町の清水屋敷へ移った年で、代邑聞見録などの文書でもこれを能代の町づくりの始まりとしています。姥ケ懐は今の清助町4番他の西、お旅所(たびしょ)北方の松林です。清水は安東氏の家臣で能代の町支配の職にあった人ですので、この移転に安東愛季(ちかすえ)による能代の町づくりの意志を読みとることができるというわけです。
「信長公記(しんちょうこうき)」には、愛季が織田信長に鷹12羽と鷹匠、馬などを贈ったことや、信長から名刀紀の新太夫一腰(ひとこし)ならびに従五位上という位を贈られたことなどが記されており、愛季が信長やそれに続く豊臣秀吉との交流を積極的にはかっていたことがわかりますが、そうした交流を通して得られた時代の動きへの見通しが、港町能代の町づくりを促進させたと考えてもよいでしょう。
弘治2年から34年後の1590年(天正18)8月、既に小田原城を攻略し全国統一の総仕上げに取り組んでいた秀吉は奥羽各地の総検地を命じました。実際には7月に上杉景勝が大谷刑部(ぎょうぶ)を監視役として庄内、最上、由利、仙北地方の検地を、前田利家が石田三成を監視役として秋田、津軽、南部地域の検地を行いました。実施には「指し出し検地」といって、田畑を上中下の3段階に分けて反当り石高を示し、永楽銭の貫高で申請させています。仙北郡では検地に反対した農民が蜂起し、刑部の配下5、60人を殺害したといいますが、9月下旬には検地は一応終了したようです。
次は諸大名への知行の配分です。安東氏は1591年1月、秋田三郡のうち52,440石の朱印状を受けたほか、26,245石の太閤蔵入地(くらいれち・秀古の直轄領)の代官支配を命ぜられました。
さて知行他の年貢は米のほかにその地方の特産物で納める例が多く、秋田地方からは木材で納めるよう命ぜられました。大量の木材を搬出するとなると大量の人手を確保する必要があります。立木の伐採から運材、製材、船積みまで、一切を人力に頼らなければならない時代のことです。
この仕事にたずさわる大勢の人を随時動員できるようにするには、人々を集落形態で住まわせることが一番です。1キロも2キロも離れていたのでは早急な連絡はとれません。こうした要求から能代の町づくりは進められたものと思われます。しかし、太閤検地の35年も前から安東氏によって、木材を大量搬出する準備が進められていたことは注目されます。
実際に木材の船積みが行われたのは1593年で、大安宅船(おおあたけぶね・当時の軍船)1艘分を送りました。翌年は淀川を上下する淀船30艘分、その次の年は、橋板と称する平角板800間分。続いて同572間分、伏見城の補修用材855間分、同1000間分というように出荷されたのでした。



(12:00)

2010年12月02日

代邑見聞録市民プラザのブックフェアで、20年前に発刊された能代の歴史ばなしという本に出会いました。温故知新という言葉があります。能代の歴史を紐解きながら、これからのまちづくりを考えていきたいと思います。

1 能代の移り変わり

いまから1332年の昔、西暦658年、阿倍の臣比羅夫(おみひらふ)が飽田渟代(あぎたぬしろ)地方のエゾを討つために軍船180隻を率いてきたことが「日本書紀」に記されていることは大抵の能代市民がご存知と思います。
そんな昔の渟代(ぬしろ)という地方ははたしてどんなであったのだろうかと思われる方があるかもしれません。もちろん現在のような畠町だの上町、大町だのがあったはずがありません。
じつは歴史の上では能代の町づくりが始まったのは、阿倍の比羅夫の時代から898年もたった弘治2年(1556年)の年からであったといわれます。いまから434年前になります。町づくりの始まりということも、誰かが「よーいドン」と号令をかけて始まるものではなくて、自然発生的にできてゆくものです。しかし、それてはキマリがつかないので、能代の場合、最初の町支配清水治郎兵衛政吉(じろびょうえまさよし)が大町の清水屋敷へ移った年を町の始まりとしたのです。それはまだ「能代」ではなく「野代」と書いていた時代のことです。
その時代に生きていた人はもちろん1人もおりません。ただし文献はありますからそれを手がかりにして、頭のなかで想像するしかありません。そのひとつに[秋田風土記」という書物があります。淀川盛品(もりただ)という佐竹藩士が175年前に秋田領内の村の位置、収穫高、家数、民情、産物などを詳細に記した風土記です。その中の二井田の条(くだり)に次のような伝説があります。
「昔の渟代というのは今の鶴形なり。のち二井田が齶田渟代(あぎたぬしろ)となれり。米白川及び諸川が二井田に至れり。故に港となり、のち向能代とかわり、またその後能代に移る……」
昔の渟代といっているところをみると、時代は比羅夫のきたころと解釈してもいいでしょう。この場合の渟代は渟代郡の中心地つまり比較的人家の込んでいる地域のことをいうのでありましょう。それが鶴形であったというのです。その後、二井田に移ったといいますが、そのころは米代川といろいろな川が二井田に流れていたので二井田が港になっていたというのです。その当時の地名も齶田渟代となっていますから比羅夫の時代と近いのかもしれません。その後、渟代は野代と改められたのですがとにかく集落の中心地が向能代へ替わったのち、現在の能代市の場所に落ち着いたといいます。能代奉行所に勤めていた宇野親員(ちかかず)が執筆した「代邑聞見録(だいゆうけんぶんろく)」と題する能代の昔のことを記した文献があります。その中に「町々覚(まちまちおぼえ)」という項目があって、清助町は永禄年間にできたと記しています。永禄の前の年号が弘治ですから向能代から現在の能代の地に移ってきたという秋田風土記の伝説も真説のようにも思います。


(12:00)

2010年11月29日

能代の歴史ばなし00表紙s 市民プラザのブックフェアで、20年前に発刊された本に出会いました。温故知新という言葉があります。能代の歴史を紐解きながら、これからのまちづくりを考えていきたいと思います。

発刊にあたって
このたび「能代の歴史ばなし」を市制50周年の記念すべき年に刊行することになりました。
能代市は秋田県の西北部に位置し、流域に豊かな天然資源を持つ米代川が市の中央を東西に流れ、日本海に注いでいます。
能代市が歴史上に登場するのは、「日本書紀」に西暦658年阿倍比羅夫が軍船180艘を率いて蝦夷征伐に来航したと記録されているのが始まりと聞いております。以来、東北地方の文化経済の中核を占める重要な港町として発展してきました。
現在までに郷土能代に関するさまざまな出版物が発行されております。本書は能代市文化財保護審議会委員などを長年にわたって勤められ、今なお郷土史研究に研鑽を積んでいらっしゃる越後昌二先生が、ともすれば歴史の狭間に埋もれ、流されてしまいそうな出来事を掘り起こし、当市で発行している「広報のしろ」に連載いただいたものを1冊にまとめたものです。営々と培われ発展してきた郷土能代の先人たちの活躍を語りついでいくために皆様に広く活用され役立てていただければ幸いです。
終りに、ご多忙にもかかわらず2年近くにわたり執筆され、今回の発行に際しても貴重なご助言、ご協力をくださった著者の越後昌二先生に、心からの敬意と感謝の意を表します。
平成2年10月  能代市長 宮 腰 洋 逸

表紙は、「菅江真澄遊覧記・霞むつきほし」『牛箇首戸桃園』(写本・能代市立図書館蔵)



(12:00)

2010年11月28日