能代市の中心市街地のイベントや風景などを日替わりでお伝えします!

能代公園

松風庵の前の小山市民プラザのブックフェアで、20年前に発刊された能代の歴史ばなしという本に出会いました。温故知新という言葉があります。能代の歴史を紐解きながら、これからのまちづくりを考えていきたいと思います。コメントなどお寄せいただければ幸いです。

29 砂防林植栽の番小屋跡

能代公園の料亭松風庵の玄関前方に頂上が15メートル四方ほどの小山があります。今はあずま屋があるだけですが、年輩の方には「ああ、相治(あいじ)の稲荷さまのあったところ」と思い当たられる方もおありでしょう。この稲荷さまは、今は八幡神社境内の西に移されていましたが、竣工されたのは明治初期と推定されます。
ところで、相治の稲荷さまができる更に以前のことは従来知られていませんでした。それが能代市大町の越後屋・渡辺信夫氏所蔵の古文書を解読していくうちに見当がつきました。それは、能代奉行武藤七太夫から越後屋6代目太郎右衛門に宛てた寛延2年(1749)の覚え書です。
それによると「太郎右衛門が松林の見張りをさせるための番小屋を清助町の後山(今の能代公園周辺)に掛けたいと申し出たので、奉行所が庄屋や町の者とともに見分したところ、唐船御番所(からふねごばんしょ)から西へ60間(約109メートル)の、御番所山に続く森がよいとの結論が得られた。ここは御番所から海面を見るにも障害にならないし、念のために御番所の中田庄一郎にも見せて了解をとった。ここに小屋を建てれば、新町、鍛冶町、出戸町など付近一体の砂留めの見張りのほか、清助町南側の裏の要心にもなろう。白坂新九郎、鈴木助七郎にも了解をとった」と記されています。
唐船脚番所から西方へ109メートル離れた見張りに適当な場所ということになると、丁度松風庵前の小山の位置に当たるようです。
番小屋の場所を想定することによって「代邑聞見録」の越後屋太郎右衛門に関する記載が生き生きと具体性を帯びてきます。「代邑聞見録」には次のように記されています。
 「問屋越後屋太郎右衛門多年心を尽くし、手前入目(いりめ・自費)にて端々(道ばた)に捨て置きし塵芥(ちりあくた)を運び彼(かの)崩るる所へ敷ならし、稗(ひえ)その外生(は)えやすき草の種を年々蒔(ま)きけるにより、最早青山になり、今は松なども所々に見ゆ。是等の勲功により隠居扶持(ぶち)五人くだされ渡辺休慶と改め、七十有余なれど、日和にはかの普請所へ往還隙(ひま)なし」
以上のように、植林のためにまず町のゴミを集めてきて砂地に撒(ま)き土地を有機化したなどの土壌改良の苦労については、越後屋文書にはほとんど書かれていませんが、第三者によって書き残されている点に注目すべきでしょう。この文献の著者である宇野親員(ちかかず)が太郎右衛門の成し遂げた事業を高く評価し、彼の人物に心服している筆致を感じとることができます。
なお、越後屋の番小屋設置を認めた奉行武藤七太夫の覚え書は寛延2年(1749)に書かれているわけですが、これは太郎右衛門が最初に砂留め普請の許可を藩に願い出てから38年経っていることになります。太郎右衛門自身齢(よわい)70有余になっています。隠居扶持5人分をもらい、いねば功成り名遂げた今もなお、天気が良ければ毎日のように普請所へ通ったという記録から、1つの大事業にかけた彼の情熱と執念が感じられます。


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2010年12月29日