出発は男女共同参画社会への推進から

ある方から原稿を頼まれ、今までの経緯を書いてみました。
目を通していただければと、掲載しました。

新しい年を迎え、このように振り返る時を与えてくださったことに感謝するとともに、新たに残された時を充実させ、市民のために全力を尽くしたいと心を新たにさせられたところです。
どうか、あまり更新出来ていませんが、覗いて見て下されば幸いです。
皆様の上に、新たな夢に向かう前進される一年となりますよう、お祈りいたします。

2007年4月に行なわれた統一選の2ヵ月前に、社民党議員として10期務めてこられた先輩議員から市議会議員への立候補を勧められました。私は社民党に入る経歴もつながりもありませんでした。しかし、その6年ほど前、小浜市に中間貯蔵施設建設の話が持ち上がった時、建設に反対する署名が1万人以上集まったにもかか
わらず、議会が建設推進を可決しました。
その時、私は1人の母として「子どもたちの未来のため、小さな声でも上げないと申し訳が立たない」と考え、反対派の市長候補選挙事務所でボランティアをさせていただいたことや「9条の会」のメンバーでもあったことがき
な共通点だったのです。初当選後、私が最初に声を上げたのが「男女共同参画社の推進」でした。男女共同参画条例ができていても現状はなかなか進んでおらず、女性が声をあげないと萎(しぼ)んでいくところでした。
特に、私が第5次小浜市総合計画の委員に選ばれた時、その計画から「男女共同参画」が消えていました。そうした状況に危機感を抱き、多くの賛同を得ながら「第3節」にそれを入れることができました。人権(男女ともにですが、子どもの権利に関すること)も、議会で発言し言質を取らないと行政は動かないと思いました。
2期目の選挙は、東日本大震災直後で、原子力災害の恐ろしさが脳裏に刷り込まれた頃でした。小浜市は、嶺南(れいなん)2市4町の真ん中の街で、若狭町とともに原子力発電所を持たない隣接地です。それ故長い間、原子力立地地との格差に悩みを抱え、対立してきた歴史がありました。中でも、原子力防災に関する格差は許しがたいものがありました。特筆すべきは、11年の市議選後の6月議会において議員提案の「原子力発電所か
らの脱却を求める意見書」が全員一致で可決されたことです。その後議会での活動も含
め、市長ともの粘り強い交渉の後、安全通報に関して立地並みの条件を勝ち取ることが出来ました。これは、日本中で初めてではないのでしょうか。

後先になりましたが、私の主な公約の一つは、「子どもたちへツケを残さない財政運営」です。これは「河内川ダム建設反対」にもつながっています。無用な公共事業は将来の子供たちに大きな負担となり、少子高齢化がより進む原因ともなります。また、反対だけでなく新しい提案をし、町づくりへの応援もしています。もう一つは、女性の視点での政策で、その中身は、介護の問題、DV防止対策、子育て環境などです。
この他にも解決が求められる問題が山積しており、もっと多くの女性に政治に関心を持ち参加していただきたいと、議会ごとに手作りの新聞を作成し全戸折込配布をしています。私が再選された11年は、市政60周年に当たる年でした。その年に、女性で2期当選を果たした最初の議員となったことに感謝するとともに、「いまだこの状況…」との思いもあります。閉鎖的な社会であり、女性の政治参加の厳しさを何とか打開できないものかとの
重い責任もいただいているところです。

′13年、12月議会一般質問「未婚ひとり親に寡婦控除を求める。」

平成23年度全国母子世帯等調査によると、シングルマザーになった理由は、離婚80%、未婚の母7,8%、死別7,5%で、初めて未婚の母が死別を上回り、未婚の母は13万2000人を超えました。10年前の2倍に増えています。

母子家庭の貧困年収ライン(=子どもの貧困)いついては、1世帯で127万円/年、2世帯で180万円/年を下回ると貧困ラインとなります。
′03年、13,7%が ′06年、14,2%となり、′09年には15,7%。6人に1人の子どもが貧困状態です。
(厚労省「平成22年国民生活基礎調査から」)

「母子世帯」間の収入比較では、社会保障を含む全収入を表す平均年間収入(全国母子世帯調査集計データー)では、死別母子世帯は、288,1万円、 離別母子世帯は、219,5万円、 非婚母子世帯は、171、1万円となり、非婚母子家庭が最も低収入。それに寡婦控除が適応されないことにより、住民税や国民健康保険料が増額、保育料控除対象から外れたり、住宅支援も無いとなるなど、経済格差はより拡大しています。
貧しい中でも、より貧困が深刻な世帯と言えます。

憲法14条にある「法の下に平等・・・」という理念から、「婚外子の相続差別は違憲」との判断もされる中、先進地では「みなし寡婦控除」が進められています。http://www.city.niigata.lg.jp/shisei/mayor/tegami_top/tegami/tegami_23top/23_8sonota/23_8sonota_09.html


また、親の財政状況が、教育費へ大きな影響を与えている現実の中、貧困の連鎖を食い止めるためにも、次世代の子どもたちの将来のためにも、小浜市に「みなし寡婦控除」を求める。http://www.nichibenren.or.jp/activity/document/complaint/year/2013/2013_1.html

市長答弁:「寡婦控除には、経済的に苦しいひとり親を救済するという目的があり、未婚の母の経済事情も他の母子家庭と変わらないことから、その不利益な状況を少しでも解消するために、保育料をはじめ、その他関係する所管課において「みなし適用」について早急に検討していく。」

私見: 行政の「検討する」は、「何もしない。」と同じだと何時も思っていいる者ですが、今回市長の答弁は、少しずつ進めていくことの決意と受け止めている。
勿論、これからも進捗状況を監視しながら、声をあげて行かなければと思っていますが、このような事業に理解を持って支援する市民団体も増えてもらいたいと願っているところです。




9月定例会、平成24年度決算認定に対し 反対討論

認定第 1号 平成24年度小浜市一般会計歳入歳出決算の認定について
認定第10号 平成24年度小浜市水道事業会計の認定について

そちらも「水道水源開発施設整備 河内川ダム建設に要する経費」決算額11,006千円です。

原文どうりではないのですが、
河内川は三方上中郡若狭町熊川に位置し、北川一級河川の上流にあります。平成元年3月に、事業費234億円で協定書が現在の若狭町と小浜市、県と締結されました。
今まで工期が4回も見直され、平成24年には平成32年の3月までと延長されました。
事業費も平成14年に415億円と2倍近くも跳ね上がっています。

事業目的は「多目的」であり、洪水調整、流水、水道用水、特定灌漑用水などです。
小浜市へは、年間12960m3/日の水道用水の確保となっています。
予定として、現在の主水源である地下水に、北川に調整して流れてきた(田畑の排水もある)票流水を、58億もする浄化槽を作り、そこで浄化した水を美味しい地下水と混ぜて供給するものです。

M議員が一般質問で問われた小浜市の地下水量は、64万7千m3/日以上との統計も発表されました。
今回、平成24年度小浜市公営企業会計決算審査意見書には、施設利用状況に付いて施設の配水能力は1万5,230m3/日あり、平成23年度の平均配水量は、1万10m3/日で余裕があります。
平成24年度は9,087m3/日の配水量(使った水量)です。
給水人口が0,6%上昇するも、利用者の節水意識の高まりもあって減少している状況です。

12年後には小浜市の人口が27,500人との統計も出ている中、100%の上水道契約となったとしても、充分足りる地下水量を持っています。にも拘らず58億の浄水場建設も含めると、今の水道料の2,5倍の水道料金を負担することとなる、市民の了解が得られないと考えます。

消費税増税、電気・ガス代などの高騰、福祉や医療関係の負担増、老朽化したインフラ整備の増大等を考えると、少子高齢化時代の子どもたちへの負担は増するばかりです。

熊本県八代市にある球磨川流域にある荒瀬ダムは、全国初となる2010年に撤去・廃ダムを決めました。
荒瀬ダムは、1955年に29億円で建設し、撤去費は88億円ですが、建築より撤去に費用負担が重くなります。
また、八代市では、ダムによる洪水被害の甚大さに抗議の声が上がり撤去が決まりました。
ダムでの洪水調整はそのダムの容量により、近年の想定を超える雨量に耐え得る保証はありません。

100年持つダムと言いますが、日本人の人口は今の30%(最小予想で)と言われています。その30%が全国に3000ケ所あると言われる高経年化したダムのメンテナンスや廃ダムに予算を付け続けなくてはなりません。老朽化したダムは、地震により大きな被害をもたらしますが、東日本大震災でもそれが起こっています。

「あらゆる視点から、ダム建設が安くつく」と審査会での答申ですが、そこにある遊水地を買収する困難が書き込まれていますが、買収する必要はなく、災害時に生産物の保証をすれば良いことであり、不適切な算定方法と考えます。

私は、未来の子供たちのためにも、今発言出来る立場に置いて、この事業に対し反対の表明をいたします。

「今、ダム事業に反対すると大変なことになる。」と古参の議員たちにささやかれますが、それならそれで賛成意見を言って頂けるとありがたいのです。
聞いたことが無くて、一度、聞きたいわ~

福島第一原発事故後2年半、その②



「除染の町」楢葉町のこの日の最高値 1,2~1,3μ㏜ (2μ㏜台もあるようだ)

竹藪の除染が終わった所。
誰のために必要なんだろう、ここのところは。
人家にも遠いし、道路からも離れている。
だいたい、住民が帰って来ていないではないか。
というか・・・放射線量がこんなんじゃ無理でしょう。

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5センチの表土をはぎ取り新しい綺麗な土をかぶせて除染終了となるが、新しい土の出所が問題で、より放射線量の高い地域のだったり・・・と聞く。

楢葉町に住む早川氏のお寺近くを通らせて頂いた。
脱原発、原発反対活動をされていた方で、福島事故後ご自分の無農薬田圃を提供しフレコンバックの集積地(仮置き場)に。
どんなに勇気が要った事だろう。
それもこれも住民のためとお聞きしたが、「なんでこんな所に・・・」とこれにも非難があって、何処かにつくらないといけないことを、苦渋の判断の元だということを理解されているだろうか。

本来除染の効果は無いと、チェルノブイリ事故後のベラルーシやウクライナでは止めているにも関わらず、大金を投じている。
先進地(チェルノブイリ)へは、たくさんの日本人、官僚や議員、有識者や研究者、ジャーナリストや民間団体が我こそと通っているが、税金を使って公的機関の方々の学びがどのように反映されているのかが、分らない。

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帰ってくる住民が居なくて、周りの雑草が大きく育っているにも関わらす、除染作業が続く。


楢葉町が「除染の町」ならば、10キロ圏内に入る高岡町は「時計の止まった町」と言われる。
ここでの線量測ったはずですが、覚えてないし書きこみもない。
余りにもの惨状に、声も無くただ呆然としていたようだ・・・
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3月11日、大地震と大津波、それのみならず福島第一原子力発電所事故による、不毛なる地となってしまった。

除染で表土を剥いでいる楢葉町と境界線を越えた途端、人の背丈以上の雑草で埋まった町となる。
津波で流された数々の家、その合間に重なり合う車も草の中に埋まりその当時のそのまま。
中学校では校庭の除染がされたそうですが、牛の死がいもあったとか鳥獣害被害もさることながら(彼らは一生懸命生きようとしている)、泥棒さんが被災者宅を被災者の心をも荒らしていく。


富岡駅へ
IMG_4973長年ここにお住まいの方も、こんなに海が近かったのを知らなかったそうだ。
特急も止まる高岡駅、多くの方が利用されていたにもかかわらず家がびっしりと建っていたからですね。

でも、津波で眺望も開けこんなに海が近くに見える。


駅にある配線類も盗難にあっていた。
人間って悲しい。
どんなにもいやしくなれる。



チェルノブイリ原発へ行った時を思い出していた。
26年目に訪れたのですが、今だ高線量で出立ち入りには制限があり人が住める場所ではなかった。
事故当時、すぐに帰れると簡単な身支度で家を後にした人々は福島の人とダブる。
家々は高い背の雑草に囲まれ良く見ないと分らないくらい朽ちていた。

国は住民を帰還させるための努力をしているが、何の為の帰還なのか。
地震や津波だけなら、復興は出来る!と現地の人は言う。
手もつけられない状況に被災者は苦しんでいる。

原発の廃棄物処理が出来ない状況や、原発内での保存許容量が限界にきているのにまだ動かそうとする。核戦争に使える核廃棄物をこれ以上増やすことをしてはならない。
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地震だけでは無かった。
津波だけでは無い。
放射能汚染が町を不毛の地に。








「こどもたちの未来のため」を思うなら、切り替えを早くしよう。今日からでも遅くは無いから。

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福島第一原発事故後2年半、視察その①

9月28日(土曜)と29日(日曜)
住民団体に参加させていただき、福島県いわき市、広野町、楢葉町、高岡町への視察に行きました。

早朝3時起床予定が、3時半。
4時に家を出発し敦賀駅へ車で1時間10分。
駅の駐車場へ車を置き、タクシーにて集合場所の敦賀インター駐車場へ向かう。

敦賀インター、鯖江インター、福井駅で31人が乗り合わせ出発しました。

約8時間後、会津磐梯山が晴天の中迎えてくれました。IMG_4904














いよいよ現場に入りますが、ナビゲーターであるいわき市在住の福島原子力事故後現地での語り部をされている、伊藤達也氏がバスに乗車。

予定では午後2時着でしたが、2時半過ぎ。
いわき市には現在18万3000人の方が避難されていると聞く。
その避難所生活の話は明日ということで、今日は4時までに入らないといけない富岡町へ向かう。

まず国道6号線に沿って、いわき市から広野町へ向かう。
福島第一原子力発電所からいわき市の北部は30㌔圏内、広野町との境で、0,28μ㏜。
いわき市でも、四ツ倉海水浴場近くの国道が海沿いを走ることとなると、歯が抜けたように家がなく更地が増える。
新築の家もあるが、土台だけの家や蔵など破損したままの状態の家屋も多く見受けられる。
墓石の新しいのが痛ましい。
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広野町は、緊急時避難準備区域が解除され2年が経った今も、帰還者は20%。
人口6000人の町に地元の人は1200人だが、原発収束関係の労働者が6000人はいて、宿泊所、弁当屋や食事関係店舗、ガソリンスタンド関係は新しい店が見受けられる。広野火力発電所を過ぎた所に、Jビレッジがある。
年間の通じて多くのファンが訪れていたこの場所は今、福島原子力事故の収束拠点となっている。
青い芝のサッカー場が収束に必要な機材や車であふれていて見る影もない。たぶん5センチの上土がはぎ取られ芝も放射線を含むと危険なので取り去られたようだ。
子どもたち専用のサッカー場もしかり、女性サッカー選手の宿泊施設も労働者などの宿泊所と様変わりしていまる。
多くの人の楽しみの場であったろう、歓声がわき上がっていただろうこの場所がこのように変わらなくては成らなかった。



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広野町と楢葉町の境での線量は、0,24μ㏜。楢葉町は「除染の町」と言われている。
空間線量は一律ではないが、草木の迫る国道沿いでは数値が跳ね上がる。
除染中の家屋も見受けられるし、家屋のみならず竹藪や土手、田んぼや畑の表土も剥がした跡が、異様な姿に見えた。
一番異様に見えるのは、放射線量含んだ表土や草木を詰めたフレコンバックの集積地。楢葉町だけで21か所あると聞くが3年を目途に借り置きとの説明で、フレコンバック事態の耐久性は5年。
5年以内に永久的な処分方法を提示出来るのか。
不安が増大してくる。

続く

9月議会 一般質問「小浜市のwi‐fi環境を問う」

昨年7月の市長選挙に、6月議会で一般質問した「wi‐fi推進」を、公約に入れてくれました。

1年が経過したので、その進捗状況やそれをどう生かすつもりなのか、まちの戦略としての視点が必要なんですよね。

「議会だより」の原稿を送ったので、それを添付します。

(問①)wi‐fiの推進も書いてある松崎市長の公約は、①安全/安心な暮らし②地域/人づくり③魅力ある産業/観光④賑わいの創出⑤効率重視の行財政改革であり、公約全てにwi‐fi活用の必要性を思う。現状と今後どのように進めて行かれるのかを問う。


(答)セキュリティの問題や専門知識のある者の選抜も必要かと思うが、先進地を参考にwi‐fi環境整備をスピードアップしていきたい。



中々、良い答えを頂きました。
私も、勉強しなくてはいけませんが、それが楽しみに成りそうです。

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ドイツスタディ-ツアー 「グリューネヴァルト駅17番線」

グリューネヴァルト駅は一見可愛いこじんまりとした駅。

ベルリン中心地から30分もかからず、この地域は高級住宅地が並ぶ閑静な地域。

1942年から45年まで総勢5535人、ベルリンに住んでいたユダヤ人が強制収容所へ送られた3か所ある駅の内、一番多くのユダヤ人が移送に使われた駅と聞きました。

直ぐ帰って来れると簡単な持ち物で移送され、二度と帰ってくることは無かったのです。

帝国鉄道(現在のドイツ鉄道)が、割引券を出すほどユダヤ人輸送で賑わっていたと。DSCF2363


駅の構内です。
17番線の印があります。

現在列車は走っておらず、記念碑となっています。

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ホームには
183枚のこのようなプレートがはめ込まれていて、日にちと移送されたユダヤ人の人数、アウシュビッツ、テレジン、ウッジなどへの目的地が記録されています。

これは、194110月27日 1034人 ベルリンから~
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新しい花とイスラエル国家の国旗が捧げられていました。
独裁的国家の暴走の恐ろしさをしみじみと感じてきました。

今の与党の動きはとても危険な気がします。

ドイツスタディ‐ツアー 「エネルギーを市民の手に」団体訪問その②

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「エネルギーを市民の手に」活動拠点。
賛同者カイザリヤさんのオフィスの一画をお借りしての、無給活動。

2010年12月設立、党派を超えて電力網をベルリンに買い戻そうという活動。背景には、地域の配電網営業契約に期限があり政権内で決めることが出来る事がある。ベルリンには4つの電力会社があり独占状態、その電力の民主化を進めたいと願った。配電網事業は必ずもうかる仕事で、再生可能エネルギーへ転換したかった事と、省エネの為には電力会社から組合にするべき、消費者=市民に利益が還元
(安くなる)されるため。2人の活動から始まり今では組合員1300人、550万€集まった。少ない金額かも知れないが、市民の意識が変わってきて力になっている。

 

Q:財政的基盤と、配電網運営の技術的なものは。

A:財政的には入札に必要な資金は調達されているし、銀行などの出資者との話し合いも進めている。技術的な事は学ばなくてはならないが、そのまま今の職員を受け入れることも話し合われているし、もっと新しい技術サービス会社を見つけることも相談しているが、ベルリン規模では無いので外部からも考えている。また出資者になって貰うことも計画。シェーナウとの共同・協力も必要。

 

Q:配電網権利の価格は。

A:10億€以上を言ってきているが、40%の4億€で良いと思っている。州政府が51%持つから49%、投資家もいるし、シューナウも3カ月しかなかったが可能だった。

 

Q:配電網を受託してからの活動など

A:7月の第一入札審査にパスした。これから秋の書類審査に備えている所。現状の電力会社は、再生可能エネルギーに関しても省エネ推進にも関心が無く努力を何もしていない。収益は出資やとエネルギー効率を高めることや省エネ対策、何より再生可能エネルギー100%=脱原発を目指すために使いたい。

 

Q:再生可能エネルギーは何を。

A:実験的な小さな風力発電もあるが、ドイツの北のような風も少ない。主に太陽光発電となる。

 

Q:考えは素晴らしいが、どこに勝機があると思うか。

A:勝つチャンスがあると言えば、市民も共同出資者であり共同決定権があるということ。その代わり責任もあるし、ここに投資すれば絶対もうかるという内容であり、市民の意識が変わって来ている事が大きな力。最終的に議会が承認することになる。今後の活動として、ベルリンの新聞だけでなく国レベルでの広報活動、ネットサミットも開催し、いろんな集会で訴え議論していく。政治家への周知や会派代表との意見交換も賛同を得る(出資者になって貰う)事も、個別に訪問活動もしている。
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原画はまともなんですが、どうしても横を向いてしまう写真。

これは「エネルギーを市民の手に」の活動資金にと、賛同者のカイザルさんが開発した歯磨き粉。
セルロースとフッ素が入っていて、1週間使うと虫歯になりにくい商品だとか。

ドイツスタディ‐ツアー 「エネルギーを市民の手に」団体訪問その①

DSCF220720141231日、今ベルリンの配電網営業権を持っている大手エネルギー供給会社フアッテンファル社とベルリン市との営業権契約が切れます。この契約が切れる時点で電力網の経営をベルリン市に取り戻そうとする市民の動きがあります。ファッテンファル社はスウェーデンに本社を置く多国籍企業です。配電網運営によって生じる利益をスウェーデンの企業が得るのではなく、ベルリンに取り戻し、そして再生可能エネルギーによるエネルギー転換の為の投資を実現しようとする「ベルリン・エネルギーティッシュ」が、ベルリン議会に対して請願書を提出し、今年6月に必要な署名を集めた。さらに「ベルリン市民エネルギー」が一昨年暮れに、若い二人の女性によって立ち上げられた活動は、チェルノブイリ事故後、反原発の市民運動から生まれたエコ電力会社「シェーナウ電力会社」のアイディアをベルリンでも実現しようとしています。市民たちが一口100€、最低5口を出資して、配電網買い取りに参加するだけではなく「ベルリン市民エネルギー」の運営にも参加します。配電網事業は必ず利益を得るようになっているため、最低500€の出資は元金保証プラス通常の預金よりも大きな利息が付きます。現在営業権を持っているファッテンファル社が買い取り価格を明らかにしていませんが、配電網の購入によって電力の生産についても再生可能エネルギーによる発電を目指したいというのがこのベルリン市民エネルギーの夢です。

 

発送電分離、電力の自由化など市民発案の電力事業が考えられる事がまず羨ましい。それも、2人の若い女性が始めた運動、7月のこの時第一次審査を通過したとの嬉しい報告を聞きました。次は秋にある二次審査頑張れ。私たちも500€を投資してきました。()

 

建物の2階オフィスを持っている男性カイザリヤさんが、オフィスの一角を無料で提供している。発案者の一人アーベン・コレールさんが説明をして下さった。

ドイツスタディツアー 永井潤子氏のレクチャーからその①

メルケル首相も食事に来られると言うレストランCabinettで。(会えるかな~と薄い期待をしながら)
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まずは歴史:「ベルリンの光と影(
1871年ドイツが統一された歴史から現在に至る近代政治の流れ)」特に、1933130日ヒンデンブルク大統領がヒトラーに組閣を依頼することろが、大きなポイントとなる。日本の副総理が言っていたように、ナチは権力を暴力で奪ったわけではないという所。ナチス・ドイツの“第三帝国”(19331945)の首都もベルリンであった事。敗戦後、ドイツ連邦共和国(西ドイツ)とドイツ民主共和国(東ドイツ)と二分された歴史と1989年の東西統一と、首都をボンからベルリンへ。

経済的には、東ベルリンを吸収したことも産業が移転してこなかったことにより貧しく、住民=国民負担は大きい。特にベルリンでは、西側と東側の壁が取り払われても、町の様子や建物の様子を見れば今どちらを走っているのかが分かるぐらい、いまだにその歴史を残している。

IMG_4095ベルリンは市でもあり州都で、連邦議会はかつての建物をガラスの丸天井を付けて明るくし、議会の透明性を象徴しようとしている。

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