2009年12月03日

矛盾の束

「それ、なんですか?」
若い人に、そう訊かれた。

「煙管用の刻みタバコ、小粋だよ」

「へえ〜、きつくないですか?」


「吸い込んだらきついけど、口の中でとめて、煙をふわ〜と吐き出して、その煙を楽しむものだから、そんなにきつくはないよ」


「ぼくも葉巻をやってみたんですけど、どうしても吸いこんでしまうんですよね」


「健康を気にしているの?」

「ええ、まあ…」


30代の彼も、煙草との縁がなかなか切れないらしい。


「健康にいいタバコねぇ…、そりゃ、ないな」



この手の話は案外多い。
健康に悪いとわかっていても、縁が切れない。

「人間は矛盾の束である」と言ったのは、サマセット・モームだったか…。
ついでに言えば、「わかっちゃいるけど、やめられない」と唄ったのは植木等。




ごく親しい知人の女性は、昔から健康志向が強く、自然食についてもブームになる以前から手がけていた。
とくに子育ての頃は、神経質なほど安全な食を求めていた。
かなり高価なものでも、迷いなく、購入する。

そして、誰かに自然食、安全な食について訊かれると、じつに丁寧に教えていた。
着色料、添加物などの説明に熱が入ってくると、手が自然にタバコに伸びていき、煙をくゆらせながら、熱く語る。


じつに妙な光景だが、人間のこうした矛盾が、わたしは、好きである。




「アジ、もらってください」
とやってきたのは、農民音楽家。

彼は農民だが、よほどの農繁期ではないかぎり、漁民になり、狩猟の民にもなる。

いまは完全なる農閑期に入り、漁民に変身、頃合いを見計らっては釣り場に出没を繰り返しているようだ。


わたしは、そのおこぼれをたいへんありがたくいただくのだが…。

「こんなにもらっていいの?」

「もっともっと、いっぱい取って下さい」

大きめのクーラーボックスに大型サイズのアジが、ひしめいている。

手に触れようとしたら、ピチピチッと跳ねるのもいて、活きがいいという話ではなく、生きているのだ。


「自分のうちへ持って帰らなくていいの?」


「いいんです、いいんです」
と言って、彼は続けた。

「持って帰ったら、カミさんに怒られるから」

つまり、毎日のような大漁に大奥がウンザリしているというのだ。


「なら、釣りに行かなければいいのに…」
と、喉まで出かかったが、やめた。

釣り師としてのどうしようもない性なのか、狩猟の民の血が騒ぐのか、釣らずにはいられないのだろうと思われる。



わが家の犬は、目の前にカエルがいようと、トンボが鼻先に止まりそうになろうと、ボンヤリとした目でながめている。

しかし、猫の方はそうではない。
ネズミはもちろんのことだけれど、小さな虫が動いただけで飛びかかる。
小鳥を捕獲しようと、ジッと身構えている姿は、野生を感じさせ、なかなか格好いいけれど、たいがいは徒労に終わる。


おそらく農民音楽家は犬のように見えるけれど、猫なのである。
獲物に対しては、どんな時にでも、どんなに小物でも、全力を尽くして爪を出し、牙をむく。


理性では、「こんなに釣ったら、またカミさんの小言が始まる」とわかっていても、釣らずにはいられないのだ。


わかっちゃいるけど、やめられない♪ と。
  
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2009年12月01日

つぶやき



内藤大助 vs 亀田興毅戦、

ドローで、内藤のタイトル防衛。

そう思ったし、あれほどの差があったとは…。





  
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2009年11月27日

デニムのエプロン

当初、1日だけかと思っていたパン屋さんのお手伝い、気がついたら1ヶ月が過ぎていた。


「気がついたら」と、さりげなく書いたが、まさに「気がついたら」だった。



ある日、デニムのエプロンを渡された。
このエプロンというやつは妙な力があって、外見上、まるでベテランの職人のような雰囲気を醸し出すようだ。


しかも、「似合う、似合い過ぎる」と囃され、

「まるでオーナーのようだ」と持ち上げられるにおよんで、まんざらでもない気分になってくるから不思議だ。


すっかりその気になっていたら、

「オーナー、コーヒーの時間ですよ」

と、やはり、お手伝いに入っている海好きの文学少女(彼女の文章を初めて読んだのは、彼女が15歳の頃で、まさに少女だった、が…)に言われた。


つまり、コーヒーをいれてください、と暗に指示しているのだ。


コーヒーにはちょっとうるさいワタクシ、ウンチクを語りながら、グアテマラコーヒーをいれ始めたら、


「まるで喫茶店のマスターのようだ」

と、またまた持ち上げられる。

じつに、気持ちのよい職場である。


という具合で、まさに「気がついたら」1ヶ月がアッという間に過ぎ去り、外堀がじわりじわりと埋まっていたのだった。


その不思議な力を持つデニムのエプロンをしたまま、パンの配達を終え、家に帰ったら息子が、わたしの姿をしげしげと見て、

「似合うなぁ」と、ひとしきり感心した後、“アンパンマン世代”の彼は、こう言った。


「“配達パンマン”というより、“ウンパンマン”の方がいいんじゃないか」


微妙な響きを感じないでもないが、たしかに“ウンパンマン”の方がしっくりするような気がした…。

  
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2009年11月21日

“バースディ・サシミ”



魚料理が大好きなチビ姫1号。

保育園児の頃から煮魚であれ、焼き魚であれ、小骨を器用にとりのぞいて食べる姿を見て、わが孫娘ながら感動した。


そのチビ姫1号が、7歳の誕生日を迎えた。
平日だったので、大げさなことはせず、日にちをずらして祝う予定である。


それでも誕生日当日、奇楽庵が、プレゼントを用意してくれていた。

それが、コレだ。



バースディ・サシミ












「バースディ・サシミ」だという。


チビ姫1号、小躍りして喜んだのは言うまでもない。

ふだん彼女は小さな茶碗1膳しか食べないが、この日は、2膳。
あやうく3膳目まで行きそうな勢い。


アツアツのご飯と刺し身の相性のよさを、すでに体感することができたのは、奇楽庵の、魚のシメ方、さばき方、おろし方、そして、包丁の引き方、その包丁の研ぎなど、それらすべての腕がよい証拠。

生臭さなど微塵もないばかりか、魚のもつうまみ、あまみを引きだすワザを身につけているからだろう。

そして、自分で作陶した大皿、その盛りの美しさも、玄人はだし。



チビ姫1号にとって奇楽庵は「最高の魚を食べさせてくれる素敵なおじちゃま」に違いない。



その孫娘の横にいつも居座って、大きな茶碗に3杯も食べるワタクシ、まるでおこぼれをいただく大きめのコバンザメ…。

ハイエナか…。


ごっつぁんでした。  
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2009年11月20日

再び雑感

九州場所、5日目にして優勝争いはふたりの横綱に絞られてきたような気がしますね、とラジオの実況アナウンサーがおっしゃる。

残り10日、朝青龍と白鵬のふたりが最後まで順調に勝ち進み、千秋楽で火花散る闘いを期待もしているが、つまりは今場所も大関陣のテイタラクぶりが顕著。

これじゃ、相撲が面白くなるわけがない。

だからなのか、空席が目立ちすぎる。

なのに九州場所では、ご当地力士に対する声援が尋常ではない。
手拍子やら集団での掛け声、子供の調子外れの甲高い叫び…。


「ファンというのは、ありがたいものですね」なんて間の抜けたコメントにも腹が立つ。


相撲をつまらなくしている戦犯に手厳しい野次を飛ばすのも相撲贔屓筋というもの。


大関の地位を返上し、ヒラ幕力士として相撲を取っているのならば応援もしたいけれど、カド番を繰り返しては大関の地位にしがみついている醜態は、目に余る。



          ※



天皇即位20年を迎え、トレードマークのサングラスを外し、剃り込みも消し、タキシード姿で奉祝曲を歌い上げたEXILEのボーカル。


不良っぽさがウリだったのに、すっかりお利口さんになってしまって、見ている側が困惑の体。


世界の若者を煽るだけ煽って、女王陛下から勲章をちゃっかりいただいてしまったローリングスートンズ、ミック・ジャガーを思いだす。


まるで背骨のない軟体動物か、七色に変化をするカメレオンか。



          ※



一方で、ヌード写真を撮った篠山紀信が公然ワイセツとは、これまた国家権力、とちくるっている。


民主党の政権が成り、保守の右側ポジションにいる人々、焦っているのではあるまいか。


EXILEを取り込んで若者を骨抜きにし、日本を代表する写真家として、それこそ勲章でも授与されそうな篠山紀信を微罪で叩く。


どうにも腑に落ちない。



          ※



普天間基地問題で、日本の新聞テレビ、アメリカとの関係悪化を懸念するとのアメリカの回し者のような報道が目立つけれど、余計なお世話。

だいいち普天間は海兵隊の基地、ここの兵隊さんら、日本を守るためにいるわけではないことは既に知られた話。


この沖縄普天間を拠点として世界の戦争地帯、紛争地帯の最前線に向かうのが、海兵隊の役割。


ベトナム戦争では、この普天間から大勢の若者が戦地に送り込まれていた。
記憶に新しいところでは、湾岸戦争、イラク戦争、アフガンと、日米安全保障条約というよりもアメリカの都合で普天間を利用しているのは明白。

それが巡り巡って日本の安全のため、なんて理屈はいらぬ。

したがって鳩山総理の言う「県外か、できるならば国外に移転」のうち、国外というのが、正論。


小沢一郎が「第七艦隊だけで十分」発言も、普天間の海兵隊はいらぬ、と明言したものだが、そのとたんに、小沢一郎の秘書逮捕、なんてイヤガラセ。


イヤガラセの主はオバマ大統領ではない。
アフガン増兵を目論む、いわばアメリカ軍産複合体、と、その手先の日本人。

しかし、アフガンに兵力を増強すれば、ますますテロリストの思うつぼ。
だいいちに、こんどはまともなアフガン国民が、黙っちゃいない。

言うならば、上杉と武田の内戦に、外国の軍隊が勝手に兵隊を送りこんできて日本人を殺戮しているようなもの、と言ったのは、ペシャワール会の中村医師。
だから増兵は、アフガン人の憎悪をかき立てるにすぎず、愚の骨頂とも断言した。


いま、オバマはアフガンをどうするか、迷っている。
だから、普天間の移転問題だって、どう転がるか。

だからこそ、日本のテレビ、新聞、アメリカの軍産複合体の立場ではなく、沖縄の人々の心に寄り添って報じるべき。

だいたい核持ち込みの密約問題が明らかになれば、普天間問題だって自民党とアメリカの合意なんか、吹っ飛んでしまうかもしれぬ。

とおおいに期待している。

  
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2009年11月13日

レンホーさんが、怖い


みなさん、あの民主党による「事業仕分け」の様子、見ましたか。
なんだか、怖いですね。
とくにレンホーさんの顔が、とっても怖かった。

あの悪名高い中国の「4人組」のことが思い浮かんできたほどです。
政治家としての懐の深さを感じさせないし、余裕すら失っているように見えるレンホーさんが、あの江青女史とダブってしまいました。

江青さんも、女優だったでしょうか、そうした境遇から毛沢東夫人となった人でしたね。
レンホーさんも芸能の世界から参議院議員になられて権力の側にたっておりますから余計にダブるのでしょうか。


権力を持った者が公開の場できつい口調で畳みかけるように質問を浴びせかける。
テレビのニュースで見ただけですけど、これ、なんの権限も持たない民間人までも参加して質問攻めをやるのですから、まさに“人民裁判”の様相でしたよ。

怖いですね。


情報公開、透明化は、もちろん、いいことですけど、こういうやり方、まるで共産主義社会のようなイヤ〜な雰囲気が漂ってきますね。


だいいち、無駄とは何でしょうか?
そこの定義をはっきりさせないといけませんね。

わたしなんかは、どちらかというと、この世に無駄なことなんか一切ないのだ、なんてことを思っている人間で、無駄の典型のような生き方をしておりますから、無駄だ、無駄だ、無駄はダメだ、無駄は敵だ、などと言われると、どうも落ち着きません。

ですから、無駄とは何か、その定義付けをきっちりやっていただかないと、権力の暴走、横暴、まさに文化大革命路線を突っ走った江青女史ら四人組のようになるのではないかと、心配になります。



なにしろ、問答無用とばかりに一刀両断、バッサリと切られてしまうと、末端の人々の苦労、目に見えているのですから。
上の役人連中はいいんです。
「削られてしまった」で、済むのですから。
でも、末端に行けば行くほど、アテにしていた予算が消滅するのですから、死活問題になるんですよ。


専門的なことはわからないけれど、イヤな空気だけは漂ってきておることだけは確かですね。

とくに、レンホーさん、あなたがたのボスのおっしゃる「友愛」を忘れずにいて欲しいと切に願っております。

あのクラリオンガール時代の笑顔も、たまには見せて欲しいと、これまた切に願っておりますよ。

といって、笑顔でバッサリと切られるのは、もっと怖いか…。  
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2009年11月10日

“配達パンマン”奮闘中

なんだか、忙しい。
やるべきことが次から次と攻め立ててくる。
土俵の徳俵に足が乗っかっていて、力を抜くと、そのまま土俵下に転落するところまで押し込まれている。



日曜日、集落の道普請。
草刈り、側溝、側溝ますの清掃。
終了後は、慰労を兼ねた懇親会。
もっとも苦手な仕事だが、区長として事前にいろいろな段取りをしなければならない。


婦人部からガスコンロを火力の強いものにして欲しい、と言われていた。
ふきん掛けを設置して欲しいとも言われていた。

なんとかギリギリで処理。


慰労会が始まれば、酒を注ぎに回る。
注ぐだけではない。
注がれもする。

昼から午後7時まで飲み、ちょいと後片づけをして、家に戻り、その足でお世話になった集落の長老にご挨拶。

そこで、また飲んだ。


翌日、快調とはいえぬが、寝てもいられぬ。


知人のパン屋さんが、この不景気にもかかわらず、大忙しのてんてこ舞い。
猫の手も借りたいほどの忙しさで、猫の手よりもちょいとマシと判断したか、わたしの手で、手を打った。

不思議なことだが、近ごろ、ブラブラしているのが、少なくなった。
昔、ちょいと声を掛ければ、暇を持て余している者、何人かいた。
が、いま、フリーターまがいの生活者は、わたしぐらいなものか。


「助けてくれ」

そう言われて飛んでいった。

戦場とは言わぬが、日常、ボンヤリと生活しているわたしにとっては戦場に見える。
ここで離脱すれば、軍法会議もの、脱走兵士といわんばかりの忙しさ。


自慢じゃないが、大学時代、小さなスーパーでアルバイトを最後に、以後、他の職を知らぬ。
そのスーパーのアルバイトも次から次と納品されてくる品を覚えきれず、オーナー経営者、同僚から白い目で見られていた。

そのボンクラに、20種ほどのパンをスーパーやら小売店に納品してこいと言う。


ガッテンだ、と言いつつも、不安でしようがない。
数字を書き込むなんてことを苦手として生きてきたから、いつかとんでもないミスをしでかすのではないかと不安がつきまとって離れてくれない。



今日の午後3時、相川のさる焼き鳥屋さんにパンを宅配。


ガラリと戸を開け、

「やっているかい?」

と店内に入っていったら、


「うちは5時からですよ」

仕込みの真っ最中の店主、あわてて、はずしていたメガネをかけなおし、声の主が、わたしと知るや、目を丸くして驚いていた。


なにしろ、「あんたがくると、午前3時は覚悟せんとならん」と言うほどの、長っちりの横暴なる飲み助が、なんとパンの配達でやって来たのだから、驚いて当然。


この焼き鳥屋さんで配達が終わりとの予定を組めば、もちろん、座り込んで飲み始めるところだが、次へ向かわねばならぬ。

名残惜しく、店を出る。


そのうち5時開店に合わせて、宅配してやろうと、ひそかに思案中。

なんて新米の“配達パンマン”が考えるべきことではないか…。


  
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2009年10月30日

更新が途絶えておりますが、わたしは元気です。

更新できなかったのは、忙しいということもあるのですが、政権が民主党に移ったせいか、腹が立って書きたくなる、という衝動がなくなったようです。

それでも無理をおして書くこともできるのですが、そんなことをして何の意味がある? なんてテツガクっぽいことを考え始めると、たちまち一行も書けなくなります。

こういう時は、読書の感想文を書けばよいのでしょう。

ところが、これがまた問題があるのですね。
わたし、系統立てて読むというのが、どうしてもできず、手当たりしだいというスタイルになってしまいます。

そういうわけですから感想文を書こうなんて考えもせずにページを開いていきますので、いざ感想文を書こうとすると、もう一度読み直すというたいへんなことになるのです。

この1ヶ月でいえば、時代モノの短編小説をつごう60編ほど読みました。
この中に感想をしたためたいと思うものが、もちろん、あるのです。

まず、それを探しだす。
タイトルは何だっけ? から始まるのですから、それだけで一苦労です。

で、発見する。
すると、これまた読み返しているうちに、筋に引っ張られ、書くのを忘れるほど没入してしまうのですね。

結局、素直な感想文というものが、書けない。

ええ、素直ではない感想は書けるのですよ。

たとえば、妙な人物がいる。
自分の言葉で説明するよりは、ある小説を介して書いたほうが理解されやすいという場合に、その小説を取りだして感想かたがた、書くというパターンです。

先の『下士官プリシべーエフ』がそうです。
人のあらさがしをしている人がいるな、と思ったら、ふと、それを題材にした作品がよみがえってくる。


そういう意味で、いま盛んに思い出されるのは、山本周五郎の『人情裏長屋』です。

その中のあるシーンが、鮮烈によみがえってきたのです。


フリで入った居酒屋で

「いちばん高い酒を出せ、ウナギやらスズキやら鯛の刺し身はないのか。金ならある、糸目はつけない」

なんて場違いなことを偉そうに言う通いの番頭、今風に言えば、小金を持ったサラリーマン風情というところでしょうか、
そういう男に対して主人公が、一喝するのですね。


「おい、番頭さんよ、ここは居酒屋といって地道に稼いだ人間が汗の匂いのする銭でうちわにつつましく飲む処だぜ、済みません場違いですがお仲間に入れて下さい、こういう気持ちで来るんならお互いさまよ、みんなの飲む酒みんなの食べる肴で、ご馳走さまと云って飲むがいい、気の毒だが勘定は払ってやるから出ていってくれ」


この『人情裏長屋』も、ずいぶん以前の読んだのですが、折々に思い出されるのは、自分も一見の客として見知らぬ店に入ることが多かったからでしょうか。

こういう具合に、わたしの読書感想とは、なにかと関連する場合にのみ、書けるのであって、純粋な感想文が書けないのですね。

『人情裏長屋』について書けとおっしゃるならば書きますけれども、これもまた面倒。
一読されて、初めて入る居酒屋や飲み屋では、どういう姿勢でいるのがよろしいか、お考えになるのも一興でありますね。

  
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2009年10月22日

あらさがしのお好きな方へおすすめの掌編

あらさがしが好きな人がいる。
他人の小さな失敗や思い違いによる過失を本人にこっそりと指摘してやるのではなく、無知だ、常識がないなどと大げさに取り上げて世間の目にさらす。

そういう人の特徴として「正義」とか「良識」といった言葉を好む。
もちろん自分に正義があり、良識がそなわっているという過剰な自負もある。
それだけに周囲の人間にとっては、迷惑このうえない存在となる。


その手の滑稽な人物を取り上げた小説がいくつかある。

人間観察において精緻をきわめるチェーホフも、わずか7ページほどの初期短編『下士官プリシべーエフ』で、そうした人間の悲哀をユーモラスに描いている。

主人公のプリシべーエフは、退役軍人で「秩序」こそが健全な社会を作るものだという考え方の持ち主。
だから庶民らが、夜中まで焚き火を囲んで談笑したり、歌をうたって遊んでいるのを見つけると許せない。

「火をたくんじゃない!」

「歌をうたうな!」

女たちがうろうろすると秩序が壊れるからと、まるで舅のように目を光らせ、「解散!」と怒鳴って追い払う。

巡査や村長にもいちいち報告するのだが、彼らはいっこうに動こうとしない。
無秩序状態を招いている巡査や村の役職者たちも彼から見れば怠慢だと、彼は怒って、意識が低い、民度が低いだのとののしって侮辱するのだ。


その結果、彼は、巡査他6名から「侮辱罪」で訴えられ、裁判にかけられる。

小説は、そのシーンから展開するのだ。

村人の証言では、そのプリシべーエフが除隊してからの15年間の村の生活はめちゃくちゃで、村から逃げ出したいというほど、たいへん迷惑をこうむっているのだと明かされる。

しかし、当のプリシべーエフは、なぜ迷惑がられるのか、そこがわからない。
そのわからないところのズレが、なんとも面白く読める。

プリシべーエフは、こう言う。

「わたしは万事秩序を心得ておるのです。ところが、百姓めらは単純な人間で、なにひとつわかりゃせんので、自分の言うことをきかなければならん。そうすることがやつらのためです」

今どきの言葉でいえば、「上から目線」で物事を見て、自分以外はロクなもんじゃないと思っている。
チェーホフは、そうした人間がいつの時代にもいて、それがいかに滑稽なことか。
それを主題に作品を書いたのだろう。


裁判でプリシべーエフは「禁固1ヶ月」を言い渡される。
もちろん、なぜ有罪となったのか、本人は最後までわからない。

チェーホフは、裁判が結審して村人たちが退席していく最後のシーンをユーモラスに、こう書くのだ。


百姓たちが三々五々、なにごとか語りあっているのを目にするやたちまち彼は、自分でもどうしようもない習性から、両手をズボンの縫い目にあてて、しゃがれた怒声をはりあげる。

「人民ども、解散! かたまってはならん! 家へ帰るんだ!」



おそらく井伏鱒二も、この『下士官プリシべーエフ』を下敷きにして作品を書いているのではなかったか。
井伏鱒二の場合には、さらに滑稽の味つけを強くしていた記憶があるが、その肝心の作品名を失念してしまった。


ともあれ、他人のあらさがしをやって自己満足している人へ、秋の夜長、眠りの前のひとときに『下士官プリシべーエフ』をおすすめしたい。
  
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2009年10月17日

お知らせです

『芳賀徹・東大名誉教授 講演会』が開かれます。

講演の主題は、「もののあはれの系譜」です。

歌人の斎藤茂吉、蕪村、芭蕉らの作品と枕草子に触れながら人生を説く、という副題がついております。


・日時 10月19日(月)午前10時より12時まで。
・会場 金井商工会議所 2階ホール(佐渡市千種)
・入場無料です。

・主催 芳賀徹・講演会実行委員会
・後援 佐渡市教育委員会 佐渡 山草会



「もののあはれ」は、源氏物語など平安時代の文学を研究した本居宣長が提唱したもので、日本人の精神の根幹とも言われております。
その系譜をたどる今回の講演は和歌をたしまれる方のみならず、自然の豊かな島に暮らす者には、たいへん貴重な内容となるでしょう。

なお、芳賀徹氏の経歴などについては、こちらを参考にしてください。

  
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2009年10月14日

サザエの話・2

サザエご飯、作りました。


サザエご飯











「サザエは嫌い」というチビ姫1号には、サザエご飯であることを言わずに茶碗に盛っておきました。


「いただきます」

チビ姫1号は、さっそくサザエご飯に箸をつけました。
彼女は炊込みご飯が大の好物なのです。

その姿をチラチラと横目で観察していましたら、彼女は、こう言いました。

「おいしいィ〜!」

続けざまにご飯をかき込みます。
そして、こう言いました。


「これに山椒の葉っぱをのせるといいんじゃないの」


しぶい申し出だと思うでしょうね。
理由はあるんです。

タケノコの季節に彼女は、木の芽を取る係だったのです。
タケノコご飯やタケノコ料理が作られた時、彼女は庭にある山椒の木の新芽を採取して、洗い、それから手のひらにのせて「ポン」と叩いて香りを出す作業が楽しかったらしく、鮮明に記憶していたようです。



「これ、タケノコご飯じゃないし、いまは山椒の葉が出る季節でもないからね」

と説明してから質問してみました。

「なにが入っていると思う?」


「ええと、サザエ?」と、尻上がりの疑問型の口調で答えました。

「ピンポ〜ン」

「やわらかいからおいしいね。お刺し身は、ちょっと固いから」


ふだんは茶碗1杯しか食べないのに、おかわりをしていましたから、間違いなくサザエをクリアしました。
刺し身は、大人になればあのコリコリとした固さも、ほろ苦さも、味わいのひとつなのだとわかるようになるでしょう。


サザエご飯は、ちょっと面倒だと思われがちですが、そんなことはないのですよ。
殻から身を取りだすのは、サザエをいったん湯の中で1、2分茹でればいいのです。

それを小さなフォークでチクっと差し、クルクルとまわしながらやれば、簡単に肝まできれいに取りだせます。

問題は、その茹で汁をご飯と一緒に炊くかどうか。
今回はチビ姫1号に食べさせるためでしたから、茹で汁は使いませんでした。
サザエ独特の風味が逆効果になりかねないと判断したのですが、大人だけならば茹で汁とともに炊いた方が苦味をともなった強烈な磯の香りを楽しむことができるでしょうね。

米に水を張り、コブを入れ、薄く切ったサザエを投入(炊きあがってから投入した方が身はさらに柔らかくなるそうですが)。
酒、醤油、塩少々、それにショウガのみじん切りを入れて、スイッチオン。


ワタクシの狙いは、肝です。
これを下の部分だけを切り落とし、味噌に漬け込んでおくのです。

酒の肴に、そのまま食べてもよし。
包丁で叩いてペースト状にし、パスタのソースとしてつかってもよし。
濃厚なうまみがパスタにからみついて、これは絶品です。
ただし、肝の量が多すぎるとむつごくなりすぎて、せっかくのパスタが台なしになってしまいますので、ご注意。

ええ、アタクシ、一度、大失敗をしておりますので、よくわかります。
隠し味程度の量と心得ることですね。


じつは、このパスタもチビ姫1号は、この夏に食べているのです。

「おいしい」と絶賛していましたから、食いしん坊の彼女が小学校の高学年にもなれば、サザエの刺し身、壷焼きも食べられるようになるのではと楽観視しておるのですが…。


ムコ殿、いただきましたサザエは、こうしてきれいさっぱり腹の中におさまりました。
ゴッツァンでした。


ちなみにチビ姫1号は「アワビが好き」と言っておりました。
ついでに爺のワタクシは「アオリイカも大好き」と、さりげなくお伝え申し上げて、ご報告とさせていただきます。


  
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2009年10月13日

サザエの話

藤沢に住んでいた頃、江ノ島あたりを散策し、ついでに昼間からやっている屋台にもぐり込んでサザエの壷焼きやおでんを肴に酒を楽しんでいた。

15年ほど前の頃でもサザエの壷焼きは800円ほどだったのではあるまいか。
サザエ独特の苦味がクセになる味わいでチビチビとつつきながら生ビールをゴクゴク、安酒をクイクイとやったものだった。


ところが、佐渡へやってきて驚いたのは、そのサザエの安いこと。
なのにふんだんにとれるせいか、佐渡の人たちはなかなかサザエに手を出さない。


真夏の野方ガーデンでも、アワビもサザエも炭火で焼くが、

「サザエを焼いたら、焼いた者が責任を持って食えよ。自己責任だからな」

という鉄則ができるほど、サザエはあまりぎみになる。


しようがなく、

「こんなにあるんだから1個ぐらい食えな」

と、焼き係がそれぞれの前に半強制的に置く。



もっともアワビとサザエ、どちらかを選べ、と言った場合、

「オレはサザエだ」という人はいないだろう。

アワビの奥の深い滋味を一度知ったならば、やはり、アワビ党になるのは仕方がないけれど…。


そういえば網走では毛ガニを「面倒だから食わない」という人がけっこう多い。
殻をむくのが面倒だから「むいてもらえれば食べる」というのだ。
それよりも関節部からスポンと身の抜ける大きなタラバガニの方がいいというのだ。

これまたととんでもなくぜいたくな話である。




先日、娘夫婦がやってきた。

「これ、今朝とれたやつです」
と、ムコ殿が大きな発泡スチロール製のクーラーボックスを置いた。

開けて見ると、大きなサザエがどっさり入っている。
江ノ島あたりへ持っていって壷焼きにして売れば3〜4万円も売り上げるだろうというほど入っている。

さっそく15個分を刺し身にしてみた。


   サザエ













刺し身には目のないチビ姫1号が大喜びするだろうと思ったが、

「サザエは、いらない」というのだ。

「なんで?」

「アワビは好きなんだけど…」

「…」


むむ、すでに一人前の佐渡人になってしまっているのか。


しかし、佐渡に住みながらサザエが好きではないとはいうのはいかにももったいない。
必ず克服させてやろうとひそかに思っている。


今日は、とりあえずサザエご飯を作ってやろう。  
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2009年10月11日

ダジャーレ・ヌーボー


最近、チビ姫1号(6)が言葉遊びを覚えたようで、低レベルながらダジャレを言うようになった。

といっても、誰かが言ったのをマネしてのことで、覚えたてのダジャレを言っているにすぎない。

たとえば、「馬が草をうまそうに食べてる」とか、「梅はうめ〜」の類で、当意即妙というレベルに到達するにはまだまだである。



昨日、台風18号の強風でイガグリもかなり落下しているにちがいないからと、犬の散歩がてら栗拾いに行くことになった。

さすがにあの強い風で、農道のあちこちにイガグリの姿が見えた。

チビ姫1号は、大喜びで駆け寄った。

ところが、どれもこれも肝心の中身がない。
イガだけが転がっているだけだったのだ。


「たぶん、動物が食べたんじゃないかな。拾いにくるのが遅かったね」

そう説明してやったら、チビ姫1号が残念そうに、こう言った。



「栗がなくて、がっくりだね」



これぞ、正真正銘のダジャレ。
しかも、初めて聞く当意即妙のダジャレである。

「うまい、栗だからガックリね」
とほめてやったら、まんざらでもない表情にかわり、栗を拾えなかった無念さも飛んでしまったようだ。


この“ダジャーレ・ヌーボー”は、数年後、どう熟成するだろうか。
少なくとも、わたしや、ダジャレ名人・合氣堂氏の“オヤジギャグ”に対して白い目で見るようなことにはなるまい。

と思いつつも、「爺のせいで“オヤジギャル”って言われるんだよ」なんてことになりかねないか…。

ま、なるようになるさ。


  
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2009年10月06日

勇気ある散歩


犬と散歩中、およそ5メートル手前で異様なモノを目にし、わたしは立ち止まったまま動けなくなってしまいました。

ヘビらしきものが、とぐろをまくという感じではなく、こんがらかっている様子で、こんもりと盛り上がっているのです…。




わたし、なにが嫌いって、ヘビほど嫌いなものはありませんから、連れの犬が前へ行こうとするのをとどめて、じっと観察していました。


なにしろ狭い農業用の砂利道の、ど真ん中。
家へ帰るには、そこを通らなければならないのです。



どのくらい時間が経ったでしょう。

ヘビのようなものが、ピクリとも動かないので、わたしも勇気を振り絞って接近しました。
もしかしたら脱け殻なのか、と考えてみたのです。

そ〜っと近づきました。
連れの犬がヘビのようなモノを追っ払ってくれればいいのに、と思いながら犬の様子をうかがいますが、そのヘビのようなものの存在にすらまったく気づいていないのです。

役立たず! と叫びたい気分でした。



そして、こんがらかったヘビのようなものを横目で見ながら、道の端っこを足早に通り過ぎました。



やっぱり、ヘビでした。
それも脱け殻などではなく、生きたヘビのようです。




しかし、なにか、ヘンです。
どうみても、こんがらかっているように見えるのですから。


そこで、いったん通り過ぎた道を勇気を振り絞って戻ってみました。


そ〜っと近づいていきましたが、そのヘビのようなものは、まるで動きません。

そこで、さらに接近。
さきほど振り絞った勇気を、さらに振り絞り、携帯で写真を撮ってみました。

それが、これです。


カエルを食うヘビ

よくわからん?
もっと近づいて写せと?

いやいや、大嫌いなヘビに、これほど近づいたのは、わたし、人生、初めてのことですから、これが精一杯。




これ、2匹いるのでしょうか?

それとも1匹のヘビが、かなり大きなカエル(あるいは、他の生物)を食わえ込もうという、その瞬間なのでしょうか。

確かめる勇気まではわたしにはありません。
写真を撮り、大急ぎで、その場を離れたのでした。



それ以来、といっても今日ですが、偵察隊のごとくキョロキョロと目を動かし、ヘビが出てきませんように、と祈りながらの散歩となってしまいました。










  
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2009年10月05日

○○さえなければ…

○○さえなければいい奴なんだけどな、と本気で思うことがある。

その○○のなかの言葉は人それぞれだけれども、総じて○○によって人格が変わってしまうというケースが多い。

最近では「パソコンさえなければいい奴なんだけど」と思うような人物が意外に多いことを知った。

直接会っていればとても穏やかで物分かりのいい人なのに、インターネット上の匿名での書き込み、ブログなどの文章を読むと、これが同一人物か、と思うほど攻撃的に変身する。

車の運転席に座った瞬間から人格が変わるという人もいるけれど、「なくて七癖」という人間の不思議な一面をかいまみる思いだ。



昨日、「中川昭一氏死去」の報が流れた。

この方こそ「酒さえ飲まなければいい奴だったのに」と本気で思った。

政治的、思想的なポジションは別にしても、たいへんな勉強家で、政策にも長けていた。
相手を恫喝する目にも力があり、国際政治の中で活躍できる人だったのではないかと想像する。

将来、民主党に対抗する保守派のリーダーとしての存在感を示しつつあった。

が、酒が彼の人生を狂わせた。

といって、酒のせいにしてもいけない。
それはパソコンに触ると人格が変わる、という場合にパソコンがいけないのだ、と言っているようなもので、昭一氏の場合も、酒に逃げざるをえない何かを心の中に抱えていたということだろう。


昭一氏の父で「北海のヒグマ」と言われた中川一郎氏が亡くなった時、その死に至る原因について、さまざまな憶測が飛び交った。

いまでも他殺説を語る人物もいるほど、謎の多い死だったが、わたしは、当時、北海道広尾町の一郎氏の実家で、ある情報を耳にした。

亡くなられて10日ほどしか経っていない頃だったので、

「いまはなにも話すことはありませんよ」

と言われたものの、仏壇に線香をあげて手を合わせるために一郎氏の弟夫婦の住むお宅に上がった。

手打ちの蕎麦をごちそうになったことまで記憶している。

世間話程度にしか話を聞くことはできなかったけれど、その何気ない言葉の中に将来、昭一氏が酒に溺れざるえないような種子をかぎとった。

そのことについて、ここで詳しくは書けないが、彼の強気とも思える政治信条の背後には、ある弱い一面を覆い隠そうとする無意識の力が働いていたからではないのか、との思いを強くした。

東大法学部卒、日本興業銀行、二世議員、政界のエリートと、たいへん恵まれた人生を歩んでいるように見えたけれど、
「酒さえ飲まなければ…」と周囲が簡単に言うことも、本人は簡単に割り切ることができなかったに違いない…。

「ごっくんはしていない」
と言った後の彼のイタズラっぽい表情が、いつまでも思い出される。


合掌  
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2009年09月29日

感謝知らず

井上陽水の初期の作品に『感謝知らずの女』という楽曲がある。
アルバム『氷の世界』に収められていて、初めて、この曲を聴いた時はニヤリとさせられた。

しかし、その後、時間が経つにつれ、まだ20代だった井上陽水が、女性の、というより人間のもっている欲望の深さについてユーモラスに表現している、その老成した才能に驚いた。

「限りないもの、それは欲望」というフレーズが耳から離れない。

そして「感謝知らずの女」がリフレインされる。


わたしにとって井上陽水のベスト3といえば、まずは、この曲が、どうしようもなく上がってくる。
なぜなら結婚してからというもの、何度、この曲を思い浮かべ、ひそかにつぶやいていたことか…。




先週土曜日の夕餉の時刻だった。
奇楽庵が、突然やってきて熱い土鍋をテーブルの上に置いた。

「食べて下さい。今朝、釣った魚を鍋にしたんだけど、一人じゃ、とても食い切れなくて」というのだった。


彼は翌朝の一番の船で旅に出るという。
そのために今夜は遅くまで仕事を片づけねばならず、ゆっくり飯を食う暇もないどころか、何時に眠れるか、などと説明、あわただしく店に戻っていった。


鍋の季節には、ちょっと早いけれど、これはありがたいと、さっそくいただく。

驚いた。
これが、ひどくうまいのだ。
白身の魚と野菜を塩で味付けしてあるだけなのに、その濃厚なこと。

それこそコラーゲンがたっぷりで、魚には目のないチビ姫1号は箸でせせるのがまどろっこしいとばかりに手づかみでしゃぶりつく。
ベとつく指先にも味がついているのか、さかんに舐める。


「この魚、なんて説明していた?」と、わたしは尋ねると、

「マダラだったけ?」と、息子がいう。

しかし、この濃厚な味わいは、マダラのそれではない。

「マハタと言ってなかったか?」と、家人の方を見ると、

「なんだったか、忘れた。だけど、美味しいね、これ。すごい濃い味だよね。野菜にも味がしみているし」

そういってチビ姫1号に負けず、バクバクと食べ、骨までしゃぶり、目玉の回りのコラーゲンを、うまそうにすすり、ほうばった。

内蔵も入っている。
ふんわりと大きいのは、肝だろう。
コリコリとした歯触りは、胃袋のようだ。



「おお、腹いっぱいだ。なんだか、そんなに食べていないのに、すごい満腹感だね」
と息子が箸を置いたら、それを受けて家人が、

「栄養がいっぱいだから、少しの量でもお腹がいぱいになるんだね」

と満足げに言った後、やっぱり、きた。


「だけど、これ、すこし濃すぎるね。むつごすぎる。わたしも、もういいわ」と言ったのだった。


これだ。
さんざん食べておいて「もういいわ」とは、なんて言い草だと思うが、これまた家人の真骨頂。

わたしの心の中で、さっそく井上陽水が、うたいはじめた。


♪感謝知らずの女、感謝知らずの女、感謝知らずの、お〜、ん〜、な〜♪


ちなみに、その魚は、コレだった。

詳細は、今朝、島に戻ってきた奇楽庵が追って書いてくれるだろう。
といっても、新潟の古町で朝方まで酒を飲んでいたようだから、すぐに更新はされないに違いない。

それにしてもマハタという魚、うまいの、なんのって、それは驚愕の味といってもいいものだった。

佐渡にはまだまだ滋味たっぷりの“幻”と言われるようなモノがひそんでいるのではあるまいか。

そんな豊かな佐渡、それを釣り上げた奇楽庵、そして船を出してくれた会長に、感謝!

  
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2009年09月27日

09 秋場所千秋楽



千秋楽で優勝をかけての横綱対決、やはりいいですね。

たまりません。

他の相撲とは、まるで迫力が違いましたね。



長年、相撲を観てきましたが、仕切りというものが、これほど美しく輝いて見えたのは、わたし、初めてのことです。

両横綱が、蹲踞(そんきょ)したまま静止するのです。

ピタリと止まって動かない。

その時間の長いこと。

気と気が真っ正面からぶつかり合っているのがテレビ画面を観ていても、はっきりとわかりました。

火花を散らすなんてありきたりの表現は使いたくないのですが、まさに火花がバチバチと散っていました。

それからゆっくりと仕切る。

呼吸もピタリと合っているのです。

そして分かれて、塩を取りにゆく。

観ているこちらが、フーと、ためていた息を吐き出すほどに緊迫感が伝わってきました。



そして、また蹲踞したまま、ピタリと静止。

気の闘いに、観衆はどよめき、拍手がわきだすように館内をおおう。

こんなにすごい仕切りを二番も見せていただいただけで感謝です。



結果は本割りで白鵬が勝ち、決定戦で朝青龍が勝って優勝を決めましたが、それは二の次です。

とにかく、両横綱の気迫の相撲の見事さに酔いしれました。


ただ、この結果によって「朝青龍・白鵬時代」は、まだまだ続くのだな、と実感。

仮に白鵬が優勝していたら「白鵬時代」になったかもしれず、そうなると、なにやら具のない味噌汁を飲んでいるようで、ひどくつまらないものになってしまいますから。


それ以外にいろいろと書きたいこともありますが、今回は、両横綱の気迫の二番だけにしておきましょう。

おそらく横綱審議委員会、とくにウチダテのおばちゃんも、今回は、そううるさいことは言わんと思いますよ。


というわけで、次は九州です。

白鵬のリベンジ場所というわけで、たいへん楽しみですね。

  
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2009年09月24日

09 秋場所雑感


場所前の下馬評とはうって変わって、朝青龍の調子がいいようですね。

名古屋の大の大相撲愛好家で知られる“自称・朝青龍の愛人の御方”は、ただひとり全勝街道を突っ走る雄姿に鼻息を荒くされていることでしょう。


びっくりしたのは初日の相撲。
朝青龍は、なにを考えているのか、あの巨漢の把瑠都を二度も吊り上げたのです。

まさか荒技の吊り落としで把瑠都をしとめてやろうなんて無茶なことを考えていたわけではないでしょうが、この相撲を見て、朝青龍のやんちゃ相撲が戻ってきたか、とほくそ笑んでいたものです。


それでもって中日でしたか、対玉乃島戦で見せた、あの「ひざげり」まがいの手と脚を使った送り出し。

朝青龍というのは勢いのある時ほど、ウチダテのおばちゃんの眉間にシワが寄るようなことをしでかすのがこれまでのパターン。

とくに朝青龍は頭で相撲を取るタイプではありませんから、しようがないのですね。
反射神経の塊といってもいいぐらいで、体が反応してしまう。

ま、佐渡ヨコチン(横綱珍議委員会)から見れば、どうってことのない些細な出来事でした。



むしろ問題にしたいのは、白鵬です。

6日目、翔天狼に負けた一番。
負けるはずがない、と高をくくっていたのでしょうね。
負けた後、礼もせずに土俵をおりた姿はいただけませんでした。

つまり、無礼なのです。

礼に始まり、礼に終わる。
これぞ、日本武道の伝統。
それを横綱がけがす行為をしでかしたのですから、これぞ重大問題。

同じことを朝青龍がやれば、ウチダテのおばちゃん、すかさず吠えて、噛みつき、翌朝のスポーツ紙、ワイドショーの大喜びネタになっていたでしょうね。


白鵬は、朝青龍とは正反対で理詰めの頭で相撲を取るタイプです。

あの仕切りの所作を見ていれば、わかります。
ゆったりと時間をかけて仕切る姿を見るにつけ、大物の風格を漂わせようとの計算が働いているように思え、どうにも落ち着きません。

しかし、まだまだ付け焼き刃の大物ぶりですから、負けた後の「礼」がすっぽりと抜け落ちてしまったと、そういうことではないかと想像します。



さてさて、大関陣です。
先場所から佐渡が嶽部屋の2大関が頑張っておりますね。
そうはいっても、ともにチキンハートの大関ですから、終盤になって「ここ一番」という時に、またやらかすだろうな、と思っておりましたら、さっそくやってくれましたね。

まずは、琴光喜。
日馬富士をせっかく土俵際まで追いつめたんだから、脇を締めて頭を下げ、一気に押し出せば、勝てた相撲。

それなのに琴光喜ときたら、なに考えてんでしょ。
あんな土俵際で脇をあけてガバッと左上手を取りにいくなんて…。
まさか、上手投げでもやろうと?

追いつめられていた日馬富士、上手を取りにきた瞬間にすかさず腰をかがめ、もろ差し。
さすが、朝青龍に次ぐ反射神経の持ち主、日馬富士です。

そのまま電車道よろしく反対側の土俵際まで琴光喜をもっていき、寄り切っちゃいました。

琴光喜、あえなく2敗目で優勝戦線から離脱。


それを土俵下で見ていた琴欧洲に、チキン菌が感染。
魁皇に、とったりで体を崩されて、そのまま押しだされ、これまたガン首そろえて2敗目。

魁皇、立ち合いの時に、仕切り線の右側に寄っていたんだから、上手狙いにくるな、と素人だってわかります。
なのに、琴欧洲ときたら、なんの対策もせず、そのまま素直に立ち合って、予想通りに左腕を取られ、絵に描いたような負けっぷり。

このあたりで星のつぶしあいをやられると歯がゆいものですね。


それで千代大海が、来場所14度目のカド番って、大相撲ならびに相撲ファンを完全にナメてますね。
休場を決めた、と聞いた瞬間に、引退だなと思ったのですが、どうも次の九州場所に出場するようです。

九重親方も引導を渡すのかと思いきや、さにあらず。

記者団に向かって「なんでやめる必要があるの」と言い放ち、

「来場所ダメでも、その次に10番勝てば大関に戻れるということだってある」

なんてことを言うのだから、どうにもなりません。

なんで、こんな無様ことを大関にやらせるのでしょうね。

推測ですが…。
九重部屋から千代大海がいなくなれば、あとは十両に千代白鵬がいるだけで、ほかはすべて幕下以下。

つまり、千代大海だけが九重の金ヅルなのでした。

そんな無粋な話は置いて、全勝の朝青龍、そして1敗で追う白鵬、素晴らしい展開です。

残り4日、いい相撲だけを期待しております。  
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2009年09月17日

言葉の選び方について

使いたくない言葉というものがある。

ひとつには、差別的な表現にかかわる言葉。

脈絡の中で、どうしてもその言葉を使わねばならないという状況でないかぎり表現を変える。
言葉をつむぐという作業には、そうした努力が必要だと考えている。

たとえば、「お里が知れる」という言い方がある。
わざわざ使用する必然性があるのかどうか、立ち止まって考えなければならない言葉だと思う。

本人の努力では変えようのない事柄というのがある。
たとえば、親を選ぶことはできないし、生まれ育った土地、その環境にしたって本人の意思では変えようがない。

したがって、それをわざわざあげつらって書いている文章にあたると、たいへん不愉快な気持ちになる。

「お里が知れる」という言葉には、そうした意味合いが含まれていることを知っておかなければならない。


同じように「河原乞食」という言葉も、わたしは必然性を感じなければ使わない。
この言葉には何より人を蔑むような意味合いがこめられているからだ。

もちろん、芸人や役者の中に自らを戒めるために「河原乞食」と称する者を時々見かけるけれど、こちらは、逆に芸人としての心意気を感じる。

しかし、芸人でもない人間が誰かをさして、あるいは一般論としても「河原乞食」という場合は、無意識だからこその根の深い差別の意識がひそんでいるように思える。

したがって、わざわざこの言葉を使用する人間に品性の下劣さ以外の印象をもつことはできない。


じつは、こうした人を見下すような言葉を使って佐渡の人々のブログを批評、あるいは、社会時評を書いている者がいる。
批評に堪えるだけの表現力を持たないのに評論という難しいことやっておられるようで、どうにも危なっかしい。

やっかいなのは、本人は自身の文章にたいへん自信をもっておられる様子であること。


「文章を読めば、どのレベルまでの国語教育を受けたかがすぐにわかる」

「大卒と中卒とでは、決して学歴で差別するわけでは無いけれども、きちんとした論文を書く訓練を受けた人と独学とではその差は歴然!」

などと言いきり、本人は最高学府での国語教育をお受けになった、とは書いていないけれど、言外に、それをほのめかしている。
つまり、高い教養を身につけておられるようなのだが、その一方で、表現が、時々、乱れる。

『ブロガーの心構え』と題する一文の中に、こんなくだりがある。


「島内ブログには、ちゃらちゃらとした、まるで中身のない高校生が書くような携帯絵文字を多様(ママ)した幼稚な内容の記事をアップしているしょんべん臭い小娘ブログのようなものがある。れっきとした主婦が書いているようなのだが、よくもまああのような記事をネット上に晒し続けられるものだと思って逆に感心しています。」


これだけを読むと、書き手が高い教養を身につけた女性であるとは思えない。

そして、その一文は、こう締めくくられているのだ。


「このブログの書き手の教育レベルなどは推して知るべしだが、お里はとうの昔に知れています。毎日熱心に更新する姿には敬意を表したいけど、現代国語の勉強を一からやり直した方がいいかもね。」


ここで「お里が知れる」と使う必然性はあるのだろうか?
わたしは、それだけでこの書き手のセンスを疑う。
もっと違う表現がたくさんあるはずなのに、わざわざ反発を買いかねない言葉を使用しているのだ。

もしかしたら「お里が知れる」という言葉の意味について無知なのか、それとも語彙が不足しているのか、と想像するが、本人は自分のことは棚に上げて、佐渡のある人物の運営するブログについて、こんな批評を行っているのだ。


「このブログは、典型的なおやじブログ。人物を観察してもボキャ貧なので大向こうをうならせるような描写ができない。」
とバッサリと切る。

といっても、他人のブログを批評する者が堂々と「典型的なおやじブログ」と、ひどく陳腐で、カテゴリカルな言葉をおざなりに使っている。

わたしから見れば、こういう表現こそ“ボキャ貧”だと断じたい。


この「典型的なおやじブログ」と評されたブログは、写真を中心に、キャプション程度の短い文章が添えられているという構成。

つまり、写真から伝わってくるものこそが、このブログの本質であり、人と人とのつながりや、日々の暮らしぶりなどが、淡々と、素朴な短いセンテンスで表現されている。

そして、時々、唐突な駄洒落があって、これが読み手に安心感を与える効果を持ち、そのブログで紹介されている地を警戒心なしに訪ねることができるのではないかと思う。


そういうブログなのだから評者が言うような「大向こうをうならせるような」表現など必要ともしていないし、本人も求めていないのではなかろうか。



いったい、この評者は、なにを目的にして他人のブログを取り上げて、わざわざおとしめるようなことを書き散らしているのだろうか。

アクセス数やランキングについてのこだわりが強いようだから、もしかすると他人のブログに対して“辛口評論”を行うことによって、自らのブログに注目を集めたいとの狙いだろうか。

それはそれで構わないけれど、人の営みに対する優しい眼差し、深い洞察力を養う必要がある。
そうすれば人をおとしめるような言葉遣いなどせずに済むし、ブログ評論として期待される存在になるのではないだろうか。

  
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2009年09月14日

文章の品性について 


ずいぶん以前に読んだ一文が、時折、思い出されることがある。

詳しく知りたいと思い、調べてみようと思い立つのだけれど、それがどの本に書かれたものだったか、判然としないことが多い。

しっかりとメモをとっていればいいのだけれど、本を読む勢いが勝ってしまい、その結果として大ざっぱな記憶しか残らない。
文章の輪郭はわかるのに細部、核心がつかめないで、歯がゆい思いをする。


その一文は、昨年亡くなられた加藤周一さんの著作であることはわかっていた。

そこでインターネットで佐渡の図書館のサイトに入り、検索してみる。
51件もヒットしたが、すぐに、そのタイトルを思い出した。


昭和46年に新装版として出版された『文学とは何か』だった。

図書館に行き、目当ての一文に再会、思わず、これだ、これだ、と叫びたくなる。


さて、その一文、なぜ思い出したのか。
インターネットに氾濫する文章、とくに匿名で運営されているブログの中に人を蔑むような文章表現が目についたからだった。

もちろん、自分もブログを運営している身としては、こうしたことは決して他人事ではない。
無意識のうちに他人を傷つけていることも十分考えられるので自戒の意味をこめて、その一文を引用する。

以下、加藤周一著『文学とは何か』から引用。


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フランスの小説家ジョルジュ・デュアメルには、第一次世界戦争の挿話をあつめた『文明』という本がありますが、彼は、その本のなかで、文明とは、汝の隣人を愛せよという言葉を理解し、実行すること以外のなにものでもないといいました。これは文明という言葉のもっとも深い、またもっとも美しい解釈だろうと思います。

文化は個人の、文明は社会の問題ですが、いずれにしてもその根底は何が人間的であるかということにかかり、人間の問題でない文化や文明はあるはずがありません。ありそうにみえるのは、みせかけだけで、化けの皮はさまざまの機会にはげるものです。

現にわたくしは、そういう人物に会ったことがあります。そういう人物の多くは、金をもっていて、金のために、豊かな趣味を育て、高い教養をつむことのできた人たちです。衣服の趣味もよいし、言葉づかいもものやわらかです。外国の芸術について巧みに語ることのできる人であるし、日本の舞いに長じ、日本の舞台芸術の微妙なアジをこまかく味わうことのできる人もあります。

しかし、彼らが成り上がりであれば、とりひきでないつきあいにも金の話をもちだすでしょう。成り上がりでなければ、金をもたない人間を決して対等の人間として扱わないでしょう。わたくしはそういう人物と相対しながら、趣味の洗練や芸術的教養の豊かさだけが、文化や文明ではなかろうということを何度も感じました。

身についた芸も、美しい趣味生活も、多くの知識や気のきいた精神と同じように、それが芸術に対する人間的な評価を育てないかぎり、またそれがその人の品性を下劣さから救い人間的にたかめないかぎり、文化でもなければ、文明でもない。ほろびてもさしつかえないものです、金もちとともに文化がほろびるだろうという文化主義者の心配は、どうも余計な心配のように思われます。


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解説するまでもなく、たいへんわかりやすく書かれている。
これが旧版として1950年に出版された著作の中の文章なのだろうかと考えさせられるほどの明晰さで、インターネット社会に生きる小金をもった現代人に痛烈に語りかけてくるようだ。
  
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2009年09月03日

世の乱れ、目に余ります

世の中の乱れ、目に余る。

なんて年寄りじみたことは言いたくはないけれど、人間の質が落ちるところまで落ちている。



ヤクザが「ペコちゃん」を盗んだ。
男としてのケジメ、そのためにも格好をつけ、筋を通すのが表向きのヤクザ稼業と思っていたが、ペコちゃん人形を盗むなんざ、お笑いのネタ並みの間抜けぶり。

昔、ある年配の親分さんが嘆いていた言葉を思いだす。

「近ごろの若いものは、本当にダメだ。残業代を出して欲しいなんてぬけぬけと言うんだ。それが出ないのなら、ガードマンを雇ってくださいとまで抜かしやがった」

これだって、お笑いのネタになりかねない話。


          ※


ヤクザが、ペコちゃんを狙っているスキに、佐渡市の職員、中学生の女の子を斡旋して売春行為をさせ、摘発された。

この職員、公園管理の仕事をしていたらしいが、まさか売春の管理までやっていたというのだから、高野親分、ではなく高野市長、この始末、どうつける。


          ※


ついでにいえば、日本のマスコミの、鳩山民主にすり寄る姿、あまりにも情けない。

連日、鳩山一族、および、鳩山ファーストレディについてのヨイショ企画をタレ流す。

鳩山代表の献金問題は徹底的に追及しなければならない、と語気を強めておしゃっていたテレビのコメンテーターさえも、スリスリ。

バランスをとるためか、「アメリカは、鳩山民主の外交、安保など、日米同盟に懸念を示している」とか、「鳩山代表は、その論文でアメリカを攻撃している」などと、アメリカの反応をセンセーショナルに報じて、“虎の威を借る狐”体質丸出し。


          ※


寿命数日の麻生総理、若い記者たちへのイヤミざんまいの返答のみっともなさ、まさに目にあまる。

格好をつけられないほどのダメージを受けたのはわかるけれど、もうちっとは強がる姿を見せてくれなければ、落ち着かぬ。

これからの麻生さんに必要なのは、愛読しているらしい『ゴルゴ13』の上っ面の強がりではなく、日本人の内面にある“やせ我慢の美学”をコミカルに表現している『フーテンの寅さん』じゃなかろうか。

  
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2009年09月02日

保守の魅力?


麻生さん、最後ぐらいは、きれいに、美しく終わっていただきたいと期待するも、どうもいけない。

相撲で言うならば、横綱麻生が、大関鳩山にぶん投げられて土まみれになって敗けたとしても、しっかりと相手の目を見て礼をした上で土俵をおりるのが、当然。

そういう姿を国民に見せることが、自民党再生の一歩だと確信しているけれど…。


麻生さん、国民に「ノー!」を突きつけられた、その2日後の9月1日に消費者庁を新たに発足させ、しかも、長官には民主党の嫌がっている官僚出身者を据えるなんて、あまりにも醜悪。

まるで、相撲に敗けた横綱が腹いせに土俵にツバでも吐いているような醜さ。


少なくとも「政権選択」のかかった選挙で国民は民主に308という大量の議席を与えて、自公連立政権を拒否したのだから、消費者庁のスタートは、民主にまかせるのが筋。


こんな風に国民をコケにしつづけたことが大惨敗の原因であることにも、麻生自民が気づかないところが、じつにおめでたい。

なにしろ、惨敗記者会見で、麻生さん、こんなことをおしゃった。


「自民党への支持率というものが低下している原因の1つに、自由民主党が、いわゆる“保守の魅力”というものを十分に発揮できていなかった」


“保守の魅力”なんて言葉を使うから、あえて相撲でたとえてみるけれど、この人、横綱になる力量も、器量も、それこそ品格もなかったのに自民党内の人気投票でうっかり横綱になってしまっただけの話。

したがって負けた後の態度も、どうもいけない。


“保守の魅力”というのならば、国民の意思を尊重して新たなことには一切手をつけず、麻生、鳩山のトップ同士、誠意をもって引き継ぎを行い、去り際を美しく飾っていただきたい。



  
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2009年08月31日

メディアの掃除


民主の大勝ち、予想通り。
というより、勝ちすぎか。

問題は、今後のメディアの出方だな、なんてことをボンヤリ思いながら、“キッチン・野方”でジンギスカンをつつきながら、祝いの酒を飲む。


午後6時半頃、出先のわたしの携帯に、

「ジンギスカンやりませんか?」

と、奇楽庵からメールが入った。


立ち寄ってみたところ、すでに鍋が炭火の上にのっかっていて、準備万端ながら奇楽庵の姿しかない。

つまり、“ひとりジンギスカン”の気配。

これは放っておくわけにはいかぬと、「会長を呼べ」と言い置いて、出直し。


およそ午後8時。
チビ姫1号と、その父親を連れ立って“キッチン・野方”に到着。

「サンマを食って腹いっぱい」という会長も姿をあらわし、ビールで乾杯。


開票速報をテレビで見ながら、ジンギスカンとは、なかなかの趣向。

しかも、自民の大物、次々と敗れ、酒が心地よくすすむ。


小沢一郎がテレビ画面に登場。
すかさずスタジオのNHKの記者が、

「小沢チルドレンが100人ほど誕生し、党内で隠然たる力を持つことになりますが、院政という…云々」

と、さっそく民主分裂の流れを全国民に向かって印象づける。

小沢一郎、憮然とした表情で、

「そういうマスコミのレベルの低さが…云々」

と、記者をたしなめた。


それでもNHK記者、さらに食い下がる。

「閣僚ポストに就くのでしょうか。それとも党内のポスト…」

まだすべての議席が確定してもいない段階、およそ200議席が残っているのに、あまりにもひどい質問。
明らかに小沢を悪者に仕立て上げての民主党分裂の企てとみた。

民主党政権では、記者クラブ制の改革に手をつけるとメディアの側の恐れが、こんな質問にあられてきたのではあるまいか。

政権担当の能力を失いながらも自民党が、これほど長期にわたって政権を維持できたのは、なによりメディアをうまく取り込んできたからこそ。

その癒着の最前線が記者クラブ。
ここをつぶされたら、権力の広報となりさがっているメディア、手足をもがれたようなもの。

だから民主分裂、再び総選挙へと向かわせたいのか、と勘ぐりたくもなる。

このあたり、マスコミも自民党同様、反省力がない。

いかに大手マスコミが、流れを作ろうと画策したところで、インターネット上では、それを暴く記事が提出される。

テレビ、新聞ではお目にかかれない情報にこそ真実が隠されていると、読むものの関心をひき、アッという間に、広がり、今回の民主の大勝ちへと向かう。

官僚組織だけではない。
メディアの掃除こそ、民主党がやらねばならぬ一手ではあるまいか。


なんてことをクイクイ酒を飲みながら、考えるものだから、とりとめもない。

気がつけば、残り議席2つだけとなり、お開きに。

じつに、うまい酒だった…。  
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2009年08月28日

文は人なり、について

「文は人なり」という言葉があるけれど、インターネット上で多くの人の文章を読んでいると、たしかにその人となりがにじみ出てくるものなのだなと、うなづく。

職業的な作家は、いろいろな文体を駆使しての表現を可能にするだけの力量を持っているだろうけれど、それにしても、その人の変えようのない性格や記憶、経験、さらにはその人の意識の特性である志向など、つまり生活史全般が文章の端々に表れてしまう。

ましてインターネット上に氾濫している文章は、その意味でほとんどが無防備だから、その人となりが、あからさまに出てきてしまうことが多い。


たとえば、自分自身を、どんな言葉で表現するか。

僕、ぼく、ボク、ボクチン。
俺、オレ、おれ、オイラ、オラ…。
私、わたくし、わたし、アタシ、あたい、アチキ…。

これらを並べてみるとわかるけれど、どの言葉、どの表記を選択するかによって、その文章全体にニュアンスが変わってくる。

自分のことを「ぼく」と表現して似合うという人はなかなかいない。
大江健三郎ぐらいではないか、と言われたこともあるけれど、あの強面の猪瀬直樹が「ぼく」を多用するので、文章全体がしっくりと馴染まないような気がしてくる。

「俺」というのは、やはり偽悪のにおいを感じるが、若い頃の野坂昭如は、坂口安吾、壇一雄、太宰治の流れの中の最後の無頼派作家とも言われていたから「俺」だったのではないだろうか。


若い人が好んで使う「自分」という言葉がある。
旧軍隊で使用されていて、それが“秩序”を好む体育系に流れ、若い人が「かっこいい」と思って使っているのかも知れない。

ついでに言えば「自分的には」なんて言葉も、便利に使用されている。
自己主張なのに「的」をつけることで曖昧になり、強い自己主張を薄める働きがある。

おそらく人間関係を荒立てず、スムーズにしようという潜在的な意識が、そういう言葉遣いを生みだしているのだろう。
そういう意味で便利な言葉だと思う。

といっても使う使わないは別問題で、わたしは「自分的」は、使いたくない言葉のひとつだ。


「筆者」という言葉を好んで使う人もいる。

これは国語教育の中で「筆者の気持ちになって答えなさい」という形で何度も出てくるものなのだが、自分のことを「筆者」と呼ぶのは、論文などのちょっと固い文章表現に使用されることが多い。

したがって「筆者」と表記をする場合、語尾は「…である。」で終わることが多く、押しつけがましい文章になりがちだ。

流行の言葉で言えば「上から目線」となりかねないから、中途半端に使用すると、反発を招く。


さらに、自分のことを名前で表記する人もいる。
就学前の子供が自分のことを「ノリカはね」と言うが、学校に通い始めて社会生活が深まるにつれ、この言い方はなくなっていく。

しかし、大人になっても、自分を自分の名で呼ぶというのは、よほどの甘えん坊か、自意識の強い人か、ということになる。

あるいは、自分を突き放し、客観的に自己を表現する場合に、自分を名前表記にする場合もある。
まるで小説の中にでてくる人物を描くように、自分を文章の中に置く。
これはかなり難度が高く、それほど多くは見られない。


というように、「自分」をどう表記するかということだけで、さまざまな選択肢があり、その選択によって文章全体の印象が変わる。
もちろん、その選択は、その人の生活史の中から生みだされる。

まして文章全体を検証していくと、さきほど上げたように、性格や、その人のもつ記憶、志向、経験、好み、さまざまなものが出てきて、まさに「文は人なり」となる。

だから、怖い。


たとえば、男が女になりすまして文章を書くとする。
女以上に女らしい文章になってしまうから、不思議である。

よく言われるように、新宿二丁目あたりへ行くと、そこにいるのは、まさに男なのに、女以上に女らしいしぐさ、しゃべり方をする。
それと同じように男が女になりすまして書く文章は、バカらしいほど女らしさを強調したいがための表現を多用しがちだ。

しかし、実際の女の書く文章には、そうした作為をもつ必要がないから、文章全般が自由闊達で、柔軟である。
時には男言葉を使って怒りを表現して、笑わせるということだってやるけれど、男がなりすました女の文章にはそれがない。
せいぜい「おだまり!」なんてオカマ言葉になってしまうのが、オチである。


しかも、文章の内容も、知らず知らずのうちに「自分」というものが出てしまうから、言葉づかいが女なのに全体的なニュアンスに男が出てしまう。

「男の大局好き」というのがあって、生活の細やかなところまでは目が届かない。
しかし、一方、女は逆で、大局などにはあまり興味がなく、生活の細部からの視点での表現が巧みになる。

この大きな違いは、女性誌と男性誌の作り方の違いを見ればあきらかで、ブログの内容を散見していれば、これは女のふりをして男が書いているものだなと、知れる。




インターネット上に氾濫する文章は、まさしく玉石混交で誠実さを感じられる素晴らしいものがあると思えば、なんのためにこんなブログを作成して文章を垂れ流しておるのか、と思うようなものもある。

しかし、やはり「文は人なり」で、多くの人が、そのいかがわしさについて直感的に気がつくものだということを、多くの人が自覚する必要がある。

そうすることによってインターネット社会も、よりいいものに進化しつづけるのではないだろうか。

  
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2009年08月25日

ラストサマー感謝祭

日曜日、午前中から娘の嫁ぎ先からすぐにでも飛び込める海へ行ってきました。
それはそれは、豊かで、美しい海です。

いわば、今年の夏の最後を存分に楽しんで、実りの秋へ向かうために、気持ちの切り替えを目的にした海水浴でもありました。

チビ姫1号から3号が全員そろい、監視役の大人も5名。

波もなく、水温も高く、最高の海水浴日和で、大人も子供も大はしゃぎでした。

水の恐怖感をすっかり乗り越えたチビ姫1号は、浮き輪をつけながらも、水深で3メートルほどのところまで行き、さまざまな魚やウニなどをゴーグル越しに見たようで、大興奮でした。

まさにファミリー海水浴の様相…。



帰り際、地元漁業関係者が、お土産をくれました。

水揚げしたばかりのアワビ、サザエ、岩ガキ、モズクでした。
それも、山ほど。
本当に豊かな海だと、あらためて思いました。




さて、ラストサマーを飾るイベントとして、ワタクシ、先のブログにて、


 その後は、農民音楽家の名曲『御礼』のナマ演奏でも聴きながら一杯やろうと勝手に算段。

 さて、野方ガーデンはいかがなり?


と記したのは、ご承知の通りです。


その返事のメールが、当日になって携帯に着信しておりました。


タイトル 「今夜っすか(汗)」

そして、本文の一行目に、な〜んと、


「デート、キャンセルしなければいけないじゃないですか」


とあるでは、あ〜りませんか。

そして、こう添えてあるのです。


「店を早仕舞いして、失楽園の予定だったんですがねぇ〜、しょうがねぇな〜」


ゲ、ゲ、ゲ…。

『失楽園』とは、ミルトンの壮大なる叙事詩ではなく、渡辺淳一の“不倫”をテーマにした小説をさしていることは明々白々。

ほんまかいな、と思いつつ、海水浴からの帰りに野方酒店に立ちよって確認することにしました。


「失楽園ってなに? キャンセルしてもいいんか?」

と、ストレートに問うてみたところ、彼は、ニヤっとしながら、

「すんません、見栄張ってみました」

と言うのであった。

「なんか、マジになっているみたいで、焦りましたよ。シャレにきまってるじゃないっすか」


そりゃ、そうか。
不倫をする人間が、今夜は不倫です、などと宣言するバカもいないか…。

しかし、これが、その後に開かれた『ラストサマー感謝祭』において、とんでもない布石になっていたことを彼も、わたくしも、この時、まるで気がついていなかったのでした。


夜になって不良中年らが野方ガーデンに集まりました。

“婿の海”でいただいた海の幸を中心にした料理が並びます。


アワビの刺し身、肝醤油
サザエの刺し身
アワビのバター炒め肝ソース
岩ガキの炭火焼き
サザエのつぼ焼き
アワビの踊り焼き
サザエご飯ショウガ風味
牛肉のサイコロステーキ
ピリ辛ソーセージの炭火焼
奇楽庵特製“丸ごとカボチャの豚ひき肉詰め”
ゴーヤチャンプルー
夏野菜の炭火焼き、などなど…。



さてさて、夜も更け、チビ姫1号と奇楽庵の奥方が店の中に引き上げた頃から、つまり、女性の影が消えた瞬間から不良中年どものすっかり眠っていたなにかが突如起き上がり、テーマが“失楽園”方面へと向かっていったのでした。

はい、奇楽庵が“布石”を打っていたせいです。

それぞれの武勇伝が夏の闇の中で、ボソボソと語られ始めます。

武勇伝といっても、さまざまなる体験を重ねてきた不良中年ですから、うまくいった話をする人などおりません。

そんな話題を自慢気に語ったところで場がシラけるだけであることを熟知しておりますから、爆笑モノの武勇伝が次から次と出てくるのでした。

ボソボソと語っては笑いが起き、ヒソヒソとささやいてはヒヒヒヒ〜と息が詰まるほどの苦しい笑いが起きました。

内容?
それは書けません。
あまりにも、あまりなのですから…。

しいて言うならば、男の悲しさ、男の情けなさ、男のバカさ加減が炸裂したような話がてんこ盛りです。

そこで、ふと思ったのです。
この不良中年たち、うまくいった経験、自慢したい話を、本当に持っていないのではあるまいか、と。
ま、そのことについて追及しないのも、大人というものであります。

それにしてもこれほど長いつき合いなのに、なぜ初めて聴くようなお笑いノンフィクション話が、次から次と出てくるのか。
その埋蔵量の豊かさに、遊び人として尊敬の念を抱かざるをえないような気分です。

そんな尽きぬ話題を繰り出した後は、農民音楽家のナマ演奏『御礼』で始まり、高校生の時に作ったという『殿町ブルース』なんて大人の唄をしみじみと歌い上げ、興に乗ったついでに、季節柄、サザンの『真夏の果実』を農民音楽家の味付けで歌い、さらに『サマータイム』に挑戦。

満天の星空を仰ぎ、行く夏を惜しみつつ、ラストサマーナイトを存分に楽しんだのでした。

ちなみに、こんな雰囲気でした。

島発2等B


さて、次は、どういう大義名分で、やりますか?
  
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2009年08月23日

知りたいのはノリピー事件ではないのに


さて、日曜日の朝といえば、報道風バラエティ番組がめじろ押し。

政治を語るふりをして政局をもてあそび、国政選挙を語るふりをして権力の行方を占う。

厚かましくも「責任力」なんて言葉で、政権を維持したい麻生自民。

防衛、外交、国の安全などというキーワードを上げているけれど、拉致被害者を長年放置したうえ、いまだに解決できないでいることについて、よくも「責任力」などという言葉が使えるものだ、あるいは、使わせているものだと、メディアのツッコミの弱さこそ、この国のガン。

クリントン元大統領の電撃訪問で女性記者ふたりを救い出したオバマ・アメリカの外交力との比較の上、麻生自民の「国民の生命・財産を守るのが国家の使命」は、どこへいった、と激しく問わなければならない。

麻生自民に必要なのは「責任力」ではなく「反省力」なのではないのかと、じつは民の側、先刻承知。


近ごろ、メディアが報じない闇を、インターネット上でしっかりカバー。
想像、妄想、虚実のまぜあわさった情報が駆け巡り、判断する民も、それなりに学習。

たとえば、メディアおよび国家権力、酒井法子の“仮面はずし”ばかりをタレ流しているが、1人の女性が死んでいる事件の渦中にいる押尾学についての報道が極端に少ないことについて、愚かなる民もバカにしたものではない、「なにかを隠している」とうすうすと気がついている。

なにより亡くなった女性について「事件性はない」と警察が早々に判断し、司法解剖後、遺体をすぐに家族のもとへ渡した。
すぐに通夜、葬式が営まれ、遺族の側、この手回しのよさ、早すぎる判断に、いまになって、
「妙だ」と気がついた様子。


酒井法子の覚醒剤使用について、やれ、髪を切って出頭した、やれ、携帯電話を壊して出頭した、と酒井法子のずる賢さ、肝の太さを指摘するけれど、こういう情報をリークする警察・検察の思惑について、メディアが論じないのは、やはり、マスコミ権力と国家権力の癒着をかいま見る。

それこそ不起訴になれば、市民感情だの、国民感情だという妙な言葉を使って、納得できない、とする論調こそ、唾棄すべきもの。

問題の核心は、押尾学の事件。
それを酒井法子のワルぶりを強調することで、覆い隠しているとしか思えない。
政・官・財・マスコミ・組織暴力団の5大パワーが一致団結して、押尾事件の背後にある闇を隠ぺいしにかかっているというのが、インターネット上での常識。

にもかかわらず、日曜日のテレビ、相変わらず酒井法子について時間を割く。
「自民離れ」とともに、「テレビ離れ」が加速していることも、ぜひ、報じていただきたい。
  
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2009年08月22日

夏の最後を飾りたい


なんだか、調子が悪い。
夏が夏らしくなかったのが、いけないのだ。
ブスブスといつまでもいぶっている焚き火のようで、気分がいつまでもスカッとしない。

明日の天気をみる。
上々である。

いぶったままの残り火を完全に燃やし尽くし、夏の最後を飾るためにも美しい佐渡の海へ出動しなさい、とでも言っている天気だ。


海友(うみとも)にメールを打つ。


「明日、午前中より海へ行きませんか?」

「ラジャー」の一発回答。


その後は、農民音楽家の名曲『御礼』のナマ演奏でも聴きながら一杯やろうと勝手に算段。

さて、野方ガーデンはいかがなり?
  
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2009年08月19日

水泳 〜 猛特訓

一昨日、チビ姫1号(7)が、まとわりついてきてあまりにもうるさいので、天然のプールといってもいい穏やかで波のない佐和田海水浴場で水泳の猛特訓をしてきました。


チビ姫1号は浮き輪の助けを借り、ゴーグル越しに水中をのぞき見ることはできるのですが、頭まで水につかることができません。

つまり、水に対する恐怖心があるようなのです。

この恐怖心があるかぎり、体に力は入りすぎて浮かぶことはできませんから、まずは、このやっかいな恐怖心を取り除かなければなりません。


胸より下くらいの水深のところまで連れていき、
「ここでにらめっこするぞ」
と、彼女の両手を握り、「1、2の3」で、一緒に潜ります。

1回目は、にらめっこする余裕なんてまるでありませんでした。
あわてて水面に顔を出してしまいますが、これを何度か繰り返しました。

少し余裕が出てきたので、本気で笑わせてやろうと、にらめっこしながら水中で息を吐いてやりました。

ブクブクと口の中から泡が出てくるのを見て、彼女はあわてて水面に顔を出して大笑い。

「I(チビ姫1号の名)の負け!」

次からは彼女もマネをして口から泡吹きです。
2人で大笑い。

ここまでくれば、しめたものです。

「今度はジャンケンしよう」と、水の中での目的を与えてみました。

これはなんなくクリア。

次は、恐怖のぶん投げ。
チビ姫1号を持ち上げて、投げてやるのです。

「やだ」と拒絶しましたが、
「ちょっとだけだから大丈夫」と説得し、本当に少しずつですが、投げてやる。
案外、平気なんだと自覚したら、少しずつ遠くへ、少しずつ乱暴に投げ、さらにより遠く、より激しくぶん投げてやりました。

水への恐怖心が薄くなくなってきたようなので、次は水中で脱力する段階です。

海底を見ながら膝をお腹につくくらいに曲げ、体を丸くさせます。
当然、足が海底から離れますので、ここが、勝負。

「力を抜いてごらん、プカーッと浮くからね」

背中が水面に出てくるほど浮かんでいます。

「ほら、浮いたぞ」

「本当だ、浮いた」とチビ姫1号、感動で、大喜び。

ここまでくれば、あとは簡単。
手を胸のところに添えてやり、手足を伸ばすだけ。
脱力していることを確認して、添えていた手を離してやる。
プカリと浮いているのです。

次は、海底を蹴って、前へ飛び込む。
何度も何度もやるうちに、手足が自然に水をかきはじめるのですね。

あとは、息継ぎです。
これがクリアできれば、泳げるのですが…。


正直いって、疲れました。
ものの小1時間ほどで、この段階までクリア。
あとは、本人が水とたわむれているうちに、自然に覚えるだろう、と判断しました。

いったん、浜に上がって休憩しましたが、チビ姫1号は、よほど嬉しかったのでしょう。
それから2度も海に入り、手足をばたつかせながら、泳ぐ練習をしておりました。

おかげで帰りの車中、20分ほどの距離なのに爆睡。
家に着いてからも、食事を終えて、爆睡。
ついでに疲れ切ったわたしも、一緒に昏睡しておりました。

そして、昨日も、今日も、

「太蘭爺、泳ぎに行こう」

と、毎日、1時間おきぐらいにわたしを誘うのです。

次は、潜り方を教えてやろう、と考えております。
これができれば、佐渡の海を堪能できるはずですから。

いえ、いえ、サザエ、アワビを取ってこい、なんてことは決して言いませんよ。
犯罪教唆ってことになるのでしょうからね。


でも、楽しみですねぇ。

まるで鵜匠になった気分です…。  
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2009年08月17日

今日一日で泳ぎをマスターさせることは可能か…

夏休みのチビ姫1号。

退屈を持て余していて、なんだかんだと話しかけてきたり、
「カンチョ〜!」などと、いたずらを仕掛けてくる。

つまり、5月の蝿といってもいい、うるささで、仕事はおろか、のんびり高校野球を楽しんでもいられない。


そこで、一計を案じる。



体を徹底的に酷使していやろうか、と考え、今日一日で泳ぎを教え込もうと算段。


「今日中に泳げるようにしてやるからね」

そう言ったら、チビ姫1号は、目を輝かせて、


「本当? 嬉しい!」と叫び、

「もう浮き輪はいらないんだね」と、踊り出した。


なんだろ、この軽さ。

教えてもらえば、すぐにでも泳げるとでも思っているのだろうか。


「泳げるためにはなにが大事だと思う?」

「う〜ん、わからない」

「勇気だよ、勇気があればすぐに泳げるようになるからね」

「わかった」


軽いな…。

安直だな…。


さて、出発。

本当に泳げるようになるのだろうか…。
  
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2009年08月08日

テレビ、芸能の、なんとかまびすしいことか

テレビのワイドショー、報道番組が、押尾学、酒井法子の麻薬絡みの事件についてかなりの時間をさいて報じているけれど、どこまで本気で調査、報道するつもりか。

テレビ局にとって、これらの容疑者、ほぼ身内。
交友関係という言葉でごまかしているけれど、洗っていけば、芸能プロダクション、テレビ局関係者、大物小者のタレントなど、仕事関係の名がちらつく。

押尾学ならば、さもありなん、となるところ、お利口さんで通っていた酒井法子が一転「容疑者」となり、芸能界、およびその周辺の麻薬汚染ぶり、その広さと深さにおいて深刻さを証明。


麻薬撲滅のキャンペーンを喧伝する一方、事件が起きるたびにテレビの報道、ワイドの各番組のコメンテーターやら専門家が、薬物について詳細をきわめて解説。

今回の件についても合成麻薬「MDMA」なるもの、なるほど2錠飲んだら危ないのだな、他の薬物とのカクテルは1錠でも危ないぞ、と学習する者がいて当然。
「MDMA需要」の拡大に一役買っているのではあるまいか。

そして、ごていねいにも、覚醒剤は使用後1週間ほどで尿検査でも反応しなくなる、したがって酒井法子が姿をあらわすには、来週の月曜か、火曜とまで予測。
もっとも逃亡中に中毒症状があらわれて「S」「スピード」とも称される覚醒剤を使用せずにいられればの話との注釈付き。

この手の情報、テレビで報じることはないだろうに、と思うけれど、テレビの側はインターネット社会では薬物情報が垂れ流されていると嘆いてみせ、開き直る。

だいたいテレビ局御用達の芸人ら、求められるのはホンモノの芸ではなく、瞬間的、反射的なリアクション。
突然振られて、気のきいたコメント、表情が出てこなければ、ダメ芸人との烙印。
いわば神経戦で、それを制するものが残れる世界。

それがテレビというものの本質だから「本番!」の掛け声のかかった瞬間からテンションをピークにもっていかなければならず、そのためにはアッパー系と称する薬物、テレビ業界に深く浸透していくのは、自然の流れ。


それにしても「錠剤は女性からすすめられた」と、“死人に口なし”の構えの押尾学の往生際の悪さ。
「違法なものと思っていなかった」と言いながら、女性の異変に119番もせずに現場を離れるという、誰が考えたっておかしな矛盾行動。


さらに、職務質問を受けて妻を現場まで呼びだした自称サーファー。
逮捕された後に「妻も使用した」と供述、総じて目に余るのが、男衆の情けなさ。

要するに犯罪に手を染めるという覚悟、一線を越えるという自覚がないから、こんな無様なことになる。

身内を売るな、友を売るな。
ワルにはワルの掟があるけれど、押尾も、自称サーファーも、ワルとしても遊び人としても、その資質、高が知れた。

この際だから洗いざらいしゃべってしまえ、と言いたくもなるが、本当にしゃべったら、テレビ、芸能、それに寄生するヤカラ、いわばギョーカイは、蜂の巣をつついたような大騒ぎになるに違いない。  
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