悲憤慷慨の記

トキの島。産廃施設建設で大騒動!!  それを中心にレポートするブログです。 そして、世の中にはびこるあらゆるインチキ、不正に憤り、嘆いたり、悲しんだり…。 そればかりではつまらないので、飲んで、食って、笑って、そんな人生の断面を記録しています。

2009年10月

更新が途絶えておりますが、わたしは元気です。

更新できなかったのは、忙しいということもあるのですが、政権が民主党に移ったせいか、腹が立って書きたくなる、という衝動がなくなったようです。

それでも無理をおして書くこともできるのですが、そんなことをして何の意味がある? なんてテツガクっぽいことを考え始めると、たちまち一行も書けなくなります。

こういう時は、読書の感想文を書けばよいのでしょう。

ところが、これがまた問題があるのですね。
わたし、系統立てて読むというのが、どうしてもできず、手当たりしだいというスタイルになってしまいます。

そういうわけですから感想文を書こうなんて考えもせずにページを開いていきますので、いざ感想文を書こうとすると、もう一度読み直すというたいへんなことになるのです。

この1ヶ月でいえば、時代モノの短編小説をつごう60編ほど読みました。
この中に感想をしたためたいと思うものが、もちろん、あるのです。

まず、それを探しだす。
タイトルは何だっけ? から始まるのですから、それだけで一苦労です。

で、発見する。
すると、これまた読み返しているうちに、筋に引っ張られ、書くのを忘れるほど没入してしまうのですね。

結局、素直な感想文というものが、書けない。

ええ、素直ではない感想は書けるのですよ。

たとえば、妙な人物がいる。
自分の言葉で説明するよりは、ある小説を介して書いたほうが理解されやすいという場合に、その小説を取りだして感想かたがた、書くというパターンです。

先の『下士官プリシべーエフ』がそうです。
人のあらさがしをしている人がいるな、と思ったら、ふと、それを題材にした作品がよみがえってくる。


そういう意味で、いま盛んに思い出されるのは、山本周五郎の『人情裏長屋』です。

その中のあるシーンが、鮮烈によみがえってきたのです。


フリで入った居酒屋で

「いちばん高い酒を出せ、ウナギやらスズキやら鯛の刺し身はないのか。金ならある、糸目はつけない」

なんて場違いなことを偉そうに言う通いの番頭、今風に言えば、小金を持ったサラリーマン風情というところでしょうか、
そういう男に対して主人公が、一喝するのですね。


「おい、番頭さんよ、ここは居酒屋といって地道に稼いだ人間が汗の匂いのする銭でうちわにつつましく飲む処だぜ、済みません場違いですがお仲間に入れて下さい、こういう気持ちで来るんならお互いさまよ、みんなの飲む酒みんなの食べる肴で、ご馳走さまと云って飲むがいい、気の毒だが勘定は払ってやるから出ていってくれ」


この『人情裏長屋』も、ずいぶん以前の読んだのですが、折々に思い出されるのは、自分も一見の客として見知らぬ店に入ることが多かったからでしょうか。

こういう具合に、わたしの読書感想とは、なにかと関連する場合にのみ、書けるのであって、純粋な感想文が書けないのですね。

『人情裏長屋』について書けとおっしゃるならば書きますけれども、これもまた面倒。
一読されて、初めて入る居酒屋や飲み屋では、どういう姿勢でいるのがよろしいか、お考えになるのも一興でありますね。

あらさがしのお好きな方へおすすめの掌編

あらさがしが好きな人がいる。
他人の小さな失敗や思い違いによる過失を本人にこっそりと指摘してやるのではなく、無知だ、常識がないなどと大げさに取り上げて世間の目にさらす。

そういう人の特徴として「正義」とか「良識」といった言葉を好む。
もちろん自分に正義があり、良識がそなわっているという過剰な自負もある。
それだけに周囲の人間にとっては、迷惑このうえない存在となる。


その手の滑稽な人物を取り上げた小説がいくつかある。

人間観察において精緻をきわめるチェーホフも、わずか7ページほどの初期短編『下士官プリシべーエフ』で、そうした人間の悲哀をユーモラスに描いている。

主人公のプリシべーエフは、退役軍人で「秩序」こそが健全な社会を作るものだという考え方の持ち主。
だから庶民らが、夜中まで焚き火を囲んで談笑したり、歌をうたって遊んでいるのを見つけると許せない。

「火をたくんじゃない!」

「歌をうたうな!」

女たちがうろうろすると秩序が壊れるからと、まるで舅のように目を光らせ、「解散!」と怒鳴って追い払う。

巡査や村長にもいちいち報告するのだが、彼らはいっこうに動こうとしない。
無秩序状態を招いている巡査や村の役職者たちも彼から見れば怠慢だと、彼は怒って、意識が低い、民度が低いだのとののしって侮辱するのだ。


その結果、彼は、巡査他6名から「侮辱罪」で訴えられ、裁判にかけられる。

小説は、そのシーンから展開するのだ。

村人の証言では、そのプリシべーエフが除隊してからの15年間の村の生活はめちゃくちゃで、村から逃げ出したいというほど、たいへん迷惑をこうむっているのだと明かされる。

しかし、当のプリシべーエフは、なぜ迷惑がられるのか、そこがわからない。
そのわからないところのズレが、なんとも面白く読める。

プリシべーエフは、こう言う。

「わたしは万事秩序を心得ておるのです。ところが、百姓めらは単純な人間で、なにひとつわかりゃせんので、自分の言うことをきかなければならん。そうすることがやつらのためです」

今どきの言葉でいえば、「上から目線」で物事を見て、自分以外はロクなもんじゃないと思っている。
チェーホフは、そうした人間がいつの時代にもいて、それがいかに滑稽なことか。
それを主題に作品を書いたのだろう。


裁判でプリシべーエフは「禁固1ヶ月」を言い渡される。
もちろん、なぜ有罪となったのか、本人は最後までわからない。

チェーホフは、裁判が結審して村人たちが退席していく最後のシーンをユーモラスに、こう書くのだ。


百姓たちが三々五々、なにごとか語りあっているのを目にするやたちまち彼は、自分でもどうしようもない習性から、両手をズボンの縫い目にあてて、しゃがれた怒声をはりあげる。

「人民ども、解散! かたまってはならん! 家へ帰るんだ!」



おそらく井伏鱒二も、この『下士官プリシべーエフ』を下敷きにして作品を書いているのではなかったか。
井伏鱒二の場合には、さらに滑稽の味つけを強くしていた記憶があるが、その肝心の作品名を失念してしまった。


ともあれ、他人のあらさがしをやって自己満足している人へ、秋の夜長、眠りの前のひとときに『下士官プリシべーエフ』をおすすめしたい。

お知らせです

『芳賀徹・東大名誉教授 講演会』が開かれます。

講演の主題は、「もののあはれの系譜」です。

歌人の斎藤茂吉、蕪村、芭蕉らの作品と枕草子に触れながら人生を説く、という副題がついております。


・日時 10月19日(月)午前10時より12時まで。
・会場 金井商工会議所 2階ホール(佐渡市千種)
・入場無料です。

・主催 芳賀徹・講演会実行委員会
・後援 佐渡市教育委員会 佐渡 山草会



「もののあはれ」は、源氏物語など平安時代の文学を研究した本居宣長が提唱したもので、日本人の精神の根幹とも言われております。
その系譜をたどる今回の講演は和歌をたしまれる方のみならず、自然の豊かな島に暮らす者には、たいへん貴重な内容となるでしょう。

なお、芳賀徹氏の経歴などについては、こちらを参考にしてください。

サザエの話・2

サザエご飯、作りました。


サザエご飯











「サザエは嫌い」というチビ姫1号には、サザエご飯であることを言わずに茶碗に盛っておきました。


「いただきます」

チビ姫1号は、さっそくサザエご飯に箸をつけました。
彼女は炊込みご飯が大の好物なのです。

その姿をチラチラと横目で観察していましたら、彼女は、こう言いました。

「おいしいィ〜!」

続けざまにご飯をかき込みます。
そして、こう言いました。


「これに山椒の葉っぱをのせるといいんじゃないの」


しぶい申し出だと思うでしょうね。
理由はあるんです。

タケノコの季節に彼女は、木の芽を取る係だったのです。
タケノコご飯やタケノコ料理が作られた時、彼女は庭にある山椒の木の新芽を採取して、洗い、それから手のひらにのせて「ポン」と叩いて香りを出す作業が楽しかったらしく、鮮明に記憶していたようです。



「これ、タケノコご飯じゃないし、いまは山椒の葉が出る季節でもないからね」

と説明してから質問してみました。

「なにが入っていると思う?」


「ええと、サザエ?」と、尻上がりの疑問型の口調で答えました。

「ピンポ〜ン」

「やわらかいからおいしいね。お刺し身は、ちょっと固いから」


ふだんは茶碗1杯しか食べないのに、おかわりをしていましたから、間違いなくサザエをクリアしました。
刺し身は、大人になればあのコリコリとした固さも、ほろ苦さも、味わいのひとつなのだとわかるようになるでしょう。


サザエご飯は、ちょっと面倒だと思われがちですが、そんなことはないのですよ。
殻から身を取りだすのは、サザエをいったん湯の中で1、2分茹でればいいのです。

それを小さなフォークでチクっと差し、クルクルとまわしながらやれば、簡単に肝まできれいに取りだせます。

問題は、その茹で汁をご飯と一緒に炊くかどうか。
今回はチビ姫1号に食べさせるためでしたから、茹で汁は使いませんでした。
サザエ独特の風味が逆効果になりかねないと判断したのですが、大人だけならば茹で汁とともに炊いた方が苦味をともなった強烈な磯の香りを楽しむことができるでしょうね。

米に水を張り、コブを入れ、薄く切ったサザエを投入(炊きあがってから投入した方が身はさらに柔らかくなるそうですが)。
酒、醤油、塩少々、それにショウガのみじん切りを入れて、スイッチオン。


ワタクシの狙いは、肝です。
これを下の部分だけを切り落とし、味噌に漬け込んでおくのです。

酒の肴に、そのまま食べてもよし。
包丁で叩いてペースト状にし、パスタのソースとしてつかってもよし。
濃厚なうまみがパスタにからみついて、これは絶品です。
ただし、肝の量が多すぎるとむつごくなりすぎて、せっかくのパスタが台なしになってしまいますので、ご注意。

ええ、アタクシ、一度、大失敗をしておりますので、よくわかります。
隠し味程度の量と心得ることですね。


じつは、このパスタもチビ姫1号は、この夏に食べているのです。

「おいしい」と絶賛していましたから、食いしん坊の彼女が小学校の高学年にもなれば、サザエの刺し身、壷焼きも食べられるようになるのではと楽観視しておるのですが…。


ムコ殿、いただきましたサザエは、こうしてきれいさっぱり腹の中におさまりました。
ゴッツァンでした。


ちなみにチビ姫1号は「アワビが好き」と言っておりました。
ついでに爺のワタクシは「アオリイカも大好き」と、さりげなくお伝え申し上げて、ご報告とさせていただきます。


サザエの話

藤沢に住んでいた頃、江ノ島あたりを散策し、ついでに昼間からやっている屋台にもぐり込んでサザエの壷焼きやおでんを肴に酒を楽しんでいた。

15年ほど前の頃でもサザエの壷焼きは800円ほどだったのではあるまいか。
サザエ独特の苦味がクセになる味わいでチビチビとつつきながら生ビールをゴクゴク、安酒をクイクイとやったものだった。


ところが、佐渡へやってきて驚いたのは、そのサザエの安いこと。
なのにふんだんにとれるせいか、佐渡の人たちはなかなかサザエに手を出さない。


真夏の野方ガーデンでも、アワビもサザエも炭火で焼くが、

「サザエを焼いたら、焼いた者が責任を持って食えよ。自己責任だからな」

という鉄則ができるほど、サザエはあまりぎみになる。


しようがなく、

「こんなにあるんだから1個ぐらい食えな」

と、焼き係がそれぞれの前に半強制的に置く。



もっともアワビとサザエ、どちらかを選べ、と言った場合、

「オレはサザエだ」という人はいないだろう。

アワビの奥の深い滋味を一度知ったならば、やはり、アワビ党になるのは仕方がないけれど…。


そういえば網走では毛ガニを「面倒だから食わない」という人がけっこう多い。
殻をむくのが面倒だから「むいてもらえれば食べる」というのだ。
それよりも関節部からスポンと身の抜ける大きなタラバガニの方がいいというのだ。

これまたととんでもなくぜいたくな話である。




先日、娘夫婦がやってきた。

「これ、今朝とれたやつです」
と、ムコ殿が大きな発泡スチロール製のクーラーボックスを置いた。

開けて見ると、大きなサザエがどっさり入っている。
江ノ島あたりへ持っていって壷焼きにして売れば3〜4万円も売り上げるだろうというほど入っている。

さっそく15個分を刺し身にしてみた。


   サザエ













刺し身には目のないチビ姫1号が大喜びするだろうと思ったが、

「サザエは、いらない」というのだ。

「なんで?」

「アワビは好きなんだけど…」

「…」


むむ、すでに一人前の佐渡人になってしまっているのか。


しかし、佐渡に住みながらサザエが好きではないとはいうのはいかにももったいない。
必ず克服させてやろうとひそかに思っている。


今日は、とりあえずサザエご飯を作ってやろう。

ダジャーレ・ヌーボー


最近、チビ姫1号(6)が言葉遊びを覚えたようで、低レベルながらダジャレを言うようになった。

といっても、誰かが言ったのをマネしてのことで、覚えたてのダジャレを言っているにすぎない。

たとえば、「馬が草をうまそうに食べてる」とか、「梅はうめ〜」の類で、当意即妙というレベルに到達するにはまだまだである。



昨日、台風18号の強風でイガグリもかなり落下しているにちがいないからと、犬の散歩がてら栗拾いに行くことになった。

さすがにあの強い風で、農道のあちこちにイガグリの姿が見えた。

チビ姫1号は、大喜びで駆け寄った。

ところが、どれもこれも肝心の中身がない。
イガだけが転がっているだけだったのだ。


「たぶん、動物が食べたんじゃないかな。拾いにくるのが遅かったね」

そう説明してやったら、チビ姫1号が残念そうに、こう言った。



「栗がなくて、がっくりだね」



これぞ、正真正銘のダジャレ。
しかも、初めて聞く当意即妙のダジャレである。

「うまい、栗だからガックリね」
とほめてやったら、まんざらでもない表情にかわり、栗を拾えなかった無念さも飛んでしまったようだ。


この“ダジャーレ・ヌーボー”は、数年後、どう熟成するだろうか。
少なくとも、わたしや、ダジャレ名人・合氣堂氏の“オヤジギャグ”に対して白い目で見るようなことにはなるまい。

と思いつつも、「爺のせいで“オヤジギャル”って言われるんだよ」なんてことになりかねないか…。

ま、なるようになるさ。


勇気ある散歩


犬と散歩中、およそ5メートル手前で異様なモノを目にし、わたしは立ち止まったまま動けなくなってしまいました。

ヘビらしきものが、とぐろをまくという感じではなく、こんがらかっている様子で、こんもりと盛り上がっているのです…。




わたし、なにが嫌いって、ヘビほど嫌いなものはありませんから、連れの犬が前へ行こうとするのをとどめて、じっと観察していました。


なにしろ狭い農業用の砂利道の、ど真ん中。
家へ帰るには、そこを通らなければならないのです。



どのくらい時間が経ったでしょう。

ヘビのようなものが、ピクリとも動かないので、わたしも勇気を振り絞って接近しました。
もしかしたら脱け殻なのか、と考えてみたのです。

そ〜っと近づきました。
連れの犬がヘビのようなモノを追っ払ってくれればいいのに、と思いながら犬の様子をうかがいますが、そのヘビのようなものの存在にすらまったく気づいていないのです。

役立たず! と叫びたい気分でした。



そして、こんがらかったヘビのようなものを横目で見ながら、道の端っこを足早に通り過ぎました。



やっぱり、ヘビでした。
それも脱け殻などではなく、生きたヘビのようです。




しかし、なにか、ヘンです。
どうみても、こんがらかっているように見えるのですから。


そこで、いったん通り過ぎた道を勇気を振り絞って戻ってみました。


そ〜っと近づいていきましたが、そのヘビのようなものは、まるで動きません。

そこで、さらに接近。
さきほど振り絞った勇気を、さらに振り絞り、携帯で写真を撮ってみました。

それが、これです。


カエルを食うヘビ

よくわからん?
もっと近づいて写せと?

いやいや、大嫌いなヘビに、これほど近づいたのは、わたし、人生、初めてのことですから、これが精一杯。




これ、2匹いるのでしょうか?

それとも1匹のヘビが、かなり大きなカエル(あるいは、他の生物)を食わえ込もうという、その瞬間なのでしょうか。

確かめる勇気まではわたしにはありません。
写真を撮り、大急ぎで、その場を離れたのでした。



それ以来、といっても今日ですが、偵察隊のごとくキョロキョロと目を動かし、ヘビが出てきませんように、と祈りながらの散歩となってしまいました。










○○さえなければ…

○○さえなければいい奴なんだけどな、と本気で思うことがある。

その○○のなかの言葉は人それぞれだけれども、総じて○○によって人格が変わってしまうというケースが多い。

最近では「パソコンさえなければいい奴なんだけど」と思うような人物が意外に多いことを知った。

直接会っていればとても穏やかで物分かりのいい人なのに、インターネット上の匿名での書き込み、ブログなどの文章を読むと、これが同一人物か、と思うほど攻撃的に変身する。

車の運転席に座った瞬間から人格が変わるという人もいるけれど、「なくて七癖」という人間の不思議な一面をかいまみる思いだ。



昨日、「中川昭一氏死去」の報が流れた。

この方こそ「酒さえ飲まなければいい奴だったのに」と本気で思った。

政治的、思想的なポジションは別にしても、たいへんな勉強家で、政策にも長けていた。
相手を恫喝する目にも力があり、国際政治の中で活躍できる人だったのではないかと想像する。

将来、民主党に対抗する保守派のリーダーとしての存在感を示しつつあった。

が、酒が彼の人生を狂わせた。

といって、酒のせいにしてもいけない。
それはパソコンに触ると人格が変わる、という場合にパソコンがいけないのだ、と言っているようなもので、昭一氏の場合も、酒に逃げざるをえない何かを心の中に抱えていたということだろう。


昭一氏の父で「北海のヒグマ」と言われた中川一郎氏が亡くなった時、その死に至る原因について、さまざまな憶測が飛び交った。

いまでも他殺説を語る人物もいるほど、謎の多い死だったが、わたしは、当時、北海道広尾町の一郎氏の実家で、ある情報を耳にした。

亡くなられて10日ほどしか経っていない頃だったので、

「いまはなにも話すことはありませんよ」

と言われたものの、仏壇に線香をあげて手を合わせるために一郎氏の弟夫婦の住むお宅に上がった。

手打ちの蕎麦をごちそうになったことまで記憶している。

世間話程度にしか話を聞くことはできなかったけれど、その何気ない言葉の中に将来、昭一氏が酒に溺れざるえないような種子をかぎとった。

そのことについて、ここで詳しくは書けないが、彼の強気とも思える政治信条の背後には、ある弱い一面を覆い隠そうとする無意識の力が働いていたからではないのか、との思いを強くした。

東大法学部卒、日本興業銀行、二世議員、政界のエリートと、たいへん恵まれた人生を歩んでいるように見えたけれど、
「酒さえ飲まなければ…」と周囲が簡単に言うことも、本人は簡単に割り切ることができなかったに違いない…。

「ごっくんはしていない」
と言った後の彼のイタズラっぽい表情が、いつまでも思い出される。


合掌
livedoor プロフィール

 能美太蘭(のうみ たらん)

産廃問題に限って文中に登場する人物を実名で書きたくなった。そして、書いた。ならば、書き手も実名、雁首オープンでなければ公平ではないと判断した。
本当の名前・村上正樹
生育の地・網走番外地〜塀の外。
現在、産廃施設大騒動の渦中にある佐渡市・西二宮に居住。
つい最近、雷が家屋直撃の大当たりするも、くじ運は悪く、当たったためしがない。

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