2007年08月03日
第37話/第九章 テロの犠牲者(3)
ジェフは少女が気になり、時々施設の様子を調べ、密かに援助をした。
いつも無名でメアリーあてに送られてくる小切手を、施設のカウンセラーはそのまま彼女に手渡した。しかし、メアリーは気高い子供だった。どこの誰からかもわからない小切手を理由も無く使うわけにはいかない。メアリーは、決してその小切手を使うことはなかった。
何度、小切手を施設あてに送ってもその小切手が使われていることがないことを知ったジェフは思い切って手紙を添えた。
ある時、メアリーは小切手と共に、短い手紙を受け取った。手紙には、「私もあの事故で弟を亡くしました。あなたのお母様の胸には、私の弟のサーフボードが爆風で飛ばされ突き刺さっていました。私はその姿を今でも忘れません。お母様への償いとしてどうか、この小切手を受け取って下さい」
少女はその手紙を受け取って、はじめはそのあしながおじさんをうらんだ。
〈あなたの弟が私のママを殺したかもしれないのね!〉
〈あなたは誰? ずるいわ、顔を見せて!〉
しかし少女は大人になった。中学生になったメアリーは、あれはテロリストによる犯行であり、あしながおじさんの弟もまたママやパパと同じように被害者であることを悟ったのだ・・・。
メアリーはいつも小切手が送られてくる私書箱あてに、短い手紙を書いた。
「私は最初、あなたを怨みました。あなたの弟が私のママを殺したと思ったからです。
でも今は違います。あれは事故です。そしてあなたの弟もまた被害者です。
私は孤児でお金がありません。送っていただく小切手は、これから感謝して使わせていただきます。どうもありがとう」
少女はやがて、ジェフの隠れた援助で、ハイスクールを卒業し、大学のドミトリー(寮)に入った。
メアリーは、ある日「若きアメリカンドリームを手にした男」という記事を見た。
〈あの日、私をがれきの中から救ってくれた人だ・・・〉そう思ったメアリーは、その記事を夢中で読み始めた。
記事は、ゲームを作って成功した青年のことがかかれていた。しかし、記事の写真欄に「サンディエゴの惨事で弟を失ったが、立ち直ったジェフ」というコメントを見つけて、足長オジさんがジェフであることに気がつき始めた。
〈あの人は私をがれきの中から助け出し、さらに援助してくれている〉
メアリーはジェフへの感謝でいっぱいになり、かつてジェフを怨んだ自分を恥ずかしく思った。そして、ジェフのように前向きに強く生きていこうと、その記事に励まされた。
メアリーは美しい娘に成長し、男子学生の注目の的となった。が・・・メアリーには、男の子達が眼中に無かった。
メアリーは雑誌や新聞に紹介されたジェフの記事を集め、やがてジェフに恋焦がれるようになっていた。しかし、数年前から、ジェフの会社「プレイソフト」社は、別の会社に吸収されジェフは地に墜ちたと、ジェフの失脚に関する記事が出て以来、ジェフはマスコミの話題から一切消えてしまった。
〈ジェフに一体何があったのだろう?〉
メアリーはジェフのことが心配でならなかったが、だからといてジェフに対するメアリーの気持ちは揺るがなかった。ジェフの会社で何が起きようと、あの人ならまた立ち直ってくれるに違いない、メアリーはそう信じていた。
メアリーが18歳になった時、女生徒のあこがれのフットボールのスタープレーヤー「ボブ」がパーティーに誘ってくれた。
パーティで二人はベストカップルに選ばれ、お似合いのカップルとして、みんなの羨望と祝福を受けた。
パーティーの後、そのボブは、彼女をドライブに連れ出し、お決まりの公園でキスを迫った。
〈キスくらいいいかしら〉
ところが彼の手がブラウスのボタンに掛かったところで、メアリーはそれを払いのけた。
「おい、いいかげんにじらすなよ、女はみんな僕とデートするとパンティを下げるぜ」
ボブは下品な口調で言った。
事実そうだった。クラスメートの女の子達は競いあって、彼と寝たことを自慢しあっていた。
〈この男は脳みそも筋肉で、血液の代わりに精液がながれてるんだわ。おあいにく様、私がヴァージンを捧げるのはジェフなのよ。でもジェフは、私なんか相手にしてくれるかしら・・・第一どこにいるのかもわからないのに・・・〉
ボブが圧し掛かってきたので、彼女は思いきり男の股間を蹴り上げ、道路に飛び出して行った。メアリーは必死だった。そしてボブから逃げる、自分の足が震えているのがわかった。
2007年07月26日
第36話/第九章 テロの犠牲者(2)
佐々木はすぐ、ダッジ・バンから這い出し、老人を助け出したところで、漏れたガソリンが引火しはじめた。佐々木は老人を安全と思われる物陰に移し、集まってきた野次馬に「爆発するぞ、離れるんだ!」と怒鳴ったところで、気を失ってしまった。二号車にいた増岡は素早く、気絶した佐々木を救出し、走り去った。
野次馬は遠巻きに見ていたが、やがて大音響とともに、一号車のダッジが吹き飛んだ。ダッジには、アメリカ軍に対する警告の意味を含めて、ベトナム戦争で使われたクレイモア(方向性地雷)や小型ロケット騨を天井に向けて仕掛けてあった。予定ではこれを空に向けてぶっ放すことになっていたが、ダッジが横転したため、無数の灼熱された鋼球が爆風と共にばら撒かれ、水平に弾きだされた。そればかりではない。ロケット騨があたりの建物を粉々に吹き飛ばし、がれきの山と化した。
近くに駐車中の車は蜂の巣様になった。100メートル先のオープンカフェで、コーヒーを飲んでいたリー・カックスはこの騒ぎに気がつかず、命より大切なサーフボードを片手で支えながら、コーヒーカップを口に運んでいた。突然の大音響と共に、手にしたカップが割れるのを見たが、それがこの世でリーが最後に見たものになった。リーのカップを打ち砕いた鉄片は、そのまま彼の右目から後頭部を突き破り、脳漿を辺りにぶちまけた。
無数の焼けた鉄片と鋼球は、付近の壁に突き刺さり、樹木や人を一瞬になぎ倒し、焦がした。
ルイス夫妻はこの日、8歳の娘を連れてバケーションでサンディエゴに来ていて、この事件に巻き込まれた。ルイス夫妻は無数のコンクリート破片と共に吹き飛ばされた。ルイス婦人は、その時、飛んできたサーフボードが胸に刺さり即死した。娘も爆風に飛ばされ、瓦礫の下敷きとなったが、たまたま柱の影にいたため、落ちてきたがれきの間に隙間ができて助かったが、両足をがれきに挟まれ身動きがとれなかった。少女は何が起きたのかわからず、母親をさがして「マム、マム!」と叫び続けた。その声を聞いた、父親のコーキィは力の限りをつくして「大丈夫か・・・」と娘に話しかけた。父親、コーキィの胸には重いがれきがのしかかってきていて、今にも心臓を押しつぶしそうだった。
「ダディ、どこにいるの? マムは? 暗くてなにも見えない、怖いよ、怖いよ」
少女はやっと聞こえた父親の声に少し安心して泣き始めた。
「大丈夫だよ・・・すぐに誰かが・・・・助けに来てくれるから・・・」
父親は娘を励まし続けた。娘もその声に励まされ、真っ暗な中、必死で恐怖と闘っていた。
「マイ、ハニー・・・」
父親の声が聞こえた。
「何、ダディ?」
「アイ・・・ラブ・・ユ・・・・・・」
それが少女の父親が発した最後の声になった。少女は不安になって、何度も父親を呼び続けた。
「ダディ! ダディ!! ダディ!!!」
しかし、何度呼んでも父の声はしなくなった。それが何を意味するのか少女には、おぼろげながらわかっていた。
〈パパは死んじゃったの? それとも気を失っただけ? お願い、生きててね!!〉
〈パパが言った通り、私、誰かが助けに来てくれるまでがんばるから〉
この時、やっとのことで、リーの車を発見したジェフは、意識がもうろうとする中、最後の力をふりしぼって歩いていた。するとジェフの足に何かとがったものが突き刺さった。
「痛い・・・」
足下をよく見ると、それはリーが大切にしているサーフボードだった。ボードの先が爆風で裂けてするどくとがっている。
〈なぜここに?! まさか!!!〉
「リー!!」
ジェフは無我夢中で、がれきをどかした。しかし、その下敷きになっていたのは、見たこともない婦人で、胸から血を出していた。脈をはかったがすでにこと切れていた。婦人の胸にはリーのサーフボードが突き刺さっていた。ジェフは混乱していた。死亡しているとはわかっても、弟のサーフボードが突き刺さった婦人を放っておくことは出来ない。
「ヘルプ、ヘルプ!!」と叫んだが、辺りに人影はなく誰も来る気配はなかった。ジェフは婦人の遺体を静かに横にした。
〈この近くにリーがいるに違いない〉
ジェフはさらに必死になって探し続けた。そしてリーの足を発見した。
〈あっ?! リーのスニーカーだ!!!〉
「リィーーーー!!!」
ジェフは大声で叫んで、がれきをどかした。
がれきの下のリーは無惨な姿で血にまみれていた。ジェフは両腕がちぎれた弟を抱きしめ号泣した。
「ヘルプ!! ヘルプ!! サムバディ、ヘルプ!!」
ジェフは狂わんばかりの声で叫び続けた。
その時、どこかから声がした。それは今にも消えてしまいそうなか弱い声だった。
「サムバディ、ヘルプ・・・・」
少女の声だった。
ジェフは、すぐ近くにまだ生存者がいることがわかり我にかえった。
「今、すぐ助けてあげるから、お嬢ちゃん、がんばるんだぞ!!!」
ジェフは少女の声がする所を探しだし、がれきをどかした。そこには、真っ青な顔をした、美しい少女が、うわごとのように「ダディ、マム・・・」と言って倒れていた。
ジェフは半狂乱でどなった。
「ヘルプ!! ヘルプ!! サムバディ、ヘルプ!!」
たまたま通りかかった救援隊員に、生存者がいること、自分の弟がいることを告げた。
「まだ他にも生存者がいるかもしれない」
ジェフがそう言うと救援隊員は、ワン・ブロック先に救急車が待機しているので、この少女を運んでいって欲しいと言った。
ジェフは混乱していた。リーは絶望的だった。とにかくこの少女を助けなければならない。少女の足はだらんとして、両足を骨折しているようだったが、すでに痛みは感じていないようだ。
「がんばれ!」ジェフはそう励まし、救援部隊から借りた毛布に少女をくるみ、救急車まで走った。
この時、写真ジャーナリストのジャスティン・ミラーが少女を抱いて走るジェフの姿をカメラに納めた。しかし、弟を失い、少女を助けるのに必死だったジェフは、そのフラッシュさえ記憶になかった。
少女を救急車に乗せたジェフは現場に戻って来て、リーに走り寄り再び抱きしめた。自分が今抱きしてめいるのは、紛れもなく弟のリーだ・・・。頭がもうろうとしてきた。
音が消え、全てがスローモーションになった。景色が回る。さっきの隊員が救援活動を続けている。カメラとビデオを構えた男がみえる。担架で人が運ばれている。車も燃えている。誰かが叫んでいる。ジェフは音の消えた映像の中にいた。皮一枚でつながっていたリーの腕が、膝元に落ちた。腕の先の紫色にむくんだ手には、ベラと交わしたリングが光っていた。
ジェフは再び絶叫した。
「オー、ノウ! オー、ゴッド!!」
リーは丘の上の見晴らしの良い墓地に葬られた。
葬儀の最中、密かにジェフは誓った。
〈たとえ地の果てでも犯人を追いつめ、この手で殺してやる〉
リーの棺に土が少しずつかけられていく。
めったに降らない雨が降り出し、棺を濡らした。
雨が涙を消し、かけられていく土とともに、リーとの楽しくおかしい思い出も埋められていく。
その日からジェフは復讐を誓った。
ジェフは翌日の新聞に自分の姿が映っているのを見て驚いた。
「惨状の中で奇跡的に生存した少女、助けられる!」
新聞のタイトルにはそう書かれていた。新聞によると少女の名はメアリー・ルイス。両親とも爆風で死亡と書かれていた。少女は両足を複雑骨折して全治3ヶ月とあった。新聞には、事故にあう直前に撮ったと思われる記念スナップが載っていて、少女もその両親も笑っていた。その写真を見て、ジェフは、はっとした。リーのサーフボードが突き刺さって死亡した婦人は、あの少女の母親だったのだ。新聞には、収容された病院が書かれていた。少女は、両親が別の病院で治療を受けていると、聞かされているらしい。両親を亡くした今、身よりがないという。
ジェフはこの少女のことをずっと気にしていた。
〈リーのサーフボードが少女の母親の致命傷になったのか・・・〉
そのことを思うと、孤児になった少女が不憫で頭から離れなかった。
少女の怪我がだいぶ回復したと思える頃、ジェフは思い切って見舞いに行ってみた。
少女は、ジェフが見たのと同じ新聞をスクラップして持っていて、ジェフが行くとすぐにジェフが自分をあの時、助けてくれたお兄さんだとわかったようだ。
少女は目を泣き晴らし思いつめていた。ジェフが声をかけると、「パパもママも死んだわ、私は一人ぼっちよ、どうして私を助けたの、私は死にたい」と訴えた。ジェフはどうして良いか分からず、うろたえてしまった。
メアリーはサンディエゴ内の施設に引き取られた。
2007年07月19日
第35話/第九章 テロの犠牲者(1)
部屋は暗かった。
ベッドが激しくしきしむ、女の肢体が男に絡み付き、あえぎがきこえる。
男は女を攻め立てた。女の嗚咽はさらに大きくなり、激しく体を痙攣させている。
「ああ、あなたこそナンバーワンよ。来て、早く、ああ・・・」
絡み合う二人のシルエットが浮かび、外のネオンの光が喘いでいるメアリーの表情を浮かび上がらせた。
メアリーは自分が何を言っているにかも、わから無くなってきた。
〈嗚呼ステキ ジェフ 死ぬほど好きよ〉
メアリーは決して、ふしだらな女ではない。ジェフに抱かれているのには、切実な訳があったのだ・・・。
第九章 テロの犠牲者(1)
車はサンディエゴの郊外クレアモントからサンディエゴ国際空港に隣接する米海軍トレーニングセンターに向かっていた。
クレアモントは、サンディエゴでも有名な、レズやホモの居住地で、男同士で仲良く手をつないで道を歩くカップルや、女同士で肩寄せ合ってベンチに腰掛けている姿が当たり前に見られる地域だ。蒼い鬼火部隊は、11人の大所帯で『長野あや』意外は、全員男性である。クレアモント地区なら、男ばかりが10人、一緒に暮らしていても誰も不思議には思わない。東洋から来たホモのカップルが共同生活をしている・・・、端からはそう思えたろうから、潜伏地としては都合がよかった。佐々木や後に逮捕される大友は、ホモを装いこのクレアモント地区を、よく手をつないで歩いた。長野あやは、クレアモントから少し南に下った、リンダビスタというところにアパートを借り、すぐ近くのサンディエゴ大学の聴講生の振りをして、ポリス・パトロールやキャンパス・ポリス、地域の情報を極秘に徹底的に調べた。
西海岸地区の家には地下室が無い家が一般的だったので、小型爆弾等の製造はアジト2階で密かに大友が担当していたが、アジア人のホモカップルの住む家の、二階のカーテンが閉ざされていても、それを怪しむ者などはいなかった。蒼い鬼火部隊は、いつも普通のホモを装い、仲良くカフェテリアや買い物に行き、ごく普通の生活を装った。
車の目的地は、米海軍トレーニングセンターだった。基地のゲート近くまで行ったところで、一号車を乗り捨て、二号車に全員が乗る。後は二号車から遠隔操作で車をゲートに突入させ、基地内の道路の真中で車を爆発させることが目的だった。車は窓を塞いだダッジのありふれたバンだ。
佐々木は一般道を通ることには反対だった。予期せぬ事件や事故にあった場合、一般道では、渋滞にはまって抜けられなくなり計画が狂うと主張した。フリーウエイならば、5号線を南下するだけの一本道で、通勤時間帯をのぞけば、渋滞はあり得ない。車道は4車線あるので、万が一事故があっても通行止めにはならないと考えたのだ。しかし、大友の意見は逆だった。
「もし、フリーウエイで、フリーウエイパトロールに不審車として止められた場合、すべての計画がくずれる、フリーウエイは危険だ」
「いや、フリーウエイでなら、一定走行速度を保てるが、一般道では想像がつかない。フリーウエイパトロールは、長野君に監視を任せ、もし危険なようならその日の計画は延期すべきだ」佐々木は反論した。
すると別の同志である増岡も口を出した。
「確かに、フリーウエイでなら、一定走行速度を保てるかもしれないが、帰りの逃走経路を考えると、慣れておくためにも行きも帰りも一般道を使うべきじゃないのかな」
「しかし、何か事故に巻き込まれたときのことを考えると、フリーウエイの方が被害が少なくてすむ。一般道は、民間人を巻き込む可能性があるよ」と佐々木。
大友が自信をもって反論した。
「僕たちの計画は完璧だ。民間人は巻き込まない。だったらこうしよう、当日の1号車のドライブは僕に任せてくれ。僕が責任を持つ」
「責任を持つって何にさ・・・?」
佐々木の目はだんだん険しくなってきていた。
「当日のドライブさ。スムースに、一般車と同じように・・・そして何事もなかったようにその場を立ち去るのさ」
「そこまで言うならわかった。でも、責任なんて言葉・・・そんなに簡単に使うなよ」
佐々木が言った。
「何だよ、その言い方、俺だってそれなりの覚悟があるから言ってるんだ」
今度は大友が佐々木に返す。
「おい、二人とも冷静になれよ」
増岡の言葉で、その場はシーンとなった。
「悪かった。詳しいルートについて、もう一度検証しょう」佐々木が言い、一瞬ピンと張った同志の雰囲気は再び冷静になった。しかし蒼い鬼火部隊の同士たちの、ドクドクと脈打つ心臓は、今にもパンと音をたてて破裂しそうな風船のようにすでに緊張していた。
2号車には、予定通り遠隔操作を担当する増岡とドライブを担当する朝比奈と他4名が乗ることになった。長野あやは別の車で、その日のパトロール監視を担当する。一号車には、ドライブ担当の大友、そして佐々木、他2名が乗ることできまった。
車はクレアモント通りを抜けモレナ・ブルバードの裏手に廻った。突然駐車場から観光客らしいレンタカー飛び出して来て、走ってくるフォード・ピントの行く手を塞いだ。フォード・ピントの運転席では、老人が顔を引きつらせている。そこへ、レンタカーが突っ込んだ。その後ろを走っていた一号車のダッジは、急ブレーキをかけたが、覆い被さるように横転した。
2007年07月17日
第34話/第八章 ジェフの秘密(4)
翌日、何が何だかわからないまま、ナッシュはリストをジェフに渡した。
「ナッシュ、これは君の仕事だから、あまり期待されても困るが、2・3日時間をくれないか。少しは君の食欲が回復する方法があるかもしれない」
ジェフはワシントンの叔父に電話した。ダン・ウイリアムスは、弥恵子と結婚し、今やアメリカ国防総省陸軍局陸軍主要部隊のトップだった。二人の間に子供がいなかったこともあって、ダンと弥恵子は、ジェフとパムを自分の子供のようにかわいがった。もちろん、リーの悲報を聞いた時は、二人ともカックス家の者と同じ位ショックを受けた。
「やあ、ダン、元気かい」
「ジェフ、久しぶりだな。ビジネスのほうはどうだ? 最近はさっぱり、お前のことをマスコミも扱わなくなったな、心配してたぞ」
「ハハハ、順調さ、何も心配することはないよ。元々ボクはマスコミ嫌いだから調度いいのさ。でもちょっとダンに相談したいことがあるんだけど、明日時間はとれないかな?」
「明日の午後なら、少し時間がとれるが、後はスケジュールがいっぱいだな・・・」
「わかった、明日の午後、ワシントンDCに行くよ」
「本当か?」
「本当さ!」
ダンはジェフがとても優秀であることを知っていたし、ジェフが相談があるというのだからよほどのことだろうと思った。ダンは翌日、ジェフが午後きっちりにペンタゴンに来ることを確信していた。
ジェフは、その日のうちにワシントンDCへ発った。
ワールドソフト社の役員室では、重い空気に包まれて会議がおこなわれていた。そんな中、軽いノックとともにドアが開いて、新鮮な空気が流れ込んできた。秘書メアリーの香水がナッシュの鼻腔をくすぐる。スラリと伸びたまっすぐな足にタイトスカートが絡み付き、セクシーだ。
夕べは、ついにメアリーのアパートに泊まった。
〈これまでは、何度口説いてもダメだったのに・・・〉
・・・メアリーのアパート・・・・
しばらく二人は抱き合っていた。メアリは舌を巧みに使い、彼を愛撫し始めたた。メアリの手がナッシュの股間に延びていく、彼は回復していた。
「オー、ナッシュ、なんてたくましいの、あなたたは、やっぱり世界一の男よ」
メアリはナッシュの上で激しく腰を振った
「オー! オー!」メアリーはナッシュの上で何度もあえいだ。
ナッシュは自身に満ちてきた。
「・・・社長?」
メアリーの声にナッシュは我に返った。
「ワシントンから長距離電話が入っています。」
「誰から?」
「それが、・・・食欲の出る話とか・・・」
ナッシュの目が輝いた。
「社長室にまわしてくれないか」
ナッシュは会議室を出ると、走り寄るように受話器を取った。
「ハーイ ナッシュ 良い知らせだと思うよ、メモは取らないでほしい」
ジェフからの電話だった。ナッシュの頭には公聴会の質問が、ジェフから叩き込まれた。いくつか不利な質問もかなりあるが、窮地に追い込まれるものではないとジェフは自信満々に言った。公聴会の弱点も教えられた。委員の中には、ライバル会社と繋がっている者がいることも教えられた。その証拠を明日には届けるという。半信半疑ではあったが、ジェフがわざわざワシントンDCまで行って担ぐわけが無い。ナッシュはジェフの行動力に改めて驚き、そしてその才能に頭が下がった。
会議室に戻ったナッシュは自信に満ちていた。
「みんな、何も心配することはない、これから言う資料をそろえて、あとは私に任せて欲しい」会議の雰囲気が一気にかわった。
「ナッシュの提案に会議室にいた役員たちは驚き、そして感嘆した」
「私はナンバーワンだ。そうだろメアリー?」
ナッシュが冗談めかして役員たちの前で言った。が、目はメアリーを見ていた。
「ウイ!」
メアリーは、意味ありげにウインクした。
アメリカ中が注目する中、公聴会が始まった。
はじめはワールドソフト社に不利かと思われた公聴会だったが、ナッシュにライバル会社との繋がりを指摘された委員は、その証拠を突きつけられ、何も言えなくなってしまった。
公聴会はナッシュの独壇場と急変した。意地の悪い質問も少なからずあったが、ナッシュは見事に切りぬけた。
予定通りであった。
この様子はアメリカ中にTV中継された。ナッシュはただのゴールデンボーイではない、世界中が注目する中、老獪な海千山千の議員をコテンパンにやっつけてしまったのだ。
マスコミは一転して、彼を賞賛した。「ナッシュ イズ ナンバー ワン」と。
ナッシュはセンセーショナルに蘇った。新たな伝説とともにカリスマの誕生である。
ナッシュは不思議だった。
〈いったい、どうやってジェフは話を付けたんだろう〉
〈こんな風に、僕のためにワシントンDCまで飛んで、調査をしてくれたのはどうしてだろう〉
〈本当は『ジェフ イズ ナンバー ワン』と呼ばれていいはずなのに・・・〉
〈どうして彼はここまでマスコミを嫌うのだろう・・・〉
その夜、再びナッシュはメアリーのアパートを訪ねた。
「キミのおかげだ。僕は自信をもって、委員会に望めた」
「あら、私はあなたがナンバーワンだから、そう言っただけ。あなたが本当に自信が持てたのは、あの電話のせいじゃなくて?」
ふいに事実を付かれてナッシュもそれを認めた。
「ああ、確かに・・・そうだ、あの電話にボクは救われた。でもキミが勇気付けてくれたから、公聴会を乗り切れたのも事実なんだ。これはボクの感謝の気持ちだ」
ナッシュは黄色い封筒を差し出した。
「何かしら?」
メアリーが封を開けると中にはナッシュのサイン入りの小切手が見えた。
「いや、時間が無くてジュエリーショップにも行けなくてね。せめてこれを受け取ってくれないか」
「5万ドル?? 私、そんな気持ちで、あなたに抱かれたわけじゃないのよ、これは頂けないわ」
〈私は、あの人から充分過ぎるほど、してもらってるわ〉
ナッシュは混乱した〈ちがうんだ、誤解しないでくれ・・・!〉
「ああ、メアリー、ちゃんと説明させてくれないか。君にだけはそんな誤解をされたくないんだ」
〈君のことは、色々調べたんだ。君のご両親は・・・〉
「今、すぐここを出て行って下さい!!」メアリーはドアを指差した。
「私はコールガールじゃありません。あなたがそんな気持ちで私を抱いたのなら、私は一夜限りのペットということですね。あなたを見損ないました。ご心配なく、仕事はちゃんとやるわ!! 次の仕事が見つかるまでね」
メアリーは、無理やりナッシュを部屋の外に出すと、バタンとドアを閉めた。
ナッシュは打ちのめされた。そして、さらに恋に落ちた。
〈言い訳させてくれよ・・・でも・・・こんな女がいたんだ!〉
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2007年06月25日
第33話/第八章 ジェフの秘密(3)
「リィーーーー!!!」
ジェフは狂ったように「ヘルプ!! ヘルプ!! サムバディ・ヘルプ・ミー!!!」と叫び続けた。脈を取るまでもない。リーは即死していた。
それから何日たっただろうか・・・。
ベラは体調を崩し、ほとんど失語症のような状態で英語を喋らなくなっていた。妹のパムは泣きはらし目の腫れが引かなかった。父も母も生気を失ったようになり、皆が生きた屍のような数日間を過ごした。
サンディエゴの惨事は爆発事故ではなくアジア解放戦線『蒼い鬼火』と称するアジア人のテロ組織の犯行で、その後の調査で、日本人が犯行に加わっていたことが報道された。
ジェフとベラ、そしてカックス一族は、激しくこの爆弾テロとその犯人を憎んだ。それは、親族を理不尽に殺されたものにしかわからない、やり場のない怒りと底のない悲しみだった。
ジェフはその後もベラを慰め、何かと面倒を見た。一時、失語症かと思われたベラの症状も回復に向かい、その数ヶ月後ベラは無事に男の子を出産した。男の子は、リー・Jr.と命名され、フューイも志津子もパムも、まるでリーの生まれ変わりのようにその子をかわいがった。
その後も、ジェフはベラとリー・ジュニアを気にかけ、経済的な面倒も見ていた。
ベラが寂しがっているときは夕食を共にした。食事の後二人は、決まってリーの思いで話をし、お休みの軽いキスの後、戸締まりを注意し、帰っていった。
もちろんそれは、リーへの愛と爆弾テロへの憎しみが二人の絆ではあったが・・・。
事件からは一年以上が経っていたが、ジェフがベラを励ましに通う日々は日増しに増えていった。リー・ジュニアがやがて言葉を覚えだしたある日、いつものように、ジェフがリー・ジュニアを抱くと、「ダディ」という。ベラはなぜかどぎまぎして「あなたをダディだなんてごめんなさいね」
と言ってリージュニアをあやした。
「いや、いいんだよ。君さえよければ」
ジェフが言った。
〈「君さえよければ」?ってどういう意味〉ベラは混乱してきた。
〈彼も私と同じことを考えているのかしら、でも私は今もリーを愛してるわ〉
ジェフは、ベラの心を読んだように「ボクもリーを愛しているよ。リー・ジュニアも、・・・そして、君も」と、はにかみながら告白した。
ジェフは、ドアを空け、「じゃあ、おやすみ」と、いつものように軽いキスをしようとしたが、・・・・・
ベラは、後ろ手にドアを閉めた
その夜、もうドアは開かなかった。
ジェフの会社は順調だった。次々にヒット作を出す「プレイ・ソフト」社は、たちまち社員を増やし、若きアメリカンドリームとして次第に世間は彼を注目し始めた。
その後マイコンの将来性にいち早く注目したジェフはOSの開発にのりだし、完成させた。しかし、OSの概念は当時まだ一般的ではなく、注目を浴びたわりには、ビジネスとしてはそこそこの成功だった。マイコンはやがてパソコンと呼ばれるようになり、8ビットから16ビットの時代になった。
この頃になって、一人の男がジェフのもとを尋ねてきた。男はナッシュといいジェフと同様、この世界で注目され始めた若者であった。お互い、以前から気になる存在ではあったので、ナッシュから突然の訪問を申し込まれた時、ジェフは快くそれを受け入れていた。
「ハロー、ミスターカックス」
ナッシュがジェフに手を差し出した。
「ウエルカム、エンド、ナイス・ミーティング・ユー」
ジェフもナッシュの手を硬く握り返した。
こうして二人はパソコンの将来とそのビジョンについて語るうち、たちまち打ち解け、数時間のうちに、お互いを「ジェフ」「ナッシュ」と呼び合うようになっていた。
二人は夜を徹して、コンピューターの未来を語った。ジェフはナッシュのビジネスに対する先見性に注目した。
ナッシュはジェフのOSを元に16ビット用のOSを開発したいので、権利を売ってくれと言ったが、ジェフは笑いながら言った。
「実はもうできているんだ。発表していないだけさ」
ナッシュはジェフの開発能力と先見性に驚愕した。
二人は手を組むことにした。
ジェフは共同経営者として、条件を出した。
それは、ソフト開発はジェフが担当し、会社経営はナッシュが担当するが、ジェフは一切マスコミには出ないということであった。
ジェフにはある目的があった。その目的のために、金が必要であったが、世間には知られたくなかったのだ。フィクサーになる必要があった。
「有名になれば、テロリストに命をねらわれる危険がある。有名でもない僕の弟リーでさえテロリストの犠牲になってしまった。そんなのはゴメンだね。」
ジェフは笑ってそう言ったが、ナッシュはジェフをただのマスコミ嫌いだと思いこんだ。
〈僕の本当のネライは誰にも知られてはナラナイ。妻のベラにも。〉
ナッシュは、ジェフのつらい体験が原因でマスコミ嫌いで臆病になっているのだろうが、このマスコミ嫌いは徹底しているなと少し驚いた。しかし自分にとっては悪い条件ではなかったので、もちろんナッシュは同意した。
ジェフとナッシュは一通の契約書を交わした。ハーバードのロースクールを主席で卒業した、弁護士「ベン・フェロー」がこの契約書を作成し、その後も時々この契約は更新されていった。契約の内容を知るのは、ジェフとナッシュとベンの3人のみで、超コンフィデンシャル文書としてこの契約書は扱われた。
こうして表向きはジェフの会社「プレイ・ソフト」社とナッシュの会社「NCOM」社が合併したことにし、新生の会社を「ワールドソフト・カンパニイ」とした。社長兼CEOはナッシュ・ヒュートンとなり、ジェフ・カックスは開発現場だけを担当するようになった。マスコミは、この合併を「NCOM」社の吸収と受け取り、アメリカンドリームの若き失敗としてジェフを扱い、その後マスコミの表舞台にとりだたされるのは、いつもナッシュとなった。すべてジェフの狙い通りだった。
やがて、ワールドソフト社は世界のOSを始め、あらゆるソフトを席巻し、ナッシュは30代にして世界1の資産家と言われるのだが・・・。ワールドソフト社の株式は50%づつナッシュとジェフのものであったが、ジェフの名は役員名簿にも社員名簿にも載っていなかった。
その後、ジェフは新たに小さなソフト開発会社を起こした。名義は妻「ベラ」の名にし、ここでも一切表には出なかった。この会社は、ナッシュの会社の下請けとなった。
ジェフは下請けとして、ワールドソフトのソフトを始め、あらゆる製品の企画と開発の基幹にかかわった。企画を元に、どうしても直接ジェフが開発しなければならない場合は、下請けとして開発した。
しかし、このことは、ナッシュしか知らない。
ナッシュは、誰にもジェフとの個人契約を打ち明けなかった。ナッシュは常に話題の人であり、その名声と金に常に女が群がっていた。だから、信頼すべき側近にさえ、このことを話さなかった。話せば、彼の信用は地に落ちるだろう。
ワールドソフトは次々ヒットを飛ばし順調に発展していったが、あまりにも急激に伸び、他を圧倒し始めたため、独禁法違反に問われ、危機を迎えた。
ナッシュはマスコミに事実無根を訴えたが、状況は悪くなる一方だった。マネジメントは彼の役割であったので、相談したところでジェフには解決できないだろうし、合わせる顔がなかった。
公聴会に出頭することが決まったある日、ジェフから昼食の誘いがあった。
ナッシュはうなだれ「こんなことになってすまない、ボクはもうお手上げだよ」
「なにか対策は無いのかい?」
ジェフが聞いた。
「ないね、意地の悪い議員連中がボクをつるし上げようと、舌舐めづりしてるさ。聞いてほしいことは絶対聞かず、こちらに都合の悪い事ばかりあげつらってくる」
ナッシュは、つい愚痴をこぼした。
「オーケー、ナッシュ。どんな質問が困るか、どんな質問がありがたいか、リストをくれないか。ただし、メールはだめだ。直接ボクに手渡して欲しい。それと、プリントアウトしたらコピーを取らないこと、コンピュータの中身も消すこと。明日もう一度、ここで会おう」
ナッシュはポカンとジェフを見送った。
〈一体、どうするというのだろう〉
2007年06月22日
第32話/第八章 ジェフの秘密(2)
放水車や救急車、ガラガラに倒れた建物、生きてるか死んでるかもわからない人を担架に乗せて運ぶレスキューの人々・・・・。あたりはすべて粉々で、そこに数時間前までサンディエゴの観光名所『オールドタウン』があったことなど、まるで想像できない風景がテレビに映し出されていた。
人間の遺体と思われるのもが軍用の毛布のようなものにくるまれて、道脇には並んでいた。それを軍人がトラックに次々に運び入れる風景・・・まるで戦場と化した観光地の信じられない惨劇は全ての番組で報道されていた。
時間は10時を過ぎていた。
「それにしてもリー、遅いわね」
「うん・・・ちょっと遅すぎるね」
「でもオールドタウンはリーが行くところとは違うし・・・・」
「そうよね、これがパシフィックビーチならわかるけど・・・」
「何とか、自転車でもここへ来れた僕はラッキーだったのかもしれない」
「念のため、警察に通報しとこうかしら・・・」
「いや・・・もう少し待とう・・・」
「そうよね」
「リーのことだから、サーフボードを担いて、歩いて帰ってきてるのかもしれない」
ベラが言った。
とうとう12時が過ぎたがリーは帰ってこなかった。
「やっぱり警察に連絡しておこう」
ジェフは言うと、受話器を持ち911をプッシュしていた。
受話器の向こうからは「申し訳ございません。ただいまラインが非常に混雑しています。しばらくたってからお掛け直し下さい」というテープ音が流れた。ジェフは何も言わずに受話器を置いた。
「どうしたの?」
「ダメだ。混線していて911さえかからないよ」
「そう・・・」
ベラの表情が急に青ざめてきた。
「大丈夫だよ。リーのことだから、明日になったら『あー疲れた』って言ってケロッと帰ってくるよ」
「そうよね」
1時を過ぎてもリーが帰ってこないので、ジェフはとにかくベラを寝かせることにした。
「お腹の赤ちゃんに良くないよ。警察へは、僕が連絡をするからベラは休んだ方がいい」
「そうね・・・赤ちゃんにもしものことがあったら大変だものね・・・」
「そうだよ」
ベラは力なく寝室へ入って行き、洋服も着替えずにそのままベットに入った。
ジェフはカウチに横になり、テレビをずっと見ていた。
死亡者の数が次々に増えていく。行方不明者の数は数えきれない。夜中にライトをあてて救出作業をする風景が映っていたが、作業は難航している様子だった。
惨事をテレビで見て、東部や中部の州から親族がいるサンディエゴにやって来る人々でごった返す深夜のパニック寸前のサンディエゴ国際空港の様子も映った。電話は遮断され、道路も援助や救援物資、救援活動が優先されているので車は特別な事情が無い限り走れない。まさにサンディエゴ中がパニックに陥っていた。
ジェフはこらえきれなくなって、急に立ち上がると、リーのジャケットを着た。テーブルには、様子を見に行くから心配いらない旨を書いたメモをベラに残した。
ジェフは自転車に乗って、深夜のサンディエゴをオールドタウンへと急いでいた。
真夜中の3時過ぎ、ジェフはオールドタウンに着いた。現場はジェフの想像をはるかに上回っていた。信じられない光景がジェフの目の前に広がっていた。辺りには、肉片が飛び散り、目を背けたくなる光景が広がっていた。悲鳴と、うめき声が響いている。倒れかけた道路の柵に自転車の鍵をしっかりと回して、ジェフは戦場と化したがれきの中を、くたくたになって歩いていた。
事故現場は、ところどころに大きなライトが照らされ救援活動が続けられていた。ジェフはもっと早く行動に出なかった自分を後悔していた。
とにかくあたりはがれきの山で、ジェフはどこからどうしたらいいのかわからなかったが、夢中になってがれきだらけの路地を歩いていた。救援に駆けつけている人の数も思ったより多かった。とにかくあらゆるところに救援者や軍人、行方不明者を捜す家族がいるので闇雲にがれきの中の被害者を探すよりも、何かリーの目印になるものを探すしかないとジェフは考え始めていた。歩いて歩いて何度もつまずきながら、ジェフは自分が戦場にいるような気分になっていた。もうじき、朝陽が登る。走り回ったので体力も尽きてきた。時計は朝の5時を指していた。不思議と空腹は感じなかった。もうろうとした意識の中でジェフは陽炎のようにリーの赤いオープンカーを見つけた。その車を見ると、ジェフは訳が分からず車に向かってよたよたと走り出していた。車は、フロント部分が潰されており、助手席にはフロントガラスが粉々に散ってその下敷きに赤いバラの花束が潰されていた。潰されいるとはいえ、吹き飛ばされなかったのが不思議なくらいに、その花束は、しっかりと助手席に残っていた。花束を包んだリボンが、オールドタウンで一番有名な老舗の花屋のものであることを知ったジェフは胸が熱くなった。リーは、ベラへのお祝いにオールドタウンで一番有名で一番高級な花屋でバラの花を買った後、この事故に巻き込まれたのだ。ジェフは確信した。
〈この近くにリーがいるに違いない〉
〈たしかこの近くにオープンカフェがあったはずだ〉
そして・・・
2007年05月29日
第31話/第八章 ジェフの秘密(1)
マサチューセッツ工科大学の夏休みを利用して、一時徹の家に身を置いていた従兄弟のジェフは、アメリカに戻った。卒業予定は翌年5月だった。ジェフは、勉強のかたわら父ヒューストン・カックスの会社『HUGE COMPANY』でアルバイトをはじめていた。と言っても、ジェフはマサチューセッツ州に居て、『HUGE COMPANY』はカリフォルニア州にあるので、ファックスでのやりとりが多かった。
これは父フューイの希望でもあったが、ジェフはコンピュータのプログラムを組むことと同じくらい、会社経営やマネジメントにも興味があったので、その提案に快く承諾していた。
『HUGE COMPANY』は、軍人上がりの父が5年ほど前に始めた会社で、ハワイやサンディエゴ等の海域に不審船や物体が来ないかをレーダーを設置して探知する仕事で、ヒューイは更に精巧なそのレーダーの開発にジェフの発想と才能の助けを借りたかったのだった。もちろん『HUGE COMPANY』には優秀な開発者が沢山いたが、それでも、フューイは息子の才能を信じていたのだ。
ジェフは父の会社で働く内に、難しいプログラムのソースを次々に解析し、たちまち社員達を凌駕してしていた。フューイが期待した通り、ジェフは社内でも評判がよく、ジェフの才能は認められていた。
翌1975年、大学最後のセメスター(学期)を迎えたジェフは卒業制作にとりかかった。とはいってもはじめは冗談半分のつもりで、ちょっとした腕試しのような感覚でこの作業にジェフはとりかかっていた。
ジェフは当時、流行の兆しを見せ始めたマイコンのゲームソフトを開発したのだ。これは、画面の上から四角いキューブが落ちてくるモノで、画面の一番下には突然黒いキューブが現れ、そこにキューブをおとすと、一気に2段のブロックが落ちてくるという単純なものだったが、単純さゆえにクラスの同僚もみんなが、ジェフの作ったゲームソフトにはまってしまった。ブロックが画面の上まで積まれてしまうとゲームオーバーになる単純なものだったが、級友たちは、ゲームオーバーになるたびにくやしがった。
「ねえ、もう一回、もう一回やらせて!! コツがわかった気がする」
「ちょっと、次は私の番よ」
「私もやらせて」
そしてとうとう、ジェフの担当の教授までが、ジェフが作ったこのゲームにはまってしまった。
結局このゲームソフトは「クラッシュ」と名前がつけられ、教授の押しもあって商品化されることに決定した。「クラッシュ」は、予想以上のヒットを記録し、ジェフは大学4年、21歳にして5千万円の大金を手にしてしまった。
この頃には、『HUGE COMPANY』への興味は完全に薄れ、アルバイトからは完全に手を引いてしまった。そういう意味ではジェフは父の期待を裏切ったことになるが、もちろん別の意味でジェフのこの成功をカックス一家は大喜びした。
そしてジェフはこの金を資金に大学4年にして、ソフト会社を設立した。「プレイ・ソフト」社と社名を決定し、ジェフは学生をするかたわら、次々にそこそこのヒットを生むゲームソフトを世に送り出していた。
一方、次男のリーは、ハイスクール卒業後も毎日のようにパシフィックビーチでサーフィンに明け暮れ、18歳で既にインドネシアの留学生ベラと同棲していた。ベラはインドネシアの富豪の娘で品が良く、全てのマナーにおいて育ちの良さを感じさせるとても素直な子だった。ベラはリーの自由奔放な生き方に惹かれ、恋に落ちていた。
幼いころから両親の厳しい規律としつけを教育されたベラにはリーのような生き方があこがれでもあったのだ。ベラの家には、メイドが5人、父専用のドライバーが2人いるという。そのドライバーの一人を気に入ったベラの父は、家の庭に離れのようなドライバーの家を建ててやり、いつでも必要な時には、運転を頼めるようにしていたという。
貧富の差が激しい、インドネシアで頂点に位置する家系にベラは育ったのだ。
もちろんフューイも志津子もベラが大好きだったので、二人の交際を反対する気などなかったが、ベラの方は、留学先でアメリカ人と同棲しているという事実をまだ両親には話せずにいた。
そんなリーをヒューも母志津子も頭を悩ませていた。インドネシアのお嬢さんをお嫁に迎えてこの二人は生活していけるのだろうかと。しかし、ジェフはいづれは、自分の会社にリーを役員として迎えるつもりだったので、ベラもリーも生活に困ることはないと思っていた。
ジェフは弟を心から愛していたし、ベラ同様、彼の素直な生き方がうらやましくもあった。リーは無鉄砲なところはあるが、頭は悪くない。いつかきっと気づいて、僕の会社の経営に役に立ってくれるはずだ、ジェフはそう信じていた。
この年の5月ジェフはMITをオーナー・スチューデントの称号を得て卒業した。
卒業後、プレイソフト社の経営に本格的に乗り出したジェフは、毎日忙しく嬉しい悲鳴を上げていた。経営は順調でプレイソフト社は大幅な黒字を出して、初年度の決算を終えた。
翌1976年、ジェフは、新しいソフトの開発で慌ただしく働いていた。アメリカの会社は朝は8時には社員が集まるが4時には終わるのが一般的だった。ジェフの会社もそうで、朝は早い者で7時には来るものもいたし、早い場合は3時で帰ってしまう社員もいた。それぞれの分担には責任があり、それさえこなせばその日の仕事は終わりである。
ジェフはいつものように4時に会社を出た。今日は、弟リーの家にディナーに呼ばれていた。どうやらベラはリーの子供を宿したようで、ささやかながら若者だけでお祝いをしようということになったのだ。
オフィスのあるダウンタウンから大通りに出て5号線をノース方向に行きたかったのだが、帰る道があまりにも渋滞していて一行に進まない。
「一体、何があったんだ!!」
10分たっても車は1メートルも動かなかった。車から人が出てきて『お手上げだ』といった感じで両手を上げている人もいた。ジェフは何か大きな事故があったに違いないと思い、ラジオのスイッチを入れた。
ジェフは閉口していた。
〈おいおい、今日だけは遅刻はしたくないんだよ、事故だなんて・・・〉
ラジオを入れると、サンディエゴのオールドタウン地域で起きた爆発事故のことが流れていた。オールドタウンはサンディエゴを東西に結ぶハイウエイの近くだが、結局この事故で、8号線と8号線の西側でジャンクションとなる5号線も通行止めになっていているという。
事故はこれまでにない規模で、死傷者は100人を超えると報道されていた。また、ラジオは救援活動のための救急車を優先させたいので、車の使用はなるべく避けて欲しい旨も伝えていた。
「避けて欲しいったって、ここから歩けっていうのかい?! 冗談じゃない!」
ジェフは車にのってラジオに耳を傾けていた。大通りに出てからすでに30分以上が経過している。このままでは本当に、約束の時間にリー夫妻のアパートに行けそうにないと思ったジェフは、車を大通りの脇に止め、一旦オフィスに戻った。彼のオフィスには、少ない距離の移動のための自転車が置いてあるでの、ジェフはそれでリー夫妻のところへ行くことに決めた。
「ふー、参った、参った、今日はベラのお腹に宿った子どものお祝いだというのに・・・」
この日、ジェフはもう1時間近く走っていた。大きなサイレンをならして走る救急車がひっきりなしに通り、何事かといった感じだった。自転車がいつになく多く走っている。
「君も(自転車)か?」「僕もだよ」といった会話が、風をきりながら通りでは交わされていた。
「もうくたくたさ」
みんながそう言っていた。唯一動いているのは、公共のバスだが、今まで見たこともないような長い長い列が出来ていて、ジェフは疲れていたが、とてもバスを待つ気にはなれなかった。それに、バスはお年寄りや子供を連れた婦人を優先にというラジオ放送もあったので、ジェフのような若者は一人もその列にはならんでいなかった。
道を歩くいたり、自転車で走っているのは、若者や筋肉のある男たちばかり。バスには老人や女性の長い列が出来ている。
ちょっと異常な風景がサンディエゴを覆っていた。
「普段、運動不足だからいいか・・・」
結局、リーとベラのアパートについた時には、6時を過ぎていた。
「ハロー、いやぁ、ひどい目にあったよ、ごめんよ、今日はせっかくのお祝いの日なのに」
「わかってるわ。オールドタウンでひどい爆発があったみたいね。実はリーもまだなの」
「ハハハ、リーもこの騒ぎに巻き込まれたんだ」
「なんだか、あの人なら、歩かずにサーフボードを使って海沿いに家に帰ってきそうだわ」
「そうかもしれないね」
ジェフもベラも、リーがくたくたになって歩いて帰ってくる姿を想像してケラケラ笑っていた。
「あの人、まさかサーフボードを担いで帰ってくるんじゃないかしら?」
「リーのことだからあり得るかもね。命より大切なサーフボードだ、道端に置いてきたりはできないんだろうなぁー」
「フフフ、いつもサーフィンばっかりやってる罰だわ」
ベラはちょこっと舌を出して笑った。
行くのにもサーフボードを持って入ったのよ。盗まれたら大変だからですって! ウエイトレスはちょっと変な顔をしていたわ」
「リーらしいな。あのボードは、彼の特注だから・・・。でも困ったもんだ」
「それにしてもすごい爆発ね・・・一体何が爆発したのかしら・・・」
テレビのスイッチを入れたベラの顔が急に曇った。
テレビに流れる惨状を見て、さっきまで冗談を言っていたジェフも黙ってしまった。
2007年05月28日
第30/第七章 常識と非常識(3)
その一年後、内閣は総辞職に追い込まれた。徹は政財界から強く、衆議院議員に立候補することを薦められた。
「あなたに期待している」
「日本をかえてほしい」
マスコミからバッシングを受けながらも、徹の鋭い論調と的確な判断は、じわじわと評判になり、永田町界隈や政財界からも、気づかぬ内に密かに注目されていたのだ。
徹は遠い昔、成績不振でガキ大勝だった自分に、学級委員の選出でいきなり6票を投じてくれた友がいたことを思い出した。そして・・・
徹は悩んだ末立候補する事に決めた。
昭和六十二年。
北野徹は36歳で、東京6区から無所属の立候補となった。ここは、元々保守の地盤の強いところだったが、徹には高校や大学時代の友人が後援会事務所を作ってくれて、たくさんのボランティアが集まった。東京6区は、長く続いた保守の地盤を守り通すことができるか、女性に圧倒的人気のある北野徹が、その地盤を揺るがすことができるかが争点になった。6区には、内閣総理大臣までが応援に駆けつけるほど、重要な選挙区となった。都営団地出身の徹は福祉の充実を掲げて、選挙活動を展開した。さらに若さと甘いマスクを売りに、主婦層からOLなどの浮動票を確実に味方に付けていった。徹の出身の都営団地にも後援会事務所ができ、団地内を歩き回り、一軒一軒歩いて握手を求めていった。それは、徹は想像していた活動よりも壮絶で、握手をするたびに手は腫れ上がっていき、若い徹も体力の限界を感じていた。そんな中、高校・大学時代の友人は手弁当を作ってたくさんのボランティアを集めてくれたし、団地の人々や団地周辺の商店街の人々までもが徹の味方についてきてくれるのが日に日に実感できるようになった。それでも強大な資金力をバックに広げる保守派の選挙活動に比べると、情勢は非常に不利で苦戦を強いられていた。
そんな時、東京の荒川区のアパートに一人住まいをしていた関口克実が、手記として「北野徹弁護士とのこと」という本を出版し、素人が書いたノンフィクションとしては読み応えがるとのことで定評を得て、たちまちこの本はベストセラーになった。また、関口が、ちょうど東京6区の住民だったことも効を奏した。関口は、「北野徹支援事務所」を作り、選挙活動を応援した。このことをマスコミが放って置くはずがない。
「関口氏熱い友情を語る」
「獄中を支えた若き弁護士」等の特集が各雑誌で組まれ、雑誌の売り上げは好調だった。このことをきっかけに、東京6区の情勢は一変して北野徹に有利になった。
徹は多忙なスケジュールの中、関口が作ってくれた支援事務所にも顔を出した。
「お久しぶりです。先生」
「関口さん、こんなことまでしていただいてありがとうございます」
徹は頭を下げた。
「先生、頭を下げるのは止めて下さい。覚えていらっしゃいますでしょうか? 昔、先生にお出しした手紙のことを・・・?」
「関口さんからいただいた手紙ですか・・・」
徹は少し頭が混乱していた。
「私は何か社会の役に立つことをしたいと書いたのを覚えてらっしゃいますか?」
その言葉で、徹は初めてもらった関口からの手紙のことを思いだした。
「ああ!!」
「やっと見つかりました。何か社会の役にたてること・・・先生のような方が議員になられるのを応援するのが、私なりの結論になりました」
昔より少し太ったように見える関口がおだやかに言った。
徹は、正直驚いていた。
「私は、一市民として、先生が議員になられるのを応援させていただきます」
「ありがとうございます」
徹は少し腫れた手で、関口と握手した。その後「ちょっと待って下さい」と言って関口が奥に入ると、ふろしきに包まれた大きな弁当箱を持って関口が帰ってきた。
「妹がね・・・と言っても、もう60近いんですがね、疲れてるときは甘いものが食べたくなるって、先生におはぎを作ったんですよ。是非先生に持っていってもらいたいと今朝もってきました」
「妹さんはお元気ですか?」
「ええ、私と同じでぴんぴんしとります。ただ今日はちょっと旦那のほうが風邪で熱をだして寝込んでいるようなので、お待ちしていたんですが、さっき帰りました。先生によろしくお伝え下さいと申しておりました」
「そうですか」
「どうか持っていってください。おはぎなんてね・・・あいつも気が利かないから」
と言って関口は照れ笑いをした。
「ありがとうございます」
徹は関口から差し出された弁当箱を両手で受け取り、何度も礼を言った。徹が帰ろうとすると、関口は支援事務所のテレビの上にある小さなだるまを指さした。
「だるまの目は元人形職人の私が、きれいに入れますよ」
「あ、あれは・・・」
そのだるまは、関口が出所した時に、徹が出所祝いとして関口にプレゼントしたものだった。『何度も転んでも転んでも立ち上がった関口さんに、いろいろ教えてもらいました』と、小さなカードを書いたことも覚えている。
「だるまと一緒に入ってたカードに、私は励まされました」
関口もそのカードの内容を、今でもはっきり覚えているような口調で言った。
「あのだるまが・・・?」
「そうですよ。先生、大変だと思いますが、がんばって下さい」
「応援、ありがとうございます」徹は深々と頭を下げて帰っていった。
選挙カーに戻った徹は、弁当箱を開けて車内のボランティアの若者たちにおはぎを配った。
「先生、これ、おいしいー!」
車内は一瞬がやがやして、みんなでおはぎをほおばっていた。
徹は一口一口味わうように、おはぎを食べたが、関口と闘った日々が選挙カーの中で走馬燈のように回りだし、もぐもぐと口を動かすたびに涙が出そうになった。もちろん、車内の若い連中はそんなことは気づかずに、手に付いたあんこをぺろぺろとなめていた。
やれるだけのことはやった。
そして投票日が来た。
徹は、夕方から始まったNHKの選挙速報を、じっと見ていた。途中で気があせってNHKや民法をしょちゅう変えて逸る心を抑えた。
新潟1区、群馬3区等々・・・保守のゆるぎない基盤は次々に当選確実のマークが付いていき、自民党選挙本部には赤いバラがちらちらと付きだした。
ところがその先がなかなか伸びてこなかった。いつもなら早々と当確マークがつく選挙区も苦戦を強いられていた。東京6区は「北野徹」と保守の「赤城二郎」の激戦がつづいた。赤城二郎は連続6回の当選経験を持つ、古参議員である。そこに初出場の北野徹が僅差で追いかけている。
時計が8時半を過ぎた頃だろうか・・・各民法のニュース速報に、東京6区「北野徹」当選確実のテロップが流れた。
「やったー」
徹が思わず声を上げた。
選挙本部に待機していた登美子も一浪も思わず万歳をした。
徹はボランティアの若者から大きな花束をもらい、また全員で万歳三唱をした。
当選に沸く事務所にはテレビ局が入り込み、当選を喜ぶ様子がテレビに流れた。
徹が大きな筆をもち、大きなだるまに目を入れるシーンは全国に流れた。
結局、僅差と言われていた赤城とも開封を終了するとけっこうな差が出ており、徹の圧勝と言う結果に終わった。徹はこの結果に嬉しい反面、重い責任を感じた。勢いだけで議員になったのではないことを、これからきちんとした政策を実行することで世論に示さなければいけない。
徹はボランティアの若者や主婦、その他、支援してくれた人々に何度も礼を言った。この日、プレハブの北野選挙事務所には夜中まで明かりがついていた。
翌日の新聞では、自民党の敗北がトップに白抜きで書かれていた。結局、無所属の議員を自民党に呼び込んでも過半数を取れなかった自民党は、与党の座を譲らなければならなくなった。史上初の連立政権が組まれ、与党と野党は逆転した。
しばらくして四谷の小さな法律事務所から、議員会館への引っ越しがはじまった。
四谷の事務所には古い資料や法律関係の書籍で一杯だった。貧乏性の徹はなかなか、その中にあるものを捨てられずに困っていた。法律事務所時代の秘書の若松はてきぱきと不必要な書類を段ボールに次々にほうり投げていった。
段ボールの山がひとしきりできて、捨てるものと持っていくものに分けられた。東京都推奨の半透明ゴミ袋には、いらない雑貨類が詰め込まれていた。
「あ、若松さん、このペン立てはね、もう古いから捨てちゃっていいですよ」
「ええ、ですから捨てるゴミ用のゴミ袋に入れてるんです」
そのゴミ袋からは、収まりきらずに地球儀の頭がちょこんと出ていていた。
「このゴミ袋は捨てるゴミの方ですから」
「あ、いや、この地球儀はね、持って行こうと思ってるんですよ」
「えっ、この地球儀を? 議員会館に?」
「ええ」
「必要ないんじゃないですか? 地球儀なんて」
「いやいや・・・意外と役に立つものなんですよ」
「そうですかぁ・・・」
若松はまだ納得出来ないという風に首を傾げている。
「持っていきたいんです。この地球儀は」
「そうですか・・・わかりました・・・」
若松は渋々と、一旦、ガムテープを貼った袋を破いて、そこから地球儀を出した。
「でも、この地球儀かさばりますね・・・もう、入れる段ボールもないし・・・」
「いえ、じゃあ、この地球儀は僕が手に持っていきます」
「本当ですか?」
「ええ、どうってことないですよ」
「はあ・・・」
数日後、議員会館への引っ越しが始まっていた。
徹は、愛用のスニーカーを履き地球儀を手に、まず議員会館へと入って行った。
2007年05月25日
第29/第七章 常識と非常識(2)
やり直し請求は一度は棄却され、それをさらに控訴し、やっと裁判のやり直しが認められた時には、すでに3年の月日が流れていた。そのころには、日本ではじめての死刑判決後のやり直し裁判ということで「岩槻・人形職人殺人事件」いわゆる「関口事件」はマスコミも取り上げるほど、有名になっていた。徹はマスコミを利用して、関口事件のえん罪を主張した。
やり直し裁判が認められると、判決が出るのは1年ほどしかかからなかった。評決の日には傍聴券獲得のための長い列ができた。
判決言い渡しがちょうどお昼のワイドショーにさしかかっていたこともあって、関口被告に逆転無罪が言い渡されると、無罪と大きく書かれた半紙を持った、マスコミ関係者がテレビのカメラに向かって走って来る姿が映し出された。
「無罪です。関口さんに無罪判決が言い渡された模様です」
「二十数年に及ぶ関口さんの闘いは無ではありませんでした。えん罪が証明されました」
アナウンサーがテレビの画面に向かって言う。
「どうですか、今回の逆転無罪判決、これはやはり予想通りといったところですか?」
アナウンサーが評論家に意見を求める。
「ええ、今回の場合は、検察側がこれからかなり叩かれるでしょうねぇ。なにしろ血痕のついた足跡など、明らかに関口さんとのものとは違うモノが発見されているのにそれを証拠として提出していないのですから。まぁ、30年後半はこういったずさんな裁判がまかり通っていたということですが・・・・」
評論家は当たり前のことを、続けて喋りつづけていて、番組もそのままそれを放映しつづけている。
「争点は、これからの国家賠償と言うことになりますが、関口さんが逮捕されたのが39歳で現在59歳ですから、かなりの賠償額が・・・」
途中で場面は変わり、今回弁護を担当した徹にマイクが向けられている。
「今回の判決、どう思われますか?」
「予想通りです。関口さんのような例で、えん罪が証明できなかったら、日本は法治国家とはいえないでしょう」
徹は自信たっぷりにマイクに向かって冷静に答えた。
「また、法がどんな判決を下そうが、これからの世論は、それに振り回されることなく事件の本質を見る目をご自身で持たなければいけないという問題も今回の事件の裏には隠されてはいないでしょうか。関口さんの20年以上に及ぶ闘いは、彼個人の問題ではなく、みなさん自身に明日起こるかもしれない事件として、ひとつのきっかけとして頭にとどめていただきたいと思っています」
徹はきっぱりと言った。
あたりまえの評論家の言動の次に、世論の責任を辛口でしかも堂々と言った徹の発言はたちまち話題を呼んだ。テレビに映ったときの徹の服装が、とてもダンディーで若い女性に受ける身なりをしていたことや、この難事件を一人で担当し勝訴までこぎつけたのが35歳の若手弁護士ということもあって、若い女性や主婦層には「北野ファン」があっという間に増えた。たった数分間のテレビのコメントがきっかけだった。
府中刑務所の出口のドアが開いて、一人の初老の男性が出てきた。
「どうもお世話になりました」
男はそう言って、ドアの看守に礼を言うとまっすぐと徹に向かって歩いてきた。
「先生、いろいろありがとうございました。先生のおかげです」
「いいえ、この裁判は関口さんの不屈の精神があって初めて勝利できたものですよ」
「いやあ・・・私はただ・・・」
そこまで言って、関口は声を詰まらせた。
「これからどうするおつもりです」
「今日は、母の墓参りに行こうと思ってます。その後は、妹夫婦のところにしばらく世話になることになりました」
関口の妹は、事件のあと婚約を破談にされ、母親と支援活動をするうちにそこで知り合った男性と最近になって結婚したという。関口とは4歳下というから55歳になっていることになる。
「そうですか」
関口の母は、関口が逮捕された後も『息子は人様を殺すような人間ではない』と精一杯気丈に振る舞い、関口の支援活動を続けたが、2年前に82歳で突然倒れそのまま眠るように死んだという。
「母が生きてるうちに、この報告を出来なかったことはやはり無念ですね」
徹も関口の母親には何度か会ったことがあるが、白髪でシワだらけの顔に、疲れ切った表情を隠しながら、徹が励ますと遠くを見るような視線で微笑んだ老女の姿を思い出す。
「カツミは敏江ちゃんを殺したりしませんよ。あの子は、そんな子じゃありません」
気丈に振る舞っていた関口の母が一度だけ徹の前で涙を見せたことがある。そのとき、ぽろぽろとこぼれる涙を拭った皺だらけの手が、長年の農作業のせいかとてもごつくて、真っ黒く日焼けしていたことが、きゃしゃな体に似合わなかったことを徹は思い出した。
80歳を過ぎて、足腰が弱った後も、息子のことを「カツミ、カツミ」と言って、杖をつきながら刑務所を訪れた母親の胸中を思うと、やりきれなさで胸がいっぱいになる。今こうして59歳の息子は、堂々と太陽の下に立って自由を手にしたのだと、徹も老女の顔を思い出しながら心から報告していた。
「少し歩きましょうか」
「はい」
ゆっくり歩き始めた関口が言った。
「塀の内と外では、まるで重力が違うみたいですね」
徹は返す言葉が見つからなかった。
「空気が軽くて、しっかり歩かないと浮いてしまいそうですよ、ハハハ」
明るい表情の関口に答えるように、徹も努めて明るく言った。
「この先に花屋があるんですよ」
「えっ・・・」
花屋に着いた徹は、墓前にそなえるための花束を店員に注文した。
「これをどうかお母様に」
「いえ、そこまでしていただいては・・・」
「できれば私も一緒にご報告に行きたいくらいですが、関口さん一人の方が、お母様もよろこぶでしょう」
「ありがとうございます。ではありがたく頂戴いたします」
関口は、丁寧に頭を下げた。
花束を関口に渡すと、関口はそれを両手で持って臭いをかいだ。
「ああ、花の臭いだ」
本来なら当たり前の言葉に、関口の20年の重みがあった。
「あ、それから、これ・・・」
徹が、きれいにラッピングされた小さな箱を関口に渡した。
「これは?」
「いや、大したものではないんです。私からの出所祝いと思って下さい」
「いえ、お礼をしなければいけないのはこっちのほうなのに」
関口はとても受け取れないといった感じで、躊躇していた。
「どうか、納めて下さい」
徹がきっぱり言った。
「本当に、ここまでしていただいて・・・・ありがとうございます」
関口は、徹の心遣いに感謝して、頭を下げてそれを受け取った。
「先生、何でしょうか? この包みの中は?」
嬉しそうに言う関口に、徹が言った。
「いや、本当に大したものではないんです。私もこの事件で勉強させてもらいましたから、いろいろ考えていたら、これが浮かんで・・・」
「母と妹夫婦にこの先生からのプレゼントを見せたくてうずうずしてきました」
「ハハハ、そう言っていただけるとありがたい。では・・・私はこれで」
徹は大通りを渡ろうと信号機の方に向かって歩き始めた。
「せんせーい」
関口の声がして振り返った。
「落ち着いたら、手紙・・・書きますから、必ず」
「ええ、楽しみにしていますよ」
徹が言うと、関口は向きを変え反対側に歩いて言った。
徹は信号待ちしながら、関口の持った白い花束がほとんど見えなくなるまで、彼の背中を見ていた。
しばらくして、関口から短い手紙が来た。
妹のところに長くやっかいになるのは、気がひけるので、今は東京の荒川区に小さなアパートを借りているという。当面金のことで苦労することはなさそうだが、これといってその金で贅沢をしたいという気には今はなれなくなった。ただ、こんな自分でも『何か世の中の役にたちたい』とおぼろげながら、最近思うようになり、それが何なのかこれから探していきたい。・・・とそんな内容のことが関口からの手紙に書いてあった。
徹も「がんばってほしい」という旨の返事を早速出し、その後、季節の変わり目ごとに関口からは葉書がくるようになった。
関口事件勝訴の後、昭和32年に起きた富山県OL惨殺事件で被告とされていた「山下事件」もやり直し請求が通り、見事勝利を勝ち取った。結局その後2?3年は昭和20年後半から30年代にかけてのえん罪事件が3件発覚し、どれも勝訴する結果になった。もちろん関口事件以後のやり直し裁判は徹が担当したわけではなかったが、これらえん罪事件のきっかけとして関口事件の勝訴が裁判に大きく影響していたことはいうまでもない。
関口事件の弁護やその後のコメント以来、徹は、テレビのゲストとして呼ばれることが多くなった。「徹子の部屋」にも出演し、勝訴までの長い道のりをテレビの画面を通して語った。やがて「北野徹」が出演すると視聴率が上がるワイドショーも出てきて、日曜日の朝の討論番組等にゲストとして徹はひっぱりだこになった。徹はどの番組に出演しても、お構いなしに辛口なコメントを続けたが、女性ファンは増える一方だった。
難関を極めた関口事件はやりがいがあった。徹子の部屋に出てホンモノの黒柳徹子を見たのは興味深いものがあった。討論番組に出て言いたいことを言うのも、なかなかやり甲斐のあるものでもあった。もちろん本業である弁護活動も、すべてがケース・バイ・ケースで徹には勉強の連続だった。・・・しかし、それは徹の理想を実現するための一ステップに過ぎなかった。
朝の政治討論番組では、野党側の席に座り、野党が当時導入しようとしていた「消費税」を巡って、与党を避難し続ける中、徹は顔色一つ変えずにこう言った。
「消費税の何が悪いんだ? 消費税導入は竹下内閣の唯一の産物じゃないか?」
必死になって消費税導入を責め立てていた社会党議員「青木昭平」は、あっけにとられて言った。
「北野さんは与党側ですか?」
「はっ? 与党にも野党にも問題は沢山あるでしょ。ただ消費税導入には反対じゃないと言っただけで、与党側とは一言も言っていませんよ」
一瞬、討論が空白になり司会者は困ったように、何とかその場をつないだ。
青木は、消費税導入を巡って言い訳をつづける与党の議員を追いつめようとしていた矢先の徹の発言に、ぶ然とした表情で腕組みをしてしまった。
今度はここぞとばかりに、与党側が消費税導入による財源確保の必要性を強調し始めた。
徹はだんだん討論にばからしくなって来た。
徹は思わず大きなあくびをして、言った
「消費税以外に話し合うべきことはないんですかね?」
皮肉たっぷりの徹の発言の後は、野党の議員も与党の議員も急に黙ってしまった。
これにはさすがの司会者も困ってしまい、CMをはさんで何とか番組を続ける結果になった。
この討論番組中で徹が大あくびをしているところがばっちりテレビに映り、「あくびをしながら国民の問題を考える弁護士」と、一部の週刊誌で叩かれたりもした。この番組中の「あくび」をめぐって、北野法律事務所には、ワイドショーのインタビューが殺到した。徹はあっさりとインタビューを受け、顔色一つ変えずにアナウンサーの質問に答えた。
「消費税という、低所得者には死活問題ともなりかねない問題の討論の最中にあくびをすることは、先生のようなお立場の方としては不謹慎という声があがっていますが、それに関してはどう思われますか?」
「私、個人としては、消費税導入は非常に重大な国民の関心事と認識している。たまたまあくびをしているところをテレビが数秒写したところで、その点に関する私の認識に変わりはない。それでも不謹慎だと許せないのなら、何もそんな世論を味方につけるつもりはない」
徹はきっぱり言った。
「ずいぶん強気の発言ですね?」
「強気でも弱気でもない。あくまで常識にそった発言だと認識している」
さらに徹が返した。
「じゃあ、これで失礼させていただきます」
徹は事務所に戻って行き、その後何度も、インタビュアーが徹の事務所のインターホーンを押し続けたが、誰も出る者がないないので、関係者たちは諦めて帰っていった。
この番組を生中継で見ていた登美子は、「こんなことばっかり言って大丈夫かねぇ」と心配そうに一浪に言った。
「何ば悪かとや?」
無口な一浪が、腕組みをしながらさらりと言ったので、登美子もそれ以上は口にしなかった。ところが一浪はさらに続けた。
「国会中継ば見てみろ。審議中に居眠りばしといるやつらが大半ばい。そげんとが、もっと非常識とじゃなかとか。マスコミん連中は何でそれば黙とっとか?」
一浪の強気の発言に、登美子もやっとほっとしたようだった。
北野徹バッシングはしばらく続いたが、徹がそれを全く相手にしなかったことと、バッシングの材料が「あくび」一つしかなかったことで、この北野潰しも自然に消滅せざるを得なくなった。
<つづく>
2007年05月24日
第28/第七章 常識と非常識(1)
それから5年後・・・
昭和56年
四谷に小さな弁護士事務所を設立した徹は、人形職人殺人事件の再審で夜もろくに寝ない孤軍奮闘の毎日が続いていた。
この事件は昭和38年に、埼玉県の岩槻市で当時38歳の主婦が昼夜、胸部腹部など数カ所を出刃包丁で刺し殺された事件で、犯人は被害者の夫である人形職人『関口克実』被告とされ、一審二審ともに死刑の判決を受けた裁判のやり直しとして、注目されていた事件である。通常、これほどマスコミの話題を呼ぶ事件の場合、何人かの弁護団が結成させるのが常だが、これまで例のない再審請求の国選弁護人を引き受けた弁護士は徹一人だけだった。
被害者の関口敏江には当時愛人がおり、そのことが原因で夫婦間には喧嘩が絶えず、事件があった日の昼間も克実被告が「殺してやる」と大声で怒鳴っていたという近所の証言が得られた。任意同行を求められた被疑者「関口克実」は、始めは事件を全面否定していたが、拘置期限が切れるぎりぎり前になって、容疑を認め逮捕された。ところが被告は一審の罪状認否から、急転して容疑を否定した。
関口被告は、夜もほとんど眠れない拷問にのような毎日で頭がもうろうとし『自分がやってしまったのかもしれない』とふと口にしたことを調書にとられたと、これまでの自白が警察による強制のようなものだったと証言した。凶器と思われた包丁には、関口夫妻の指紋が残されておりそれが唯一の物的証拠になったが、家庭の包丁に夫婦の指紋がついていることは、夫婦生活をしていたなら当然のことであり、それだけで関口被告を犯人と断定するには物的証拠が少なすぎる事件であった。また被害者の死亡推定時刻は午後2時から4時くらいまでと推定されたが、被告はその時間は、喧嘩のあとでふてくされて夕方5時くらいまでパチンコに行っており、その目撃証言も得られていた。また、犯行の残忍さから犯人は当然返り血を浴びているはずだが、関口家の風呂場からも台所からもルミノール反応は全く出なかった。血のついた関口被告の服や血を拭いたと思われるタオル類も一切発見されなかった。さらに現場には血のついた足跡が残されており、それは関口被告のものとは大きさも形も違うものであったにも拘わらず、裁判では証拠物件として提出されていなかった。
しかし被害者が抵抗した痕跡がないことは、顔見知りの犯行であることの裏付けになり、また金品の盗難や部屋が荒らされている形跡がないことから検察側は、怨恨による犯行と初めから関口被告を犯人と決めつけていたようである。
22年前に起きた殺人事件で、しかも一審二審とも死刑判決を受けた裁判のやり直し請求は難航を極めたが、徹はあきらめずに当時のパチンコ仲間を訪問して歩き、いかに当時の裁判がずさんなものであったか、毎日毎日くたくたになるまで資料を集めた。
世論はこう思ったに違いない・・・
〈裁判で有罪になったのだから当然それなりの証拠があるのだろう・・・〉
〈だから裁判長が認めたんだ・・・〉
〈だから、やっぱり犯人は関口に決まっている・・・〉
裁判や関口被告が犯人にされていく課程に何があったか知るはずもない世論は、この事件を、激情の果てにかっとなって妻を殺した殺人事件と信じて疑わなかったろうし、それを後押しするような雑誌記事が当時たくさん出版されている。
『普段はおとなしいが、かっとなると何をするかわからない人だった』
『被告は子供のころカエルを殺して遊んでいた』
『人形職人の被告は、犯行前日人形の目を赤く塗りつぶした異常さがあった』・・・等々
被告を異常性格とイメージづける記事は次から次ぎに出版されているが、取材元をよく読むと『職場の同僚A』『幼少時代からの友人B』等、非常に曖昧なものがすべてだった。
そして・・・年月が経つにつれて、事件は人々の頭から消えていった。
いつまでも消えずに残ったのは、ひっそりと息をひそめて暮らすことを強いられた関口被告の母や妹たちの生活だった。
獄中の関口から手紙を受け取ったのは二審の死刑が確定した後である。
「拝啓 北野弁護士様・・・」で、始まる関口の手紙には、自分は絶対に人を殺していないこと、妻が殺されたとされる時間に自分はパチンコ屋にいてアリバイもあること、自分が死刑になってしまったら当時のいい加減で強引な裁判はすべて通ってしまうこと、自分と同じようにえん罪で苦しむ被告が少なからずいるであろう事、これまで沢山の弁護士先生に同じ様な手紙を書いたが何の返事も無かった事等が、切々と書かれており、その真剣さが徹の心を動かした。徹は関口の国選弁護人を引き受け、裁判のやり直し請求を一人で始めることになった。
〈人殺しの言うことよりも裁判官が言うことの方が正しいに決まっている〉
〈戦時中じゃあるまいし、そんないい加減な裁判があるはずない〉
しかし・・・・
世の非常識は、いつも足音一つたてず、人々の常識に寄生虫のように巣くい、見えない形で社会に根付いていた。
人々の中にある、当然「守ってくるモノ」が実はいかにいい加減にすすめられるか、それを世論に示すいいチャンスであると徹は考えた。もちろん、関口被告の言っている事自体が虚偽でる可能性もあるので、徹は弁護を引き受ける前に何度も埼玉の岩槻まで足を運び、関口のパチンコ仲間や当時の同僚から証言を得た。
岩槻へは、国電の四谷駅から秋葉原に出て京浜東北線で大宮まで行き、さらにそこから東武野田線に乗り換えなければならなかったので、片道2時間はかかった。それでも徹はアポイントがとれると往復4時間かけて岩槻まで何度も足を運んだ。
「関口克実被告の事で覚えていることを教えて下さい」
「いやぁー、随分昔のことだかんねー、だけど関口さんはいつもおとなしくて真面目な人でしたよ」
「被告が犯行前日に人形の目を赤く塗りつぶしたと言う話はどうですか?」
「あー、あれはね、インクの色を間違げえちまって、黒かと思ったのか赤くてね、赤い目の玉描いちまったってだけの話で、塗りつぶしたなんてことはないですよ。はい。これだけはよく覚えとります。この事は、当時何度も取材に来た人にも話したんですがね」
「どの雑誌社か新聞社か覚えていますか?」
「いやー、どこだったかなー」
「そうですか・・・」
「今、言ったことを法廷で証言していただけますか」
「えっ? 法廷? だって、あれ、ほらもう判決が出たんでしょ?」
「いえ、まだチャンスはあります」
「いやー、法廷っていってもね、昔の話だし・・・あの人を良く知ってるわけじゃないし」
また徹は当時の死亡推定時刻にどれほどの正確さがあるかも、法医学研究家を尋ねて調べてみた。その結果、死亡推定時刻の推定には、当時と今では技術的には確かに進歩しているが、今はその推定時刻がより短く的を絞れるようになったということで、当時の推定で2時から4時なら、その推定がその時間を大幅に上回ったり下回ったりすることはないはずだということがわかった。ということは、死亡推定時刻の時間から夕方の5時までパチンコをしていた関口被告のアリバイは、再審請求の際、強い武器になる。
「関口が犯人である可能性はほとんどない」という確証をもった徹は、すぐに獄中の関口に手紙を書き、希望を棄てずにがんばるようにと励ましの手紙を書いた。
〈法治国家であるはずの日本がずさんな裁判をしていた〉
〈そんなずさんな裁判をエリートである裁判長も何の疑問も抱かなかった〉
この裁判には、とんでもない非常識が、当然の常識のようにまかり通っている。これでは法律は、本当の不正を裁けない。日本が法治国家であり得ない。世間もそのことに気づかない。危険な信号だ。この信号を世論に送ろう。徹は堅くそのことを心に誓った。
徹は初めて関口被告に接見をした日のことをはっきり覚えていた。
3月下旬のぽかぽかと暖かい日で、春一番のような強い風が吹いている日だった。徹は風呂敷に包んだ資料を持った手を風にあおられながら、何度も持つ手を変え、拘置所に着いた時には髪の毛はぼさぼさで、春のような陽気にもかかわらずコートを着ていたので、じっとりと汗をかいて顔がぽっぽと赤らんでいるほどだった。接見室へは、徹は上着を脱ぎ、ネクタイをゆるめ、ぼさぼさ頭のまま、まるで居酒屋帰りのような格好をして入っていった。
「はじまして。関口です。お返事を下さってありがとうございました」
関口は、面通しのプラスチックの壁を通して深々と丁寧にお辞儀をした。
徹とは対照的に関口は、髪にきちんと櫛を通し、囚人服の襟をきれいに折り徹を待っていた。
その関口の落ち着いた表情となりを見た瞬間、徹は一対一の対等な人間同士の会話がこれから始まるのだと改めて思い、急いで手櫛をとおしネクタイを締め直した。
ただの人形職人でしかなかった関口が殺人犯とされ、長い裁判でさぞ疲れ、世間には恨みでいっぱいなのだろうと徹は思っていた。そんな関口の愚痴を聞いてやることから始めたい・・・そう思っていた徹は関口と話して、それが弁護士としての自分のおごりであったことにすぐに気づいた。
「私は妻を殺していません」
関口は冷静に言った。
長い絶望的な闘いの中で、関口は関口なりに不条理と闘う術を身につけ、前向きに闘う姿勢をまず徹に示したのだった。世間や検察に対する憤りは、言葉にできない深いものが彼にはあったろうが、彼はそんなことは口にはせず、淡々とこれまでの裁判の流れを、徹に説明した。
不条理と闘うために、苦手なペンを持ち、出来うる限り丁寧に、そして感情を殺して徹に手紙を送ってきたのだと、関口と会った徹は悟った。
「先生、お願いします」
「ええ、こんないい加減な裁判を黙って通すわけにはいきませんから、出来る限りのことを」
「時間がないんです」
「えっ?」
「母がもうだいぶ弱ってきて・・・」
関口の母は80歳になろうとしている。関口が中学3年の時、父が脳梗塞で死んでから、農業と人形作りの内職で一家を支えてきた人だ。
「母が生きている内に、何とか無罪を・・・」
そこまで言って、冷静だった関口が涙ぐんだ。
「がんばってみます」
徹に言えるのはそれだけだった。
<つづく>