2008年06月18日

6月17日


バイトのついでに健康診断にいこうと思い、病院のカードを探したのだが、結局みつからず病院は断念。
いつもながら、自分の整理能力の無さにうんざりする。
帰って探すも、見つからず。
ちゃんと整理しておけばいいものを、それをしないからつねにてんやわんやする。
行方知らずのものが見つけられないで、自分の人生どれだけ無駄にしていることだろう・・・・

木村敏「精神分裂病における自己と自然さの障害」(芦津・木村他編『文化における<自然>――哲学と科学のあいだ』人文書院、1996、収録)
を読む。

テーマは、「自然」とはどういうことか、そして「自然」と「自己」の関係とはいかなるものか、ということだ。
統合失調症の患者は、その不自然な態度・行動を指標として、周りの人間から医者の下へ連れてこられる。「患者を我々のところへ連れてきた周囲の人たちの常識的な判断は、多くの場合、間違っていない。大多数の人が感じ取っている自然さと常識とは、切り離すことのできない一つの感覚を形成している。」(p.104)
こうしたわれわれの感覚に現れる「自然」とはなにか?
木村は、日本における自然概念を西洋のそれと比較しながら論じる。
もともと自然という日本語は、「ジネン」と発音されて、それは「おのずから」(Von-seibst-so-sein)(=「おのずからそうであるありさま」)ということを意味していた。
「自然」や「自己」という言葉において、同じ「自」という語が使用されていることを考えると、日本においては、ジネンの意味での自然さが自己Selbstと深い関係にある概念と考えられる、木村は言う。
木村によれば、この関係は「より有機的な関係」なのである。
自己の自然さの関係は、「この両者の等根源性(Gleichursprünglichkeit)、個別的主体性と集団的主体性の共属性(Zusammengehörigkeit)あるいは不可分性(Untrenbarkeit)」(p.113-4)を蔵しているのである。
それゆえ、統合失調症という事態においては、このような自己と自然さが、同じひとつの根本的な障害をこうむっているのである。

ブランケンブルク「精神病理学的観点からみた自然さと不自然さ」(同書、収録)

自然さと不自然さの境界線はどこにひかれるのか?ということがテーマ。
ブランケンブルクによると、そんなのは無理。

人間の場合に「自然さ」と「わざとらしさ」の区別が容易ではない理由は、「不自然さ」がある程度まで人間の「自然」につきものだからである。それは丁度、考えたり自分を省みたりするのが人間にとって不自然なことではなく、むしろあまりにも自然なことであるのと同じことである。(p.125)
自然とと不自然の境界は、およそ簡単に定義できるものではない。それを決めるのは、〔学問の対象ではなく〕目利き(Kennerschaft)の技なのである。(p.126)
「私のテーゼは次のようである。自然との正しい関わりは、selbst(あるいはauto)の二つの意味が合致する場合に得られる。」(p.128)

もう一度、ゴフマンを読んでみるか・・・

Lindemann, Gesa,"Die Verkörperung des Sozialen: Theoriekonstruktionen und empirische Forschungsperspektiven"
を途中まで読む。
近年の身体の社会学批判。認識のレベルで批判を行っている。
「社会学者が目にしている社会的個人は、彼らにとってどうやら天使に見えるらしい。・・・社会学的探求の対象は非物質的なものとして構想されている」(p.114)からである。


再び力を入れてご飯を作る。

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竹の子としいたけのお吸い物。
やはり木の芽が欲しいところである。



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だしがらと賞味期限の切れた「鰹のしょうゆ漬け」で、佃煮。
ご飯がすすむ。


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根菜の煮物。
健康的である。



nt_tnb1103 at 02:45│Comments(0)TrackBack(0) 今日の出来事 

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