2013年02月

2013年02月28日

55年前

 今から55年前1958年(昭和33年)を紐解いてみた。

 暮の12月7日に東京タワーがオープン、昨年はスカイツリーがオープン、空の上でも時代が流れている。

 スポーツ界では、今落日の大相撲、まさに栃若時代、京都の外食券食堂でテレビに釘付けだった。
長嶋が巨人軍入団、川上が引退したのもこの年だった。王も入団を決めた。日本シリーズは巨人対西鉄、稲尾の活躍で3連敗の後日本一になった。スタ誕でおなじみの後楽園ホールの前身、後楽園ジムの開業もこの年だそうだ。
  
 売春防止法が施行された。私は大学2年生、京都には花街があちこちにあったが、お世話になることはなかった。
  
 テレビは月光仮面・事件記者・バス通り裏・光子の窓・ロッテ歌のアルバムなど。
 
 日劇ウェスタンカーニバルが行われたのも、この年から。

 ヒット曲は「夕焼けとんび」「だからいったじゃないの」「嵐を呼ぶ男」「星は何でも知っている」゜おーい中村君」
「からたち日記」「無法松の一生」・・・・懐かしい。

 ナベプロの創業は翌年㋨1959年。同じ1959年には水原 弘が「黒い花びら」で第1回レコード大賞を獲得。
ミーがレコード大賞を獲得したのは第20回だった。

    ミーはポップス元年の生まれ、ポップスの申し子か?

 

 

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2013年02月21日

PCコンサート その3

 T&Cが傾いてリリースしたレコード2枚。

 ワーナー・パイオニアから「さよならは貴方から」の水島ゆみ、キングから「砂に消えた涙」の杉沢 順。
水島ゆみのこの曲はYouTubeにはなかった。杉沢 順の曲は聴くことが出来た。

 無責任とも思われる新人の乱発、「下手な鉄砲も数撃てば当たる」ではないが、当時は周囲からの依頼も多く、またピンク・レディーに続くアーチストも欲しく、必然的に数が多くなった。
T&Cに関係した皆さん、一度はスポットライトを浴びた身、その後は健康で健全に過ごしておられる様子、何よりです。

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2013年02月20日

PCコンサート その2

 新人4人目は天馬ルミ子、1964年生まれ、13才の少女だった。私の倅が同じオリンピックの年生まれだった。
天才少女と徳間音工から紹介され、大型新人として売り出した。作曲都倉俊一「教えてください神様」でデビューしました。賢く、歌の上手い少女でした。

 当時の雑誌インタビューで、ミーケイについてコメントしています。
「すれ違いで、なかなか会えませんが、ステージで一緒のときなんか、いろいろ注意してくれます。ケイちゃんは"食事だけは必ずとりなさい" ミーちゃんは"姿勢を正しくしてステージを大きくね" この前なんか、私の曲のフリを2人でやってくれたんですよ。  仕事も本当に一生懸命ですし、あのすごいスケジュールをどうやってこなすのか不思議でたまりません。 言葉づかいとか礼儀についてもいろいろ教えてくれるやさしい先輩です」

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 新人5人目は司 美穂、日本女子大在学中、福島県白河市出身。TBS久世光彦氏プロデュースの水曜劇場「ムー一族」で清水健太郎の恋人役でデビュー。その挿入歌「しのび逢いのテーマ」作詞なかにし礼・作曲川口 真を歌った。

 新人6人目は1979年コンドルズの「金曜日の微笑」。貫 泰夫オーディションに出場したバンドから編成したグループだった。

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 他に歌手としては南 沙織の引退に至るマネージメントをしました。この人に関わる話はしたくない。

 タレントとしては、岸じゅんこ、大阪11PMで藤本義一さんの相手役として活躍。芸能界引退後は帽子デザイナーとして大成功。お嬢さん2人も見事に成長、子育ても立派です。

 他に女優として、叶 和貴子も在籍。ピンク・レディー・郷ひろみのバックコーラスをしていたが、その後女優に転身。色白の美しい人だった。

 オーディションで採用した鹿取洋子、三好鉄生が、T&C倒産後デビューしたことはうれしかった。
特に三好鉄生は、私が芸能プロを続けるかどうか、彼と自宅で一晩語り合ったので、ヒット曲を耳にしたときは最高に嬉しかった。「涙を拭いて」やサントリーのCM「すごい男の歌」はいつまでも耳に残る。

 ずっと書いてきてみて、当人たちを想い出すことはむろんのこと、親御さんたちも目に浮かぶ。
岸じゅんこのお母さん、倒産後もずっと付き合いが続きました。谷ちえ子のお母さん、風貌も肝っ玉母さんだった。田中美智子のお母さん、本人に負けないぐらい垢抜けた人だった。天馬ルミ子のお父さん、しっかりした人だった。司 美穂のお母さん、白河まで出かけたが記憶にない。親とは違うが、三好鉄生の奥さんはシッカリ者だった。あのイカツイ男が完全に尻に敷かれていた。
 ケイの2人のお母さんも印象に残る。育てのお母さんが報道陣に対して「ノーコメント」と発したときはユーモラスだった。産みのお母さん・お兄さん・お姉さんたちは物静かな人たちだった。
 ミーの両親、お父さんというより、私にとっては「オヤジ」そのものだった。見たところ、頑固一徹だが、根はやさしく思いやりのあるオヤジだ。ピンク・レディーにとってピンチがあったが、その都度救っていただいた。お母さんは私と同年、付き合いやすい人だった。





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PCコンサート その1

 3月1日のミーとのトークショーを控えて、改めて1976年から1981年までの5年間を検証しています。
あの5年間は焦燥感に駆られ、凝縮された芸能人生だった。5年間を二文字で表すと何だろうといつも考えています。「焦燥」「凝縮」「感謝」「浪漫」などなど頭の中を駆け回っています。
 自分もまわりも、あの5年間はピンク・レディーだけだったのかと思われますが、5年間にしては多くの歌手・タレントをマネージメントしています。ミーケイ以外の人たちには十分な配慮が行き届かなかったのではと反省しています。 昨日、昔を懐かしみながら、当時を想いだしながら、独りでYou Tubeを聴きました。

 最初の新人はピンク・レディー㋨1か月前、1976年7月25日発売の田中(榊) 美智子の「ひまわり君」でした。
中西 礼さん紹介、作詞なかにし礼・作曲ベンチャーズ。日大芸術学部在学中で、明るく楽しい女の子でした。美樹克彦氏と結婚、作詞家・バイオ化粧品販売・美容研究家とマルチの活躍をしているようです。

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 2人目の新人はスタ誕生でスカウトした谷 ちえ子、1977・6・1発売「花の女子高数え歌」中村泰士作曲でした。
彼女文字通り、函館の女子高生で歌の上手い・可愛い女の子でした。俳優小倉一郎氏と結婚、今も歌手活動を続けています。

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 3人目の新人は児玉信二、作詞松本隆・作曲三木たかし「さよなら前夜」でデビュー。森 進一やにしきのあきらなどを輩出した鹿児島キャバレーエンパイヤの出身。キャンペーンでエンパイヤに行ったが、私までステージに上げられ、その上キャバレーがハネたあとホステスさんたちに訓示を求められたのにはビックリした。
彼は北海道に帰ったと聞いたが、氷川きよしばりの演歌を機会があれば歌っていると思う。

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2013年02月13日

ファットウーマンとリトルガール

 被爆団体の世話をしている。
 
 長崎原爆をファットマン(ふとっちょ)、広島をリトルボーイ(ちびっこ…ペンシル型で細い)と言う。
ミーの二つの顔を、二つの原爆になぞらえた。

 丸っこいなあ―(1977・3・31チャレンジコンサートパンフレットから)
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過密スケジュールで細くなってるなー(1979・7・28ビッグ・ファイト'79パンフレットから)
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11日終日、被爆の相棒と3月1日のパワーポイント編集を行った。A4サイズスキャナーて110枚編集した。
当日の皆さんはコアなファンの方ばかりなので、画像の評価は分からないが、時系列に並べた。昨年の一般的な分と合わせると、おそらく当日映しきれないだろう。ミーの事務所にも13本のDVDの編集を依頼しているが・・・・。

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2013年02月09日

画像編集

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 もう一つの趣味、原爆が一段落したので「ミーの日」の画像編集に取り掛かっている。
昨年、一般向けに編集した分に新たにコアファン向けにと考えて、点検しています。
参加の皆さんに「参加して良かった」「もう一度やってほしい」と言わしめるべく編集します。
 私のピンク・レディーの年譜は1976/3 スター誕生を自宅で視聴、4/12  ミーケイ上京、8/25ペッパー警部発売、その年の新人賞レースに滑り込み、翌3/31  持ち歌3曲で初コンサート、7/26 田園コロシアムで初の野外コンサート、11/22 レコード大賞大衆賞受賞、12/27 初の武道館コンサート、12/31 最初の最後の紅白出場、1978/4/21・22ラスベガス公演、7/23 後楽園コンサート、10/14 海外発売のためのレコーディング、この年の歌謡大賞・レコード大賞独占、12/31 紅白不出場・NTVで裏番組、1979/7/28・8/12・8/24 西武・名古屋・西宮3球場コンサート。
 ピンク・レディーの国内的な正味(賞味)は1976年から1979年の3年間だったと思う。
私は株屋のくせに往生際が悪く、見切れなかった。1979年の3球場を解散コンサートにしておけば男だったろう。
しかし、株屋の世界は「・・・・たら」、「・・・・れば」たらればは禁句。
 1978年からの海外進出に悔いはない。「KISS IN THE DARK」は名曲だ。当時、車・白色家電のアメリカ征服はヨダレものだった。個人の「輸出」はゴルファーぐらいで、大リーグもまだ空の彼方だった。ピンク・レディーのアメリカ3大ネットのレギュラー出演はいまだに破られていない。それにしてもミーケイは頑張った。「英語人」になりきろうと英会話を懸命に勉強した。
 
 今回のトークショーはミーと丁々発止とやりますが、いずれ昔の記者会見のようにミーケイと3人でやりたいものです。

(写真2点は壁かけで、あちこち剥げ落ちています。画像編集をしますが、当日持参します。そのほかサプライズな品も何点か持参したいものです。)

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2013年02月04日

新年会

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昨日は恒例の江戸川区原爆被爆者の会の新年会。40名規模の会だが、人をもてなし楽します意味では、人数の多寡は関係なく気を遣うものだ。余興は地元サークルの南京玉すだれとインド舞踊。写真の南京玉すだれの演技はスカイツリーを表現しています。インド舞踊も抜群だった。次のイベントはいよいよ3/1のミーとのトークショーだ。
ミーとの打ち合わせも不要、自分なりにサプライズを考え、満足して帰って頂けるよう資料を点検します。

nukirenew40 at 13:44|PermalinkComments(0)TrackBack(0)
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