1:名無し募集中。。。:2013/07/05(金) 14:00:41.55 ID:0
登城が大変だし兵糧攻めにあったら終わりですやん
山城


2:名無し募集中。。。:2013/07/05(金) 14:02:38.89 ID:0
せやろか



3:名無し募集中。。。:2013/07/05(金) 14:03:31.99 ID:0
山城というのは一つじゃないんだ
いくつもの小さな城がまとまって城となる
それぞれが持ちこたえている間に他から救出するため



8:名無し募集中。。。:2013/07/05(金) 14:05:42.42 ID:P
どんな城でも兵糧攻めに合ったら終わりちゃうん(´・ω・`)?



11:名無し募集中。。。:2013/07/05(金) 14:07:44.14 ID:0
籠城戦っていうのは援軍を当てにして少ない兵力で持ちこたえるための戦術で
援軍が来ない状態で籠城しても意味は無い



16:名無し募集中。。。:2013/07/05(金) 14:10:06.54 ID:0
>>11
センゴクで知ったわ



29:名無し募集中。。。:2013/07/05(金) 14:17:53.72 ID:0
>>11
そんなことない
包囲側のほうが兵力が多いので兵糧を消費するし
また包囲陣=兵力の分散なので籠城は援軍こなくても効果的な戦法
古代から近世初期にいたるまで、野戦と並ぶ2大戦闘形態の1つであった。

『孫子』では、防御に徹する守備側を攻略することは容易ではなく、攻城は下策で最も避けるべきと述べられている。

城塞の技術は、15-16世紀の火薬、大砲、銃の活躍によって大きく変化しており、この後の要塞を攻める行為も類似の戦闘ではあるが相違点も多い。従って、本項ではそれ以前の攻城戦を中心に記述する。また、兵器の攻撃力が発達した現代の戦争では「大軍をもって城に立て籠った敵を攻める」という行為が行われる可能性は低いが、装備品の有無や城の定義(城参照)によってはこの限りではない。

古典的な戦記などでは会戦が多く描かれるが、実際の戦争は「小競り合い」と「攻城戦」がほとんどを占めたといえる[要出典]。城内の防御側勢力が長期に渡り守勢に徹して攻撃側と対峙し続けることは「篭城」と呼ばれ、城が攻撃側の侵入を阻止し切れずにその支配権を明け渡すことは「落城」、「陥落」と呼ばれる。
http://ja.wikipedia.org/wiki/攻城戦



12:名無し募集中。。。:2013/07/05(金) 14:07:46.88 ID:0
城自体が食べられるようになっている説

 「銀杏城」という名の由来になっているのは、城内に植えられた銀杏(いちょう)の木である。これは、篭城戦になった時の食料確保のため、築城時に 加藤清正がこの銀杏を植えたという。朝鮮出兵での蔚山城籠城戦で食料不足に苦しんだ経験を生かしているといわれているが、この銀杏の大木は雄木なので実は ならず、城内を知らない者が後世創った俗説と考えられる。また、清正は「この銀杏の木が天守と同じ高さになった時にこの城で兵乱が起こるだろう。」とつぶ やいたという言い伝えがある。明治時代、清正が植えた銀杏の木は天守とほぼ同じ高さになっていたが、明治10年に西南戦争が起こり、熊本の城下が戦場と なった。

また、同様に篭城時の食料の確保に関して、清正は城内の建物の土壁に干瓢(かんぴょう)を塗篭め、畳床には食用になる里芋茎を用いて備えたという。
http://ja.wikipedia.org/wiki/熊本城



17:名無し募集中。。。:2013/07/05(金) 14:10:24.44 ID:0
>>12
お菓子の城か
お前天才だな



13:名無し募集中。。。:2013/07/05(金) 14:08:42.10 ID:0
小田原城みたいな規模なら大抵の相手は耐えられず撤退するだろ
秀吉が圧倒的すぎただけで
小田原1
小田原2



19:名無し募集中。。。:2013/07/05(金) 14:11:27.24 ID:0
稲葉山城いいじゃん
450px-Gifujyou5802
永禄10年(1567年)に美濃国井之口(現:岐阜県岐阜市)の斎藤氏の居城・稲葉山城を、織田信長が攻め取った攻城戦である。なお、これ以前にも何度か織田氏は稲葉山城を攻めている。落城は永禄7年(1564年)とする説もある。

この戦によって織田信長は稲葉山城を岐阜城に改名して居城とした上で、天下布武の朱印を用いるようになり、本格的に天下統一を目指すようになる。また、講談などでは豊臣秀吉(木下藤吉郎)が出世した戦としても有名。
http://ja.wikipedia.org/wiki/稲葉山城の戦い



27:名無し募集中。。。:2013/07/05(金) 14:16:20.87 ID:0
>>19
斎藤道三の難攻不落の城だっけか



39:名無し募集中。。。:2013/07/05(金) 14:21:32.74 ID:0
>>27
織田信秀が美濃に攻め込まれた時も
道三は野戦を一切せずに稲葉山城までひきこんでの籠城戦をしいたな
それで織田が油断して体勢立てなおそうとしてひいたところに反撃して織田を壊滅させた



53:名無し募集中。。。:2013/07/05(金) 14:27:25.37 ID:0
>>27
といいつつ稲葉山城は5,6回落ちてる



20:名無し募集中。。。:2013/07/05(金) 14:11:38.92 ID:0
北陸の丸なんとか城(名前忘れた)は城の形してたけど普通の家ぐらいの大きさだったぞw



31:名無し募集中。。。:2013/07/05(金) 14:18:32.71 ID:0
>>20
そんなのあるのか
安土や信貴山以前ってそんなもんなのに
城というとやたら立派なのばかり残ってて俺はそれが不満



23:名無し募集中。。。:2013/07/05(金) 14:12:18.68 ID:0
大阪城はかつては難攻不落の名城とうたわれていたからな
大阪
大阪2



24:名無し募集中。。。:2013/07/05(金) 14:13:03.31 ID:0
ヨーロッパの城って日本のに比べてかなり険しく高いところに建ってるの多いよね
日本の城と世界の城の歴史考察
http://blog.livedoor.jp/nwknews/archives/4087046.html



25:名無し募集中。。。:2013/07/05(金) 14:13:20.46 ID:0
やっぱ堀だよな
忍者なら余裕で忍び込めるが



30:名無し募集中。。。:2013/07/05(金) 14:18:00.81 ID:0
中国だと城の中に街があるんだよなw



33:名無し募集中。。。:2013/07/05(金) 14:20:06.11 ID:0
>>30
世界史的にはそっちのが主流
というか都市に城壁を設置したというべきか



36:名無し募集中。。。:2013/07/05(金) 14:20:38.42 ID:0
籠城するなら水源とある程度の兵糧は必須
城を囲んでる側も半年も1年もずっと陣を敷いてるわけにもいかんから
相手が撤退を考えるくらいまでは持ちこたえる必要がある



44:名無し募集中。。。:2013/07/05(金) 14:23:45.46 ID:0
墨俣城もほんとは壁一枚に掘っ建て小屋だけなんだってね
墨俣一夜城_歴史資料館
築城時期は不明である。長良川西岸の洲股(墨俣)の地は交通上・戦略上の要地で、戦国時代以前からしばしば合戦の舞台となっていた(墨俣川の戦い)。斎藤氏側で築いた城は斎藤利為らが城主を務めた。また、1561年(永禄4年)ないし1566年(永禄9年)の織田信長による美濃侵攻にあたって、木下藤吉郎(のちの豊臣秀吉)がわずかな期間でこの地に城を築いたと伝えられている。これがいわゆる墨俣一夜城であるが、不明な点が多く、様々な議論がある
http://ja.wikipedia.org/wiki/墨俣城



45:名無し募集中。。。:2013/07/05(金) 14:24:21.05 ID:0
そもそも戦国時代初期から中期あたりなんて兵糧攻めできるほど糧道確保しての戦なんかしてない
山に拠って戦うのは非常に有効



48:名無し募集中。。。:2013/07/05(金) 14:25:19.35 ID:0
楠木正成とかも山にこもってのゲリラ戦で無双だったらしい



58:名無し募集中。。。:2013/07/05(金) 14:28:41.32 ID:P
松山城もいいよ
松山



64:名無し募集中。。。:2013/07/05(金) 14:30:04.08 ID:0
20130705221652_64_1
【画像あり】日本の秘境
http://blog.livedoor.jp/nwknews/archives/4446539.html



67:名無し募集中。。。:2013/07/05(金) 14:30:48.55 ID:0
南北朝時代の篭城戦は楠木が有名すぎるが
赤松則村の篭城戦も面白い



71:名無し募集中。。。:2013/07/05(金) 14:33:05.88 ID:0
石山本願寺最強

石山
ishiyama




72:名無し募集中。。。:2013/07/05(金) 14:34:13.08 ID:0
月山も最強
720px-Gassan_Toda_Castle_old_map
歴代の出雲国守護職の居城で1396 ~1566年(戦国時代)には大名尼子氏の本拠地となり以後尼子氏とともに山陰の要衝の地となった。尼子氏は中国地方の覇権を巡って周辺諸国と争い尼子経久の時期に出雲に基盤を造り上げ、嫡孫晴久の代には山陰・山陽八ヶ国守護の大大名となった。天然の地形を利用した、最も難攻不落の要塞城といわれ「天空の城」とも呼ばれていた。その後、城を巡っても度々攻防戦が行われた(詳細は月山富田城の戦い参照)が、最終的に尼子氏は毛利氏によって滅ぼされ、城も毛利領となった。1600年(慶長5年)以降、堀尾氏が城主となるが、1611年(慶長16年)、堀尾忠晴が松江城に移り廃城となったが、それまで山陰の首城たる地位を失わなかった。1934年(昭和9年)、国の史跡に指定された。
http://ja.wikipedia.org/wiki/月山富田城



77:名無し募集中。。。:2013/07/05(金) 14:36:08.20 ID:0
投石機で城に死体投げ込んだりとかは外国の例だったか
世界史上最高の奇計・奇策を決めるスレ
http://blog.livedoor.jp/nwknews/archives/4467277.html



85:名無し募集中。。。:2013/07/05(金) 14:38:44.87 ID:0
>>77
死体を投げ込むってすさまじい発想だが
ペストみたいなのに感染してたら効果的だったんだろうな



98:名無し募集中。。。:2013/07/05(金) 14:44:10.00 ID:0
兵糧攻めが得意なのは豊臣秀吉だな

37 : 柔道整復師(千葉県) : 2010/09/24(金) 15:04:28.48 ID:82ZHXF2/P
1580年(天正8年)に織田方秀吉の第一次鳥取城攻めで
3か月の籠城戦(この時の籠城費用は全て豊国が負担)の末、
和議により降伏し9月豊国が織田信長に臣従した。

が、同月毛利の来訪で再度の降伏、鳥取城は牛尾春重が城将として入った。
この時点で豊国は因幡守護であるが鳥取城主ではなくなった。
牛尾は織田方の桐山城を攻めたとき深手を負い死亡したとも帰還したとも伝えられる。
(近年の研究では重傷を負ったものの、その後も生存していたことが明らかになっている)

何人かの城将の入れ替えの末、1581年(天正9年)3月毛利氏重臣吉川経家を城主に迎える。

4月、因幡守護山名豊国は織田へ密使を送るが、市場城主・毛利豊元の家臣達に
斬られたことで織田氏への内通が発覚、豊国は秀吉の下へ出奔する。
残存する山名旧臣は毛利氏への従属を継続したため、信長の部将で中国地方の
攻略を担当していた羽柴秀吉は二度目の鳥取城攻撃をすることとなる。

秀吉は播磨・三木城攻め(三木合戦)で行った兵糧攻めをここでも実施した。
陰徳太平記によると、秀吉は若狭から商船を因幡へと送り込み米を高値で買い占めさせる一方で、河川や海からの毛利勢の兵糧搬入を阻止した。

このとき、城には20日分の兵糧しか用意されておらず、この作戦によりまたたくまに兵糧は尽き飢餓に陥った。
何週間か経つと城内の家畜、植物などは食い尽くされ、
4か月も経つと餓死者が続出し、人肉を食らう者まで現れた。

信長公記にはこう記されている。
「餓鬼のごとく痩せ衰えたる男女、柵際へより、もだえこがれ、引き出し助け給へと叫び、
叫喚の悲しみ、哀れなるありさま、目もあてられず。」

吉川経家はこの凄惨たる状況に、自決と引き換えに開城、自害した。


41 : 柔道整復師(千葉県) : 2010/09/24(金) 15:07:52.51 ID:82ZHXF2/P
1580年7月12日 - 秀吉2万の軍勢が因幡鳥取城とその支城・丸山城を包囲する。
三木の干し殺しと並び、数ある戦国時代の合戦の中で最も壮絶な兵糧攻めと言われる、
鳥取の渇え殺し[とっとりのかつえごろし]が始まる。

9月 - 早くも城内の兵糧が底をつきはじめる。吉川経家は愕然とした。
冬になれば雪で秀吉の包囲網が緩くなり、毛利からの兵糧補給が期待できると踏んでいたからだ。
しかし、現実は甘くなかった。

これは三木の干し殺しで経験を積んだ秀吉の事前工作が功を奏する形となった。
秀吉は播磨の三木城攻めと同様に包囲のための付城[つけじろ]を築城し、
兵糧の搬入経路を徹底的に遮断した。

しかし、吉川経家が毛利一門だと言うことを考えると、毛利方の兵糧を搬入する
援軍の力の入れようは播磨の三木城の時の比では無かったように思われるが、
これを阻止した秀吉軍の力は相当な物だったのだろうと容易に想像が付く。

そして極め付けなのが、前もって因幡国中の米を通常の倍の値段で買い占めたと言う話である。
鳥取城でもそれが秀吉の謀略だとは思いもよらず、兵糧米まで売ってしまっていたと言うから
愚の骨頂としか言いようが無い。

だが、この話は出来すぎなので、もしかしたら創作なのかもしれない。
さらに秀吉は鳥取城下の村や町で、兵にいやがらせや乱暴を働かせ、
盛んに城中へ人を逃げ込ませていたらしい。
人が増えればそれだけ兵糧の消費が早くなると言う巧妙な戦略だった。
それにしても秀吉恐るべしである。

そしてついに城内は最悪の状態を迎えることとなる。
飢えた人々は当時は肉食の習慣が無かったにもかかわらず馬や家畜を喰らい、
虫、草木、食べられるものは全て食べつくしたあと、餓死した死体まで食べ始めたと言う。

吉川経家は決断した。城主切腹、城兵助命である。
秀吉は経家が臨時の城主だと知っていたので、経家を城に呼んだ元城主の山名豊国の
重臣たちの切腹を命じたが、経家はそれでは吉川一門の名が落ちるとし、切腹して死んだ。

10月25日 - 吉川経家が切腹。
最後は子供達に手紙を書き残している。
「鳥取の事、夜昼二百日耐えたが、兵糧が尽き果てた。私が一人切腹すれば、城の皆が助かる。
これは吉川一門の名を上げる事になる。これで良いのだ。」
吉川経家の他に森下道与、奈佐日本助の二将が切腹している。


61 : 柔道整復師(千葉県) : 2010/09/24(金) 16:03:35.09 ID:82ZHXF2/P
秀吉は経家の奮戦を称え、責任を取って自害するのは森下道誉・中村春続だけでよく、
吉川経家は帰還させるとの意思を伝えた。
しかし経家はそれを拒否し、責任を取って自害するとの意志を変えなかった。
困惑した秀吉は信長に「経家が自害してもよいか」との確認をとり、
信長はそれに対し、経家の自害を許可している。

10月25日に経家は自害し、その一生を終えた。
その際に父や子供らに遺書を送っており、自分の心情を記している。その遺言状は現存している。

余談
落語家で『笑点』の4代目司会としても知られる三遊亭圓楽(本名吉河寛海)は、
吉川経家の3男、吉川家好(いえよし)の子孫であるという。
家好は後に鳥取藩池田家の家臣となり、明治時代に至り、
圓楽の祖父吉川寛雅が「吉川」から「吉河」に姓を改めたと言う。


62 : 柔道整復師(千葉県) : 2010/09/24(金) 16:06:32.96 ID:82ZHXF2/P
天正9(1581)年10月、羽柴秀吉が、鳥取城を包囲して3ヶ月余りがすぎていましたが、
鳥取城に籠城している吉川経家以下城兵や領民らは悲惨な状況に陥っていました。

城兵らは数日おきに鐘を合図に一斉に城外の柵際まで雑草などを取っては
城内に引き返すといった方法で何とか飢えをしのいでいましたが、
雑草も取り尽くして牛馬を食べなくてはいけない状況になっていました。
しかし、これも食べ尽くすと寒さも加わり飢え死にするものが増えていきました。

籠城する者たちは、飢えの苦しさのあまり城外の柵際まで出てきて、城を包囲する羽柴軍に助けを求めます。
しかし、羽柴軍は容赦なくこれを鉄砲などで撃ち殺します。
この死人や重傷者に城兵が群がりその肉を奪い合うという惨劇が繰り広げられます。

この状況に城将・吉川経家は、降伏を決断。
秀吉に自分と森下道与(道誉)・奈佐日本介(中村春続?)の三人の首を差し出すので
城兵の命を助けて欲しいと嘆願してきます。

秀吉は早速、信長に状況を報告。信長もこの申し出を承諾します。

10月24日、秀吉からの返事を得た経家ら三人はすぐに切腹し、その首は秀吉のもとへ届けられます。
こうして鳥取城は落城しますが、悲劇はこのままでは終わりませんでした。

25日、羽柴軍の兵は、開放された飢えた城兵を哀れみ食事を与えましたが、
城兵らは大喜びし一気に大量に食べてしまいます。
しかし、極限まで飢えた状態で一気に食事することは危険なことで、
せっかく助かった城兵の過半数が頓死してしまいます。

後の世に『鳥取城渇え殺し』と呼ばれることになった、凄惨な籠城戦はこうして幕を閉じます。
この鳥取城には、城代として宮部継潤が入城します。


63 : 柔道整復師(千葉県) : 2010/09/24(金) 16:10:04.54 ID:82ZHXF2/P
吉川経家の切腹を知った一族の吉川元春は、「前代未聞」「当世の流行」と経家の死を揶揄したそうです。

当時は城を明け渡せば城主の命も保証される慣例だった上、
経家は派遣された城将だったので切腹する必要はなかったようですが、
元春は経家を見殺しにしてしまった無念と織田軍への憎しみが逆に
「前代未聞」「当世の流行」という言葉を使わせたのかもしれません。
http://logsoku.com/thread/kamome.2ch.net/news/1285306744/



123:名無し募集中。。。:2013/07/05(金) 14:57:51.72 ID:0
とんでもない山城はぽつぽつあるけど人里離れすぎてて廃れた



126:名無し募集中。。。:2013/07/05(金) 15:00:33.13 ID:0
信長の時代にはあっちこっちに城があって書物でもよく出てくるが全く残ってないもんな



128:名無し募集中。。。:2013/07/05(金) 15:01:54.50 ID:0
そりゃ一国一城令で破壊されたからな
http://ja.wikipedia.org/wiki/一国一城令



143:名無し募集中。。。:2013/07/05(金) 16:24:53.55 ID:0
山城は砦・防衛拠点だから、現代語の「城」とは意味合いが違う



144:名無し募集中。。。:2013/07/05(金) 16:26:08.24 ID:0
二条城もみたとき「へ?」って思った
ただの屋敷じゃないかって
二条



146:名無し募集中。。。:2013/07/05(金) 16:29:54.19 ID:0
>>144
たぶん日本語の「城」ってそういうものだったんだろうな
安土城以降に意味が劇的に変わっただけで



147:名無し募集中。。。:2013/07/05(金) 16:31:59.72 ID:O
山上の城に籠るのは戦時だけで普段は麓で生活してるよ



151:名無し募集中。。。:2013/07/05(金) 16:43:55.87 ID:0
山城の利点
遠方まで見渡せるので敵への対処が迅速になる
普段から山登りで足腰を鍛えているので強い軍団になる



152:名無し募集中。。。:2013/07/05(金) 16:46:45.75 ID:0
>>151
戦で岩を落としたりも出来る



転載元:http://hayabusa3.2ch.net/test/read.cgi/morningcoffee/1373000441/
>>5が自分の人生語るってよ

「ちょっと前までこうだったよね…」 今の若い世代は知らないこと15例

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アメリカ物価低すぎてワロタ、これが効率化の進んだ真の先進国の姿なのか

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