ソニー・ビーン
発端
『The Newgate Calender』によるとビーンはスコットランドのイースト・ロージアンで16世紀に生まれたとされる。
父は庭造りや廃棄物処理等に従事し、ビーンも若い頃はそれを手伝っていたが、
怠惰で粗暴な性格であり、労働を嫌って家を飛び出した。

そして、性悪な女と知り合ってギャロウェイ(ブリテン島西岸のノース海峡に面した半島。
現サウス・エアシャイア)付近にあるバナーン・ヘッドの海岸の洞窟に暮らす様になった。

洞窟の入口は、満潮時に海面下に隠れるので人目に触れ難かった。
日々の生活の糧を得る為に、2人で共謀して、通り掛かる旅人を襲っては現金を奪い、
しかも自分達の存在や犯行が露見しない様、必ず相手を殺したという。
この様にして得た現金で食料品等を購入していたが、充分ではなく、飢えに迫られた彼等は、
殺した人間の肉を食べる事を始めたとされる。


犯行
ビーン一族は優れたチームワークで行動し、決してその犯行や存在を世間に知られる事はなかった。
襲う相手の人数は必ず5人以下とし、それ以上の集団には手を出さなかった。
襲撃する場合は、相手がどの方向に逃げても対処できる様仲間を配置した。
その為ビーン一族に襲われて生還した者はなく、ギャロウェイの海岸一帯で人間の失踪事件が
多発する事が知られる様になっても、誰も真相を掴めなかった。
行方を絶った旅人が最後に宿泊した旅籠の経営者や素行不良者、犯罪歴のある者等が
治安当局に逮捕され、無実の罪で処刑されたが、もちろん失踪事件は跡を絶たなかった。

彼らに殺され、食べられた人数は、30から40人とも言われ、又300人以上と言う説もあり、定かではない。

発覚と逮捕
ビーン一族は、25年間に渡って犯行を続けたが、ある時、1頭の馬に乗って通り掛かった
夫婦を襲って失敗し、妻は捕らえて殺す事が出来たが、夫は馬に乗って逃走、
待ち伏せていた者達も疾走する馬は停められず、また大人数の集団が接近して来たので、
諦めて撤退せざるを得なかった。

逃げ延びた男はグラスゴーの役所に訴え、ついにその凶行が露見した。
そしてスコットランド国王に報告され、事件を重く見た国王は、自ら400人の兵を率いて追捕に赴いた。
ビーン一族の洞窟は人間には見付け難かったが、犬が臭いを嗅ぎつけ、一族は全員が捕縛された。
洞窟内からは、盗品に混じって夥しい人肉や人骨が発見され、ビーン達の犯行が明るみに出た。

ビーン一族の所業は極めて邪悪な者とされ、裁判は行なわれず、全員が極刑に処せられた。
男は両腕両脚を切断されて失血死する迄放置され、
女はその様子を見せられた後に火炙りになったという事である。

ビーンの実在と犯行の真偽
ビーン一族に関する話はロンドンのニューゲート監獄の犯罪カタログ『The Newgate Calendar』に掲載された。
実際には1843年に刊行されたジョン・ニコルソンの著書が初出であり、これ以前の資料は存在しないので、
多くの歴史家はビーンの存在を否定している。
この伝説はエディンバラの観光産業の一部になるほど大きなものとなっており、以下に記す経過も、
コリン・ウィルソンなどに引用されて広く知られてはいるものの、真実であるという保証はない。

http://ja.wikipedia.org/wiki/ソニー・ビーン
ビーン


食人事件
パリ人肉事件
1981年6月11日、フランスの首都、パリに留学していた日本人留学生佐川一政(当時32歳)が友人のオランダ人女性留学生(当時25歳)を自宅に呼び出し、背後からカービン銃で射殺した。佐川は衣服を脱がせ屍姦したあと遺体の一部を生のまま食べ、また遺体を解体し写真を撮影して遺体の一部をフライパンなどで調理して食べた。

6月13日、残った遺体をスーツケースに収め、ブローニュの森の池に捨てようとしたところを目撃され逃亡。目撃者が遺体を発見し警察に通報し、2日後に逮捕された。

なお、この事件以前に、佐川は日本でも近隣に住むドイツ人女性を食肉目的で襲い逮捕されている。事件は父親の提示した示談金で告訴は取り下げられている。また、佐川は幼少の頃から人肉食の欲求が芽生えたと語っている。

佐川は犯行を認め裁判では心身喪失であったとして不起訴処分で無罪となり、フランス国内の精神病院に入院する。翌年、帰国し東京都立松沢病院に1年間入院した。病院側の診断結果は、佐川は人肉食の性癖など一切なく、フランス警察に対する欺瞞であるというものであった。同院副院長(当時)の金子医師は、佐川は精神病ではなく人格障害であり、刑事責任を問われるべきであり、フランスの病院は佐川が1歳の時に患った腸炎を脳炎と取り違えて、それで誤った判断を下したのではないかとしている。日本警察も全く同様の考えであり、佐川を逮捕して再び裁判にかける方針(『週刊マーダーケースブック』2号、デアゴスティーニ、1995年)であったが、フランス警察が不起訴処分になった者の捜査資料を引き渡す事はできないとして拒否した。

パリ人肉事件の佐川一政と対談した際、「好きな人を食べてはいけない」と佐川に諭したことがある。この時、佐川は蛭子の言葉を受け「小さい頃に蛭子さんみたいな人が友達だったら、僕はこんな事件起こさなかったかもしれない」と述懐している[79]。


ひかりごけ事件
1944年5月に、現在の北海道目梨郡羅臼町で発覚した死体損壊事件。日本陸軍の徴用船が難破し、真冬の知床岬に食料もない極限状態に置かれた船長が、仲間の船員の遺体を食べて生き延びたという事件である。

食人が公に明らかになった事件は歴史上たびたびみられるが、この事件はそれにより刑を科せられた初めての事件とされている。一般には「唯一裁判で裁かれた食人事件」といわれるが、日本の刑法には食人に関する規定がないため、釧路地裁にて死体損壊事件として処理された。
名称は、この事件を題材とした武田泰淳の小説『ひかりごけ』に由来する。なお、武田は食人を行った船長と接触したことはなく、小説は本事件をモチーフとした作品である。
https://ja.wikipedia.org/wiki/ヒカリゴケ事件