「ここには入っちゃダメ。」

幼い頃から母にそう言われていた。家の奥にある小さな部屋。扉はいつも閉ざされ、窓もない。壁紙は黒く、まるで空間ごと切り取られたような場所。母は頑なにその部屋を避け、掃除すらしている様子がなかった。

「何があるの?」と聞いても、母は決まって「何もない」と答えた。けれど、夜になるとその部屋から時折、誰かがすすり泣く声が聞こえた。

私はいつしか、その部屋の存在を意識しなくなった。いや、意識しないようにした、と言ったほうが正しいのかもしれない。成長するにつれ、家族の間でもその部屋の話はタブーになり、いつしか誰も触れなくなった。
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母は厳しかった。

「あなたは間違っている」

「そんなことをする子は、うちの子じゃない」

何かを選ぼうとするたび、母は私を否定した。友達と遊ぶことも、好きな服を選ぶことも、すべて母の基準で判断された。私の考えは「間違い」として矯正される。いつしか、私は何も考えなくなった。ただ母の言うことに従えば、怒鳴られずに済むのだから。

学校でも、私はいつも周りの顔色をうかがっていた。嫌われるのが怖かった。母の言う通りにしていれば安全だと思っていたけれど、学校ではそれが通じなかった。

「お前、なんか変だよな。」

「言いたいことないの?」

クラスメイトの視線が突き刺さる。私はただ笑うしかなかった。何を言えば正解なのかわからなかったから。だんだんと、私はからかわれるようになり、気づけば教室の隅で一人、縮こまるようになっていた。

そんなある日、母が突然亡くなった。

葬儀を終え、独り残された家で、私は長年封じられていた部屋と向き合うことになった。開かずの間の存在は、まるで母が生きている間だけ有効だった呪いのように、今は無力に思えた。

私は扉に手をかけた。驚くほど簡単に開いた。

中には、何もなかった。

ただ、部屋の奥の壁一面に貼られた写真を除いて。

無数の写真。どれも私が幼い頃のもの。笑っているものもあれば、泣いているものもある。その中に、一枚だけ異質な写真があった。

私はそこに写っていない。

なのに、写真の中の私は「いる」ことになっていた。

記憶を掘り起こすように見つめていると、ふと背後で何かが軋む音がした。

振り向いた。

扉が閉まっていた。

ガチャリ。

鍵がかかる音。

暗闇の中、すすり泣く声が響いた。

それは、私の声だった。

私は混乱しながらも、意識を保とうとした。これはただの幻覚なのか、それとも私自身が見ないようにしていた真実なのか。心臓の鼓動が速まり、息が詰まる。

「……違う。」

私は呟いた。これは母がずっと隠そうとしていた何か。でも、もう目を背けることはできない。恐怖に支配されるのではなく、自分自身と向き合うべきだ。


深呼吸し、震える手で壁の写真をもう一度見た。記憶の奥底に沈めていたものが少しずつ浮かび上がる。

――私は幼い頃、この部屋に閉じ込められていた。

すすり泣いていたのは、過去の私。

「もう大丈夫だよ。」

私は壁に向かってそっと囁いた。長い間、閉じ込められていた幼い自分を迎え入れるように。

「あなたは悪くない。」

「ずっと怖かったよね。でも、もう自由になっていいんだよ。」

言葉にした途端、涙が溢れた。過去の自分が、ずっと待ち望んでいた言葉だったのかもしれない。

次の瞬間、鍵が自然に開いた。

扉が再び開くと、差し込む光が部屋を満たしていく。

私はこの部屋を出て、自分らしさを取り戻すために、前へ進むことを決めた。




食い止めて