俺の故郷には、昔から「決して開けてはならない」と伝えられてきた部屋があった。

実家の裏手にある小さな離れ。
使われていない倉庫のような古びた建物で、親からは「絶対に近づくな」と厳しく言われていた。

子どもの頃、俺はその理由を祖父に尋ねた。すると、祖父はゆっくりと首を振りながら、こう答えた。

「……あそこには、昔から“あれ”がいると言われている」

それ以上、祖父は何も語ろうとしなかった。

俺が問い詰めても、「名前を口にすることすらよくない」とだけ言う。その顔は、ただの迷信では済まされない、何かを知っている者の顔だった。
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帰省して三日目の夜。
俺はその離れのことを、ふと思い出した。

子どもの頃は怖かったが、大人になった今なら「ただの古い倉庫だろう」と思える。

懐中電灯を片手に、家の裏へ足を踏み出した。
風に揺れる木々の音が、やけに耳にまとわりつく——。

離れの扉は木製で、古びた南京錠がかかっている。しかし、その錠は、何かにこじ開けられたように無惨に壊れていた。

「……誰かが、ここに入った……?」

嫌な予感が背筋を這う。それでも、俺はそっと扉に手をかける。

ギィィ……

むせ返るほどの埃の匂いが鼻を刺し、喉がひりついた。

中には何もない。だが、部屋の奥に、まるでそこだけ異なる時間が流れているかのように、異様な存在感を放つものがあった。

長年の埃をかぶり、不気味な布で包まれたそれは、一見すると古い家具のようにも見える。しかし、本能が告げていた——これは“ただの物”ではない。

布には無数の黒ずんだ手形が染みつき、まるでそこに何かが這いずり回ったようだった。

理由も分からないまま、俺は布の端に手を伸ばした。

指先が震えながらも、ゆっくりと布を剥がす。その瞬間、粘りつくような、くぐもった囁きが耳の奥にまとわりついた。

そこに現れたのは、背丈ほどの大きさの、木枠の古い鏡だった。月明かりに照らされ、静かに佇んでいる。

思わず鏡の前に立つ。

そこには、俺の姿が映っている。

……いや、俺の後ろに。

もう一人、いる。

青白い顔をした女が、赤黒い扇子をゆっくりと動かしながら、じっと俺を見ていた。

息が詰まり、足がすくむ。

扇子がひらりと開かれるたびに、耳元で不気味な囁きが響く。

鏡の中の女が、まるで水面を押し破るように、ゆっくりとこちらへ染み出してきた。

その瞬間、体が勝手に動き、俺は背後の扉を蹴り開けるようにして倉庫を飛び出した。荒い息をつきながら振り返ると、そこにはすでに何もいなかった。

その日から、奇妙なことが起こり始めた。

夜になると、家の前の砂利道で——

コォン……コォン……。

それはまるで、俺の行く先を知っているかのように、決して途切れることなく響き続けた。

やがて、部屋の片隅で青白い影を見るようになった。

その影は、重力に逆らうように静かに浮き、扇子を広げ、閉じるたびに、その場の空気がわずかに歪んで見えた——。

「……お前、何かしたか?」

ある日、祖父が俺に尋ねてきた。

「いや……特に何も」

そう答えながらも、背中に冷たい汗が伝う。俺は、確かに封印を破ってしまったのだ。

あの夜、俺は離れの扉を開けた。
あの鏡の前に立ち、そして—— 見てはいけないものを見た。

祖父は低く息を吐くと、とうとうその名を口にした。

「お前がそれを開けたせいで……封じられていた “扇ノ女” が、目を覚ましたんだ。」

その名を口にした途端、部屋の空気がねっとりと重くなった。まるで見えない手が全身を押さえつけるような感覚がした。

「以前、それを開けた者は、ある日、何の痕跡も残さず消えた……まるで、初めからこの世にいなかったかのようにな。」

「この村は昔、大きな地震の被害を受けた。その前夜、村のあちこちで異様な姿の女が目撃されていた。扇子を広げ、閉じ、ゆらゆらと不気味に揺れながら……まるで何かを告げるように。」

「村を襲った大地震で、多くの家が崩れ、人々が犠牲になった。」

「扇ノ女は、災厄を連れてくる存在だ。あれを見た者は、ただでは済まない……必ず、何かを失う。」

「……もう遅い。扇ノ女は、お前を見つけた。」

その夜。

ドン……ドン……ドン……

音が鳴るたびに、玄関の扉がわずかに軋み、壁にまで震えが伝わってきた。

覗き穴をそっと覗いた。

そこには——

逆さまの顔をした、青白い女がいた。

無表情のまま、赤黒い扇子をひらひらと揺らしている。

女は何も言わない。
ただじっとこちらを見つめながら、ゆっくりと扇子を開く。

カァン……
閉じる。

カァン……

その音が、静まり返った夜に不吉な響きを刻んだ。

「おい……!」

背後から祖父の声。

驚いて振り向くと、祖父が青ざめた顔で立っていた。

「すぐに来い!」

祖父の叫び声に反射的に動き、俺は玄関から転がるように飛び込んだ。

「見たな……」

祖父はすぐに仏壇の前に正座し、深々と頭を下げて祈り始めた。

「……もう、時間がない。今すぐ、封印しなければならん。」

その夜、俺と祖父、そして神社の宮司は、暗闇に包まれた離れへと向かった。

「封印をやり直すしかない。しかし、前回封じたときには大きな犠牲が出た」

宮司の低い声が響く。祖父は厳しい表情で頷き、手にした小さな包みをゆっくりと開いた。

中には、一振りの古びた扇子が収められていた。

「前回封じたとき、手伝った村の男がひとり、忽然と消えた。翌朝、彼の家の前にこれが落ちていたんだ」

宮司が静かに祝詞を唱え始めると、倉庫の空気が急に冷たくなった。息を吸うたび、まるで氷を噛むような鋭い寒気が喉を刺す。

コォン……コォン……

どこからか、あの足音が近づいてくる。

背筋が総毛立つ。俺は震える手で鏡を覆う布をかけ直し、祖父は次々とお札を貼り付けた。

すると、鏡の中から湿った囁きが漏れた。

「ひとり……ふたり……まだ足りない……」

次の瞬間、鏡が激しく震え、倉庫全体が軋みを上げる。床下から何かが蠢く気配がした。

「今だ!封じるぞ!」
宮司が声を張り上げた。

祖父が最後のお札を鏡に叩きつけると、まるで波が引くように、鏡の震えが止まる。足音も、風の音も、すべてが静まり返った。

張り詰めた沈黙。

「……終わったのか?」

俺の問いに、祖父はゆっくりと頷いた。

だが、宮司はまだ険しい顔をしている。

「封印は施した。だが、“あれ”が本当に消えたのかは……まだ分からん」

彼の言葉を最後に、倉庫の中には、重く冷たい静寂だけが残った。
祖父と宮司は、互いに沈痛な表情で頷き合った。

封印の儀から数週間後、宮司の急死の知らせが届いた。
原因は不明。だが、儀式の夜以来、宮司の顔にはどこか憔悴の色が滲んでいたという。

その報せを聞いた祖父は、以前にも増して仏壇の前で祈る時間が長くなった。
まるで何かに許しを請うように——。

そして数日後、祖父もまた、突然倒れ、二度と目を覚ますことはなかった。

彼らが何を見て、何を知っていたのか、もはや確かめる術はない。
ただ、祖父の遺品を整理していると、仏壇の前に見覚えのある小さな扇子が置かれているのを見つけた。

それは——あの夜、封印の儀で使われたものと、まったく同じだった。

俺は手を伸ばしかけ、反射的に止まる。
喉がひどく乾く。背中を伝う冷たい汗。

祖父も宮司も、何かを知っていた。そして、それを封じた代償を払ったのだ。

彼らの表情には、あの夜以来、得体の知れない怯えの影が差していた。
その理由を、俺は今なら理解できる気がする。

それ以来——“扇ノ女”が姿を現すことはなくなった。

離れは再び封じられ、俺も二度と近づくことはなかった。

だが、終わったわけではない。

夜になると——

コォン……コォン……

遠く、だが確かに響く足音。

それはまるで、俺を探し続けているかのようだった。

俺はその後、何度も引っ越しを繰り返した。
だが、行く先々で奇妙な地震と不可解な現象がつきまとった。

最初の引っ越し先では、住み始めて数日後に震度6の地震が発生した。揺れが収まっても、家の壁にはじわじわとひびが広がり続けた。

次の場所では、初日の夜に激しい揺れに襲われた。翌朝、近所の住人が「こんな地震は何十年ぶりだ」と驚いた様子で話していた。

三度目の引っ越し先では、さらに異様なことが起こった。
深夜、地震速報の音で目を覚ましたが、実際に揺れは感じなかった。
不審に思いながらニュースを確認すると、その地域では地震の記録すらなかった。

翌朝、部屋の壁にかけていた時計が止まっていた。
針は、俺が揺れを感じた瞬間を指したまま動かない。

さらに、玄関の前の地面に無数の細かいひび割れが広がっていた。
その中心には、半分に折れた扇子が落ちていた。扇面には、墨のような黒い染みがこびりついていた。

その夜、夢の中で地鳴りが響いた。目を覚ますと、部屋の隅の壁に揺らめく影が映っていた。

そしてまた、ある朝。
玄関の前に、ひび割れた扇子が落ちていた。

俺はそれを拾うことができなかった。
ただ、そこにあるのを見つめることしかできなかった。

どこへ行っても、俺が新しい土地に足を踏み入れた途端、地震が起こる。

そして、そのたびに、夜になると、かすかに聞こえてくる。

コォン……コォン……

それはまるで、俺がどこに逃げても探し続けているかのようだった。

どれだけ距離を取っても、どんなに遠くへ行っても、夜になると必ず聞こえる。

コォン……コォン……

決して消えない。決して遠ざからない。

それは確実に、俺を追い続けていた。





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