みなさんこんにちは。
なんか今年ってやたらと年末感が薄くないですか?
今北工業です。

◆このエントリーは

悪の組織「Pop会」の総統であるPopさんが書いた
 2016年の振り返り…ついでに今に至るまでを振り返ってみる

からはじまり、脱出ゲームの4天王の一人、たけうちさんの
僕がアプリ開発者になった経緯
 
という、過去を振り返る記事がブームらしいので、そこらへんの蛆虫野郎である私もいっちょ書いてみるか、という相変わらずの他人便乗記事であります。

◆道を踏み外しはじめた小・中学生時代

私がはじめてファミコンに触ったのが、小学校5年生くらいでした。
ファミコンが発売されてから2年くらい後だったと思います。
父親が友人からもらってきたやつだったと思いますが、はじめて持ったゲームが
「クルクルランド」「ボコスカウォーズ」「フラッピー」「アラジン」だったと思います。
今思えば、とんでもなく尖ったラインナップだったなと。
マリオやってませんでしたからね。
そこからはじまった、私のゲーム人生。

ただ遊ぶだけだった私でしたが、中学に入り、ファミコンからスーパーファミコンへと時代が進化したときに、私にとって人生を変えるきっかけとなったソフトが発売されました。

「FF4」です。
DQ1234、FF123と順調にRPG少年として育っていた私は、当然のようにFF4を購入。
ワクワクしながら電源を入れ、オープニングを見た瞬間に
「遊びたい」から「こういうのを作ってみたい」
と、認識が変わりました。
流れる雲、多彩な音、空を飛ぶ飛空艇、美麗なドット絵、多彩なキャラクター。
すべてが衝撃で、「こんなものを作れる人たちはすごい。私もこんなものを作ってみたい」と思うようになりました。

ただ、まあそこらへんは厨房の妄想。
今のようにPCが普及していなければインターネッツもなく、ゲーム業界に就職するための道なんて何もない。
東京近郊、あるいは名古屋あたりだったら環境は違っていたかもしれませんが、360度を山に囲まれた山奥のクソど田舎じゃあその道を探すための知識が見つかるわけもなく。

衝撃はいつしか忘れ、私はごく普通の「ただプレイするだけ」の人間として成長していきました。



◆盛大に道を踏み外した高校時代

ゲームで遊ぶのがメインになっちゃって、ろくすっぽ勉強もしなかった私は近所の公立高校に見事に落ち、滑り止めの片道1時間ほどの高校に通うことになりました。
そこで一時的に(なんかかっこよかったから)弓道部を選びましたが、体育会系のノリについていけず退部。
その後、なんとなく帰宅部だった私でしたが、「パソコン部」があることを知り、とりあえず入部。
しかし時代的にまだWindowsすらなく、ひたすらN88Basicでアルゴリズムを勉強したり、なんかそれっぽい資格試験を取る勉強をしていました。
ただ9割がた、やっぱりゲームをするのがメインであり、このころは「ゲームを作ってみたい」という情熱は欠片くらいしかなかったと思います。
ただし、このときにBasicでありながらもプログラムの基本やソートなどのアルゴリズムなどを勉強できたのは、後の私にとって大きな財産になったと今でも思います。
あと、ここで出会った部員やパイセンたちや先生を通じて、同じ趣味の人がいるということの有難さなんかも。
まあ、今ではすっかり疎遠になってしまいましたがね。

で、そろそろ進路を考えないといけなくなった頃、「自分はなにがしたいんだ」というのを考え、なんとなく「そういやゲーム作りたかったな」というのを思い出しました。
で、大学なども検討したのですが、いろいろ検討していく中で「ゲームが作りたいな」という欲求を思い出し、ゲームの専門学校へ行くことに決めました。
推薦で受かったため、受験勉強なんてしてません。

はい、基本的に勉強嫌いなんです。

順調にオタク少年の道をあるいていた高校時代でした。

たしか、専門学校の下見にいったときだったと思います。
その学校で自治的なことをやっていた組織があり、そこのパイセンと1日だけですが意気投合しました。
N先輩との出会いです。

◆道が脇道にそれたと思ったら華麗に復活した専門時代


そして無事に学校に合格し、高校時代の親友だった人と2Kのアパートをシェアして名古屋へ進出。
親友だった人の友人たちとTRPGをしたり、交友関係が広がっていきました。
親友だった人、という言い回しについては関係ないので割愛しますが、とある事件がきっかけで縁切れまして。

1年生のときは、とにかくTPRGと、その仲間たちが楽しくて楽しくて、学校はほぼ行かずに仲間とゲーセンやアパートで遊んだりバイトしたりして、今思えば何やってんだっていう状態でした。
家賃は親から出してもらいましたが、生活費は自分で稼げというスタイルだったのでバイトしないと死活問題。
ゲームすら買えない。ヒィィ。
その仲間たちとも、前述の事件がきっかけになってほぼ疎遠状態ですね。
今でもたまに、彼らは今なにやってんだろうと思うこともありますが。

その時持っていたのがPC9821。120MBの大容量HDDを搭載した120Mhzのi386CPU。
ハイスペックとはいわないまでも、そこそこのスペックでしたよね。当時としては。

あそびまくった結果、留年しかけました。はい。
レポートという名の教科書の写経でなんとか春休みをつぶして進級。
I先生、すみませんでした。

2年生になったとき、N先輩と再開です。
向こうもこちらを覚えていてくれて、そこから先輩の仲間たちとの生活がはじまりました。 
でもやっぱり基本はTRPG。学校の勉強はロクにやっていませんでしたね。 
このTRPGが、実は私にとって後の伏線になっていたんです。
小説を書いたり、TPRGのシナリオを作ったりしているうちに、「私はプログラマじゃなくて、ゲームの骨組みを作りたいんだ」と思うようになりました。

3年生になったときに担任になったのが、元某ゲーム会社のM先生。学科は「ゲーム企画」でした。
プランナー学科ですね。
この頃はまじめに学校へ行き、プランナーとしてのマーケティング技法や企画書の書き方などを勉強。
もともとTRPGを通してシナリオのプランニングの基礎ができていたらしい私は、先生に気に入られるようになり、授業進行の手伝いやTPRG部の立ち上げ、部室の確保などに精力的に活動していました。
ぶっちゃけて言うと、コネ作りです。

でも、この3,4年生時代がいちばん中身が濃かったように思います。

そして4年生になったとき、いまでいうインターン制度みたいなもので企業実習に送られることになりました。
しかしゲーム専門学校とはいえ、就職率100%をうたう学校。そして中部地方にはそれほど受け入れ態勢の整ったゲーム会社なんてない。ゲーム会社に行けるのは、 4年生の中でも2名だけ。

はい、ねじ込みました。
そこで入ったのが、「イーオーイマジネーション」という会社です。当時、M先生がいた会社の下で開発をしていたゲームのテスターとして、1週間ほどですが楽しくやらせていただきました。
実はこの会社こそ「ハイドライド」の内藤先生の会社だったんですね。
もうマジでビビりましたよ。
内藤先生はほとんど覚えていらっしゃらないと思いますが、私はいまでも鮮明に覚えています。
私がプランナー、シナリオ志望であることを伝え、そこでご教示いただいた言葉。
今でも、シナリオをかく上で必ず念頭に置いています。

それと、私はM先生の紹介で某ゲーム会社にアルバイトとして入ることになりました。
テスターとして半年以上、その会社のお世話に。
そのまま就職できると思っていましたが、やっぱりそう問屋は甘くないです。
「企画屋なんて雇ってる会社は少ないよ」と言われました。

まあ、その頃にはある程度予想はついていましたがね。

それでも、シナリオの人にTRPGで作ったシナリオを見て貰ったり、毎日何かしらの成果物をつくってみて貰ったりして、「まあ技量はわかんねーけど熱意はあるね」ってことで、とりあえず準社員として入社。
いったん、私は念願のゲーム会社に入ることになりました。


◆とはいえ、人生そんなに甘くない。

 私は「ねんがんの げーむかいしゃに しゅうしょくしたぞ!」
ということで、当時、ちょうど開発を開始したばかりのゲームのシナリオを手掛けることに。
丁度、PS2がではじめた頃だったと思います。
わけもわからずいろいろとやっていく中で 、その開発は頓挫。
別なゲームのシナリオに入ることになります。
しかし、チーム全体が「これ面白くないぞ」病にかかったり、いろいろ複雑な事情があったりして開発そのものが別プロジェクトとしてスタート。
いちおう私の実名が入った唯一のゲームとしてリリースされましたが、近所のゲーム屋で予約しようとしたら「そんなの入荷予定ないよ」って言われたりした悲しいヤツになりました。

そんなこんなで半年ほど経ったある日、父親が死ぬかもしれないという連絡が。
私は事情を話して会社を辞め、荷物をまとめて実家に帰りました。

まあ、今でもピンピンしてますがね。ふざけるなこの野郎。まじファッキン。

仕方がありませんが、 プー時代の到来です。
当時家にあった車庫を壊し、庭で廃材を燃やして、そこで畑で取れた焼き芋を焼いて食べるという焼き芋人生がはじまりました。


◆またまたコネ入社

いつまでもプーやってらんないと思い就職活動をはじめようとした矢先、父親から声が。
「某会社でパソコン触れる人探してる」

というわけでその某社に。
試験ナシで、いきなり常務面接。
「こんなの作りたいんだけど」と構想を聞かされましたが、「あれ、ゲームより作るの簡単そうだぞ」と。
いろいろ話をしている中で常務に気に入られ、即入社。
地元では知らない人はいないっていうくらいの大き目の中小企業です。
とりあえず3ヵ月、神奈川の営業所で研修してました。
この頃に、いまの嫁との出会いがあったりします。

そんでもってその会社のSEとして、いろいろと社内システムを作ってました。
FAXをDBに取り込んで、グループウェアに展開、そこから生産予定を組んで製造機に製造指示を出すというキチガイみたいなシステムでしたが、まあ楽しかったです。

5年くらいですかね。その会社で正社員としてぬくぬくと過ごしてました。


◆コネ入社っていうかコネ役員のはじまり

ある時、バカ親父が会社を辞め、ちょうど某会社が身売り先を探していたのに乗っかって、退職金でその会社を買いました。
で、私もそこにおよばれ。
今の加工業取締役専務時代のはじまりです。

正社員から移動する頃、2chのVIP板で「僕と君の夏休み」っていうADVをつくってました。
この頃から不良役員の下地はできてたんですね。

加工もしながら、ゲームを作る。
2足の草鞋はわりと楽しかったです。


◆会社大炎上

私が役員になって半年ほど、新規の仕事もはじまって、買収した工場も手狭になったので引っ越すことに。
これが悪夢のはじまりでした。

引っ越し先も中古の工場。
とはいえ、前の工場よりも新しく、念願の測定器類や新しい機械も入れ、とにかく忙しくて楽しい日々でした。
あの日までは。


いまでもときどきフラッシュバックする、あの夜。
新しく配線した電線ではなく、古い設備からの漏電により発火、工場は全焼。
それまでにも何度か夜間の停電があり、某保安協会に点検を依頼していたんですが、点検結果は正常。安心していたところへのコレですよ。
ネットでの炎上とは違う、ガチの大炎上。
なにもかも失いました。従業員も、設備も。
まあ割愛しますが、父親と私の二人で再開し、再び設備を入れて、段取りから加工、検査、出荷まで私ひとりでやるという、ゲームのことなんて一切考えられない時代を数年やってきました。
旧工場の改装や設備類、さらに新工場の設備類でいまでも莫大な借金抱えてます。

◆そして唐突にアプリ開発者へ

そんな加工業ですが、順調に売り上げも増えて、従業員も雇うようになって、私は管理に専念できるようになりました。
そんなとき、ちょうど仕事が暇だったのでネットをみていたとき、まとめサイトで「アプリつくってれば儲かる」みたいなスレを何度か見ました。
今おもえば、takaokaさんだったかもしれません。あの人がすべて悪いです。

「よっしゃ、ゲームつくって小遣い稼ぎでもするか」
と、いろいろ調べてenchant.jsで「ガチャ勇者」を1か月で作ってリリース。
公開ボタンを押したときのドキドキは今でも覚えてます。っていうか今でもドキドキしてます。

処女作「ガチャ勇者」がわりと反応がよく、「イケるなこれ」と手ごたえを感じたのがはじまりです。
その後enchant.jsからJavaに、そしてUnityへと環境を移しながら、今のアプリ開発者としての私があります。

ただやっぱり、専門時代は遊びほうけてプログラムの勉強をしてこなかったので、根本的なプログラム知識はN88BASIC時代のソレ。構造体?オブジェクト指向?なにそれおいしいの?っていう状態です。
JavaScriptからJava、C#と言語は移りましたが、やってることはN88BASICの延長です。
難しいことはよくわかりません。
よくこれでゲーム作れるなと思いますが、これでも作れるんだという先駆者になろうと胸を張って生きていこうと思います。

◆まとめ

今でも思うのが、「私ってまともに受験も入社試験もしてないのによく生きてこられたな」と。
25年前に漠然と「ゲームが作りたい」からはじまった私の人生だったように思いますが、すべて「人との出会い」がきっかけになっているなと。
アプリ開発者になってからもいろんな人と出会いがあり、そこからいろんなものが始まったりもしています。
私は、ほんとうに良い人たちに巡り合って、生かされているんだというのは常に思っていて、人のつながりというものは本当に大切なものだと思います。その点では、私は恵まれているんだなと。ありがとうございます。

そして、私が人から与えられたものは、人にも与えたいなと。傲慢な考えかもしれませんがね。
人に教えてもらったものは、その人に恩を返すとともに、別の人にも伝えていきたいと思っています。
私が、他の誰かの、何かのきっかけになってくれたらうれしい。
だからTwitterでよく絡むし、私の持ってる知識で他の誰かの手伝いができるのなら、積極的に手伝いをしたい。
まあほとんどの場合、私の知識不足でなんの役にも立てていないのが実情ですがね。はい。すみません。



私は立場的に、他の開発者さんとは違うというのは常に感じています。
会社として、生活の一部としてゲームアプリを作っているのではなく、完全に趣味レベルですからね。
しかし、「楽しく」「楽しい」ゲームを作りたい、という本質においては皆と土俵は同じであり、曲げたくない部分です。
「私は皆と立場が違うから」と卑下するわけではありません。
「私は私なりに、生活かかってないから好きにやる」っていうスタンスで、これからも楽しいものを楽しくやっていきたいと思っています。
あの頃の自分はメーカーでバリバリとゲームを作りたいと思っていたので、その夢とはちょっと違っているのかもしれませんが、まあそんなことは些事です。ゲームを作っているのですから。
そしてこれからも、この生活を維持していくために頑張っていこうと思います。


駄文エントリーとなりましたが、最後までお付き合いいただきありがとうございます。

2016年最後のエントリーとなりましたが、今年1年間も本当にありがとうございました。
来年も見捨てないでください。願いします。
皆さんにとって、2017年もさらに良い年となるようお祈り申し上げます。