マセラティおじさん

それはある事故から始まった。そこには見知らぬおじさんがいて、警告を無視した僕は命を狙われ、この世の理を揺さぶるかのような異常な出来事に巻き込まれてしまう。おじさんは全てを知っているようで、僕は不安ながらも共に行動することにしたんだ。何故かおじさんは懐かしい感じがする━━。



320: ◆J3hLrzkQcs 2007/01/26(金) 17:58:36 ID:3YqwWs8A0

「このことは話すな。」

そう言われていたけれど、もう時効だと思うので、書きます。

僕は、幼いころに両親が交通事故で亡くなってしまったので、
叔父のところに養子に出されました。
しかし、叔父は僕の存在をあまり快く思ってないみたいで、
僕を塾に行かせることによって、
出来るだけ家に僕を置くのを避けていました。

きっかけは中2の夏。

進学塾の授業が終わり、外に出ると辺りは真っ暗。
僕は、電灯の明かりを頼りに、歩きながら家路に向かっていた。
すると自分の数十メートル先を歩いていた女性に、いきなり車が突っ込んできました。
一瞬の出来事なのに、その瞬間スローモーションのようになったのを覚えている。
すさまじい音とともに、空中に舞うフロントガラスの破片。
ぶつかった衝撃で、脚がありえない方向に曲がりながら、吹き飛ばされるOL。
そして反対側の民家の垣根へと吸い込まれるように消えていった…。

呆然と、事の成り行きを見届けた後、
こりゃ一大事と思い、事故現場に駆けつけてみる。
ぶつかった車は(当時はどこのメーカーか分からなかったけど)
マセラティのセダンで、フロント部分が完全に潰れていた。

粉々に割れたフロントガラスの奥には、ドライバーの顔が見えた。おっさんだった。
芸能人で例えるなら阿部寛に似ている。

そのおっさんが車から出てきた。サングラスに黒スーツ。
まるで映画に出てくるスパイみたいな格好だ。
変な緊張が走った。

おっさんは僕を見て一言。

「見るな。」


とんでもないものを見てしまったと後悔した。
まさかこんな事件に巻き込まれるとは…。
あぁ、今日で僕の人生が終わる。
天国のお父さんお母さん、今からそっちに向かうよ。
自分の中で何かが崩れ始めるのが分かった。
逃げたいけど、足がすくんでしまって言うことを聞いてくれない。
そんな僕を見て、おっさんは口元を緩め、ニコっと笑う仕草を見せる。

「別に君をころしに来たわけじゃない。むしろ助けに来たんだ。」

へ?その言葉を聞いて頭の中が混乱した。

僕を助けに?意味が分からない。
この人、何言ってんだ?
でも自分に殺意がないことが分かった僕は、
なぜか妙な安心感に満たされた。
と言うかなんだろう…どこかなつかしい気持ちがする。

「まだ生きてやがったか。あのスピードならいけると思ったんだけどな。」
穴の開いた垣根からは、さっきの女性が倒れているのが見えた。
しんでる?まったく動く気配がない。
助けに行こうとすると、おっさんに行く手を阻まれた。

「行ったらころされるぞ。」

思わず足が止まる。
ころされる?いよいよ分からなくなってきた。
あっけに取られている僕を、サングラスごしにおっさんは見ている。

「君、変だと思わないのか?あんなに馬鹿でかい音で事故ったのに、私たち以外に誰もいないだろ?」

言われてみれば、たしかに変だ。
事故った場所は、民家が立ち並ぶ閑静な住宅街。
あんなすさまじい音ならば、家の中にいようが絶対に聞こえるはずである。
近所の住人なら何が起きたんだ?と窓から覗いたり、
現場にやって来たりと何らかのアクションを起こすはずだろう。
家々には明かりこそ付いているが、まるで人の気配を感じなかった。
いや、そもそも女性に会ってからは、通行人はおろか走っている車すら見ていない。
なるほどさっきから感じていた妙な違和感はこれだったのか…。

完全なる静寂。
風の吹き抜ける音。
その風で揺れる木のざわめき。
遠くで聞こえる車の走る音といった些細な音すらしなかった。
耳鳴りで鼓膜が痛くなるほどの無音状態。ひたすら不気味だった。
もぞもぞと女性が動いている音が響いた。生きてた。
それを見て、おっさんが焦り始めた。動揺の色を隠せない様子だ。
マセラティに乗り込む。

「とにかく後ろに乗れ。詳しい事情は後で話す。」
僕は乗らなかった。誘拐だと思ったからだ。
唯一の目撃者を始末するために、どこかに連れて行く気だ。
そう推理した。

「俺を信じろ」

そう言われるが無理だった。
やはりここは救急車と警察を呼ぶべきだ。
急いで公衆電話を探す。
 (当時、まだケータイは普及していなかったので)

すぐに見つかった。
よりによって女性が倒れている家のすぐそばに電話ボックスがあった。
でも、こんな場所に電話ボックスなんてあったけ?
いや、そんなことは関係ない。
今は一刻を争う事態だ。
ぐずぐずしているとしんでしまう。

電話ボックスに向かって走り出した。

「馬鹿!戻れ!そっちに行くな!」

おっさんの叫ぶ声が聞こえる。

知ったことか!
電話ボックスに飛び込み、急いで119に電話。
電話ボックス側は垣根がないので、倒れている女性が見える。
上半身は塀に隠れているものの、脚だけは見えた。
小刻みに痙攣している。
僕は、それを見ないよう背中を向けて、呼び出し音を聞いていた。
おっさんは黙って運転席から僕を見ていた。
受話器を取る音が聞こえた。

「ふふふふふふふふ…」

思わず受話器を落としそうになった。
そりゃそうだ。
いきなり受話器から女性の笑い声が聞こえたからだ。

背中に視線を感じる。後ろを振り返るとゾッとした。
女性がまさに電話ボックスのガラス一枚挟んで立っていたからだ。
僕は、ここで初めて女性の顔を見た。
バサバサに散らばった黒い髪と眼球の無い空洞の目。
それだけしか分からなかった。
他の部分は、吐きかけた息でガラスが曇って見えなかったからだ。

蛇に睨まれた蛙のように動けなかった。
背筋が凍ってしまい、何とも嫌な汗が全身に滲み出るのが分かった。
腰こそ抜かさなかったが、筋肉が弛緩したせいで思わず失禁。
脚をつたう温かい尿のおかげで感覚が戻ると、
脊髄反射のごとくおっさんのいるところまで全力疾走。
参考書がパンパンに詰まったリュックを背負っていたのだが、
そんなのもろともせず、我ながら驚くスピードだった。
どうやらマセラティのエンジンがかからないらしく、
おっさんはいきなり僕の腕をつかむと、
そのまま引っ張るようなかたちで走り出した。

「走れ!絶対に後ろを見るな!」

こうなったらもうおっさんに従うしかない。
背後で引きずったような音が、どんどん近づいているのが聞こえる。

ずるずるずるずるずるずるずるずる…

「這ってこの速さかよ。脚をだめにしなかったら車でもダメだったな…」

悲鳴にならない叫び声をあげながら、もう無我夢中で走る。
が、リュックを背負って走っているので思うように走れない。

「おい!リュックなんか捨てろ!つかまるぞ!」

そう言われるが、捨てるのをためらう。
人間こんなときでも欲だけはちゃんと働くんだなって思った。

そんな僕を見かねたのか、おっさんは呪文のような言葉を唱え始めた。
もう今にも追いつかんばかりに、ずるずると這う音が迫ってくる。
そして首筋に生暖かい吐息がかかるのが分かった。
耳元で息遣いも聞こえる。
もうだめだと思ったそのとき…

バン!

後ろで爆竹のような爆発音がした。
その音に紛れてうめき声が聞こえる。
何かがのた打ち回るような音もする。
もう這う音はしない。
しかし、おっさんはそんなことお構いなしに走り続けた。

どれくらい走っただろうか?
学校の体育で持久走をやっているためか、
はたまた火事場の馬鹿力のおかげか分からないが、
よくもまあずっと走れたと思う。
どこをどう走ったのか分からない。
気付いたら、自分の家から300メートルくらい離れた場所にある神社にいた。
失禁してビショビショだった下半身もいつの間にかすっかり乾いている。

道路を行き交う車が見えた途端、
助かったという安心感と疲労感のせいで力が抜けてしまい、
リュックの重さも手伝って、路肩にへなへな~としゃがみこんでしまった。

喉がカラカラに渇き切って唾が出なかった。
手水舎があったので水を飲む。

おっさんがやってきた。とにかくお礼をしなきゃ。
しかし、興奮状態で呼吸が乱れてて、うまく呂律が回らない。

「あ…あの…助けてくれ…テ…ありがトう…ございましタ…。」

おっさんはネクタイを結びなおしつつ
「なに、礼には及ばないよ。」と一言。

深呼吸を繰り返し呼吸を落ち着けている僕を、
おっさんは横目で見ながら「どうしたもんかな…。」と呟いていた。

「あれはいったい何なんですか?」

境内のそばにある電灯の明かりで、おっさんのサングラスが怪しく光る。

「誰にも言わないと…約束できるか?」

「え?どういうことです?」

「約束できるのか?できないのか?どっちかと聞いているんだ。」

「どうせ今日あったことなんか言っても誰も信じてくれません。だから僕…誰にも言いません。約束します。教えてください。」

サングラスで分からなかったが、真剣な目で僕を見ているのが分かった。
夕八"コに火をつけ一服すると、おっさんは話してくれた。



すっごい複雑な話なので、
各々の名称を読みやすいようにアレンジし、
簡略化したものを書いておきます。

昔、ある豪族に代々仕える一族がいたそうだ。
一族は2つのグループに分かれており、
結界などによって病気や災いから味方を守る祈祷師グループと、
呪詛などによって敵を滅ぼす呪術師のグループで、
互いに対立し合う関係だった。

その一族の助けもあって、豪族も栄えることが出来たので、
一族の有力な人物には、褒賞として位を授けたり、領土を与えたりしたそうです。
そのため、呪詛によって勢力拡大に貢献することが出来る呪術師グループは、どんどん成長していきました。

そんなある日、その豪族の長が病に倒れてしまいました。
当時、病は悪霊による仕業と考えられていたので、
豪族は祈祷師に助けを乞いました。

祈祷師グループにとっては手柄を立てる、またとない大チャンスです。
莫大な恩賞を交換条件に引き受けました。
しかし、何か見えない力に邪魔されているのか、
なかなか思うように事が進まなかったそうです。

そこで、祈祷師グループのリーダーだった青年が長を看病し、
残り全員がその周りを囲んで結界を張るかたちをとりました。
祈祷師たちはその間、その場から一歩も動かず、
何日も飲まず食わずのままで耐えていたそうです。
そのかいもあってか、ようやく悪霊が長の口から出てきたのだが、
青年はそれを見てギョッとしました。

悪霊の正体は呪術師グループのリーダーだったのだ。
よりによって長が一番信頼を寄せている人物が、長を憑りころそうとしていただなんて…。
内乱を避けたかった青年は、口が裂けてもそのことを長に言わないことを決めました。

手柄を認められ、褒美に位と領土と、
豪族の末娘をもらった祈祷師グループは大喜びでした。
祈祷師のリーダーと末娘は契りを結び、
祈祷師グループは念願だった豪族の仲間入りを果たすことが出来ました。
やがて2人の間には子供も生まれます。
それを苦虫を噛み潰した表情でじっと見ている呪術師グループ。

あの一軒の騒動で危険視されたため呪術者たちは、
位も領土も片っ端から剥奪されていきました。
彼らの不満や苛立ちはどんどんたまります。
まさに自業自得なんだけれども、
自分たちの先祖が積み立ててきた功労が失われていくのを見るのは、
さぞや無念だったと思います。

そして呪術師のリーダーが位を剥奪されたことで、
怒りが限界に達したらしく、とうとう内乱が始まってしまいました。

古代の呪術によって悪霊や生霊をけしかける呪術師たち。
自然の神々の力をかりた結界をはることで呪い返しをする祈祷師たち。
一族のころし合いによって、たくさんの人が呪いころされ、処刑されました。
もちろん一族以外の人もたくさんころされました。

また、高度な呪詛や自然の神々の天罰によって
大地震や大干ばつといった災害が多発し、
それが元で大飢饉が起こり、
そこでも数え切れない人々が餓死していったそうです。
繁栄は、あっという間に終焉を迎えました。


「その話が、僕と何か関係があるんですか?」
話の区切りがついたところで僕は聞いた。
「大ありだよ。君は、祈祷師と豪族の間に出来た子供の末裔なんだから。」


事態が全然飲み込めなかった。
完全に自分の理解の範疇を超えてしまっている。
いや、そもそもこんなオカルトチックな話なんか簡単に信じちゃっていいのだろうか?
僕は、こんな時どうすればいいのか対処法が分からなかった。

「どっかの馬鹿がさ、掘り返しちゃったんだよね。封印されていた呪詛を。」

聞けば、さっき追いかけてきたあれは、
呪術師の使う呪詛の一種なんだそうだ。

「人を呪えば穴二つってことわざ知ってる?
呪いって失敗すると呪った相手のところに帰っていくんだよ。
でも呪いをかけた奴は、はるか昔に亡くなってるわけだ。
ゆえに呪いは、また君のとこに戻ってくる。何度でもね。」

血の気が引いたのが分かった。
あんなのがまた戻ってくる?しかも何度でも?
冗談じゃない。
本当に洒落にならないほど怖かった。

「だから君を助けに来た。」

少なくともこの人は味方ってことだけは分かった。
おっさんは、自分は式神みたいなもんだと言っていた。
どうして僕のことを知ってるのか聞くと「式神だから」としか答えなかった。

「とにかく今回は初めてだったし、僕も地理的に分からないことだらけだったから、探すの遅くなっちゃったけど…。次からはもっと早く助けに来る。だから安心なさい。
(時計を見ながら)まずいな、だいぶ話し込んでしまった。君はもう帰りなさい。親が心配する。」

おっさんは「ではまた。」と言うと、僕に背中をクルっと向けて、
カツカツと革靴の音を鳴らしながら何処かに行ってしまった。
夜風が、あっけにとられている僕にいつまでも吹きつけていた。
これが僕とマセラティおじさんの最初の出会いだったのだ。




おっさんの言うとおりだった。
呪いは、3ヶ月後に自分に戻ってきた。
マセラティおじさんとまた会ったのは、
秋が終わり冬にさしかかろうとしていたときのこと。

ほぼ毎日と言っていいほど進学塾に通い詰めだった僕は、
その日も同じように進学塾から家路に向かって歩いていた。
前に襲われた道から帰れば、一番早く家に着くのだが、
トラウマのせいか何が何でも通らないように決めていた。
回り道になるにもかかわらず、比較的明るく、
また人や車の流れがある道を選んで帰っていた。

あの事件の後、数日後たってから、
1度だけどうなっているのか確認しに行ったことがある。
もちろん日が沈む前、それも友達と一緒にという条件つきで。

まるで事故った形跡がなかった。
たしかにここで事故ったのは間違いないはずなんだが…。
マセラティはなくて当たり前だが、
飛び散ったフロントガラスの破片すら見つからない。
垣根にも穴はなかったし。
電話ボックスも、やっぱりなかった。
ただ、あるがままの光景がそこにはあった。

あそこは異次元だったんだろうか?
今度、おっさんが現れたら聞いてみよう。そう思った。

場面は今へと戻る。突然音が聞こえなくなった。
さっきまで聞こえていた犬の吠える声もピタリと止んだ。
とうとう来た。
自分の呼吸音だけがしっかりと聞こえる世界。
背中からじんわりと汗が滲み出る。
おっさん頼む!早く来てくれ…。

すると、どっかからエンジン音が聞こえた。
おっさんがやってきたのだ。
そして車は、あのマセラティだった。
修理に出したのかきれいに直っていた。
そして僕の横に車を停める。

「おい、挨拶はいいから乗れ。奴が来る。」

僕はあわてて助手席に乗った。
よく見るとドアのところにお札が貼ってある。 
左ハンドルなので、少しだけ戸惑ってしまう。
おっさんは僕がシートベルトを締め終わらないうちに発車した。
真っ先に聞いた質問は、
「今までどこに行ってたんですか?」だった。
おっさんは、あるものを探していたとだけ言い、
しきりにドアミラーで後ろを確認している。


あるものとは、呪いをかけたり、またかけた呪いが呪い返しにあった場合、
その呪いの身代わりになる物のことらしい。
具体的に言うと、髪や爪といった身体の一部を身代わりとして入れ、
呪いを中に閉じ込めるための木箱である。
僕にかかっている呪いは、膨大な年月を経て弱っているものの、
そこらへんの木で作った木箱くらいじゃ封じ込められないほど強力なんだとか。
だから、おっさんはまず呪いに耐えられるだけの神木をずっと探してたそうだ。
そして作る木箱も、釘を使わず複雑に組んだ特殊なものでなければならないとのこと。
それを作るのがまた厄介なようで。


「もしあの呪いが弱ってなかったら、どのくらいの威力なんですか?」

我ながら恐ろしい質問をしてみた。
おっさんの横顔からは長い睫毛をたくわえた目が見えた。
その目がドアミラー、僕、前方という順で動いている。

「あまり俺も詳しいことは分からないが、それこそ千はころされてただろうね。」

震える僕を見て、おっさんはにこやかに笑い、
あれよりもっとヤバい呪いもあるから大丈夫だよと付け加えた。
今思うとフォローのつもりだったのだろうか?
全然フォローになっていなかったが。

「来た」

そう呟くと、おっさんは一気にスピードをあげはじめた。
エンジンがうなり、速度計の針が動きはじめた。
それにつられて心臓がバクバクも言い始める。
見たくなかった。が、僕は不可抗力でドアミラーを覗いた。

いた。

はるか後方にそいつが見えた。
地面から浮いたところに立っている。
そしてそのままの状態で、
滑るように僕たちを追いかけてきているのが分かった。

ガチャン。

全部のドアにロックがかかる。
重たい空気。重圧感のある緊張が走る。
おっさんも真剣なのか、黙ったままハンドルをさばく。
とにかく居心地が悪かった。



やはり下調べしてあるのだろう、さっきから直線の多い道ばかりを走ってるようだ。
曲がる寸前でスピードを落としているとはいえ、とんでもない速度だ。

しかし、それでもそいつはピッタリと付いてきていた。
しかも差は開くどころか、どんどん近付いているのだ。

数十分も走らすと、だんだん疲れてきたのか、
おっさんの運転が荒くなりはじめた。
見ると、おっさんの顔には汗が。
初めて見た。この人でも汗かくんだ。そう思った。
…と同時に僕は、みるみる不安になる僕。

ドアミラーを見るたびに、そいつはどんどん距離を縮めていた。
だめだ、このままじゃ逃げ切れない。絶望的だった。
心臓が今にも張り裂けんばかりだ。

「おい、次曲がったところで運転代われ。」

当時、中2の僕にとっては、あまりにも酷な命令に思えた。

「大丈夫。ハンドルを持つだけでいい。とにかくど真ん中を走らせろ。いいな。簡単だろ?」

ためらってる時間はなかった。
やりたくないけど、やるしかない。僕は頷く。
おっさんは次の角に勢いよく突っ込んだ。
ほとんどドリフト状態で、ものすごいGで身体が「く」の字に倒される。

ハンドルをしっかりと持つ手に、じっとりと汗が滲む。
いくら見晴らしのきく直線道路のど真ん中を走っているとはいえ、
もし運転操作をあやまったら…。
そう考えると腕がブルブルと小刻みに震える。

おっさんはシートベルトを外し、窓から身体を乗り出すと、
しきりに何か呟いていた。
その窓から容赦なく吹き込む冷たい風の音にかき消されて、
何を言っているか聞こえはしなかったが、例の呪文を唱えているようだ。

バン!

前に聞いた爆竹のような音がこだまする。
おっさんは一仕事終えたような顔つきで、顔を車内に引っ込めると、
パワーウインドウで窓を閉めながら「よくやった」と頭をなでなでしてくれた。



辛くも何とか逃げ切ることが出来たようだ。
あたりは人が歩き始め、車が道を走り始めた。
元のあるべき世界に帰ってきた。
おっさんは、僕を家のすぐ近くまで送ってくれた。
なぜ僕の家の場所を知っているのか?
謎ではあるが、あえて聞かなかった。
どうせ「式神だから」とか言われるのがオチだし、
マセラティのナンバープレートを調べることで
正体を突き止められると思ったから。
代わりに、今度おっさんに会ったら、聞こうと思っていたことを聞いてみる。

「さっきの音がない世界って何なんですか?」

そしたら
「今の世界が『在る』ことを誰も証明出来ないし、さっきの音のない世界が『無い』ことも誰も証明出来ない。分かるかい?在るか無いかは問題じゃないんだよ。」

と、かなり哲学的なことを言われた。
要するにおっさんでも分からないみたいだ。

車から降りると、すかさずナンバープレートを頭の中に控える。
よし!完璧。
完全に暗記したナンバープレートを忘れないように暗唱しながら、
僕はおっさんに別れを告げた。
エンジンを吹かし、まさに発車する瞬間のことだった。
おっさんは、何か思い出したかのごとく口走った。

「あ、そうそう。1つ言い忘れてたよ。僕のこと調べようと思ってもやめときな。
時間の無駄だから。なんかナンバープレート見てたから一応言うね。
ナンバープレートなんか調べても『在る』わけないよ。
この車は『無い』世界にあったやつなんだから。」

そう言うと、マセラティはあっという間に夜の闇に消えてしまった。



おっさんと出会ってから半年以上が経っていた。

相変わらずおっさんの正体は分からない。
どこの誰なのか?仕事はしているのか?
妻や子供はいるのか?そもそも人間なのか?
聞きたいことが山ほどあった。
おっさんは「僕のことは知らないほうがいい」と言っていたが、
少しくらいなら教えてくれてもいいのに…。
そう思ってた。



話が飛んでしまって申し訳ないが、
僕は母方の叔父のところにお世話になっている。
僕の両親が交通事故で亡くなってしまったからだ。
葬儀の後、親戚みんなで集まり、誰が僕の面倒を見るか?
それを決めるために話し合った。
そのとき、なぜか父方の親戚は集まりが悪かったらしい。
聞けば、不慮の事故や病気で、次々と亡くなってしまっているそうな…。

一応集まるには集まるんだが、
寝たきりの祖母を抱える祖父だったり、
精神病の子供がいる伯父だったりと、
とても養子を育てる余裕なんかない人たちだった。
そんなわけで母方の叔父が、
僕をもらい受けることとなったのだ。

今でこそ僕に冷たい叔父だが、
最初のころは本当に優しかった。
まるで別人かと思うくらい。
休日には必ずどこかに連れてってくれたし、
欲しかったおもちゃだって、すぐ買ってくれた。

じゃあ、いつから叔父と僕は、
こんなに冷め切った関係になってしまったのか?
原因は僕にある。

僕が、叔父に全然なつかなかったから…。

叔父は、他人の子供にもかかわらず、
まるで実の子供のように僕をかわいがってくれた。
しかし、わけも分からないまま叔父の家にいきなり連れて来られ、
大好きだった両親にも会えない僕は、いつも泣き叫んでばかり。
真夜中に突然泣き始めて、
寝ていた叔父を起こすこともしばしばあった。

「ねぇ、お母さんは?お父さんはどこ?会わせてよ、おじちゃん!どこにいるの?ねぇ…。」

腫れた目をこすりながら、嗚咽交じりで叔父にすがりつく僕。

「お母さんとお父さんはね、どこか遠いところに行っちゃったんだよ。」

「嘘だ!おじちゃんの嘘つき!お母さんとお父さんを返せ!」

そして大声を上げてまた泣き出す。
頭をおさえて黙り込んでしまう叔父。
そうやって日数を重ねるうちに、
僕は、叔父にまったく心を開かなくなっていた。
また叔父を悪者だと思い込み、
ついには叔父が両親をころしたと勝手に決め付けさえした。



そして事件が起きる。
独身だった叔父には交際相手がいた。
自分はあの子に嫌われている。
あの子は愛情に飢えている。
このままだとあの子はダメになってしまうだろう。
あの子には愛情が必要だ。
母親がいればきっと変われるはず。
そう叔父は考えていた。
そして結婚を決意する。

「(僕の名前を呼んで)この人が新しい母親だよ。」

叔父は、交際相手を僕に紹介した。
だが、荒みきっていた僕にはその人を母親と思うことが出来なかった。
うらめしそうに睨み付ける。

「シね。」

その瞬間、叔父のビンタが飛んできた。
泣き出す僕。

「なんてこと言うんだ!」と僕をしかりつける叔父に、
僕はひたすら「人ごろし!」と叫び続けた。

それからだ。
叔父が僕に冷たくなったのは…。
今でも叔父は独身である。
あの事件がきっかけで、
交際相手とは別れてしまったらしい。

叔父は仕事がいそがしいのか、
めったに家に帰ってこなかった。

僕には、叔父の家が広すぎた。
友達の家でご馳走になった時、
家族団欒の光景を見て、泣いてしまったことがある。
リビングには、ロボットの形をした小物入れがあって、お金が入れてある。
そのお金で、スーパーでお惣菜を買ったり、外食したりしていた。
僕には、それが当たり前の日常だった。
ずっとそうやってきた。

一人で朝食を済ませ、学校に行くための仕度をする。
玄関の戸を閉めると「よぉ」と呼ばれたので、
振り返るとおっさんがいた。

一ヶ月ぶりである。
何にもないときに現れるのは初めてだった。

「元気ないな。どうしたんだ?」

おっさんは心配そうだ。
僕は最初こそ黙っていたが、
あまりにもおっさんがしつこく聞くので、
今まで叔父と自分にあったことを思わず話してしまった。
話している間、おっさんはずっと黙ったまま、僕の話を聞いてくれてた。
全部話し切ると、胸のつっかえが取れたような感じがした。
おっさんはずっと下を向いて考え込んでいる。

「おじさんってさ。家族いるの?」

僕は聞いてみた。

するとおっさんは顔を上げ、ニコッと笑うと「いるよ」って答えてくれた。
絶対に独身だと思っていたから、すごい意外だった。

僕が学校に向かうと、おっさんも付いてきた。
サングラスに黒スーツという誰もが目を止めてしまう格好だったので、
さすがに一緒に歩くのを勘弁して欲しかった。

周りにどんな目で見られるか分かったもんじゃない。
しかし、すれ違う人は、
まったくおっさんに気付かない様子だった。不思議だ。

たまに散歩中の犬が威嚇するくらいで、
みんな気にも留めてない感じだった。

他の人には見えてないのだろうか?

「おじさんって幽霊なの?」
思わず聞いてみる。

「幽霊か人間かって言われれば人間だよ。」

「どういうこと?」

「人間が産むのは人間だけじゃないってことさ。」

言ってる意味が分からないので首をかしげる僕。
それを見ておっさんは笑う。

「つまり式神だよ。」

おい。またそのパターンかよ。

おっさんは腕時計を見ると
「まずい。そろそろ行かなきゃ。」と言い残し、
いきなり走り出した。

呼び止める暇もなく、ひょいっと路地の角に消えてしまう。
僕は、あわてて後を追い、角を曲がったが、
そこにはもうおっさんはいなかった。

隠れてそうな場所を探すが、見つからず。

僕はゆっくり息を吐きながら、
今の出来事を何気なく思い返してみる。

頭をポリポリとかきながらふけっていると、
あることに気付いてしまった。
いや、正確に言うと気付いているのに気付かないふりをしていた。
たった三回しか会っていないのに…。
明らかに不審者なのに…。
なのになぜ僕は『おっさんがお父さんだったらいいのに』なんて思ってるんだ?
いったいなぜ?

僕の気をひこうと必死だった叔父の苦労もむなしく、
僕は決して叔父を『お父さん』と呼ぶことはなかった。
それなのに…。どうして?
あまりにも理不尽すぎる。
悶々とした気持ちのまま、僕は学校に向かった。



週末のこと。
朝から夕方まで部活で、
そのあと進学塾というスケジュールを何とかこなした僕は、
くったくたに疲れて、家に帰る途中だった。

もう、季節はすっかり冬になっていて、吐く息も白い。
乾燥した冷たい風に吹いている。
そのせいかだろうか、喉が痛い。
そんな寒い夜の道を、月明かりが照らしていた。

「おい。」

いきなり背後から声が聞こえたので、内心ヒヤッとしたが、
聞きなれた声だったので安心した。
おっさんが立っていた。
どうやら家まで送ってくれるそうだ。
一緒に歩きながら話していると、
喉から痰が出てきたので、道端にペッと吐いた。
「唾を吐くな。」
ハッとしながらも、
自分のやった行為を反省し、
素直にすいませんとあやまる僕。

「天に唾を吐くようなもんだぞ。血ほどすごくはないが、唾だってかなりの力を秘めている。下手にそこらじゅうに吐いてると自分の顔に戻ってくるぞ。」

そう言うと、おっさんは吸っていた夕八"コを指でピンとはねた。

「ねぇ、おじさん?」

「ん?」

「じゃあ…逆に聞くけど、夕八"コなら道に捨ててもいいの?」

「あ、いけね。」と言いながら、おっさんは捨てたばっかりの夕八"コを拾った。

おっさんは、それからもごく稀ではあるが、僕に会いに来てくれた。
正体は相変わらず謎のままだったが、それでも分かることは多々あった。


まず、おっさんには決まって数分に一回のペースで、時間を見る癖がある。
そして時間になると、いつもそそくさと走り去ってしまうのだ。

おっさんは、僕の生い立ちをはじめ、
あらゆることを不気味なくらい知り尽くしていた。
というより知り過ぎていた。

たいていのことなら何でも答えてくれる。
例えば、明後日の競馬のレースはこの馬が一着になるとか。
後日、見事に的中して、
なんで中学生が券を買えないんだと、
心底悔やんでたのを覚えている。

もっとも今は今で、もっといろんなことを聞いておけばよかったと後悔しているけれど。
ほとんど脅迫に近い感じで口止めされていたので、
あの当時はこのことを、こんな形で人に話すとは、
思っても夢にも思って見なかった。

だから、どうせ聞いても人に言えないんじゃ
知る意味がないって思って、あまり質問しなかった。

質問するにしても、おっさんのことばかり。
それが心残りだ。



「おじさんって仕事してるの?」

「してるよ。式神だからね。」

愛情に飢えていた僕は、おっさんにベッタリだった。
友達と言うより父親みたいな存在。
おっさんも、そんな僕に照れてこそいるが、まんざらでもないようだ。

「ホントはね、何にもないときに、こうやって君に会っちゃいけないんだよ。上の決まりでさ。」

上ってのは、式神を指揮する司令塔らしい。
正義の秘密結社でもあるのか?
詳しく聞こうとするも「君を巻き込みたくない」との理由で、教えてくれなかった。

おっさんには、いつも時間がなかった。
時間になると逃げるようにいなくなってしまう。
最初こそ追いかけてたが、
路地を曲がったところで必ず消えてしまうので、
もう追いかけることはしなかった。

おっさんは、秒単位で動いているビジネスマンのように、
しょっちゅう時間を気にしていた。
なんかいろいろとあるみたい。


そんなある冬の出来事のこと。
その日は、部活は雨が降って中止で、進学塾の授業もない。
冷え切った寂しい家に一人でいることが嫌な僕は、友達の家に遊びに行く。

友達は「親がいないお前がうらやましい」と言っていたが、
僕だって「親がいるお前がうらやましい」と思っていた。

帰る時間になったので、
いそいそと友達と別れを告げ、自分の家に戻る。
あたりは真っ暗。
見えない恐怖におびえながら、
いつの間にか僕は、早歩きになっていた。

マセラティが向こうに見えた。
ものすごいスピードでやって来る。
このあたりでマセラティに乗っているのは、
僕の知るところ一人しかいない。
やっぱりそうだ。
乗っていたのは、おっさんだった。

あれ?

マセラティは、止まることなく過ぎ去ってしまった。

気付いてなかったのかな?
疑問に感じるも、どうしようもない。
遅れて数秒後、大勢の人の泣き叫ぶような悲鳴やうめき声が聞こえ出した。
びっくりして、ふと前方に目をやると、
なにか得体の知れない真っ黒いものが見える。

マセラティの後を追うように、こっちに迫って来る。

じっと凝らして、それを見てみるとゾッとした。
それは、たくさんの人影だった。
人影が、道をびっちりと埋め尽くしている。
映画『ゴースト ニューヨークの幻』に出てくる地獄の使者そのものだった。



その数たるやすごいもので、
通り過ぎると同時に、砂埃が舞い上がるほどだ。
とてもじゃないが、数え切れない。
ミミズがうねうねと動いたような、
そんなまがまがしいオーラをまとわりつけた人影は、
逃げられずに固まっている僕を飲み込み、
何の危害を加えることもなく行ってしまった。

なんか知らないが助かった…。

腰が抜けてしまい、足に力が入らない。
滝汗をかいていた。
文面じゃうまく伝わらないと思うが、
あれは僕の呪いなんかより、もっとやばいものだと直感した。
次元そのものが違う圧倒的な存在感を感じる。
ただ目撃しただけなのに、尋常じゃない恐ろしさだった…。


それから数週間。
次におっさんを見たのは体育のサッカーをやるために、外に出たとき。

ふと何気なく空を見たら、
はるか向こうの空におっさんが立っていた。
浮いている。
みんなに教えたかったけど、
いかなることがあっても言ってはいけないと口止めされてたので
(まあ、今こうして言っちゃってるわけだが)
一人で眺めていた。

おっさんは、ここでも僕に気付いてない様子だ。
すると、そのおっさんにどす黒い雷雲が向かってくるのが見える。
例の人影たちだ。
おっさんを襲おうとしている。

バチン!
おっさんの手が光ると、おなじみの爆竹音がこだました。

ズドン!
野球のボールをミットでキャッチするような
そんな音が、立て続けにすると同時に、
雷雲が光りながら散った。

おっさんの攻撃が当たったのだろう。

とにかく、何がなんだか…よく分からない。
出来の悪い特撮映画でも見ているのだろうか?
雷雲は、崩れてこそいたが、
勢いを衰えることなく、そのままおっさんに襲いかかる。

ここで、ボールが僕のところに来たので、
あわてて視線を足元に戻した。
やはり僕にしか見えていないのか?
あれほどの音がしたにもかかわらず、
誰一人として気付いていない様子だ。
ボールを蹴り返し、視線を空に戻すと、時すでに遅し。
おっさんも雷雲もいなかった。

ようやくおっさんが僕に会いに来てくれたのは、それから数日後のこと。



早朝の朝練に行くために、身支度を整えて家から出ると、背後から声がする。
振り返ると、おっさんが立っていた。
ただいつもと違う。
おっさんは、かなり疲れ切ってる様子だ。
スーツもよれよれ。どうにも会話が弾まない。
おっさんも無理して作り笑いをしているのが分かる。
帰ってしまう前にあの人影について聞かなければ…。

「やばいな、長居しすぎた。早く行かないと。」

そう言い残し、まさに帰るそのとき。
意を決して僕は、おっさんに聞いてみた。

「おじさんを追いかける人影って何なの?」

おっさんは、驚愕の表情の浮かべ振り返った。
動揺を隠せない様子だ。

「見てたのか?」

こっくりと頷く。

見た内容を詳しく説明しようとしたが
「それ以上言うな」と一喝されて、黙るほか無かった。

おっさんは大きく、ゆっくりとため息をついた。
そして、そのまま押し黙ってしまうので、
二人の間には無言の沈黙が流れる。

「あれって悪霊なの?」

「違う。そもそも君は、霊感がないから見えないだろ?あれはね、もっとやばいもんだ。」

じゃあいったい何なんだ?
聞いても、それ以上は教えてくれなかった。

「もう君とは会わないようにしよう。」
いきなりおっさんが切り出す。

言わなきゃよかった。
そう思った。
興味本位で聞いてしまったことを、すごい後悔した。

「大丈夫。何かあったときは、ちゃんと助けに行くよ。」

そう言うとおっさんは、靴音を響かせながら歩き出した。
引き止めたかったが、ショックで喉が締め付けられたのか、
声が出なかった。

ふいにあたりの気配が変わり始める。
おっさんが、まさに向かおうとする先にある家の垣根が、
風も無いのにざわざわと音を立て始めた。
キーンと耳鳴りがする。

「まずいな…。囲まれた。」

そう呟きながら、あたりを見渡すおっさん。
何も見えないけど、よからぬ何かの気配を肌で感じる。

「すまない、少し驚かすと思うが気にしないでくれ。」

どういう意味か説明する間もなく、おっさんは呪文を唱えると、
その場からふっと消えてしまった。

驚くよりむしろ僕は、突然いなくなる謎が解けたことで、興奮していた。



ただならぬ気配は、おっさんがいなくなった後もまだ残っている。
あたりの家々の塀の隙間から、
真っ黒いスライムのようなものがはみ出て、
真夏のアスファルトの蒸気のごとく、
ゆらゆらと景色を歪めていた。

それは、何かするわけでもなく、ただそこに在るだけ。
とはいえ、気持ち悪いので足早にそこをあとにする。

幽霊が見えない僕が、なぜか見える、人ならざるもの。
もしかして?僕の脳裏にあることがよぎった。

おっさんも呪われた一族の末裔なのか?

そう考えると何もかも辻褄が合う。
なぜ僕のことや先祖のことを知っているのか?
なぜ僕を助けるのか?
今までバラバラになったジグソーパズルが、
ピシピシとはまっていく感覚。

鼻の頭をつまみながら、眉にしわを寄せ、物思いにふける。
いくら勉強しても分からないことってあるんだな…。
そう思いつつ僕は、学校に足を向けた



もう冬が終わろうとしていた。

みんな暖かい春を心待ちにしている中で、僕だけは鬱な気分だった。
理由は簡単である。もうすぐ三ヶ月。

呪いが、いつ来てもおかしくないからだ。

その鬱のせいで、バイオリズムが狂ったのだろう。
季節の変わり目という煽りも受けて僕は、見事に風邪をこじらせてしまった。
大人しく家で寝る羽目に。
高熱で、ふらふらだ。寒気が止まらない。

僕は、布団にくるまりながらもなお、ガタガタと震えていた。
身体が衰弱しきっている。
叔父は、一昨日から家には帰って来ていない。
冷凍食品を買いだめしておいてよかったと、心底ホッとした。
こんな身体じゃ、とてもじゃないが買出しなんか無理だ。

もしこんなとき母親がいれば、
やっぱりお粥とか消化にいいものを作ってくれるのかな?
母親がどんな人なのか分からないまま育った僕は、
そんなことを考えながら眠りに落ちた。


気付いたら僕は、学校の教室に、たった一人で佇んでいた。
なぜか二年の教室ではなく、三年の教室にいた。
僕はいったい何でここにいるんだ?
そんな疑問は、すぐに絶望へと変わった。
そこが音の無い世界だったからだ。
僕の大嫌いな世界…。
くらっと眩暈がした。呼吸が、どんどんと荒くなる。

とうとうこの日が来た。

僕は、完全にその場に固まってしまった。
目だけ動かすかたちで、周りを見る。

教室の蛍光灯は、片っ端から粉々にされていた。
かろうじて教壇の上にある一本の蛍光灯だけが、弱々しい光を放っている。
黒板の上に掛けられた時計も、ガラスの部分がバキバキに割られ、
中の針は握りつぶされたように丸まっていた。

教室の窓ガラスも、
何者かによって全て割られて、なんとも無残な有様だった。
その窓の外は、何も見えない漆黒の闇である。
見るだけで吸い込まれそうな暗黒地獄が、教室の外に広がっていた。

風もないのに、カーテンが「こっちにおいで」と手招きするがごとく、
ゆらゆらとなびいている。
あまりの異様な光景に、絶句してしまった。

ギュイーン ギュオーン ギュワーン ギュオーン
いきなり無機質なチャイムがしたので、
身体がビクッと反応し、机にぶつかった。
音程が外れ、ねじって歪めたような音。
それが、学校中に鳴り響いた。



「おえああ、あいおあいえあう(これから、狩りを始めます)」

滑舌が悪い校内アナウンスが流れる。
明らかに人間の声じゃない。

やばいやばいやばいやばい…
もう完全に頭の中がパニックだった。
汗が、ポタポタと床に落ちる。
おっさんは一向に現れる気配がない。

時間にしておよそ数分。
自分には何十時間にも感じられた。
ふいに人の足音が聞こえた。
それに混じって、男と女の言い争う声。
どんどんこっちに向かってきているのが分かった。
おっさんなのか?それとも…。

人の声ではあるが、明らかに二人いる。
逃げようにも、すぐそこまで声が迫っていた。
心臓が爆発しそうだ。そして…

「あ、いたいた。やっと見つけた。」

おっさんが廊下から教室を覗き込んでいた。

「二年の教室にいないから探すのに苦労したよ。」

肩の力が抜けるのが分かった。
思わず安堵のため息が出る。
久しぶりに見るおっさん。

「もう君とは会わないようにしよう」と言われて以来、
全く会っていなかったので、懐かしかった。

「探すのに苦労したのはこっちの台詞よ。」と、女性の声。

おっさんの背後に、その声の主と思わしき人が見えた。

すらっとした身体に、パリパリの黒いパンツ、
そして黒いライダースジャケット。
肩までかかるさらさらの髪。
蛍光灯の明かりが廊下まで届かないので、顔までは見えなかった。

「あんたさ、ケータイくらい持って行ったらどうなの?」

その人が、おっさんに怒鳴っている。

「使い方が分かんねぇんだよ。」

おっさんは、そう言いながら僕のもとにやって来た。

間近で見るおっさんは、実に頼りなさそうだった。
頬はこけて、髪が乱れている。
無精髭もうっすら生えていた。
声もどこかしら元気がない。

「君に紹介するよ。あの人は俺の仕事仲間でね。名前は『ハル』さんだ。」

そのハルさんと言われる人も、教室に入って来た。

「君が○○(僕の名前)クンね?話は聞いているわ。」

若い女性だった。
見た目は20代後半くらい。
顔は、芸能人に例えるなら夏目雅子に似ている。
今のおっさんとは対照的で、すごくきれいな人だ。



ハルさんは、挨拶がてら僕にいろいろと話してくれた。

まず、おっさんがよく使っている爆竹の音がする技。
あれは、たいていの相手であれば、
一撃で葬れるほど強力なものだそうだ。
まさに一撃必殺の技。
足止めにしかならないものだと思っていたので、すごいびっくりした。

「強力だけど、術者の身を滅ぼす危険もあるわ。」とハルさんは言う

そんなのを二発食らっても死なない呪い。
つまり、それだけ呪いも強いわけで。
そんなおっさんをサポートするために、新たにハルさんが加わったそうだ。

「よろしくね。」
ハルさんが、僕に微笑んだ。

「いうう、おういんいうあえいえうああい(至急、職員室まで来てください)」
また校内アナウンスが入る。

「どうする?行く?」
おっさんが、笑いながらハルさんに聞いた。

「馬鹿じゃないの?死にに行くつもり?」

「冗談だよ。さすがに、こんな身体じゃ今日は無理。」

「あんたの冗談は、冗談に聞こえないわ。」

おっさんとハルさんって夫婦なのか?
二人が話している間、僕が会話に入り込める余地は全く無かった。
完全に、受け身の状態である。
僕は、複雑な気持ちだった。
おっさんを取られたような気がして、
ハルさんにちょっと嫉妬してしまった。

「とにかく奴が仕掛けてくる前にここを出よう。」と、おっさん。

「そうね。」ハルさんも頷く。

おっさんとハルさんは、机や椅子をどけ、
出来たスペースの真ん中に僕を立たせた。
その僕を挟むようなかたちで、二人が立つ。
僕の前方にハルさん、背後におっさんという感じ。

「これやると、死ぬほど疲れるから嫌なんだよなぁ。」

背後から、だるそうに呟くおっさんの声が聞こえた。

「あんたがケータイ持って来ないから、これやる羽目になったんでしょうが。」

ハルさんもだるそうに言う。
何か始める気らしい。



「そこから絶対に離れないでね。」

そう言うと、ハルさんは静かに目を閉じた。
後ろにいて見えないが、おっさんも同じように目をつぶったのだろう。
これから何が起こるのか全くわけが分からないまま、
事の成り行きを見ている僕。

ハルさんは、精神統一しているのか、目をつぶったままだ。
しばらくそのままの状態が続くと、ふいに僕の視界が揺らぎ始めた。
電子機器が唸るようなノイズが、耳元で聞こえる。
同時に、自分の意識が身体から離れるような不思議な感覚を味わった。
自分の存在が、そこから消えるような、そんな感覚。
目に映るものが、どんどん真っ白になっていく。


僕は起きた。

目に映るのは、僕の部屋の天井と、シーリングライト。

夢だったのか?
起き上がろうとするが、身体が思うように動かせない。
そういえば、風邪で動けないんだった。
ワンテンポ遅れて、把握する。
僕は、もう元の世界に戻っていた。

あの世界とは違い、僕の部屋にある目覚まし時計が、
一秒ごとにカチカチと規則正しく音を立てながら、針を動かしていた。
あまりのあっけなさに、自然と笑いがこみあげる。
今回、呪いがした事といえば、
不気味なチャイムと校内アナウンスくらいだ。

目を勉強机の方にやると、
椅子の背中にもたれかかって、
おっさんがだらしなく座っている。
僕が起きたことに気付き、おっさんはニコっと微笑んだ。
ハルさんが見当たらない。

「ハルさんは?」

「あぁ、あいつか。風邪をひいてる君に何か作ってあげようってことで、買い物に行ったよ。」

途切れ途切れの息で、おっさんが答えた。
疲労困憊しているのが伺える。

「とにかく化け物だよ、あいつは…。俺なんかこんななのに、すました顔して出て行きやがった。」

おっさんは、悔しそうだ。

「おじさんとハルさんってどういう関係なの?」

僕は聞いた。

「俺の仕事仲間。一番腕が立つ。」

「おじさんの妻?」

笑いながらおっさんは、否定した。

「あんなのが女房なんて死んでもごめんだね。ああ見えて俺より歳食ってんだぜ。」

え?僕は、思考がストップしてしまった。


「ま、正確な歳は俺も知らないけどな。でも60は裕に超えてるよ。」

ハルさんに少し惚れていた僕にとっては、とんでもない衝撃だった。
思考は停止していたが、
聞いてはいけないものを聞いてしまったというのだけは分かる。

ニヤニヤしながらおっさんは、身体を起こすと、
僕の布団をかけなおしてくれた。

「君を見ているとね。我が子を思い出すよ。」

そう言いながら、どこか懐かしそうな目で、僕を見ている。
僕と同じくらいの歳の息子が一人いるらしい。

「ちゃんと家族に会ってる?」

心配になって聞いてみた。

おっさんは、首を横に振る。

「もうね、会えない。」

離婚して会わせてくれないのか?
もしくは、仕事のために家族を捨てたから、家族に会わす顔がないとか?
この人のことだから、家族をないがしろにしていても、別におかしくないかも。
頭の中で僕は、会えない原因を推理していた。

「君も知ってるだろ?俺が呪われているのを。」

「え?」

「気付いた時にはね、もう手遅れだった。それでもあきらめずに頑張ったよ。
それこそ、当時は若かったし、今より力もあった。でも…助けられなかった。」

僕の推理は見事に外れた。
おっさんの家族はころされたのだ。それも自分の呪いに…。

「俺がころしたも同然さ。」

そう言うとおっさんは、下唇を噛んだまま、黙り込んでしまった。
自分を責めているようだ。
涙こそ見せなかったが、
僕はそこにおっさんの家族を想う深い愛を、確かに感じることが出来た。

「たっだいま~。」

重苦しい空気の中、何も知らないハルさんが帰ってきた。
そして僕の部屋に戻ってくる。
それを合図にするように、おっさんは腕時計に目をやる。

「悪いな。俺はもう行かなきゃ。ハル、後はまかせたぞ。」

「分かった。」とハルさん。

そしておっさんは、また呪文のようなものをつぶやくと、瞬時に消えてしまった。
部屋には、俺とハルさんの二人だけとなった。



「君、お腹空いてる?」

もちろんお腹はペコペコだったけど、
ハルさんと二人だけで食事をするのは気まずかったので「ううん」と答える僕。

「あら、そう。じゃあ、料理だけ作っておくわ。ちょっとキッチン借りるね。」

そう言うと、ハルさんはキッチンの方へ行ってしまった。

進学塾の定期試験が近いので、
その間に勉強しようと思ったけど、
意識が朦朧としているので、
内容が頭に入りそうにもないので、やめた。

何もせず、天井をじっと眺めながら待つこと数十分。
ハルさんが、戻ってくる。

「テーブルの上に作ったのが置いてあるわ。ちゃんと食べなね。」

声も無しに、ただ頷く僕。

「じゃあ、私もそろそろ行くね。」

そう言うとハルさんは、おっさんと同じようにその場から、ふっと消えてしまった。
部屋には、僕一人だけとなった。

だるい身体を引きずりながら、僕はリビングに向かう。
テーブルの上に、書置きが置いてあった。

『早くよくなってね。ハル』と書いてある。

その横にラップがされたお椀。
まだ温かいので、蒸気で白く曇っている。
中身が見えない。
僕はラップを取った。
卵粥だった。

それを口にする。
うまい。
おふくろの味ってやつ?とにかくうまかった。

せっかく僕のために作ってくれたのに…。
ハルさんは、僕がどんな顔して食べるのか見たかったのでは?
そう考えると、すごくハルさんに申し訳ない気がした。

次の日、嘘のように風邪が治っていた。
薬の効き目なのか?
それとも卵粥のおかげなのか?
それは分からない。

身体が軽い。鬱だった気分も晴れ晴れとしていた。
実に気持ちいい朝である。

支度を整えると、軽快な足取りで僕は、学校へと向かったのだった。