愛しているという言葉から始まった僕たちの恋は、たどたどしくスタートを切っていた。「こんにちは」も「初めまして」も何もなく、ただ彼女から「愛している」。僕はその愛を受け止め、重みをひしひしと感じ、僕なりの愛を培っていった。

 愛には完全性は、存在しない。不確かで、とめどないものだった、それまでの僕にとっては。その女の子の名前はユキという。彼女は良家のお嬢様で、男性と付き合ったことはない。年齢は二十三歳で、大学は文学部を卒業している。

 文学というのは、愛に似ている。あるいは、愛というのは文学に似ている、と彼女は僕に語った。かたちを取るには、相応の時間が掛かり、出来上がるとたくましく、生命のみずみずしさを孕んでいくからだ。

 彼女は文学を愛していた。そして、同等以上に、僕のことを愛していた。

 

 僕が愛を感じた初めてのときは、中学校二年生だった。真杉香奈という女の子で、髪は地毛で少し茶色がかっていて、瞳は大きく、うっすらとした美しいオーラを纏っていた。クラスメートの多くの男の子は、彼女に恋をしていた。

 確かに彼女は美しい女の子だった。性格も朗らかで、成績も良く、すべて非の打ち所がないぐらいに、レベルの高い女の子。でも、僕は彼女に恋をしていなかった。他の男子のように、魅了されてはなかった。何故だか、分からない。

 夏休みの始まりの頃だった。僕は偶然に、街の映画館の前で、香奈と出会った。彼女はフリルのスカートと純白のブラウスを着ていた。髪には髪留めをしていた。

「こんにちは」と僕は言った。

「こんにちは」彼女は笑った。素敵な笑顔だった。

 

 僕たちはその映画を一緒に観た。まるで、デートのような緊迫感が僕の頭を包み込んでいた。映画は、恋愛がテーマでフランスの新しいものだった。僕は同じ映画館でやっているアクションの映画を観るつもりだった。大半の思春期の男の子は、恋愛映画などに興味はない。映画は意外と面白かったし、彼女を暗闇のなかで少しずつ意識し始めていた。

 気がつくと、彼女の手が僕の手に合わさっていた。僕は心臓が早鐘を打っていた。僕は息を呑んで、彼女の顔をそっと見つめた。彼女は、まっすぐに僕の目を見た。そして、目を伏せて、首を振り、また映画のスクリーンを見つめ始めた。

 

 僕は何が何だか分からなかった。何が起こっているのかも、そしてこれから何が起ころうとしているのかも分からなかった。頭の奥がずいぶんと痺れていた。僕は彼女の右手を左手で、握った。軽く、出来るだけ優しく。

 すると、彼女はそうっと握り返した。

 

 映画が終わって、僕たちは街のカフェへ行った。太陽は燦々と輝き、暑かった。カフェのなかはエアコンがたっぷりと効いていて、涼しかった。

「楠井君は、恋愛映画に興味があったのね。面白かったわね、あの映画」

「映画どころじゃなかった・・・・・・」と僕は正直に打ち明けた。

「どうして?」

「君が隣にいるというだけで、心臓がドギマギした」

 彼女はくすりと笑った。

「私のことが好きだったの?」

「そういうわけじゃなかった」

「過去形ね」彼女はまた笑った。

 僕は喉が渇いて仕方がなかった。グラスの水を飲み、そして彼女の顔を見ようとしたが、直視できなかった。彼女は眩しかった。

 

「クラスの男の子は、君に夢中だよ」

「彼らは夢を見ているのよ、私という女の子が本当に好きなわけじゃないと思う」

「君は、綺麗だ」

「私、夏が終わったら、転校するの」

「どこに?」

「北海道の札幌市、父親の仕事の関係で」

 

 僕は言葉を失った。寂しさが去来し、目が虚ろになった。

「私は、楠井君のことが好きだよ」彼女は小さな声で言った。

「どうして?」

「分からない」彼女はそう言って、にっこりと笑った。頬は少し紅潮していた。恥ずかしいのだ、と僕は思った。

「愛を抱くのには、理由が必要ないと思うのよ。ただ、そこにあるの。そして、その流れには、抵抗することができないのよ」

「僕はこれまで誰かを好きになったことはなかった」

「また、過去形ね」くすりと彼女は笑った。

「夏のあいだだけ付き合ってみない? 東京と北海道の札幌市じゃ、中学生の恋は続かないわ。また、大人になって再会すると別のような気もするけどね」

「思い出作りに?」

 そう、温かくて色彩の豊かな思い出を作るために。

 

 僕が香奈に抱いていたものは、確かに愛だった。

 

「それで、どうなったの?」とユキは不思議そうな表情を浮かべて、僕に質問した。僕たちは夏のあいだだけ付き合った。それは、限定の恋だった。僕たちは手を繋ぎ街を歩いて、公園へ行ったり、ブティックを回ったり、テーマパークへ行ったりした。

 思い出は確かに増加した。温かくて真っ白な思い出。優しくて、穏やかな彼女の表情と共に。

 

「僕はそれ以上の恋は、存在しないと思っていた。その恋には多少のファンタジーが入っていた。色の付いた幻想だよ」

「でも、タケルは私に出会った」

「香奈がいなくなって、寂しかった。その寂しさはずっとずっと抱えていくものだと思っていた。からだに付着して、取ることのできないものだと」

「だから、恋なんてしない方が良かったと思った?」

 僕は頷いた。しかし、僕の傍らにはユキがいた。

 

 最後の夜。雨が降っていた。雲が空を覆っていて、稲光がときどき、激しく地上を打った。僕は彼女の部屋にいた。彼女の家は中流の家庭で、ユキと違ってお嬢様というわけではなかった。特に変わった内装ではないし、彼女の言葉は少なかった。

「明日で、お別れだね。時々、手紙を書くわね」

 僕は頷いた。

 雨は激しさをいっそう増していった。雨の音が、寂しさと匂いを醸し出していた。表現することが難しい、そのときの心情は。

「私の愛は、深まっていく一方だった。私には、予想以上だった。楠井君のことを愛し始めて、その愛がわずかな期間実を結んだことに、私は喜びを感じた。でも、今は無性に哀しい、哀しくて仕方がない」

 

 僕は掛ける言葉を失った。彼女は涙を流し始めた。僕は彼女の肩に手をやって、その哀しみを共有した。深くて、温かみのある哀しさだった。

「キスをして。私のファーストキス」

 僕はキスをした。柔らかくて、しっとりとしたキス。愛がそこにあった。中学生の恋としては、上出来だった。

 

 ユキは興味深そうに聞いていた。時々、目を細めて、眩しいものを見るような顔をした。

「私は、二十三歳になって初めて愛情を感じた。これまで、男の子に告白されることもあったし、決してチャンスがなかったわけでもなかった。でも、私は付き合ったことがなかった。告白はすべて断った。愛という言葉は、私には縁がないものだと思っていた。あなたに出会うまでは・・・・・・」

「愛しているよ」僕は改まった気持ちで言った。

「ありがとう」彼女は笑った。

 

 ユキとはインターネットで出会った。日本の文学の掲示板で、僕らは知り合った。谷崎潤一郎とか村上春樹とか、田口ランディとかいろいろな作家の話をしていくうちに、「では、会いましょう」ということになった。

 

 渋谷のハチ公前で出会った彼女は、非常に美しかった。きらびやかなアクセサリ、ブルーのワンピース、白い肌、潤いのある黒い瞳。僕は初めて彼女に会ったときに、本格的で、深刻な恋に落ちた。はやり病にかかったみたいに、心がロックされた。

 そして、僕に彼女が初めて向けた言葉が、「愛している」だった。僕は耳を疑った。心が熱くなり、言葉を失った。その場を立ち尽くした。まるで、ドラマか何かみたいだった。