ノエル・ギャラガーが、マンチェスター・シティ、ゲオルギー・キンクラーゼ、そしてリバプール・フットボールクラブを嫌う理由について語る。
世界的に有名なミュージシャンの一人であり、かつ幼い頃より根っからのマン・シティファンであるノエル・ギャラガー。City Magazineはついに、ノエル・ギャラガーを捕まえ、いくつかの疑惑を晴らし、新たな事実を聞き出すことに成功した。
8年間。
8年間かけてEメールを送り、電話をかけ、第3者を通してメッセージを送り続け、やっとのことで、我々はノエル・ギャラガーにインタビューを行うことに成 功した。2001年、City Magazineの編集者という立場に戻ってきてからというもの、私がやりたかったことの一つが、読者に代わってノエル・ギャラガーと話し、マンチェス ター・シティ/OASISの独占インタビューを実現することだったのだ。
1990年初めからのOASISのファンである私が、この機会を逃すわけがない。「Live Forever」や「Don't Look Back In Anger」、「Masterplan」、「Cigarettes And Alcohol」を書いた本人と話をすること、とにかくそれが私の夢だった。
私はノエルと同じ年で、幼少時代を過ごしたのもすぐ近く、そして同じくマン・シティを追いかけてきた。悲しいかな、彼との共通点はここまでである。しかし これだけでも、打ち解けるには十分であり、夢のような電話インタビューのあと、私は受話器を元に戻し、テープを聞き、しっかり録音されていることを確認し て、ようやくほっと胸をなでおろしたのだった。ノエルも私やみなさんとそう変わらない人間であることを知って安心したというのが第一の感想だ。もっと早く に話せたらよかったのにと。
昔気質で、気取らず、率直なノエル・ギャラガー、その評判を実感したインタビューだ。35年前にマン・シティに夢中になってからというもの、彼は今でも変わらず熱いシティファンである。
ノエル・ギャラガーの愛すべき魅力を、レノンやマッカートニー以来の英国屈指のソングライターかつシンガーであるミュージシャンとしての才能を除いて挙げ るとするなら、そのトークセンスだろう。確かに、彼の物言いはぶっきらぼうだ。しかし70年代にバーニッジの公共団地で育って厳しい中等学校時代を過ご し、失業手当をもらう身から、一気に過去20年において最高のバンドの頭脳に成り上がるために戦わざるを得なかったのならば、誰しもお高くとまってなどい られないではないか。5千万枚のアルバムを売り上げた彼は、いまや誰と話すか、もしくは話さないか自由に選べる立場にいる。そこで私はインタビューの最初 に、貴重な時間を割いてもらったことに感謝し、ずっとインタビューをするためにアタックし続けてきたことを話したのだ。
「そうなんだ?初めて聞いたよ」と、ノエル。
これはつまり、私の長年に渡るお願いは、ノエルへとたどり着くまでの最初のハードルすら飛び越えられなかったということを意味する。しかし、City Magazineをはねつけてきたのがノエル自身ではないことを知って少し嬉しかったのも事実だ。私達から声をかけられて、彼がYesと言わないはずがな い。
それなら話も進めやすい。その時、リッキー・ハットンにベルトを渡すためにリアムと共にラスベガスに飛ぶ予定だったノエル。来夏にはHeaton Parkを初めとするビッグなスタジアム・ツアーを控えている。
ニューアルバム「Dig Out Your Soul」は、売り上げを伸ばし続け、OASISはこれからも健在であることが証明された。ノエルとリアムが、これからもマン・シティを応援していくように。ノエルに、マン・シティを応援し始めた時のことを聞いてみた。
「俺の記憶では、1971年のメインロードでマン・シティがニューキャッスルを5-1で降した時だったんだけど、最近確かめたら、その試合は1975年1月に行われたらしいな」。
「その時俺は7歳。マルコム・マクドナルドがニューキャッスルにシュートを放って、ボールがクロスバーに当たってゴールに入ったんだ。覚えてるゴールはそ れだけだが、鮮やかに思い出せるよ。で、インタビューで聞かれるたびに、この試合が最初と答えてきたから、本当に1971年だったのかちゃんと確かめたほ うがいいなと思って調べたら、マン・シティがニューキャッスルをそのスコアで降したのは、1975年だけだった。それより前に試合を見に行ってた可能性も あるけど、俺が思い出せる最初の試合は1975年のやつなんだ」。
30年のシティに失望させられたことにより、ノエルの父トミーがメインロードから他の親戚の待つオールド・トラッフォードへと寝返ってもおかしくはなかったのだが、反抗することがとりえのギャラガー家の男たちは、流行にも背を向けた。
「アイルランド人らしいだろ、俺の父方の親戚は、俺の父親とその3人の息子、俺、ポール、リアムを除いて、全員マンUを応援してたんだ。200人対4人だぜ」。
「どうして親父がマン・シティを選んだのかはわからない。ロマンチックに考えるなら、あのチームが俺達の住む地域を担ったチームだからだろう。俺達はロン グサイトで生まれ育ったが、それ以外の連中はマンチェスター出身じゃない。ロングサイトからメインロードまでは歩いて30分くらいで行けたことも理由とし て大きいかな。7歳では、自分がどのチームを応援していいのかもわからないし、どのクラブを応援しようが別にこだわらないんだ、ただ試合会場にいるという だけで興奮してたからね。手すりが眼下のピッチ近くまで続くキパックスは7歳の子供にとっちゃ特別な場所だった。父親が子供達を連れて行く場所といったら そこで、俺もそこに座らされたよ。周りには同じ年頃の子供がたくさんいて、親父はハーフタイムとゲーム終了後に俺達の様子を見に顔を出すんだ。そんな感じ さ。今じゃもう経験できないけどな」。
「毎週は連れて行ってもらえなかったけど、マン・シティ・エリアとも呼ぶにふさわしいバーニッジに引っ越したんだ。ロングサイトのセント・ロバートから
バーニッジのセント・バーナードに移ってからだね、俺の中で何かが変わり始めたのは」。
「晴れた夜には、新しい家の自分の部屋から、メインロードのまばゆいライトが見えた。シティが週半ばに試合をする時があって、そんな時はピカディリー・ラ ジオで試合を聞きながら、そのライトを眺めて『今まさにあそこで試合をしてるんだ』と思ったもんだよ。あの場所で起こってることなんだってね。試合解説で 『ゴール!』とか『ああ!』という叫びが入ることがある。『ああ!』がシティの敗北を意味した時には、震え上がったりしてさ」。
ノエルとリアム、そしてポールが、アッシュバーン・アベニューにある自宅から3マイル先のメインロードまで歩いて通うようになるまで、大して時間はかから なかった。母親のペギーがトミーと別れた後は、友人と共に試合を見に行くことだけが、シティファンとしての毎週の日課となる。
「初めて自分達だけで試合を見に行ったのは、中等学校に入ったころだったと思う」と、続けるノエル。
「何人か連れ立ってね。ずっと会ってないから名前までは思い出せないけど、6,7人でメインロードまで1時間かけて歩いていった。10代になりたての頃だったよ」。
ギャラガー兄弟が将来フットボール選手を夢見たことはあったのだろうか?ノエルはその頃から自分が将来その場所に違う形で戻ってくることを予感していたのだろうか?
「フットボールが得意だったかって?」。そう言うとノエルは、考え込んだ。
「クロード・マケレレがチェルシーでミッドフィルダーの座を自分のものとするまで、『ミッドフィルダーと言えばバーニッジのギャラガー兄弟』だったんだ。 でもやつにその名を奪われちまったな。ミッドフィルダーって言葉が生まれる以前から俺はミッドフィルダーだったんだぜ。俺がミッドフィルダーの地位を打ち 立てたと言ってもいい」。
「センターフォワードになろうなんてつまらねえことを思ったことは一度もないね。ゴールを決めていくうちに、ミッドフィールドにいた方がボールが回ってく ることに気付いたのさ。ディフェンスやフォワードになるには身体が小さかったから、ミドルのどこかにいようと思ったわけ。もちろんリアムは、簡単なボール ばかり回してもらってゴールするだけの汚ねえセンターフォワードさ」。
時が流れ、ノエルのキャリアや名声は、バーニッジにあるクリングル・フィールズの知名度を追い越さんとし、シティの選手達はメインロードで彼の夢を叶えていった。
「コリン・ベルやデニス・テュアート、マイク・サマービー、ゲイリー・オーウェン、スティーヴ・マッケンジー、ポール・パワー、ジョー・コリガンみたいな 選手のプレイを目にすることができて本当に幸運だったよ、あのスカイブルーのラウンドネック・ユニフォームでプレイする彼らをね」。
「俺にとってのヒーローはベル、そしてテュアート、それからピーター・バーンズ。それ以降は少し低迷するんだよな。バリー・シルクマンが登場したが、やつ のプレイは手段を選ばなかったから俺の好みじゃなかった。ポール・スチュワートが、たぶんシティで20得点を挙げた最初のストライカーだが、すぐに他の チームに叩き売りされちまった。デイヴィッド・ホワイトに夢中になったことはないな。俺にとってはどうでも良かったね」。
「ゲオルギー・キンクラーゼを皮切りにアリ・バーナビアやショーン・ライト・フィリップスとかが出てくるまではそれほどはまってはなかったんだ。ヒーローと呼べるほどの選手があまりいなかったんでね」。
仕事や家族のために、以前ほどホームでの試合を見ることができなくなってきたノエルは、最近ではバーミンガムの南で行われるアウェーでの試合を見ることの方が多くなってきたが、全ての試合を見に行った時期もあったそうだ。
「12歳から21歳頃まで、欠かさず行ってたよ」と、彼は回想する。
「1983年、下のクラスに落ちてから初めてのシーズンは、ホームでもアウェーでも必ず見に行った。当時は、フットボールファンが国中を回るのにおあつら えに交通の便が良くてさ。というのも俺達の半数は失業手当暮らしなもんだから、メインロードには普通の半分の値段では入れたし、Inter Cityで、列車の旅も簡単に出来た。だから80年代初頭はクラブを追いかけるのもそう高くはつかなかったんだよ。それに今は何と呼んでるかわからない が、昔でいうセカンド・ディヴィジョンにいるチームはほとんど北部のチームだった。毎週特にすることもないから、列車に飛び乗ってハッダーズフィールドや ブラッドフォード、バーンズリーに行くこともちょろいもんだったのさ」。
「メイン・ライン・クルーやヤング・ガヴァナー、アンダー・ファイヴズの連中で知ってるやつもいたよ。そこらへんには詳しかったし、今も会うことがある。マジでやばい時期だったんだよな、でもあの頃のフットボールは今と比べれば、ほんと手付かずだったと思うよ」。
「最近のスタジアムはどこもライトでまぶしく輝いているが、20年前俺達が通っていた頃は危険な場所で、特にリーズでのナイトゲームなんかは、無傷で家までたどり着けるかもわかんなかったんだ。だいぶ変わってきてる」。
将来を見越して、キパックスでチームを応援するための歌を作らなかったのだろうか?
「それはなかったな」と、ノエルは笑った。
「酔った勢いで、一度キパックスで即興で歌ったことはあったよ。『どこに行こうと・・・』とかそんな感じのをさ、そしたらみんなも一緒に大合唱だ。それで 『こりゃ良い!』と思ったわけ。もしかしたら、俺のソングライターとしてのキャリアはキパックスの裏から始まったのかもしれない。あの場所で、合唱の醍醐 味を知ったんだ」。
70年代のキパックスの盛り上がりは、ノエルに影響を与えたのかもしれないが、栄光への道は、彼が見よう見真似でギターを練習しはじめた時から始まった。 ノースウェストでカルト的人気を持つバンドのローディとして経験を積んだ後、ノエルはリアムのバンドThe Rainに加わることになる。
「1991年にOASISを始めて、それまではInspiral Carpetsのローディをしてたんだ」。
「グラハム・ランバートは、オールドハム・アスレチックのファンだった、当時たいていのバンドがそうだったようにね。クリント・ブーンはそこまで熱を上げ てなかったと思う。でもオールドハムのファンはやっぱり結局シティのファンなんだぜ - 俺がこれまで会ったオールドハム・ファンはこう言うやつばかりだったんだから。『俺は本当はマン・シティのファンなんだ、ただ家がホームから遠くて さ』」。
「マン・シティのファンになった時は、確かチームがファーストディヴィジョンにいた時だったと思う、でもお察しの通り、常に上がり下がりの波が激しかった。
でもオールドハムと試合をすると、何でかホームの試合でも負けるんだ - 絶対にね」。
レノンとマッカートニーを敬愛するならば、彼らと同じリバプールのファンになろうとは思わなかったのだろうか?
「実は」と、ノエル。
「俺の父親がリバプールで働いていた時があって、仕事柄アンフィールドに時々行くこともあったんだ。リバプール・ファンの友達もたくさんいるし、リバプール人は大好きだよ、でもリバプール・FCは癪にに障ると言わざるを得ないね、特にこの10年は」。
「金をばらまきつつ生み出した名プレイヤーは、ジェイミー・キャラガーとスティーブン・ジェラードだけ。今ようやく3人目のフェルナンド・トーレスが出てきて、リーグを制覇する勢いときた」。
「この嫌悪感の原因はたぶん、70、80年代まで遡るんだよな。リバプールがメインロードにやってきて、俺達を1-0、2-0、時には4-0と、毎回のように打ちのめしやがってさ」。
「おかしなことに、2,3年前休暇でイビサに行ったら、ケニー・ダルグリッシュの息子、ポールと偶然会ったんだ、俺が『お前の父さんはすごいな』と声をかけると、『今から電話をかけるからちょっと待って』と言うのさ。そして電話で長話することになった」。
「俺が『試合前の選手紹介でケニーという名前が読み上げられないかびくびくだったぜ』と話すと、ケニーは『メインロードはとても広くて、国内でも最高級の スタジアムだったから、プレイするのは大好きだった』と言ってくれた。『雰囲気は最高で、ファンの盛り上がりも素晴らしかった。フットボールにはこれ以上 ない場所がもうないと思うと残念だ』とね」。
「だから、俺は『それはいいんだけど、シティ・ファンはあのスタジアムに良い思い出が一つとしてないんだぜ。あのピッチで上手くプレイする方法をとうとうマスターできなかったと思うとな!』と言ってやったよ」。
皮肉なことに、1996年OASISがメインロードで伝説となるコンサートを行った後、マン・シティを降格へと追いやったのは他でもないリバプールだった。
当時、マン・シティとOASISはお互いに賞賛し合うことで互いの宣伝効果を高め、双方ともその図式に酔っていた。写真撮影、コンサート、ファッション。 音楽とフットボールの融合。相手は世界を手中に収めようとしていたOASISとくれば、シティはこの機会を逃すわけには行かなかったのである。
「最高だったぞ。ギャラガー兄弟がシティのスポンサーとなり、シティと俺達が一緒に紙面に登場するようになった。カメラマンは、ギャラガーと名前の入ったシティのユニフォームを着けろと絶えず言ってきた。シティとの最初のつながりはあの時に始まったんだと思う」。
「ユニフォームを着けてケヴィン・カミンズと一緒に、写真を撮ったこともある。あの有名な写真だよ。初めての日本ツアーをやる頃には、俺達はあれを着けて るのが当たり前だと思われてた。OASISシャツかなんかと思ってたんだろうなきっと。その後フラニー・リーに、日本でシティのシャツがどれくらい売れた のか聞いたら、
注文が殺到したからメールでのオーダーを受け付けてる状態だと言われたよ」。
「コンサートにはたくさんのファンがやってきて、『Brother』のロゴだけを入れた大きな垂れ幕を作ってきてるやつもいたぜ。俺が思うに、バンドと何 か関連があると思ったんだろう。でも実際俺はクラブのバッヂに入ってる船や赤い薔薇がどういう意味かもわからねえんだ。ファンもきっと首をかしげてただろ うさ」。
では、シティを公に応援するという方針は、将来的なレコード売り上げの伸びを見込んだ上での作戦だったということ?
「初めのうちは『これでマンチェスターの半分を占めるマンUファンを一挙に敵に回すことになるぞ』と思ったが、考え直したんだ。『だから何だって言うん だ?マンUは無敵でトロフィーだってたくさん獲ってるけど、俺達は一文無し、シティ・ファンは一文無しなんだ』。ってことで、堂々と旗を掲げたのさ」。
ノエルとリアムの力により、神聖なるメインロードへと転向する者が増え、アダム・パークやブーザム・クレッシェントで男達がたむろする光景が普通に見られ るようになった。そのシティと言えば、イングランド・フットボールの最下のディヴィジョンを低迷し続けていたが、ノエルが指摘するように、シティが失墜す ればするほど、観衆の数は増えていったのだ!
「いつも思うんだが、あの時がマン・シティ復活の時だったんだと思うよ、どういう風の吹き回しか、シティを応援するファン層が総入れ替えされたんだ。こう思ったこともあった。『サード・ディヴィジョンだぞ、物心ついた子供がそんなチームを応援したがるか?』ってね」。
「学校で言うには恥ずかしいかもしれないが、理由はともかく、シティがサード・ディヴィジョンであがけばあがくほど、応援する人の数は増えていったんだ。 OASISがそれに加担したかどうかは、知らないけどね。その頃はアウェーの試合をよく見に行ったよ。バッキンガムに住んでて、シティはウィコム, コルチェスター、レディングみたいなところで試合をしてたんで、行きやすかったのさ。『ああ、そういやボーンマスは初めてだな、シティが明日試合だってい うし、ボーンマスにまた行ける機会もそうそうないだろうから行ってみるか』ってな感じでね」。
ノエルにとってのヒーローの一人であるゲオルギー・キンクラーゼがチームにやってきたのは、シティの存亡がかかったちょうどその頃だ。
「シティにはいつだってキンクラーゼみたいな選手がいるんだ、輝ける天才ってやつさ。これがシティの戦略さ、1人の天才、そのプレイを見守る残りの6人。 ユナイテッドだとデイヴィッド・ベッカムがいるが、同時にロイ・キーンがいるだろう。今俺達に必要なのはそういう選手なんだ。ブラジル人たちに好きにさせ ない選手がね」。
「彼がやってきた時のことを覚えてるよ。クラブの関係者から電話をもらって、ジョージアンと契約したって聞いたんだ。誰だってと聞き返したが、やつと来た らゲオルギーの名前を正しく発音することすらできなかった。だから、そいつが選手として良いのか尋ねると、ジョージア対ウェールズの試合のビデオを見て獲 得することを決めたと言う。ゲオルギーの活躍で相手チームが完敗した試合だよ」。
「やつが対トテナム戦でデビューするのを見るために、ロンドンから飛んだんだ。テリー・ヴェナブルズの隣に座ったよ、解説とか何とかやってるあいつ、わかるだろ」。
キンクラーゼのデビュー戦を見たノエルが、シティはヨーロピアン・カップで優勝するか、ディヴィジョン・フォーに転落するか二つに一つだと言ったのは、有名な話だ。残念なことに、彼はおおよそ正しかった。最悪のシナリオへと近づいてしまったのである!
「キンキーを初めて見た時は、『こりゃこれまで最悪か最高かどっちかだな』と思ったよ」と言って、ノエルは笑った。
「どっちかわからなかったんだ!シティはいつでも極端だろ」。
「それで2,3年後、アリ・ベナルビアを獲得した時は『こいつは一体何者だ?』さ。俺の脳もだいぶ擦りきれてきてるが、もし今の時代で天才を一人選べといわれたら、アリにするよ」。
「ショーン・ライト=フィリップスを世界に通用する選手に仕立てあげたのは彼だ。キーガン下でのアリとショーンは最高だよ、5人制フットボールでしか見れ ないようなプレイをする。ベルコビッチ、アリ、そしてショーン・ゴーターがいた頃のシティは、俺がこれまで見てきた中でも最高のプレイをしていた。確かに 下のディヴィジョンかもしれないが、時々俺達が見せるプレイは信じられないくらいに輝いてるんだよ」。
世界的に有名なミュージシャンの一人であり、かつ幼い頃より根っからのマン・シティファンであるノエル・ギャラガー。City Magazineはついに、ノエル・ギャラガーを捕まえ、いくつかの疑惑を晴らし、新たな事実を聞き出すことに成功した。
8年間。
8年間かけてEメールを送り、電話をかけ、第3者を通してメッセージを送り続け、やっとのことで、我々はノエル・ギャラガーにインタビューを行うことに成 功した。2001年、City Magazineの編集者という立場に戻ってきてからというもの、私がやりたかったことの一つが、読者に代わってノエル・ギャラガーと話し、マンチェス ター・シティ/OASISの独占インタビューを実現することだったのだ。
1990年初めからのOASISのファンである私が、この機会を逃すわけがない。「Live Forever」や「Don't Look Back In Anger」、「Masterplan」、「Cigarettes And Alcohol」を書いた本人と話をすること、とにかくそれが私の夢だった。
私はノエルと同じ年で、幼少時代を過ごしたのもすぐ近く、そして同じくマン・シティを追いかけてきた。悲しいかな、彼との共通点はここまでである。しかし これだけでも、打ち解けるには十分であり、夢のような電話インタビューのあと、私は受話器を元に戻し、テープを聞き、しっかり録音されていることを確認し て、ようやくほっと胸をなでおろしたのだった。ノエルも私やみなさんとそう変わらない人間であることを知って安心したというのが第一の感想だ。もっと早く に話せたらよかったのにと。
昔気質で、気取らず、率直なノエル・ギャラガー、その評判を実感したインタビューだ。35年前にマン・シティに夢中になってからというもの、彼は今でも変わらず熱いシティファンである。
ノエル・ギャラガーの愛すべき魅力を、レノンやマッカートニー以来の英国屈指のソングライターかつシンガーであるミュージシャンとしての才能を除いて挙げ るとするなら、そのトークセンスだろう。確かに、彼の物言いはぶっきらぼうだ。しかし70年代にバーニッジの公共団地で育って厳しい中等学校時代を過ご し、失業手当をもらう身から、一気に過去20年において最高のバンドの頭脳に成り上がるために戦わざるを得なかったのならば、誰しもお高くとまってなどい られないではないか。5千万枚のアルバムを売り上げた彼は、いまや誰と話すか、もしくは話さないか自由に選べる立場にいる。そこで私はインタビューの最初 に、貴重な時間を割いてもらったことに感謝し、ずっとインタビューをするためにアタックし続けてきたことを話したのだ。
「そうなんだ?初めて聞いたよ」と、ノエル。
これはつまり、私の長年に渡るお願いは、ノエルへとたどり着くまでの最初のハードルすら飛び越えられなかったということを意味する。しかし、City Magazineをはねつけてきたのがノエル自身ではないことを知って少し嬉しかったのも事実だ。私達から声をかけられて、彼がYesと言わないはずがな い。
それなら話も進めやすい。その時、リッキー・ハットンにベルトを渡すためにリアムと共にラスベガスに飛ぶ予定だったノエル。来夏にはHeaton Parkを初めとするビッグなスタジアム・ツアーを控えている。
ニューアルバム「Dig Out Your Soul」は、売り上げを伸ばし続け、OASISはこれからも健在であることが証明された。ノエルとリアムが、これからもマン・シティを応援していくように。ノエルに、マン・シティを応援し始めた時のことを聞いてみた。
「俺の記憶では、1971年のメインロードでマン・シティがニューキャッスルを5-1で降した時だったんだけど、最近確かめたら、その試合は1975年1月に行われたらしいな」。
「その時俺は7歳。マルコム・マクドナルドがニューキャッスルにシュートを放って、ボールがクロスバーに当たってゴールに入ったんだ。覚えてるゴールはそ れだけだが、鮮やかに思い出せるよ。で、インタビューで聞かれるたびに、この試合が最初と答えてきたから、本当に1971年だったのかちゃんと確かめたほ うがいいなと思って調べたら、マン・シティがニューキャッスルをそのスコアで降したのは、1975年だけだった。それより前に試合を見に行ってた可能性も あるけど、俺が思い出せる最初の試合は1975年のやつなんだ」。
30年のシティに失望させられたことにより、ノエルの父トミーがメインロードから他の親戚の待つオールド・トラッフォードへと寝返ってもおかしくはなかったのだが、反抗することがとりえのギャラガー家の男たちは、流行にも背を向けた。
「アイルランド人らしいだろ、俺の父方の親戚は、俺の父親とその3人の息子、俺、ポール、リアムを除いて、全員マンUを応援してたんだ。200人対4人だぜ」。
「どうして親父がマン・シティを選んだのかはわからない。ロマンチックに考えるなら、あのチームが俺達の住む地域を担ったチームだからだろう。俺達はロン グサイトで生まれ育ったが、それ以外の連中はマンチェスター出身じゃない。ロングサイトからメインロードまでは歩いて30分くらいで行けたことも理由とし て大きいかな。7歳では、自分がどのチームを応援していいのかもわからないし、どのクラブを応援しようが別にこだわらないんだ、ただ試合会場にいるという だけで興奮してたからね。手すりが眼下のピッチ近くまで続くキパックスは7歳の子供にとっちゃ特別な場所だった。父親が子供達を連れて行く場所といったら そこで、俺もそこに座らされたよ。周りには同じ年頃の子供がたくさんいて、親父はハーフタイムとゲーム終了後に俺達の様子を見に顔を出すんだ。そんな感じ さ。今じゃもう経験できないけどな」。
「毎週は連れて行ってもらえなかったけど、マン・シティ・エリアとも呼ぶにふさわしいバーニッジに引っ越したんだ。ロングサイトのセント・ロバートから
バーニッジのセント・バーナードに移ってからだね、俺の中で何かが変わり始めたのは」。
「晴れた夜には、新しい家の自分の部屋から、メインロードのまばゆいライトが見えた。シティが週半ばに試合をする時があって、そんな時はピカディリー・ラ ジオで試合を聞きながら、そのライトを眺めて『今まさにあそこで試合をしてるんだ』と思ったもんだよ。あの場所で起こってることなんだってね。試合解説で 『ゴール!』とか『ああ!』という叫びが入ることがある。『ああ!』がシティの敗北を意味した時には、震え上がったりしてさ」。
ノエルとリアム、そしてポールが、アッシュバーン・アベニューにある自宅から3マイル先のメインロードまで歩いて通うようになるまで、大して時間はかから なかった。母親のペギーがトミーと別れた後は、友人と共に試合を見に行くことだけが、シティファンとしての毎週の日課となる。
「初めて自分達だけで試合を見に行ったのは、中等学校に入ったころだったと思う」と、続けるノエル。
「何人か連れ立ってね。ずっと会ってないから名前までは思い出せないけど、6,7人でメインロードまで1時間かけて歩いていった。10代になりたての頃だったよ」。
ギャラガー兄弟が将来フットボール選手を夢見たことはあったのだろうか?ノエルはその頃から自分が将来その場所に違う形で戻ってくることを予感していたのだろうか?
「フットボールが得意だったかって?」。そう言うとノエルは、考え込んだ。
「クロード・マケレレがチェルシーでミッドフィルダーの座を自分のものとするまで、『ミッドフィルダーと言えばバーニッジのギャラガー兄弟』だったんだ。 でもやつにその名を奪われちまったな。ミッドフィルダーって言葉が生まれる以前から俺はミッドフィルダーだったんだぜ。俺がミッドフィルダーの地位を打ち 立てたと言ってもいい」。
「センターフォワードになろうなんてつまらねえことを思ったことは一度もないね。ゴールを決めていくうちに、ミッドフィールドにいた方がボールが回ってく ることに気付いたのさ。ディフェンスやフォワードになるには身体が小さかったから、ミドルのどこかにいようと思ったわけ。もちろんリアムは、簡単なボール ばかり回してもらってゴールするだけの汚ねえセンターフォワードさ」。
時が流れ、ノエルのキャリアや名声は、バーニッジにあるクリングル・フィールズの知名度を追い越さんとし、シティの選手達はメインロードで彼の夢を叶えていった。
「コリン・ベルやデニス・テュアート、マイク・サマービー、ゲイリー・オーウェン、スティーヴ・マッケンジー、ポール・パワー、ジョー・コリガンみたいな 選手のプレイを目にすることができて本当に幸運だったよ、あのスカイブルーのラウンドネック・ユニフォームでプレイする彼らをね」。
「俺にとってのヒーローはベル、そしてテュアート、それからピーター・バーンズ。それ以降は少し低迷するんだよな。バリー・シルクマンが登場したが、やつ のプレイは手段を選ばなかったから俺の好みじゃなかった。ポール・スチュワートが、たぶんシティで20得点を挙げた最初のストライカーだが、すぐに他の チームに叩き売りされちまった。デイヴィッド・ホワイトに夢中になったことはないな。俺にとってはどうでも良かったね」。
「ゲオルギー・キンクラーゼを皮切りにアリ・バーナビアやショーン・ライト・フィリップスとかが出てくるまではそれほどはまってはなかったんだ。ヒーローと呼べるほどの選手があまりいなかったんでね」。
仕事や家族のために、以前ほどホームでの試合を見ることができなくなってきたノエルは、最近ではバーミンガムの南で行われるアウェーでの試合を見ることの方が多くなってきたが、全ての試合を見に行った時期もあったそうだ。
「12歳から21歳頃まで、欠かさず行ってたよ」と、彼は回想する。
「1983年、下のクラスに落ちてから初めてのシーズンは、ホームでもアウェーでも必ず見に行った。当時は、フットボールファンが国中を回るのにおあつら えに交通の便が良くてさ。というのも俺達の半数は失業手当暮らしなもんだから、メインロードには普通の半分の値段では入れたし、Inter Cityで、列車の旅も簡単に出来た。だから80年代初頭はクラブを追いかけるのもそう高くはつかなかったんだよ。それに今は何と呼んでるかわからない が、昔でいうセカンド・ディヴィジョンにいるチームはほとんど北部のチームだった。毎週特にすることもないから、列車に飛び乗ってハッダーズフィールドや ブラッドフォード、バーンズリーに行くこともちょろいもんだったのさ」。
「メイン・ライン・クルーやヤング・ガヴァナー、アンダー・ファイヴズの連中で知ってるやつもいたよ。そこらへんには詳しかったし、今も会うことがある。マジでやばい時期だったんだよな、でもあの頃のフットボールは今と比べれば、ほんと手付かずだったと思うよ」。
「最近のスタジアムはどこもライトでまぶしく輝いているが、20年前俺達が通っていた頃は危険な場所で、特にリーズでのナイトゲームなんかは、無傷で家までたどり着けるかもわかんなかったんだ。だいぶ変わってきてる」。
将来を見越して、キパックスでチームを応援するための歌を作らなかったのだろうか?
「それはなかったな」と、ノエルは笑った。
「酔った勢いで、一度キパックスで即興で歌ったことはあったよ。『どこに行こうと・・・』とかそんな感じのをさ、そしたらみんなも一緒に大合唱だ。それで 『こりゃ良い!』と思ったわけ。もしかしたら、俺のソングライターとしてのキャリアはキパックスの裏から始まったのかもしれない。あの場所で、合唱の醍醐 味を知ったんだ」。
70年代のキパックスの盛り上がりは、ノエルに影響を与えたのかもしれないが、栄光への道は、彼が見よう見真似でギターを練習しはじめた時から始まった。 ノースウェストでカルト的人気を持つバンドのローディとして経験を積んだ後、ノエルはリアムのバンドThe Rainに加わることになる。
「1991年にOASISを始めて、それまではInspiral Carpetsのローディをしてたんだ」。
「グラハム・ランバートは、オールドハム・アスレチックのファンだった、当時たいていのバンドがそうだったようにね。クリント・ブーンはそこまで熱を上げ てなかったと思う。でもオールドハムのファンはやっぱり結局シティのファンなんだぜ - 俺がこれまで会ったオールドハム・ファンはこう言うやつばかりだったんだから。『俺は本当はマン・シティのファンなんだ、ただ家がホームから遠くて さ』」。
「マン・シティのファンになった時は、確かチームがファーストディヴィジョンにいた時だったと思う、でもお察しの通り、常に上がり下がりの波が激しかった。
でもオールドハムと試合をすると、何でかホームの試合でも負けるんだ - 絶対にね」。
レノンとマッカートニーを敬愛するならば、彼らと同じリバプールのファンになろうとは思わなかったのだろうか?
「実は」と、ノエル。
「俺の父親がリバプールで働いていた時があって、仕事柄アンフィールドに時々行くこともあったんだ。リバプール・ファンの友達もたくさんいるし、リバプール人は大好きだよ、でもリバプール・FCは癪にに障ると言わざるを得ないね、特にこの10年は」。
「金をばらまきつつ生み出した名プレイヤーは、ジェイミー・キャラガーとスティーブン・ジェラードだけ。今ようやく3人目のフェルナンド・トーレスが出てきて、リーグを制覇する勢いときた」。
「この嫌悪感の原因はたぶん、70、80年代まで遡るんだよな。リバプールがメインロードにやってきて、俺達を1-0、2-0、時には4-0と、毎回のように打ちのめしやがってさ」。
「おかしなことに、2,3年前休暇でイビサに行ったら、ケニー・ダルグリッシュの息子、ポールと偶然会ったんだ、俺が『お前の父さんはすごいな』と声をかけると、『今から電話をかけるからちょっと待って』と言うのさ。そして電話で長話することになった」。
「俺が『試合前の選手紹介でケニーという名前が読み上げられないかびくびくだったぜ』と話すと、ケニーは『メインロードはとても広くて、国内でも最高級の スタジアムだったから、プレイするのは大好きだった』と言ってくれた。『雰囲気は最高で、ファンの盛り上がりも素晴らしかった。フットボールにはこれ以上 ない場所がもうないと思うと残念だ』とね」。
「だから、俺は『それはいいんだけど、シティ・ファンはあのスタジアムに良い思い出が一つとしてないんだぜ。あのピッチで上手くプレイする方法をとうとうマスターできなかったと思うとな!』と言ってやったよ」。
皮肉なことに、1996年OASISがメインロードで伝説となるコンサートを行った後、マン・シティを降格へと追いやったのは他でもないリバプールだった。
当時、マン・シティとOASISはお互いに賞賛し合うことで互いの宣伝効果を高め、双方ともその図式に酔っていた。写真撮影、コンサート、ファッション。 音楽とフットボールの融合。相手は世界を手中に収めようとしていたOASISとくれば、シティはこの機会を逃すわけには行かなかったのである。
「最高だったぞ。ギャラガー兄弟がシティのスポンサーとなり、シティと俺達が一緒に紙面に登場するようになった。カメラマンは、ギャラガーと名前の入ったシティのユニフォームを着けろと絶えず言ってきた。シティとの最初のつながりはあの時に始まったんだと思う」。
「ユニフォームを着けてケヴィン・カミンズと一緒に、写真を撮ったこともある。あの有名な写真だよ。初めての日本ツアーをやる頃には、俺達はあれを着けて るのが当たり前だと思われてた。OASISシャツかなんかと思ってたんだろうなきっと。その後フラニー・リーに、日本でシティのシャツがどれくらい売れた のか聞いたら、
注文が殺到したからメールでのオーダーを受け付けてる状態だと言われたよ」。
「コンサートにはたくさんのファンがやってきて、『Brother』のロゴだけを入れた大きな垂れ幕を作ってきてるやつもいたぜ。俺が思うに、バンドと何 か関連があると思ったんだろう。でも実際俺はクラブのバッヂに入ってる船や赤い薔薇がどういう意味かもわからねえんだ。ファンもきっと首をかしげてただろ うさ」。
では、シティを公に応援するという方針は、将来的なレコード売り上げの伸びを見込んだ上での作戦だったということ?
「初めのうちは『これでマンチェスターの半分を占めるマンUファンを一挙に敵に回すことになるぞ』と思ったが、考え直したんだ。『だから何だって言うん だ?マンUは無敵でトロフィーだってたくさん獲ってるけど、俺達は一文無し、シティ・ファンは一文無しなんだ』。ってことで、堂々と旗を掲げたのさ」。
ノエルとリアムの力により、神聖なるメインロードへと転向する者が増え、アダム・パークやブーザム・クレッシェントで男達がたむろする光景が普通に見られ るようになった。そのシティと言えば、イングランド・フットボールの最下のディヴィジョンを低迷し続けていたが、ノエルが指摘するように、シティが失墜す ればするほど、観衆の数は増えていったのだ!
「いつも思うんだが、あの時がマン・シティ復活の時だったんだと思うよ、どういう風の吹き回しか、シティを応援するファン層が総入れ替えされたんだ。こう思ったこともあった。『サード・ディヴィジョンだぞ、物心ついた子供がそんなチームを応援したがるか?』ってね」。
「学校で言うには恥ずかしいかもしれないが、理由はともかく、シティがサード・ディヴィジョンであがけばあがくほど、応援する人の数は増えていったんだ。 OASISがそれに加担したかどうかは、知らないけどね。その頃はアウェーの試合をよく見に行ったよ。バッキンガムに住んでて、シティはウィコム, コルチェスター、レディングみたいなところで試合をしてたんで、行きやすかったのさ。『ああ、そういやボーンマスは初めてだな、シティが明日試合だってい うし、ボーンマスにまた行ける機会もそうそうないだろうから行ってみるか』ってな感じでね」。
ノエルにとってのヒーローの一人であるゲオルギー・キンクラーゼがチームにやってきたのは、シティの存亡がかかったちょうどその頃だ。
「シティにはいつだってキンクラーゼみたいな選手がいるんだ、輝ける天才ってやつさ。これがシティの戦略さ、1人の天才、そのプレイを見守る残りの6人。 ユナイテッドだとデイヴィッド・ベッカムがいるが、同時にロイ・キーンがいるだろう。今俺達に必要なのはそういう選手なんだ。ブラジル人たちに好きにさせ ない選手がね」。
「彼がやってきた時のことを覚えてるよ。クラブの関係者から電話をもらって、ジョージアンと契約したって聞いたんだ。誰だってと聞き返したが、やつと来た らゲオルギーの名前を正しく発音することすらできなかった。だから、そいつが選手として良いのか尋ねると、ジョージア対ウェールズの試合のビデオを見て獲 得することを決めたと言う。ゲオルギーの活躍で相手チームが完敗した試合だよ」。
「やつが対トテナム戦でデビューするのを見るために、ロンドンから飛んだんだ。テリー・ヴェナブルズの隣に座ったよ、解説とか何とかやってるあいつ、わかるだろ」。
キンクラーゼのデビュー戦を見たノエルが、シティはヨーロピアン・カップで優勝するか、ディヴィジョン・フォーに転落するか二つに一つだと言ったのは、有名な話だ。残念なことに、彼はおおよそ正しかった。最悪のシナリオへと近づいてしまったのである!
「キンキーを初めて見た時は、『こりゃこれまで最悪か最高かどっちかだな』と思ったよ」と言って、ノエルは笑った。
「どっちかわからなかったんだ!シティはいつでも極端だろ」。
「それで2,3年後、アリ・ベナルビアを獲得した時は『こいつは一体何者だ?』さ。俺の脳もだいぶ擦りきれてきてるが、もし今の時代で天才を一人選べといわれたら、アリにするよ」。
「ショーン・ライト=フィリップスを世界に通用する選手に仕立てあげたのは彼だ。キーガン下でのアリとショーンは最高だよ、5人制フットボールでしか見れ ないようなプレイをする。ベルコビッチ、アリ、そしてショーン・ゴーターがいた頃のシティは、俺がこれまで見てきた中でも最高のプレイをしていた。確かに 下のディヴィジョンかもしれないが、時々俺達が見せるプレイは信じられないくらいに輝いてるんだよ」。