マンチェスター

Noel Gallagher - Manchester City Magazine - January 2009

ノエル・ギャラガーが、マンチェスター・シティ、ゲオルギー・キンクラーゼ、そしてリバプール・フットボールクラブを嫌う理由について語る。

世界的に有名なミュージシャンの一人であり、かつ幼い頃より根っからのマン・シティファンであるノエル・ギャラガー。City Magazineはついに、ノエル・ギャラガーを捕まえ、いくつかの疑惑を晴らし、新たな事実を聞き出すことに成功した。

8年間。

8年間かけてEメールを送り、電話をかけ、第3者を通してメッセージを送り続け、やっとのことで、我々はノエル・ギャラガーにインタビューを行うことに成 功した。2001年、City Magazineの編集者という立場に戻ってきてからというもの、私がやりたかったことの一つが、読者に代わってノエル・ギャラガーと話し、マンチェス ター・シティ/OASISの独占インタビューを実現することだったのだ。

1990年初めからのOASISのファンである私が、この機会を逃すわけがない。「Live Forever」や「Don't Look Back In Anger」、「Masterplan」、「Cigarettes And Alcohol」を書いた本人と話をすること、とにかくそれが私の夢だった。

私はノエルと同じ年で、幼少時代を過ごしたのもすぐ近く、そして同じくマン・シティを追いかけてきた。悲しいかな、彼との共通点はここまでである。しかし これだけでも、打ち解けるには十分であり、夢のような電話インタビューのあと、私は受話器を元に戻し、テープを聞き、しっかり録音されていることを確認し て、ようやくほっと胸をなでおろしたのだった。ノエルも私やみなさんとそう変わらない人間であることを知って安心したというのが第一の感想だ。もっと早く に話せたらよかったのにと。

昔気質で、気取らず、率直なノエル・ギャラガー、その評判を実感したインタビューだ。35年前にマン・シティに夢中になってからというもの、彼は今でも変わらず熱いシティファンである。

ノエル・ギャラガーの愛すべき魅力を、レノンやマッカートニー以来の英国屈指のソングライターかつシンガーであるミュージシャンとしての才能を除いて挙げ るとするなら、そのトークセンスだろう。確かに、彼の物言いはぶっきらぼうだ。しかし70年代にバーニッジの公共団地で育って厳しい中等学校時代を過ご し、失業手当をもらう身から、一気に過去20年において最高のバンドの頭脳に成り上がるために戦わざるを得なかったのならば、誰しもお高くとまってなどい られないではないか。5千万枚のアルバムを売り上げた彼は、いまや誰と話すか、もしくは話さないか自由に選べる立場にいる。そこで私はインタビューの最初 に、貴重な時間を割いてもらったことに感謝し、ずっとインタビューをするためにアタックし続けてきたことを話したのだ。

「そうなんだ?初めて聞いたよ」と、ノエル。

これはつまり、私の長年に渡るお願いは、ノエルへとたどり着くまでの最初のハードルすら飛び越えられなかったということを意味する。しかし、City Magazineをはねつけてきたのがノエル自身ではないことを知って少し嬉しかったのも事実だ。私達から声をかけられて、彼がYesと言わないはずがな い。

それなら話も進めやすい。その時、リッキー・ハットンにベルトを渡すためにリアムと共にラスベガスに飛ぶ予定だったノエル。来夏にはHeaton Parkを初めとするビッグなスタジアム・ツアーを控えている。

ニューアルバム「Dig Out Your Soul」は、売り上げを伸ばし続け、OASISはこれからも健在であることが証明された。ノエルとリアムが、これからもマン・シティを応援していくように。ノエルに、マン・シティを応援し始めた時のことを聞いてみた。

「俺の記憶では、1971年のメインロードでマン・シティがニューキャッスルを5-1で降した時だったんだけど、最近確かめたら、その試合は1975年1月に行われたらしいな」。

「その時俺は7歳。マルコム・マクドナルドがニューキャッスルにシュートを放って、ボールがクロスバーに当たってゴールに入ったんだ。覚えてるゴールはそ れだけだが、鮮やかに思い出せるよ。で、インタビューで聞かれるたびに、この試合が最初と答えてきたから、本当に1971年だったのかちゃんと確かめたほ うがいいなと思って調べたら、マン・シティがニューキャッスルをそのスコアで降したのは、1975年だけだった。それより前に試合を見に行ってた可能性も あるけど、俺が思い出せる最初の試合は1975年のやつなんだ」。

30年のシティに失望させられたことにより、ノエルの父トミーがメインロードから他の親戚の待つオールド・トラッフォードへと寝返ってもおかしくはなかったのだが、反抗することがとりえのギャラガー家の男たちは、流行にも背を向けた。

「アイルランド人らしいだろ、俺の父方の親戚は、俺の父親とその3人の息子、俺、ポール、リアムを除いて、全員マンUを応援してたんだ。200人対4人だぜ」。

「どうして親父がマン・シティを選んだのかはわからない。ロマンチックに考えるなら、あのチームが俺達の住む地域を担ったチームだからだろう。俺達はロン グサイトで生まれ育ったが、それ以外の連中はマンチェスター出身じゃない。ロングサイトからメインロードまでは歩いて30分くらいで行けたことも理由とし て大きいかな。7歳では、自分がどのチームを応援していいのかもわからないし、どのクラブを応援しようが別にこだわらないんだ、ただ試合会場にいるという だけで興奮してたからね。手すりが眼下のピッチ近くまで続くキパックスは7歳の子供にとっちゃ特別な場所だった。父親が子供達を連れて行く場所といったら そこで、俺もそこに座らされたよ。周りには同じ年頃の子供がたくさんいて、親父はハーフタイムとゲーム終了後に俺達の様子を見に顔を出すんだ。そんな感じ さ。今じゃもう経験できないけどな」。

「毎週は連れて行ってもらえなかったけど、マン・シティ・エリアとも呼ぶにふさわしいバーニッジに引っ越したんだ。ロングサイトのセント・ロバートから
バーニッジのセント・バーナードに移ってからだね、俺の中で何かが変わり始めたのは」。

「晴れた夜には、新しい家の自分の部屋から、メインロードのまばゆいライトが見えた。シティが週半ばに試合をする時があって、そんな時はピカディリー・ラ ジオで試合を聞きながら、そのライトを眺めて『今まさにあそこで試合をしてるんだ』と思ったもんだよ。あの場所で起こってることなんだってね。試合解説で 『ゴール!』とか『ああ!』という叫びが入ることがある。『ああ!』がシティの敗北を意味した時には、震え上がったりしてさ」。

ノエルとリアム、そしてポールが、アッシュバーン・アベニューにある自宅から3マイル先のメインロードまで歩いて通うようになるまで、大して時間はかから なかった。母親のペギーがトミーと別れた後は、友人と共に試合を見に行くことだけが、シティファンとしての毎週の日課となる。

「初めて自分達だけで試合を見に行ったのは、中等学校に入ったころだったと思う」と、続けるノエル。

「何人か連れ立ってね。ずっと会ってないから名前までは思い出せないけど、6,7人でメインロードまで1時間かけて歩いていった。10代になりたての頃だったよ」。

ギャラガー兄弟が将来フットボール選手を夢見たことはあったのだろうか?ノエルはその頃から自分が将来その場所に違う形で戻ってくることを予感していたのだろうか?

「フットボールが得意だったかって?」。そう言うとノエルは、考え込んだ。

「クロード・マケレレがチェルシーでミッドフィルダーの座を自分のものとするまで、『ミッドフィルダーと言えばバーニッジのギャラガー兄弟』だったんだ。 でもやつにその名を奪われちまったな。ミッドフィルダーって言葉が生まれる以前から俺はミッドフィルダーだったんだぜ。俺がミッドフィルダーの地位を打ち 立てたと言ってもいい」。

「センターフォワードになろうなんてつまらねえことを思ったことは一度もないね。ゴールを決めていくうちに、ミッドフィールドにいた方がボールが回ってく ることに気付いたのさ。ディフェンスやフォワードになるには身体が小さかったから、ミドルのどこかにいようと思ったわけ。もちろんリアムは、簡単なボール ばかり回してもらってゴールするだけの汚ねえセンターフォワードさ」。

時が流れ、ノエルのキャリアや名声は、バーニッジにあるクリングル・フィールズの知名度を追い越さんとし、シティの選手達はメインロードで彼の夢を叶えていった。

「コリン・ベルやデニス・テュアート、マイク・サマービー、ゲイリー・オーウェン、スティーヴ・マッケンジー、ポール・パワー、ジョー・コリガンみたいな 選手のプレイを目にすることができて本当に幸運だったよ、あのスカイブルーのラウンドネック・ユニフォームでプレイする彼らをね」。

「俺にとってのヒーローはベル、そしてテュアート、それからピーター・バーンズ。それ以降は少し低迷するんだよな。バリー・シルクマンが登場したが、やつ のプレイは手段を選ばなかったから俺の好みじゃなかった。ポール・スチュワートが、たぶんシティで20得点を挙げた最初のストライカーだが、すぐに他の チームに叩き売りされちまった。デイヴィッド・ホワイトに夢中になったことはないな。俺にとってはどうでも良かったね」。

「ゲオルギー・キンクラーゼを皮切りにアリ・バーナビアやショーン・ライト・フィリップスとかが出てくるまではそれほどはまってはなかったんだ。ヒーローと呼べるほどの選手があまりいなかったんでね」。

仕事や家族のために、以前ほどホームでの試合を見ることができなくなってきたノエルは、最近ではバーミンガムの南で行われるアウェーでの試合を見ることの方が多くなってきたが、全ての試合を見に行った時期もあったそうだ。

「12歳から21歳頃まで、欠かさず行ってたよ」と、彼は回想する。

「1983年、下のクラスに落ちてから初めてのシーズンは、ホームでもアウェーでも必ず見に行った。当時は、フットボールファンが国中を回るのにおあつら えに交通の便が良くてさ。というのも俺達の半数は失業手当暮らしなもんだから、メインロードには普通の半分の値段では入れたし、Inter Cityで、列車の旅も簡単に出来た。だから80年代初頭はクラブを追いかけるのもそう高くはつかなかったんだよ。それに今は何と呼んでるかわからない が、昔でいうセカンド・ディヴィジョンにいるチームはほとんど北部のチームだった。毎週特にすることもないから、列車に飛び乗ってハッダーズフィールドや ブラッドフォード、バーンズリーに行くこともちょろいもんだったのさ」。

「メイン・ライン・クルーやヤング・ガヴァナー、アンダー・ファイヴズの連中で知ってるやつもいたよ。そこらへんには詳しかったし、今も会うことがある。マジでやばい時期だったんだよな、でもあの頃のフットボールは今と比べれば、ほんと手付かずだったと思うよ」。

「最近のスタジアムはどこもライトでまぶしく輝いているが、20年前俺達が通っていた頃は危険な場所で、特にリーズでのナイトゲームなんかは、無傷で家までたどり着けるかもわかんなかったんだ。だいぶ変わってきてる」。

将来を見越して、キパックスでチームを応援するための歌を作らなかったのだろうか?

「それはなかったな」と、ノエルは笑った。

「酔った勢いで、一度キパックスで即興で歌ったことはあったよ。『どこに行こうと・・・』とかそんな感じのをさ、そしたらみんなも一緒に大合唱だ。それで 『こりゃ良い!』と思ったわけ。もしかしたら、俺のソングライターとしてのキャリアはキパックスの裏から始まったのかもしれない。あの場所で、合唱の醍醐 味を知ったんだ」。

70年代のキパックスの盛り上がりは、ノエルに影響を与えたのかもしれないが、栄光への道は、彼が見よう見真似でギターを練習しはじめた時から始まった。 ノースウェストでカルト的人気を持つバンドのローディとして経験を積んだ後、ノエルはリアムのバンドThe Rainに加わることになる。

「1991年にOASISを始めて、それまではInspiral Carpetsのローディをしてたんだ」。

「グラハム・ランバートは、オールドハム・アスレチックのファンだった、当時たいていのバンドがそうだったようにね。クリント・ブーンはそこまで熱を上げ てなかったと思う。でもオールドハムのファンはやっぱり結局シティのファンなんだぜ - 俺がこれまで会ったオールドハム・ファンはこう言うやつばかりだったんだから。『俺は本当はマン・シティのファンなんだ、ただ家がホームから遠くて さ』」。

「マン・シティのファンになった時は、確かチームがファーストディヴィジョンにいた時だったと思う、でもお察しの通り、常に上がり下がりの波が激しかった。
でもオールドハムと試合をすると、何でかホームの試合でも負けるんだ - 絶対にね」。

レノンとマッカートニーを敬愛するならば、彼らと同じリバプールのファンになろうとは思わなかったのだろうか?

「実は」と、ノエル。

「俺の父親がリバプールで働いていた時があって、仕事柄アンフィールドに時々行くこともあったんだ。リバプール・ファンの友達もたくさんいるし、リバプール人は大好きだよ、でもリバプール・FCは癪にに障ると言わざるを得ないね、特にこの10年は」。

「金をばらまきつつ生み出した名プレイヤーは、ジェイミー・キャラガーとスティーブン・ジェラードだけ。今ようやく3人目のフェルナンド・トーレスが出てきて、リーグを制覇する勢いときた」。

「この嫌悪感の原因はたぶん、70、80年代まで遡るんだよな。リバプールがメインロードにやってきて、俺達を1-0、2-0、時には4-0と、毎回のように打ちのめしやがってさ」。

「おかしなことに、2,3年前休暇でイビサに行ったら、ケニー・ダルグリッシュの息子、ポールと偶然会ったんだ、俺が『お前の父さんはすごいな』と声をかけると、『今から電話をかけるからちょっと待って』と言うのさ。そして電話で長話することになった」。

「俺が『試合前の選手紹介でケニーという名前が読み上げられないかびくびくだったぜ』と話すと、ケニーは『メインロードはとても広くて、国内でも最高級の スタジアムだったから、プレイするのは大好きだった』と言ってくれた。『雰囲気は最高で、ファンの盛り上がりも素晴らしかった。フットボールにはこれ以上 ない場所がもうないと思うと残念だ』とね」。

「だから、俺は『それはいいんだけど、シティ・ファンはあのスタジアムに良い思い出が一つとしてないんだぜ。あのピッチで上手くプレイする方法をとうとうマスターできなかったと思うとな!』と言ってやったよ」。

皮肉なことに、1996年OASISがメインロードで伝説となるコンサートを行った後、マン・シティを降格へと追いやったのは他でもないリバプールだった。

当時、マン・シティとOASISはお互いに賞賛し合うことで互いの宣伝効果を高め、双方ともその図式に酔っていた。写真撮影、コンサート、ファッション。 音楽とフットボールの融合。相手は世界を手中に収めようとしていたOASISとくれば、シティはこの機会を逃すわけには行かなかったのである。

「最高だったぞ。ギャラガー兄弟がシティのスポンサーとなり、シティと俺達が一緒に紙面に登場するようになった。カメラマンは、ギャラガーと名前の入ったシティのユニフォームを着けろと絶えず言ってきた。シティとの最初のつながりはあの時に始まったんだと思う」。

「ユニフォームを着けてケヴィン・カミンズと一緒に、写真を撮ったこともある。あの有名な写真だよ。初めての日本ツアーをやる頃には、俺達はあれを着けて るのが当たり前だと思われてた。OASISシャツかなんかと思ってたんだろうなきっと。その後フラニー・リーに、日本でシティのシャツがどれくらい売れた のか聞いたら、
注文が殺到したからメールでのオーダーを受け付けてる状態だと言われたよ」。

「コンサートにはたくさんのファンがやってきて、『Brother』のロゴだけを入れた大きな垂れ幕を作ってきてるやつもいたぜ。俺が思うに、バンドと何 か関連があると思ったんだろう。でも実際俺はクラブのバッヂに入ってる船や赤い薔薇がどういう意味かもわからねえんだ。ファンもきっと首をかしげてただろ うさ」。

では、シティを公に応援するという方針は、将来的なレコード売り上げの伸びを見込んだ上での作戦だったということ?

「初めのうちは『これでマンチェスターの半分を占めるマンUファンを一挙に敵に回すことになるぞ』と思ったが、考え直したんだ。『だから何だって言うん だ?マンUは無敵でトロフィーだってたくさん獲ってるけど、俺達は一文無し、シティ・ファンは一文無しなんだ』。ってことで、堂々と旗を掲げたのさ」。

ノエルとリアムの力により、神聖なるメインロードへと転向する者が増え、アダム・パークやブーザム・クレッシェントで男達がたむろする光景が普通に見られ るようになった。そのシティと言えば、イングランド・フットボールの最下のディヴィジョンを低迷し続けていたが、ノエルが指摘するように、シティが失墜す ればするほど、観衆の数は増えていったのだ!

「いつも思うんだが、あの時がマン・シティ復活の時だったんだと思うよ、どういう風の吹き回しか、シティを応援するファン層が総入れ替えされたんだ。こう思ったこともあった。『サード・ディヴィジョンだぞ、物心ついた子供がそんなチームを応援したがるか?』ってね」。

「学校で言うには恥ずかしいかもしれないが、理由はともかく、シティがサード・ディヴィジョンであがけばあがくほど、応援する人の数は増えていったんだ。 OASISがそれに加担したかどうかは、知らないけどね。その頃はアウェーの試合をよく見に行ったよ。バッキンガムに住んでて、シティはウィコム, コルチェスター、レディングみたいなところで試合をしてたんで、行きやすかったのさ。『ああ、そういやボーンマスは初めてだな、シティが明日試合だってい うし、ボーンマスにまた行ける機会もそうそうないだろうから行ってみるか』ってな感じでね」。

ノエルにとってのヒーローの一人であるゲオルギー・キンクラーゼがチームにやってきたのは、シティの存亡がかかったちょうどその頃だ。

「シティにはいつだってキンクラーゼみたいな選手がいるんだ、輝ける天才ってやつさ。これがシティの戦略さ、1人の天才、そのプレイを見守る残りの6人。 ユナイテッドだとデイヴィッド・ベッカムがいるが、同時にロイ・キーンがいるだろう。今俺達に必要なのはそういう選手なんだ。ブラジル人たちに好きにさせ ない選手がね」。

「彼がやってきた時のことを覚えてるよ。クラブの関係者から電話をもらって、ジョージアンと契約したって聞いたんだ。誰だってと聞き返したが、やつと来た らゲオルギーの名前を正しく発音することすらできなかった。だから、そいつが選手として良いのか尋ねると、ジョージア対ウェールズの試合のビデオを見て獲 得することを決めたと言う。ゲオルギーの活躍で相手チームが完敗した試合だよ」。

「やつが対トテナム戦でデビューするのを見るために、ロンドンから飛んだんだ。テリー・ヴェナブルズの隣に座ったよ、解説とか何とかやってるあいつ、わかるだろ」。

キンクラーゼのデビュー戦を見たノエルが、シティはヨーロピアン・カップで優勝するか、ディヴィジョン・フォーに転落するか二つに一つだと言ったのは、有名な話だ。残念なことに、彼はおおよそ正しかった。最悪のシナリオへと近づいてしまったのである!

「キンキーを初めて見た時は、『こりゃこれまで最悪か最高かどっちかだな』と思ったよ」と言って、ノエルは笑った。

「どっちかわからなかったんだ!シティはいつでも極端だろ」。

「それで2,3年後、アリ・ベナルビアを獲得した時は『こいつは一体何者だ?』さ。俺の脳もだいぶ擦りきれてきてるが、もし今の時代で天才を一人選べといわれたら、アリにするよ」。

「ショーン・ライト=フィリップスを世界に通用する選手に仕立てあげたのは彼だ。キーガン下でのアリとショーンは最高だよ、5人制フットボールでしか見れ ないようなプレイをする。ベルコビッチ、アリ、そしてショーン・ゴーターがいた頃のシティは、俺がこれまで見てきた中でも最高のプレイをしていた。確かに 下のディヴィジョンかもしれないが、時々俺達が見せるプレイは信じられないくらいに輝いてるんだよ」。

Liam Gallagher - BBC - 2005/07/01

オリジナルの記事はこちら。↓
http://www.bbc.co.uk/manchester/content/articles/2005/07/01/010705_liam_interview_feature.shtml

リアム・ギャラガーであることの重要性

インタビューを聞く。
※Realplayerが必要です。

マンチェスター・スタジアムでの3日間のギグを行うOASIS。そこでOASISのリードシンガー、リアム・ギャラガーに、「The Importance Of Being Idle」のビデオについて、そしてイギリスでもっともビッグなバンドにいること、良きパパでいること、「故郷」について、つまりは「リアムであることの重要性」(The Importance Of Being Liam)についてインタビューを行った。

ビデオのことについて聞いてもいい?私はまだ見てないんだけど、きっと素晴らしい出来なんでしょうね。

リアム:何を話せって言うんだよ。俺もまだ見てねえんだ。でも良い出来だとは聞いてるぜ。曲を生かすビデオにしたかった。この曲どこかひねくれてるだろ、だからいつものようにキメて歌うより、何か新しいことをしてみようってことになったんだ。ああやってバカみたいな服を着けて歌う曲ってことさ。次の曲ではちゃんと元に戻るつもりだけどな。

リス・エヴァンスが出演してるけど、どのようにして連絡を取ったの?

リアム:俺が頼んだんだ。ノエルは他のアホどもに頼もうとしてたけど、俺が「いや、リスがいい」って勧めたんだ。実際会ったら、やつもやる気になったみたいで。このビデオの主役はリスさ、大きな借りをつくったな。

この曲をシングルとしてリリースすることにしたのはなぜ?

リアム:ノエルが決めたからだよ。あいつ、金がねえんじゃねえの。いつか俺の曲もリリースしてやるぜ!(リリースした理由は)わからねえな、シングルにしてもいいくらい良い曲だと思ったんだろ。

マンチェスターでのギグは楽しみ?

リアム:楽しみだよ、これから起こること全てが楽しみだぜ。今は何もかも最高だ、逆にこれから悪いことが起こらないように願うばかりだな!

G8のことはどう思う?

リアム:それについちゃ何も知らねえんだ。その時俺達はアメリカにいたからな。いろんなバンドが参加したんだろ、俺達も行きたかったよ、もしスケジュールにアメリカ行きが入ってなかったら、絶対参加してた。

あなたにとって、今でもマンチェスターは故郷と言えますか?

リアム:マンチェスターはいつでも俺の故郷だ。家はロンドンで、俺の子供もロンドン育ち、仕事をするのもロンドンだけど、故郷はマンチェスターさ。友達がいるのもあっちだしな。でも俺が住んでた時とはだいぶ変わったよな、きれいになって都会化してる。

今夜お母様はいらっしゃるの?

リアム:ああ、来るよ。今会場の前でチケットやTシャツを売ってるぜ、あと、ドラッグなんかも押し売りしたりして。ハシシやコカインなんかを大量にな(笑)。

ドラッグを売るのが上手なのかしら?

リアム:たぶんね。何でも出来るから(笑)。

ツアーは大変ですね。ジーン君が恋しい?それとも彼もあなたと一緒に回ってるの?

リアム:アメリカには来てたよ。日本は遠すぎるから来てなかったと思う。でもほとんどのツアー中俺達と一緒にいるんだ、レノンもね。出来るだけ一緒にいるようにしてる。でも学校があるとなかなか都合がつかねえからな。信じられないだろうが、二人とも学校をサボったことが無いんだぜ!

あなたは父親として厳しいの?

リアム:いや、言うときは言うけど理不尽なことはしない。好き勝手もさせてないし、甘やかしたり生意気にもさせてない。二人とも小さなロックスターで少々リッチなだけだろ、自分のことくらいちゃんとわかってるさ。

大きくなったら何になってほしい?

リアム:それはあいつら次第だよ。でもバンドを組んでほしいな、だってこの世で一番良い仕事だろ。音楽を作ることと比較できるものなんてねえよ。

ニューアルバムの高評価には満足してる?

リアム:みんなに気に入ってもらえれば嬉しいし、バンドのことをほめてもらったらさらに嬉しいね。もうOASISをけなすのは時代遅れ、聞いててつまらねえだろ。俺達はどうせくそったれの集まりだし、イングランドが生んだ最高のバンドだし、大勢のファンもいる。そして将来についての悩みなんてのも何も無い。だから俺達は最高なんだ。だからみんなもっと思うがままに俺達を称えろよ。けなすんじゃなくてさ、そういうやつらって見てて馬鹿みたいだぜ。12年前と同じように活動してるバンドなんて他にいないだろう。OASISは他のバンドとは違うんだ、特別さ。

ツアーは上手くいってる?

リアム:このツアーはすごいぜ。たった一つの問題はノエルが下痢してることだな。それはさておき、俺達は危機を脱したと思うんだ。前のツアーでは、歯を折ったり事故ったりしてただろ。あの頃と比べたら全て順調さ、それが気にいらねえってやつもいるだろうが、言いたきゃ言っとけって感じさ。

Noel Gallagher & Ken Roach - Les Inrocks - October 1995

ケン・ローチ*訳注1とノエル・ギャラガーは、全くタイプの違う人物だ。15分遅れでやってきて「BBCからの電話の対応に追われていた」と弁解し丁寧に謝るケン・ローチに対し、その30分後に現れたノエル・ギャラガーは「煙草を探してくる」と言って再び姿を消した。

数時間後にはイタリアへ移動しなければならないケン・ローチは、名前しか知らないバンドのリーダーと話をしようとしている。

OASISを話題にした記事を手に「いつもと同じたわ言ばかりだ」と言いながら、我らがロックスターが戻ってきた。ケン・ローチは近くのパブに場所を移そ うと提案し、早速移動。監督はフルーツジュースを注文し、ノエルはジントニックを探していた(「北のことを話すのに、ジントニックなしじゃやってらんねえ ぜ」)。

そしてすぐに、ケン・ローチはインタビューモードに入った。軽い自己紹介の後、まずは「北」の話題の手始めとしてフットボールから話し始める。北部出身者としてお互いのことを知るには欠かせないのだ。

写真嫌いで知られるケン・ローチだが、今回のインタビューの終わりには「子供達へのプレゼントに」と言って、ロックスターと並んだ写真を撮ることを忘れず、ちゃっかりした一面をのぞかせた。

ノエル:俺はマンチェスター出身、真ん中さ。

ケン・ローチ:いいね。私はマンチェスターに目がないんだ。

ノエル:売れ始めてからは、あそこがどんなにちっぽけなところか思い知ったよ。だからロンドンに引っ越したんだ。マンチェスターがあまりに退屈だったんで ね。仕事がなくて通りに3軒しかパブがなかったから若い頃は我慢できなくてさ。でも今でも好きではあるよ。週末に帰ることもある、今はそれで十分って感じ だな。でもいつかまたマンチェスターに落ち着きたいね。

ケン・ローチ:私も中部の小さな町に住んでるんだ。ロンドン行きの列車が停車すらしない小さなところさ。昔は炭鉱で盛えていて、自動車工場やハイテク機器の工場もあったが、今では何もない。

ノエル:映画の登場人物の発想はどこから得るんだ?

ケン・ローチ:特別探しはしないよ。普通に周りにいる人達をモデルにする。

ノエル:「Kes」*訳注2はよく見たよ。もちろん俺は1967年生まれで、「Kes」はその頃公開されたから映画館では見てないんだけど、TVで見たのを覚えてる。ラストはとても悲しい映画だけど、でもフットボール場が出てくる場面が大好きだった。どうして舞台をマンチェスターにしなかったんだ?

ケン・ローチ:脚本家が、自分の故郷に近いシェフィールドにしたいと言ってきたんだよ。私は自分では脚本を書かないんだ。共同制作者と一緒に映画を作る。君は?アルバムはチームで作る、それとも君一人で作るのかい?

ノエル:俺一人さ。

ケン・ローチ:応援してるチームは?マンチェスター・シティとマンチェスター・ユナイテッドがあるけども。

ノエル:(機嫌が悪そうに)シティだよ、当たり前だろ。

ケン・ローチ:日曜日に負けたのは残念だったね。

ノエル:マン・シティが優勝したのは俺が生まれてからは1度しかなくて、しかもその時俺はまだ1歳だったんだ。マンチェスター・ユナイテッドは、マンチェスター以外の連中ばかりで構成されてるんだぜ。本当のマンキュニアンならマン・シティを応援するべきだ。

ケン・ローチ:シェフィールドも同じ問題を抱えてるよ。シェフィールド・ウェンズデイと、シェフィールド・ユナイテッドがあるからね。シェフィールド・ユナイテッドは、シェフィールド出身者で固められていて、ウェンズデイはロンドンに身売りした。

ノエル:ジョージ・ベストが入ってから、マンUはアイルランド寄りになったんだ。俺の家系はもともとアイルランドから来てるから、反マンUであることがば れたら俺、ばあちゃんに殺されちまうぜきっと。親戚には同じ年代の子供が4人いたが、俺とリアムは、親戚の中で目立つために、それとその4人と顔合わせる びに喧嘩するために、マン・シティをサポートすることにしたんだ。

ケン・ローチ:さっき、私の映画と君のアルバムの共通点の話が出たけど、どちらもワーキングクラスの文化に焦点を当てていることじゃないかな。

ノエル:ここ50、60年は、いや40年かな、で考えてみたらそうかもしれないな。みんな労働者でマンチェスターもまだ工業都市として栄えていた時はってことさ。でも今は違ってきていると思う。俺の世代の人間は、学校を卒業したら3つの選択肢しかなかった。フットボールをやるか、音楽をやるか、無職でいくかの3つ な。だから北からは良質のロックバンドがたくさん出てくるんだよ。国を回っていて思ったんだけど、どこも俺達よりも洗練された芸術的な文化を持っている。 特に北西部なんて洒落たもんだぜ。そういうのと比べてみたら、マンチェスターは二流の野暮な文化を発展させてきたにすぎないのさ。

ケン・ローチ:ロンドンで育てば、文化の都だから芸術的才能も花開くが、何も無く何も起こらないマンチェスターに残れば、才能も廃れてしまうと。私がロンドンに来た頃、もう16、17年前のことだが、まるで遊園地みたいで自分の目が信じられなかったもんだよ。

ノエル:北部イギリスと、パリやニューヨークの若者の何が違うといったら、ユーモアのセンスだね。マンチェスター出身がどんなに他の連中みたいに外見を着飾ろうと、ユーモア精神がなくなることはない。だからビートルズは世界から愛されたんだよ、ユーモアがあったから。

ケン・ローチ:同じ北部でも、地域ごとに区別する必要があるね。たとえば、マンチェスター出身とリバプール出身は根本からして違うだろう。マンキュニアン は、リバプール人は泥棒だと思ってる節があって、信用しようとしない。一方でリバプール人は、機知の利いたユーモアを飛ばすことで知られてもいる。まあ、 個人レベルで行けばそれほど問題にはならない違いなんだろうけどね。

ノエル:そういうのってワーキングクラスには根強いんだよな。マンチェスターとロンドンに行ったり来たりしててもよくあるよ。故郷の悪口は聞いてて面白いぜ、最初はけっこう本気でも最後にはジョークになってるし。

ケン・ローチ:君の友達は今何をしているんだい?

ノエル:1人2人は、プロのフットボール選手をしてるよ、ポーツマスとかサウサンプトンといった小さなクラブでね。他はマンチェスターに埋もれてる。

ケン・ローチ:君達の世代あたりから変わってきたのは、規律が無くなったことだね。モラルの面でということじゃないよ。私達の頃の北部労働者は、仕事に縛 られていた。両親から、そして祖父母からそうあるべきだと教え込まれていたんだ。みんな労働に従事し搾取されていたが、そういう生活に疑問を持つ者はいな かった。でも、君達は人生の意味を押しつけられていない。以前には働くことに地位や誇りを感じていたものだが、サッチャー政権の発足で、失業者が一気に100万人 増加しただろう。その時、労働の尊厳が失われたのさ。サッチャーがワーキングクラスを壊した。君達の年代は、そういうコミュニティに属するということ自体 想像しにくいんだろうが.......たぶん私より、君達の方がこの変化には気付いているかもしれないな。

ノエル:些細なことかもしれないけど、その当時は、家族はみんな同じ時間に起床していたんだ、仕事があったからな。そしてみんなで食卓を囲んで話をした。 どこの通りも工場だらけになって、それも閉鎖された時、家庭は空っぽになった。マンチェスターの北部では、どこも空き家が目立って。それよりも悲しかった のは、空き家が増えるごとにホームレスもそこらじゅうで溢れていったことさ・・・。

ケン・ローチ:失業者達の中で、空き家を改修する石工たちだけは仕事があった。

ノエル:仕事に対する敬意なんて、マンチェスターじゃもうないのと同じさ。仕事がどんなものだったかからして忘れてるんだもんな。俺は幸運にもこうして好 きな仕事に就くことができた。スタジオに入って、曲をレコーディングして、レコードを作って、素晴らしい人生を送る。そして、みんなにも小さな幸せを届け る。俺のダチのほとんどは、自分の仕事を嫌ってるんだぜ。

ケン・ローチ:国は国民から工場の仕事を奪ったと同時に、それまで持っていた仕事の倫理に反している自らを労働者達は責め始めた。仕事を奪って、失業者で あるというコンプレックスを与えたんだ。サッチャーイズムの始まりで、人々は「働いていない」という自らの規律に反する状況に立たされた。あの頃がおかし かったんだ。仕事を嫌う心理はしごくまともだよ。

ノエル:この60年間は、失業したと聞いてもどうせ一時的なものだろうとどこかで思っていた。でも今は仕事がないのがごく普通の状態だろ。だからみんなも その状況に順応し始めた。つまり午後4時に目覚めるようになったのさ、早く起きたってどうせやることがないんだからな、息をする以外に。

ケン・ローチ:昔は仕事が、グループ、つまりコミュニティ単位で形成されていたからね。でもその枠から出てしまえば、一人ぼっち、私達は孤独な存在なん だ。北部ではもうそのコミュニティもなくなってしまった.....「どうして朝早くから起きる必要がある?どこに行けって言うんだ?」ということになっ た。

ノエル:わざわざ外に出かけて自分と同じような失業者を見つけて「仕事がない」って愚痴を聞こうなんて、誰が思う?家にこもるのがみんなのためなんだよ。 俺はマンチェスターには精通してる。あそこには仕事をしてるやつがいねえんだ。30年前はお互いに固くつながっていたのに、今では口をつぐんだまま何も話 そうとしない。喋ることがないんだよ、一日一日を生きるのに精一杯で。俺だってフットボールとギターがなかったら、今頃どうなってたか......俺には 曲を書く才能があったからこうやって生きていられる。だからみんなを楽しませるためにできるだけのことはやるつもりなんだ。それ以外みんなのために出来る ことなんて、俺にはないからな。冴えない一日のうちの3分30秒。悲しいけど、俺にはそれくらいしか貢献できない。

ケン・ローチ:私にはそれすらもできないさ。映画っていうのは、音楽ほどにストレートな衝撃は与えられないからね。OASISの音楽のように理屈抜きの迫力があるわけじゃない。

ノエル:俺達の音楽を聴けば、何もかも忘れて踊ることができる。確かに映画を見て踊ってるやつは見たことねえな.....(笑う)。

ケン・ローチ:君達の音楽は、社会を攻撃、破壊するものでなければならないんだ。私達の世代から反感を持たれる強さを持たなければね。親世代も気に入るような音楽を聴く方が、おかしいんだよ。

訳注1: ケン・ローチ(Ken Loach, 1936年6月17日 - )はイギリスの映画監督・脚本家である。左翼を自称し、一貫して労働者階級や第三世界からの移民たちの日常生活をリアルに描いている。

訳注2: ケス(Kes)は1969年制作のイギリス映画。ヨークシャーのさびれた炭坑町が舞台である。

Noel & Liam - Les Inrocks - November 1994 pt1

あなた達にとってマンチェスターとは?

リアム:なんとも思ってないよ。ノースロンドンのとある市、そこに俺達は住んでる。他のところと同じようなもんさ、俺達がデビューする8ヶ月前まで、面白いバンドなんて一つもなかったんだ。そして今になって、マンチェスターのアナグマどもめ、最初から「OASISを応援していました。彼らならやってくれると思ってた」なんて顔してすましてやがる。でもマンチェスターが俺達をサポートしてくれたことなんて一度もなかった。1年前、俺達は観客ゼロの部屋でギグをやったんだからな。

今では部屋がはちきれそうなくらいに集まりますよね。あなた達にとってはリベンジのような感じなのでは

ノエル:成功したってことは確かに喜ぶべきことかもしれないが、それ以上でもそれ以下でもないね。2年前まで、OASISは有名になれるようなバンドじゃなかった。最悪だったんだ。

マンチェスターに帰ってきたお祝いに、クラブ・ハシエンダでコンサートを行ったようですが、あの場所はあなた方にとって特別な意味を持つのでしょうか?

リアム:いや。ひでえ場所だよ、ただのナイトクラブだ。ああいう場所を持ち上げようとかそんな気は全くない。これから活躍すべき俺達みたいなバンドが遺跡みたいなクラブでギグやって、マンチェスター・リバイバルだとか騒がれて、ロックンロールの再来とか囃し立てられてよ、アホらしいぜ!ニュー・オーダーとかファクトリーとかハシエンダは、俺の中では何の意味もないね。ファクトリーなんて、まともなレコードといったらハッピー・マンデイズの1stくらいしか出してねえだろ。ジョイ・ディヴィジョンなんて屁みたいなもんだぜ。ビョーキ野郎め。

ハッピー・マンデイズの元シンガー、ショーン・ライダーとは仲が良いんですね。

リアム:(憤慨して)・・・・どこがだよ!友達になりたいって言ってきたのはあいつの方で、俺は断固拒否だ。あんなやつと友達になれるわけねえだろ。今では落ち目だし。

ちょっと残酷ですよね。さっきまでハッピー・マンデイズに乗って踊ってたと思ったら、今度は一斉にあぶり焼きですから。

リアム:あの間抜けどもにはそれくらいの価値しかねえんだよ。1stアルバムの後、何もせずに平凡な方向へ向かってさ、這い上がろうとあがくことすらしないんだぜ、あいつら。それでこうなったってわけ。鬱憤はためずに、音楽にのせて解放しろってことさ。それがルールだろ。

ノエル:音楽がなかったらお前って何の価値もないからな。だから俺が、これ以上は無理ってくらいのエゴでもって曲を書いてやるのさ。自分の曲に感謝したいね。ドラッグに女、全てが手に入って、ついでに俺達の悪評は高まるばかりだからな。風を起こすには、良い曲を書くことが絶対条件なんだよ。そしてこれだけは言える。ハッピー・マンデイズは今の時代に合わない。

マンチェスター・ムーブメントが起こったことで、マンチェスターの環境は変わりましたか?

ノエル:クソみたいな環境さ。ラジオはろくなもん流さないし。実際、マンチェスターってストーン・ローゼズとハッピー・マンデイズしかなかったんだよ。それだけだぜ、最悪だろ!だからストーン・ローゼズが冬眠に入って、ハッピー・マンデイズが馬鹿なこと言い始めてから、マンチェスターはカオスに陥ったのさ。もし本当にムーブメントってものがあったんなら、若者が働く場所をちょっとばかし増やしてほしかったよな。

OASISはマッドチェスターの影響を受けていませんね。

リアム:俺たちは、フラストレーションとトラブルの影響を受けてるのさ。3年前、マンチェスターは最悪で、みんなどうしようもないって諦めムードが漂ってた。大量のドラッグに酒、眠れない夜。そんな時、俺は目覚めたんだ。ストーン・ローゼズが心に響いてきて、電撃が走るみたいに、俺は心を決めたのさ、自分の力で生きたい、この頭がイカレちまいそうな巣窟から抜け出してやるってな。他のやつらは馬鹿みたいに騒いでばかりいたが、俺はずっと考えてた。必死に自分の人生を作り上げようとしてたんだ。バンドを作って成功を収めるってことさ。マンチェスター、俺はそこで何かをしたかった。地域限定のムーブメントをぶちかます?たとえば、ストーン・ローゼズみたいにさ。彼らのリズムって他のバンドにはないもんだろう。

ストーン・ローゼズは、「俺達には才能がある」と言い切っていますが、あなた方はまずその自信を真似したってこと?

ノエル:むしろ、自信だけが自分を認める手段だろう。俺はThe Pinksみたいなバンドはやりたくない、それだけだよ。2年前、ラジオを聞いたり新聞を読んだりしても、何も好きになれなかった。目に入るバンドは全部エネルギーが感じられなかった。何か新しいことをぶちかまさなきゃならなかったんだ、もう一度トーチを持って立ち上がるやつが必要だったのさ。それで俺にはそうする自信は十分にあったってわけだ。良い音楽を聴きたかった、それだけさ。インスパイラル・カーペッツはまともな曲を書くことができなかったから、俺がその仕事を請け負ってやろうってね。自分に言い聞かせたのさ。誰も俺の聴きたい曲を書かないなら、俺が自分で書いてやろう!ってね。上手く行けば、ここから抜け出せるかもしれない。もし誰も俺の曲に耳を貸さなければ、どん底に戻るだけ、とね。少なくとも俺は、カセットテープに残すだけの曲を書く才能はあると思ってた。

つまりデビューする時から、自分の才能に自信はあったと?

リアム:ロックンロールを歌うのに才能なんて必要ないんだよ。ステージに上がって、マイクの前に立つ。それだけさ。俺の声が特に良いってわけじゃない。OASISに入る前は、自分の声が嫌いだったくらいだ。でも今では、そんな俺が歌ってるんだからな。俺にはもう失うものなんてないんだ。

ノエルがメンバーになったことは、OASISにとってプラスとなったのでしょうか?

リアム:その前まではクソみたいなバンドだったぜ。曲は腐ってるしよ、ボーンヘッドが書いてたんだけど、マジで最悪・・・でもそれでも、俺はバンドを信じてた。俺を待ち受けてるくそったれどものはびこる生活の中に、バンド以外に一つとしてマシなことを見つけられなかったんだ。兄貴がバンドに可能性があると言ってくれた時から、俺達ならやれるかもしれないって思えた。一人メンバーが増えただけで、全てが動き出した感じだな。OASISは真のOASISになったんだよ。

ノエル:最初見た時のこいつらといったら、何の特徴もないバンドだったからな、でかい口だけ叩くリアムってスターを除けば。他のアホ面は、楽器と言う名前の楽器を持って突っ立てるだけさ。何の主張もありゃしなかったぜ。

ノエル、あなたはOASISに入る前から、家でギターを弾いたりしていたんですか?

リアム:長いことな。よく家で弾いてたよ。学校から帰ってきたら弾いてるし、学校に行く前も弾いてるし。ノエルが良い曲を書いてるってのは知ってたけど、あの頃の俺にとっちゃどうでも良かったから、外に遊びに行ってた。15の時は、音楽に興味なかったからさ。フーリガンやってフットボールできればそれで良かったわけ。一緒のバンドやるまで、ノエルと遊んだことなんてなかったぜ。

ノエル:俺達は5歳年が離れてる。5年だぞ、子供にとっては大きな壁だ。特に俺が5歳の頃なんて、こいつは・・・・とにかく、今はその壁もないようなもんだ。俺の方から歩み寄るようにしてるから、前よりは近づいてると思う。バンドに入った時には約束を交わしたんだ。リアムが俺に「俺は、お前とジョン・レノンの歌以外は歌わない」。俺が「俺は、お前とジョン・レノン以外に自分の曲を歌わせることはない」って答えたのさ。

リアムがOASISを結成した時、すぐにノエルが入らなかったのはなぜですか?

リアム:頼まなかったからさ。

その2,3ヶ月後に、どうして入ったの?

リアム:(真剣な顔で)・・・・俺が頼んだからさ。

ノエル:こいつらのステージって見れたもんじゃなかったから、俺が何とかしてやらなきゃなあって思ったんだ。でも今じゃ俺は紛れもなくバンドのチーフだろ。雑用品やギターやアンプを、稼いだ金で買ってるのは俺だ。給料をみんなに分けてるのも俺。どうやって楽器を演奏するか教えるのも俺。一日に5、6時間の仕事をとるために喧嘩を売るコツも俺が仕込んだんだ。ただヴォーカルに関しては口を出すことはなかったな。リアムはすでに自分のスタイルを持っていたから。こいつの強み。天性の声さ。

リアム:今わかってることは、俺はノエルに大きな貸しがあるってことだ。去年家でレコードを永遠とかけ続けて、俺に音楽を教えてくれたのもノエルだし。俺こうやって音楽を聴くのが好きなんだ。レコードを部屋でかけてから、廊下で壁ごしに聴くんだよ。Smithsの1stをそうやって聴いた時は良かったなあ。でも最高だったのは、ストーン・ローゼズの1stを聴いた時だな。その日、これから何をしたいかはっきりわかったんだから。そういう名作を聴くまで、これ以上昔のレコードなんて聴く必要ないって思ってたんだ。The Pinksやビートルズ、そして俺達の「Definitely Maybe」さえあれば、無人島で暮らせるってさ・・・・今はもうSmithsのレコードは聴かない。あまりにお行儀良すぎてセクシーじゃねえからさ。というより、俺、前からモリッシーって×××野郎だと思ってた。あいつがいなけりゃ、Smithsってもっと良いバンドだったぜ、きっと。ジョニー・マーはギャラガー家のヒーローさ。

ノエル:ジョニー・マーはめちゃくちゃ良いね。何と言ってもまず、OASISが大好きらしいし・・・・自分の意見を持った北部の男って感じさ。俺のオーディオプレイヤーには名曲しか入ってないんだ。ビートルズにSmithsに、十分評価されてないLa’s。リー・メイヤーズはいつまで怠けてるつもりだ・・・・まあ、俺よりも才能はあるけどね。今の時代では、一番だと思うよ。

ビートルズを語る時、マッカートニーは話に出てきませんね。

リアム:我慢できねえんだよ。あいつの書く曲って、ホモの曲ばかりだろ、なよなよしてさ(Let It Beの始まりを歌ってみせる)。俺向きじゃねえな。俺にはパンクロックのジョン・レノンの方が合ってる。聴きまくってるぜ。

ノエル:俺もパンクは好きだよ。セックス・ピストルズに、ダムド、バズコックスも大好きだ。でもクラッシュはクソバンドだと思うね、それとSham 69も・・・・学校でものけ者だったぜ、俺がパンクもビートルズも好きだったからさ。どっちか一つってのが普通だろ。

子供の頃のヒーローは誰?

ノエル:全て偉大なるソングライター達。ジョン・レノン、ニール・ヤング、レイ・デイヴィス、ジャガーとリチャーズ、ピート・トウシェンド、ポール・ウェラー。それとギタリストも。ギターってのは素晴らしいシンボルだと、すぐに気づいたよ。反抗、自由、崖っぷちで生きる人々のシンボルさ。

リアム:俺にはヒーローはいなかった。マジで何もやることなくて、バカやってただけだから。ヒーローを見つける時間もなかったしな。16歳の時俺がやってた音楽活動って、ビートルズやストーンズにのせてコンガを叩くことくらいだしな。あとは女の子追っかけるくらい。他に興味あることはなかったよ。

マンチェスターから出て、広い世界へとはばたく人たちを羨んだりは?

リアム:どうしてわざわざ遠くに行かなきゃならねえんだ?マンチェスターは俺の故郷だし、そこで幸せに暮らしてたんだよ。コンガと女がいれば良かったんだ。

ノエル:俺は旅をして、世界を見たいと思ってた。リアムがレンガ運びをしてる時も、俺はアメリカに行きたいと思ってたぜ。それでインスパイラル・カーペッツの間抜けどものローディになって、ギターのチューニングをしたり、機材を運んだりしてたってわけ。クソバンドだが、一緒にいれば世界中を回れるだろ。そこで一生を終えると思ってたよ。

他に仕事をやったことはある?

ノエル:なんでもやったよ。犬の散歩とか窓拭き、店でフルーツ売ったりもしてた。煙突掃除もしたな。だから色んなところで身分証明書を提出しなきゃならなくて。

「Married With Children」では、日常的なことがテーマとなっていますが、自分もそういう落ち着いた生活がしたいと思ったことはないの?

リアム:俺は腕に3人のバカなガキ抱えて暮らしたいなんて思わねえ。そういう生活には魅力を感じない。

どういう生活をしたいの?

リアム:冒険やリスクにあふれた生活だよ。そして出来る限りたくさんの女の子がいれば文句なし。俺達をおっかけるグルーピー達、見たことあるか?ああ、もっと群がってくれたらいいのになあ。女、いすぎて困るってことはないね。俺にはもっと必要だよ、もっとな!

今では、あなた達は女の子たちの憧れとなっています。ナンパしても拒絶されたりすることはないの?

リアム:皆無だな。俺は昔からハンサムだったから、女には困ったことがないんだよ。・・・(さらに強く主張)マジで女の子の方から寄ってくるんだから。男の数に比べて女が少ないとか、ありゃ嘘だな。いつだってすぐそこに余るほどいるぜ。

ノエル:俺は何年も付き合ってた子がいたけど、ダメになった。悲しい話だろ。でも俺はポジティブだから、今じゃイングランドだけで8人のガールフレンドがいるんだ。良いだろ、色々大変ではあるけど。1日に1人と決めてるが、日曜日は選り取り見取りで、1日に2人さ。

どうして寄ってくるんでしょうねえ。

ノエル:理由は簡単さ。俺達が有名だからだ。有名人大好きの女の子達の相手をして喜ばせることで、俺も利益を得る、どちらも損することはない。ほとんどの子は俺の名前すら知らないぜ。OASISのギタリストと軽く一発ヤリたいだけなのさ。ロックンロールだな。それ以上でもそれ以下でもない。女の子達と遊ぶのはコンサートの後のお仕事みたいなもんだ。

リアム:この間、変な女が俺の腕に抱かれたいって聞かなくってさ。リアムリアム言ってうるさかったぜ。

ノエル:嘘だな。女が寄ってくるのは、俺の方だ。このバンドでは俺だけが大人で、後のメンバーは未だにガキんちょなんだよ。

変なムシもくっついてきてるとか。

ノエル:エヴァン・ダンドーのこと?悪いやつじゃないぜ、あれもグルーピーの一種さ。
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