ロシア革命100年 今日は何の日?

今年はロシア革命100周年。2月革命から10月革命にいたる8カ月の「今日は何の日」を毎日アップデートしていきます。ネタ元は週刊「世界革命」(現「週刊かけはし」)に1977年2月28日号から78年1月16日号まで43回にわたって連載された「1917年2月から10月へ ロシア永久革命の勝利 ロシア革命60周年」です。

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<冬宮へ突撃する赤衛軍>

こうした状況のなかで午後2時35分、ペトログラードソビエト総会が開会された。

まず議長トロツキーが臨時政府打倒について報告し、「軍事革命委員会の名において、臨時政府はもはや存在していない」と述べた。つづいて4ヵ月の地下生活を終えたレーニンが圧倒的な歓呼の声を浴びて登壇し、ソビエト権力の任務について報告し「労働者・農民の革命は実現された」と述べた。総会は最後に「勝利した革命を歓迎する」という決議を採択した。

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<冬宮を包囲する赤衛軍>

夕刻から最後に残った官庁街への攻撃が行われた。午後5時頃ケクスゴリム連隊兵が陸軍省を制圧した。7-8時、自転車兵、パブロフスキー連隊兵、プレオブラジェンスキー連隊兵が軍管区総司令部を制圧した。

今や残ったのは臨時政府のある冬宮だけである。本来ならば冬宮の占領はもっと早くなされるはずであったらしい。しかし蜂起軍の不慣れは冬宮占領作戦をなんともギクシャクしたものにさせてしまった。この作戦の総指揮はスモーリヌイにいたラシェビッチが行った。野戦本部はペトロパブロフスキー要塞にあり、そこではブラコンラボフが責任者であった。作戦現場ではアントノフ=オフセンコとポドヴォイスキーが指揮をとった。

冬宮は午後6時半までに完全に包囲された。包囲軍の兵力は守備軍兵士7-8千、赤衛隊員5千、バルト海艦隊水兵6-7千であった。午後6時までに上陸を終えたクロンシュタット混成部隊3700もこれに加わった。この他クロンシュタットから6隻の艦艇と千人以上の乗組員が到着していた。後から到着したのも含めてネヴァ河には9隻の軍艦が停泊し、少なくとも十台の装甲車が包囲軍に加わっていた。

一方、冬宮守備隊は三千だった。うち士官学校生徒1850、コサック2-300、婦人大隊200、将校134、突撃隊100弱、一般兵士240だったといわれる。小銃以外に機関銃20、砲6、装甲車2を装備していたといわれる。

このままだと流血は必至だったが、午後6時にはそのうち士官学校生徒150が四門の砲とともに冬宮を去った。大砲はただちに包囲軍側に接収された。7時5分には大胆にも軍事革命委員チュドノフスキーが冬宮に乗り込んで説得した結果、第二オラニエンバウム少尉補学校生330が冬宮を去った。

8時半には包囲軍の銃撃が開始され、9時40分にはアウローラ号の砲門が火を噴いた。同じ頃ほとんどの士官学校生が冬宮を去り婦人大隊も降伏した。こうして冬宮守備隊はほぼ解体されてしまった。

午後11時頃からペトロパブロフスキー要塞からの砲撃とともに銃撃戦が開始され同時に包囲軍は少しずつ冬宮内に突入した。そして26日午前2時10分には冬宮は完全に制圧され、中にいた臨時政府閣僚は逮捕された。革命軍の規律は完全に保持されいかなる暴行や略奪も行われなかった。

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<第二回全国労兵ソビエト大会>

冬宮攻撃のさなか午後10時40分、第二回全国労兵ソビエト大会が開会された。代議員数の詳細なうちわけは不明であるが、各派代議員数に比例して選ばれた大会議長団の構成は、ボルシェビキ14、エスエル両派7、メンシェビキ3、メンシェビキ国際主義派1であり、いずれにしてもボルシェビキが圧倒的な多数派を占めていたことはあきらかである。無党派的な部分も大会の進行とともにボルシェビキの側についた。

革命派の優位が明白だったためエスエル右派とメンシェビキは議長団への参加を拒否しメンシェビキ国際派も保留した。その結果、エスエルに与えられた7名の議長団席は左翼エスエルに独占され、大会はボルシェビキと左翼エスエルだけの議長団で始められた。

討議の開始とともにエスエル右派、メンシェビキなどの代表は「ボルシェビキによる陰謀」を非難し、「ソビエト大会を既成事実の前に置くこと」に抗議し、「危険にさらされているわれわれの代表がいる冬宮へ赴く」と称して代議員の圧倒的多数の罵声を浴びながら退場した。

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トロツキーは述べた。

「現に生起したことは反乱であって陰謀ではない。一般大衆の反乱は弁明を必要としない。われわれはペトログラードの労働者と兵士の革命的エネルギーを鍛錬し強化してきた。われわれは、陰謀でなく、反乱にたいする大衆の意思を公然と鍛えてきた。......われわれの反乱は勝利した。すると、いまになって諸君はわれわれに、反乱を放棄し、妥協をせよ、と提議する。いったい、だれと妥協するのか? と、わたくしはあえて問う。われわれはいったいだれと妥協しなければならぬのか? たったいま出ていった憐れむべきほんの一握りの人々とか?......われわれはすでに彼らをいやというほどみてきたのではなかったか? もはやロシアには、彼らを支持する人間はひとりもいない。この大会に代表されている幾百万の労働者と農民—あの人々がブルジョアジーの恩恵といつでも取りかえっこしようとしている労働者と農民は—あの人々と妥協を締結しなければならぬだろうか? いま、ここでは妥協は無益である。ここから立ち去った人々、ならびに同様な提案をする人々にむかってわれわれはいわねばならぬ。

『君たちは憐れむべき、孤立した個人である。君たちは破産者だ。君たちの役目は終わった。君たちはいまから後、君たちの属する場所へ—歴史の掃き溜めへ行け!』」。

いったん休憩した後、26日午前3時10分に再開された大会は冬宮占領、閣僚逮捕の報告を受けた後、反対2、棄権1だけでソビエト大会の名による権力奪取を宣告する「労働者・兵士・農民諸君へ!」を採択し午前5時15分に第一日目を終了した。

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<樹立された臨時労農政府>

大会二日目は26日午後9時から27日午前5時まで行われ、「平和についての布告」を満場一致で、「土地についての布告」を反対1、棄権8で採択した。そして「人民委員会議」という名の「臨時労農政府」を樹立した。レーニンが議長、トロツキーは外務人民委員であった。鉄道人民委員だけは、未だ妥協派によって執行部が握られていた鉄道従業員組合との交渉のために空席にされた。

大会は最後に新しい労兵ソビエト中執を選出した。その党派別構成は、ボルシェビキ62、左翼エスエル29、社民党統一派国際主義者6、ウクライナ社会主義3、エスエル=マクシマリスト1である。こうして中央革命権力が樹立された。

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<蜂起のさなか街路防衛の任につく労働者赤衛兵(ペトログラード)>

あとがき

十月蜂起の物語はこれで終わったわけではない。ケレンスキーはなお前線におり、農民ソビエトの動向は不明であった。地方の動向も定かではなかった。しかし基本的にこの首都でのボルシェビキの勝利と臨時政府の崩壊は、ほんの一週間から十日のうちに全国的なソビエト権力の勝利を確定するものとなった。

ソビエト権力はなおいばらの道を歩まねばならなかった。しかし(旧暦)10月25日の蜂起を担った労働者・兵士の革命的情熱はこの困難を克服し、内外の敵にむかって突撃し彼らの反革命的転覆の企図を粉砕したのである。

次号にひとまずこの二月から十月にかけての革命のダイナミズムについてのまとめを行って十月以降の革命の苦難の歩みについてはまたの機会に譲ることとして、ひとまずこの連載の筆を置きたい。

(週刊『世界革命』(現『かけはし』)紙 第502号1977年12月19日号より)

このBLOGの更新も、もうしばらく続けます。お楽しみに。

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<軍事革命委員会からの攻撃指令を待つ赤衛軍>

「首都制圧の戦術的計画は主としてボルシェビキの軍事組織によって作成された。参謀本部の将校たちは、この計画に多くの欠陥を見つけることができるであろう。だが、軍事専門家は革命的反乱の準備にくわわらないのが習慣である。いずれにせよ、本質的な点はすべて考慮されていた。首都は軍事的地区に分たれ、地区はもよりの本部に従属させられた。最も重要な地点には、赤衛軍の中隊が集中されて、附近の軍部隊と協力していた。これらの軍部隊では、当番中隊は出動準備をととのえて、徹宵していた。個々の作戦行動の目標とそれにもちいる武力は、あらかじめしめされていた。反乱に参加するものは、上から下までことごとく—この点にその力があったし、同時にまたアキレスの腱があったのであるが—死傷者もださずに勝利を獲得するのだという、絶対的な確信に浸透されていた」(『ロシア革命史』)。

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<労働者赤衛軍の部隊>

午前1-2時、工兵第六予備大隊第一中隊がニコライ駅を制圧した。

1時35分、水兵とケクスゴリム連隊兵が中央郵便局を制圧した。

3時半アウローラ号がニコライ橋に接近し、士官学校生徒を追い払ってここを制圧した。この行動に反対したアウローラ号の将校は全員逮捕された。

6時、近衛海兵団の40名が国立銀行を制圧した。

7時、ケクスゴリム連隊第五中隊が中央電話局を制圧し、冬宮と軍管区総司令部の電話がただちに切られた。これで主要通信機関はすべて革命派がおさえた。

同じく7時、革命側は宮殿橋を占領した。これで主要な橋はすべて革命側がおさえた。

8時、赤衛隊がワルシャワ駅を制圧した。フィンランド駅もローゼンクランツ工場赤衛隊により制圧された。

8-9時、革命側は「ビルジェビエ・ベードモスチ」「ルースカヤ・ヴォーリャ」の右翼二紙の各印刷所を接収した。

こうして首都は午前中に官庁側を除いて革命側に掌握された。

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<赤衛軍を支援する第二砲兵旅団>

この首都占領作戦を遂行したのは数千の赤衛隊と二千~三千の水兵、そして多くの歩兵中隊である。これらの部隊は「軍事革命委員会の権威を認めない将校は逮捕すべし」という命令を受けていた。大部分の指揮官は自分で逃亡して隠れ家に籠ってしまった。

ペトログラード軍管区司令官ポルコフニコフは大本営と北部戦線本部に「ペトログラードの情勢は恐るべきものである。街頭示威や騒擾は一つもないが、諸機関、停車場の規則的占領が進行しつつあり、逮捕もおこなわれている。......士官学校生徒の斥候隊は、抵抗もせずに降伏している。......臨時政府の占領が企図されないという保障はどこにもない」と報告した。しかしもはや打つ手はなかったのである。

深夜から早朝にかけて、スモーリヌイ学院でソビエト執行委員会の合同会議が開かれた。そこにはソビエト大会へ出席するためにやってきた代議員もつめかけていた。ソビエト議長チヘイゼと、妥協派の実力者ツェレテリは事態の急展開に恐れてこの合同会議には出席せず故郷のジョルジアへ逃げ帰ってしまっていた。

妥協主義者の指導者で残っていたダンは「中央執行委員会は反乱を許しはしないであろう。ただその屍をこえてのみ両敵対陣営は銃剣を交えることはできるでろう」と威嚇した。だがその威嚇は功を奏さなかった。

軍事革命委員会、ボルシェビキ党、ペトログラードの労働者と兵士の名においてトロツキーがこたえる。

「そうだ、まさに反乱である。大衆はわれわれとともにある。われわれは攻撃にむかってかれらをみちびきつつある!もしも諸君たちがぐらつくことがないなら、内乱はおこらないであろう。なぜなら敵はすでに降伏しつつあるからである。そして、諸君は当然諸君のものであるところのロシア国土の主人となるであろう」。

会議は長々とはつづけられなかった。トロツキーをはじめとする蜂起の指導者たちは会場で演説する時間もそこそこに作戦の点検と指令に飛びまわらねばならなかった。事態はすでに街頭で決せられていた。

早朝ケレンスキーはモギレフの大本営とブシコフの北部戦線司令部に対し、即刻忠誠な連帯を派遣せよと要求した。しかしそうこうするうちに電話線は切断され、派遣されるべき「忠誠」な連隊などいないことが彼にも判明してきた。ケレンスキーは「忠誠な」増援部隊を呼びよせるために自ら前線へ赴くことを決め、自動車でペトログラードを脱出した。その際蜂起軍に没収されないように車には小さなアメリカ国旗が掲げられた。

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<ビラやポスターにして発せられた10月25日の軍事革命委員会のアピール>

午前10時には、「臨時政府は打倒された。国家権力は、ペトログラード労働者・兵士代表ソビエトの機関—ペトログラードのプロレタリアートと守備隊の先頭に立つ軍事革命委員会—の手に帰した。人民のたたかいの目標であった事業、すなわち民主主義的講和の即時提議、地主の土地所有の廃止、生産の労働者統制、ソビエト政府の樹立は保障されている。労働者・兵士・農民の革命万歳!」という軍事革命委員会のアピールが発せられた。

確かにこの時点では未だ臨時政府は冬宮内に存在していたし、大本営もあり地方の蜂起に対する態度は未決定であり、ソビエト大会も開催されていなかった。しかし事実上首都を制圧した軍事革命委員会は「権力として」行動することが必要だったのである。

ジョン・リードは書いている。

「(西暦)11月7日、水曜日。私はひどく朝寝坊した。ネフスキー通りを下って行ったとき、ペトロパブロフスキー要塞から午砲がひびいてきた。うすら寒い冷たい日であった。国立銀行の前では、銃剣をつけた数人の兵士が閉じた門のところに立っていた。『諸君はどっち側ですか?』と私はたずねた。『政府側ですか?』『政府なんてもうないんだ』とその一人がニヤニヤしながら答えた。『スラーヴァ・ボーグ!ありがたいことだ!』私が彼から聞き得た言葉は、それだけであった」(『世界を揺るがした十日間』)

午前11時、クレスティ監獄から政治犯が解放された。

午後1時頃、リトヴァ連隊、ケクスゴリム連隊、近衛海兵団の各一個中隊と装甲車一台がマリンスキー宮殿を制圧し、ここを会議場としていた予備議会を解散させた。

午後2時頃までにクロンシュタットから派遣された艦艇と水兵が首都に到着しはじめた。練習艦一隻と水雷敷設艦二隻が到着し、部隊の上陸が始まった。またゲルシングフォルスからの駆逐艦四隻、ビョルケからの練習艦一隻が首都へむかっていた。

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★11.4シンポジウム★
「世界を揺るがした100年間 ~ 世界史からみたロシア革命」


◦日時:11月4日(土)13時半~18時(13時会場)
◦会場:亀戸文化センター 第1・第2研修室(JR総武線「亀戸」駅 北口)
◦資料代 1000円

★報告★
・森田成也
 世界革命としてのロシア革命――ヨーロッパ、ロシア、アジア

・中村勝己(大学非常勤講師)
 ヨーロッパから見たロシア革命

・江田憲治(京都大学教授、中国現代政治思想史、中国共産党史)
 中国革命をロシア革命の延長線上で考える―陳独秀の場合

★コメント★
・長堀祐造(慶應義塾大学教授、中国近現代文学-魯迅及びその周辺)

◦主 催:ロシア革命100周年シンポジウム実行委員会
共 催:トロツキー研究所、アジア連帯講座、東アジア研究会
連絡先:東京都渋谷区初台1─50─4─103 新時代社気付


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<ペトログラードの街頭に登場した革命派水兵>

この日の朝、軍事革命委員会は緊急守備軍会議を召集し、総司令部との断絶を正式に決定しペトログラードとその周辺の軍隊に檄を発した。

「首都の組織的守備軍と断絶した以上、本部は反革命的勢力の直接の道具である。......軍事革命委員会は本部の活動にたいする一切の責任を拒否し、守備軍の先頭にたって、反革命的企図にたいし、革命的秩序の防衛をひきうける」

「守備軍へのいかなる命令も、軍事革命委員会の副署なしには無効である」

それはまさしく宣戦布告であった。

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この日の「ソビエトの平和的閲兵」の日は大成功であった。トロツキーは述べている。

「ブルジョア以外のひとびとは―老いも若きも、男も女も、少年も少女も、子供を抱いた母親も―早朝から夜まで集会へと群をなして集まった。革命開始以来、こんな集会はいまた゜かつて見ないところであった。会場という会場では、入口のところまでたえずぎっしりつまった聴衆は、2、3時間ごとにすっかりいれかわった。労働者、兵士、水兵の新しい波がつぎからつぎへと建物におしよせては、それに氾濫した」。

「この数か月、数週間―すくなくともこの数日間に、まるで一切の言葉がすっかり語りつくされたかのように思われた。だが、いな! 今日はそれらの言葉はちがった響きをもっている。大衆はそれを新しい仕方で、福音としてではなく、行動すべき義務として、経験しつつあるのだ。革命と戦争と悲惨な全生涯の激しい闘争の経験が、貧困においつめられたひとりひとりの男や女の記憶のどん底からわきあがって、われわれはこの道をもはや一歩もすすむことはできない、われわれは未来にむかって道を打開しなければならぬ、という単純で絶対的な考えとなって表現された」。

「大衆は、彼ら自身と彼らの指導者たちを見た。指導者たちは大衆を見、大衆の言葉に傾聴した。どちらも、たがいに満足した。指導者たちは、われわれはもはやこれ以上延期することはできない!ということを確信した。大衆は、今度こそいよいよやるぞ!と独語した」(『ロシア革命史』)。

指導部と大衆は蜂起にむかって一つとなったのである。


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<反革命のために南部からアレクセフ将軍に動員された兵士たち(11月2日)>

迫り来るソビエト全国大会とボルシェビキの蜂起を目前にしてもなお臨時政府の首脳たちは自己の力を過大視していた。この日、ミリューコフの新聞は、「もしもボルシェビキが深刻な内部的危機のために腐りきっているにもかかわらず、あえて決起するならば、たちまちなんのぞうさもなく鎮圧されてしまうだろう」と書いている。

カデット党員たちも、ボルシェビキの反乱の日こそ彼らの最後の時であると語り合っていた。だが、「深刻な内部的危機のために腐りきっている」のは当のカデットと臨時政府に他ならないことを理解するのにほんの数日もかからないであろう。

ソビエトは翌日の(旧暦)22日の日曜日を「自己の力の平和的閲兵」の日と決めていた。それは挑発を避けるために工場、兵営等での集会の形をとることになっていた。ところが反革命派はあきらかに衝突を誘発する目的で「宗教行進」を呼びかけるビラをまいた。反革命派はこの「宗教行進」にコサック部隊を動員し衝突を引き起こそうとしていたのである。軍事革命委員会は懸命になってコサック連隊に対する影響力を強めるための闘いを行った。コサック連隊はこの「宗教行進」なるものに参加しないことを決定し、「宗教行進」そのものも中止されることになった。反革命的挑発者はその持てる主要な手段を失っていた。

この日の守備軍会議ではトロツキーの動議にもとづいて三ヵ条の短い決議を可決した。

一、ペトログラードとその周辺の守備軍は、軍事革命委員会の一切の手段を全面的に支持することを約束す。

二、10月22日は、もっぱら平和的な閲兵のための一日とすること...守備軍は次のように檄す。「われわれは諸君を、明日おこなわれるわれわれの会合に招待する。コサックの兄弟たち、われわれは諸君を歓迎する」。

三、「全露ソビエト大会は政権を掌握し、国民に向かって平和と土地とパンを保証しなければならない。......守備軍は、その全兵力をソビエト大会の自由にゆだねることを厳粛に約束する。......兵士、労働者、農民の正当な代表者諸君、われわれを信頼せよ。われわれは一人残らず、征服か、しからずんば死を覚悟して、われわれの持場についている」。

それは極めて鮮明な反乱の綱領であった。決議反対の手は一本も上らなかった。臨時政府の命運は完全に軍事革命委員会の手中に握られていたのである。

この日の夜、軍事革命委員会は地区参謀本部に対してペトログラード軍管区総司令部付コミッサールとしてサドフスキー、メホノシン、ラジミールを任命した。司令部の命令は今後このコミッサールの誰かが連署する場合にのみ有効となること要求するものであった。

しかし軍管区総司令官ポルコフニコフはこのコミッサール就任を拒否し「守備軍は余の掌中に握られている、守備軍の服従は保障されている」と答えた。ポルコフニコフはどうやら本気でそれを信じていたらしい。ここにおいて軍事革命委員会はトロツキーとスベルドロフの出席の下に総司令部と守備軍とを決定的に断絶することを決意した。

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<ペトログラードソビエト工場委員会におけるトロツキーとリヤザノフ(中央付近)>

この日軍事革命委員会は初会議を行い、活動を急ピッチで開始した。

「妥協主義者たちは軍事革命委員会をボイコットしたため、委員会のスタッフはボルシェビキと左翼社会革命党(エス・エル)だけであった。そのため、仕事は容易になり、簡単なった。社会革命党員のうち、実際に仕事をやったのはラジミールひとりだった。そして、委員会はソビエト機関であって、党の機関でないという事実を強調するために、ラジミールは首班にすえられさえした。だが本質的には、トロツキーを議長とし、ポドボイスキー、アントノフ=オフセンコ、ラシェビッチ、サドフスキーおよびメホノシンを主要な委員とするこの委員会は、もっぱらボルシェビキにたよっていた。

委員会は、規程中にあげられている一切の団体の代表が出席した総会というものを、ほとんど一度も開かなかった。活動は議長の掌握のもとに、事務局をとおして遂行された。重要な問題には、いつもスベルドロフが関係した。そしてこれが反乱の参謀本部であったのである」(『ロシア革命史』)

「規程中にあげられている一切の団体」とは、ソビエト執行委、兵士部会幹部会、守備軍代表、全国艦隊中央委、フィンランド地方ソビエト委、鉄道労組、郵便電信労組、工場委、労働組合、ソビエト参加諸党軍事組織、「人民軍社会主義者同盟」、労兵ソビエト中執委軍事部、労働者民警である。

軍事革命委は、守備軍の各戦闘部隊や機関、倉庫に「観察と指導」のためコミッサールを派遣し軍隊の組織的掌握にのり出した。この軍事革命委の指導の下で兵士や労働者の革命的自発性が大いに発揮されることとなった。兵器工場の労働者たちは臨時政府側に武器が引き渡されるのを阻止するための統制を確立した。

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<レーニンとともに蜂起の指導の先頭に立つスターリン、というスターリン体制下の革命絵画>

この日、ジノビエフはボルシェビキ党中央機関紙上に「自分の見解はレーニンが主張している見解とは非常に相違している」旨の手紙を掲載した。ところが機関紙編集部もまたこのジノビエフの書簡に同情的な注釈を加えたのである。この注釈はレーニンの二人の「スト破り」に対する語調の激しさを非難し「根本において」ジノビエフ、カーメネフとの一致を表明するものであった。

この注釈を書いたのは他ならぬスターリンであった。ここにスターリンの蜂起前夜における動揺が如実に暴露されている。

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<蜂起へ態勢を整えるバルト海艦隊クロンシュタットの水兵>

日、前日の守備軍会議で圧倒的な部隊が「決起」に賛成の立場を表明したことにがく然としたソビエト中央執行委員会は事態を逆転させようと試みて自らのイニシアチブで守備軍の軍隊委員会会議を招集した。そこには委員たちが長い間改選されず、当の部隊の現在の意向や気分を反映していない立ち遅れた部隊が多く呼び集められていた。

しかし会議の力関係は基本的に前日と同様であった。中央執行委員会の提出した決議案は圧倒的に否決され、ペトログラードソビエトによって招集されたものではない本会議は決議を採択する権限を持たないという宣言がなされた。

ただこの日の会議では、ペトロパブロフスキー要塞の軍隊委の多数と、装甲車師団委員会とが新たに決起反対を表明した。これは重大な問題であった。

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<ペトロパブロフスキー要塞>

ペトロパブロフスキー要塞は地理的に臨時政府の本部のある冬宮への出入口にあたり、戦略上の重要拠点であり、装甲車部隊は街頭戦闘で絶大な威力を発揮する。もし政府がこれらの部隊を掌握していたなら蜂起の側はかなりの犠牲を覚悟せねばならない。これ以後、ボルシェビキはこの両部隊の動向に万全の注意を払わなければならないことになった。

同時に革命的な部隊では決戦準備が急速に進んでいた。すでにバルト海艦隊は、10月に入ってから、少なくともライフル銃3000、機関銃35、ピストル100、榴弾5000を首都から入手し、200人以上の乗組員を持つすべての艦に戦闘小隊を至急に編成するよう指令していたが、この日艦隊委員会は、艦隊に動員令を発し、午後5時までは全員禁足とし戦闘小隊は常時在艦するよう命令を発した。レーベリソビエトでは要塞の部隊にコミッサールを派遣することを決定した。

この日レーニンは、前日にひきつづき「ボルシェビキ中央委員会への手紙」を書き、「スト破り」ジノビエフとカーメネフの除名を再度強い調子で訴えている。

「カーメネフとジノビエフは、自党の中央委員会がした武装蜂起の決定と、武装蜂起の準備、武装蜂起の日取りを敵に隠しておくという決定とを、ロジャンコとケレンスキーにもたらした。これは事実だ。どんな逃げ口上をつかっても、この事実を反ばくすることはできない。二人の中央委員がうその告げ口をして、資本家に労働者の決定をもらした。これにたいする回答は、ただ一つしかありえないし、またただ一つでなければならない。すなわち中央委員会が即時次の決定をすることである。『ジノビエフとカーメネフの党外出版物での声明は、完全なストライキ破り行為であることを認めて、中央委員会は、両名を党から除名する』」と。

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<ソビエト労働者赤衛兵の訓練風景>

なおこの頃、守備軍の決戦準備とならんで赤衛隊の武装化と訓練もすすめられていたことを忘れてはならない。武器の供給源は武器工場であり、そこではソビエトの命令によって工場委員会の協力を得て多数の武器が持ち出された。(旧暦)19日付の新聞「ジェーニ」は次のように報道している。

「ヴィヴォルグ地区のドルノボ別邸から遠くない所で『赤衛隊』の強化訓練が毎日おこなわれており、しかも射撃訓練のために特別の射撃場が使用されている。独自の指導員に指導されて、赤衛隊員は、真剣に、隊列を組み、突撃訓練をおこなっており、よく訓練された戦士だという印象を与える」。


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ソビエト労働者赤衛兵と革命派兵士の合同武装デモ(17年10月モスクワ)

この日第一回の守備軍会議が行われ、ほとんどすべての部隊がペトログラードソビエト支持を表明した。協調派の労兵ソビエト中執委の代表はこの会議で発言権を与えられず退場してしまった。

ペトログラードソビエトの命令一下いつでも決起する用意があると言明したのは、イエゲルスキー、モスクワ、ヴォリンスキー、パブロフスキー、ケクスホルムスキー、セミョノフスキー、イズマイロフスキーの各連隊、第一狙撃兵連隊、第三予備連隊、第二バルチック乗組員、近衛電気技術大隊、同砲兵師団。手榴弾連隊はただソビエト大会の檄がある場合にだけ決起するだろうと宣言した。

それほど重要でない部隊は多数派の指導に従った。反対ないし中立の立場をとったのはペテルホール軍官学校、第九騎兵連隊、オラニエンバウム軍官学校のみだった。この会議によって守備軍の圧倒的多数がただペトログラードソビエトの命令によってのみ動くことを宣言したことは蜂起の勝利を事実上保証するものだった。

「市が決起と血なまぐさい戦闘の噂で沸きたっていたあいだに、ボルシェビキが圧倒的優勢をしめている連隊委員会会議は、示威行進も大衆的戦闘もどちらも本質的に不必要としてしまった。守備軍は革命を反乱とは考えないで、国の運命を決定すべきソビエトの争うべからざる権利が実現されることであると考えながら、確信をもってこれに近づきつつあった」(『ロシア革命史』)

なお、この日レーニンは前日のカーメネフの「ノーヴァヤ・ジーズニ」紙上の論文に激怒しこの「ストライキ破りを除名して、ボルシェビキ戦線の統一を回復しなければならない」という『ボルシェビキ党員への手紙』を書いている。


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ジノビエフ(左)とカーメネフ


この日カーメネフはジノビエフの了解の下に、前夜の会議の決定を直接に攻撃する声明をゴーリキー派の新聞「ノーヴァヤ・ジーズニ」紙上に掲載した。

「ジノビエフと自分ばかりでなく、多数の実行的同志たちが、現在の社会的力関係をもって、ソビエト大会とは孤立し、その数日前に、今日武装反乱のイニシアチブをとることは、プロレタリアートと革命にとって破滅的な、許すべからざる手段であると考える。今後数日のうちに一切を...反乱という切札に賭けることは絶望的行為であるだろう」と。

それはボルシェビキに敵対的な党外の新聞に、ボルシェビキの未発表の重大な決定を攻撃し敵の前に計画をさらけ出す文書を載せたということであり、決定的に裏切りの行動であった。

この日、当初予定されていたソビエト大会開催日を三日後に控えて労兵ソビエト中執事務局は、大会召集を25日に延期することと、「権力問題」を議題に上がらせないことを決定した。この「延期」は協調派のイニシアチブによるものであったが、結果としてボルシェビキの計画に十分な時間的余裕を与えることになったのである。

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この日、(旧暦)10日の中央委員会による蜂起の決定が党機関の動揺と逡巡によって引き伸ばしのうきめにあっているのではないかと危惧したレーニンの強い要請によってペトログラードの郊外レスノフ区議会の建物のなかで拡大中央委員会が開かれた。

中央委メンバーのほか、ペトログラード委員会執行委員会、中央委員会所属軍隊内組織、ペトログラードソビエト、工場委員会、鉄道従業員、ペトログラード県下地区委員会の代表もこの会議に出席した。

レーニンは10日の中央委員会決議を読みあげるとともに決議の趣旨を述べた。ここでレーニンはドイツ艦隊の反乱をあげ、「ドイツのような国で、艦隊内の反乱が起こるまでになっているとすれば、それは、そこでも事態がもう非常にすすんでいることを証明している。国際情勢は、いま行動を起こすならば、われわれがプロレタリア的ヨーロッパ全体を味方につけるだろうという、一連の客観的資料をわれわれに与えている」と主張し蜂起の成功を国際的に根拠づけた。

ミリューチンは、「われわれは第一撃をくわえる用意がない......いま一つの見とおしが生まれる。すなわち、武装衝突である......この見とおしは増大しつつあり、その可能性は切迫しつつある。われわれはこの衝突にたいして準備すべきである。だが、この見とおしは反乱とは別物である」という言い方で武装蜂起に反対した。

レーニンはこれに対して「問題は軍隊との闘争ではなくて軍隊の一部と他の一部との闘争である」こと、力関係はわれわれに有利であることをあげて、「なぜ中央委員会は始めることができないのか?」と迫った。

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この会議にはトロツキーは出席していなかった。トロツキーはちょうどそのときペトログラードソビエトで軍事革命委員会創設に関する決議を通過させるために闘っていたのである。クルイレンコがトロツキーに代って、守備軍会議や軍事革命委員会を組織する過程で煮つまった議論を展開した。クルイレンコはトロツキーやアントノフ=オフセンコとともに北部地方ソビエト大会を成功させてきたばかりの自信に満ちて、「湯が十二分に沸騰しつつあること」を述べ、「反乱賛成の決議を撤回することは、最大の誤謬であるだろう」と主張した。だが同時に彼は、党の名において反乱の指令を発し、蜂起の日取りを決定することは不都合であると考えていた。クルイレンコは述べた。

「軍隊移動の問題こそまさに闘いがおころうとしている闘争問題である......かくして、われわれにたいする攻撃はすでに事実となっている。われわれはこれを利用することができる......だれがはじめるべきかということを心配する必要はない。なぜなら、問題はすでにはじまっているからである」と。そして実際の蜂起はこの線にそって準備されていた。

カーメネフは10日の会議での蜂起反対意見をさらに展開した。

「反乱のための資料が今日欠除していることは、ここ一週間の結果によって証明されている。われわれは反乱の機関をもっていない。敵の機関ははるかに強大であって、おそらく今週中にいっそう強力になったろう。......ここでは二つの戦術が衝突している。すなわち陰謀の戦術とロシア革命の原動力にたいする信念の戦術である」と。

レーニンは答えた。

「もしも諸君が反乱は正しいと考えるなら、陰謀を云々することは必要でない。もしも反乱が政治的に不可避であるなら、われわれは技術にたいすると同様に、反乱にたいしなければならない」と。

ヨッフェは10日の会議を支持したが、ただ一つの点でレーニンに反対した。それは、「今日問題は純技術的であるというのは真実でない。今日もまた、反乱の瞬間は政治的見地から考えられなければならない」ということであった。そして、ソビエト全国大会こそが「技術の問題」に至る「政治的水路」だ、と主張した。トロツキーもまたヨッフェと見解を一にしていた。討論の結果次のような決議案が提出された。

「本会議は、中央委員会の決議を完全に歓迎し、完全に支持する。本会議は、武装蜂起の全面的で真剣な準備をととのえ、このために中央委員会によって設置される中央部を支持することを、すべての組織およびすべての労働者と兵士によびかけ、中央委員会とソビエトが攻勢の有利な時機と適切な方法とを適時に支持するだろうという完全な確信を表明する」。

採決の結果はジノビエフとカーメネフの反対2票、棄権3票に対して賛成20票であった。一方、「ソビエト大会のボルシェビキフラクションとの会議を開くまえには、いかなる行動も許されない」というジノビエフの決議は6対15対3で否決された。この期におよんで24名中9名、つまり三分の一以上の蜂起に対する動揺票があったことは注目してよい。しかし彼ら動揺分子は党の下部大衆にいかなる基盤も持っていなかった。

先に述べたように同じ頃ペトログラードソビエトの総会では軍事革命委員会の創設にむけた闘いが行われていた。

左翼エスエル党員のラジミールの作成した軍事革命委員会規程が議題に上がったとき、メンシェビキの代表は「この新しい委員会は、ボルシェビキによる権力奪取のための革命的本部以外の何ものでもない。われわれメンシェビキはそこには加わらないであろう」と叫んだ。これにこたえたトロツキーは、ボルシェビキが権力奪取の準備をしていることを否定はしなかった。

「だが、いまはそんなことが問題ではない。政府は革命的軍隊をペトログラードから移動することを要求している。それにたいしてわれわれはイエスかノーかを答えなくてはならない」とトロツキーは結んだ。軍事革命委員会規程は圧倒的多数をもって可決された。即座にこの来たるべき「武装蜂起の指導部」は活動を開始した。きわめて公然と、だが敵に尻尾は見せないように「首都防衛」の旗の下に。

地区司令官ポルコフニコフは政府にむかって「ボルシェビキの反乱の準備」を警告した。ブルジョア新聞もまた、近々必ず起る「ボルシェビキの陰謀」について騒々しくがなりたてるだけで、彼らはどうすることもできなかった。

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移動命令を拒否したペトログラード守備軍の兵士たち

この日の朝開かれた閣僚会議で、大本営をとおして北部戦線軍司令官から「要請」された首都守備軍の前線への移動の件を、準備されつつある蜂起への対抗手段として採用することが承認された。

臨時政府や前線の司令部は、この守備軍移動が純粋に軍事的観点からもたらされたものであることを説明しようとしたが、それは単なる口実であって本心は「革命の首都」を絞殺しようとする政府側の最後のあがきであることは誰の目にもあきらかであった。

前線に欠けていたのは兵員の数ではなくて、兵士たちの戦闘意欲であった。それはずるずると泥沼のつづく戦争と、劣悪な補給からもたらされたものであった。そしてペトログラード守備軍もこの帝国主義戦争を最後までやりぬく「戦闘意欲」などおよそもちあわせていなかった。ブルジョア新聞や協調派の新聞は「一度も前線に出ないでぬくぬくと肥え太っている」ペトログラード守備軍の「堕落」についてヒステリックな愛国主義キャンペーンを繰り返した。しかし、首都の守備軍や前線の兵士はこのお互いの間を裂こうとするキャンペーンにまったく動員されようとしなかった。

なによりもこの守備軍の移動という計画そのものが、「前線からの要請」という外観をまといながらも、実はケレンスキーの発案であったことに注意せねばならない。前線司令部はこの部隊移動に関してはむしろ消極的であった。

その例証としてチェレミッソフ北部戦線軍総司令官は、陸軍大臣の電報に対し直通電報で次のように答えている。

「秘 第17号、X、ペトログラード守備軍を派遣することは、貴下の発案になるものであって、小官の発案したものではない......ペトログラード守備軍が戦線におみむくことを欲していないということ、つまり彼らは戦うことができないということが明白になったとき、小官は貴下の代表将官との指摘会談において...そういう軍隊はすでに戦線にはありあまるほどいると述べた。しかしながら、彼らを戦線に送りたいという貴下の希望にかんがみ、小官は彼らを拒みはしなかったのである。そして、もしも貴下があのときと同様、彼らをペトログラードから移動させることが必要であると考えられるならば、今日といえどもそれを拒むものではない」。

この臨時政府からの挑発に対して首都の労兵ソビエトは「防衛」の旗の下に決定的闘いに着手することになるであろう。


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ペトログラード守備隊のボルシェビキ派のデモンストレーション


ペトログラードソビエトの兵士部会は、前日の執行委員会の会議をうけて守備軍会議と、ラジミール(ペトログラード「防衛委員会」の議長。左翼エスエル活動家)の規程した「防衛委員会」の任務を議題にとりあげた。

議長をつとめた水兵ドイベンコの指導の下に、兵士・水兵は「防衛委員会」の下に結集して闘う趣旨の決議が283対1対23で可決され、このとき以降軍の指揮権は大本営から、事実上将来の「軍事革命委員会」に移ることとなった。軍首脳と大本営が意図したペトログラードの守備軍の移動問題は、この時点ですでに決着がついてしまったのである。


またペトログラードソビエト執行委員会はその管理下に赤衛軍の特別部隊を置くことを公表した。武装せる労働者=赤衛軍と守備軍の兵士はともに手をたずさえて、軍事革命委員会の指導に服することが決定されたのである。


なお、この日に始まった第二回ウラル地方ソビエト大会でもソビエト全国大会を期日通り召集し、ソビエト権力を即時樹立する決議が83対18で採択されている。

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ペトログラードソビエト労働者の軍事訓練(17年10月)

この日、ペトログラードソビエト執行委員会秘密会議が行われ、守備軍会議の設置を決議した。守備軍会議は各部隊の代表からなる会議であり、部隊の日常生活を指導し、部隊の雰囲気を直接的に表現する場であった。この守備軍会議は各部隊のソビエト支持をくりかえし確認し、蜂起に向けた各部隊の点検と動員を大衆的に貫徹するのに大いに力があった。軍隊を実際に動かすためにはこの守備軍会議が必要だったのである。

またこの日、将来の軍事革命委員会の役割を決定する提案が同じ会議で討論された。(旧暦)9日に協調派によって提起され、ボルシェビキの賛同で可決された「防衛委員会」の規程を作成するための委員会を組織するにあたって、ペトログラードソビエト執行委員会は、この将来の軍事組織のために、つぎのような任務を示した。

すなわち軍事情勢を確め、必要な手段を講ずるために、北部戦線、ペトログラード軍区本営、バルチック艦隊中央委員会、フィンランド地方ソビエトと連絡をとること。ペトログラードとその周辺の守備軍の人的構成、弾薬、軍需資材を調査すること。兵士ならびに労働者大衆の規律を維持するための手段を講ずること。

これらの任務規程は、首都防衛のためであるともとれるし、反乱の直接的準備のためであるともとれた。この「防衛委員会」の規程を作成する委員会の議長にボルシェビキではなく左翼エスエルのラジミールがすえられたことも、直接の武装蜂起の目的をおおいかくすカモフラージュの役割を果した。

この「防衛委員会」の規程によって委員会のもとに防衛、補給、通信、情報などの各部局が設けられることになった。それらは蜂起の際の大本営としての位置を持つことになった。

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2月革命を支持するエストニア農民のデモ(17年7月頃)

この日から開かれたエストニア地方労・兵・無土地農・零細農ソビエト大会は、ボルシェビキのイニシアチブの下にソビエト権力の樹立を主張する決議を採択している。



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砲術を学ぶ赤衛兵たち

「(旧暦)10月10日の決議は無限に重要なものとなった。それはたちまち反乱の真の鼓舞者を党権限の確固たる地盤の上においた。あらゆる党組織、あらゆる党細胞において、最も断固たる分子が責任ある位置にすすめられはじめた。ペトログラードをはじめとして、党組織は立ちなおり、彼らの武力と物質資力を点検し、連絡を強化し、革命のための闘争にいっそう集中的な性格をあたえた」(『ロシア革命史』)

ポルシェビキ党の下部組織は中央委の決定をうけてほぼ全国的に武装蜂起の決行についての意思一致ができた。(旧暦)7日からこの日まで行われていた第三回ペトログラード全市協議会でも中央委員会決定が支持された。

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クロンシュタットの革命派水兵(1917年)

この日から13日にかけてレーニンが蜂起の即時開始にあたって依拠しようとしていた北部地方労兵ソビエト大会が開かれた。ここには、ペトログラード、クロンシュタット、ヴィヴォルグ、ゲリシンクフォルス、レーベリ、ナルバ、ノブゴロド、ユリエフ、アルハンゲリスク、モスクワなどのソビエトから代表が集まった。

ペトログラード労働者約40万(うち赤衛隊1万)、ペトログラード守備軍10数万、バルト海艦隊約6万、第42軍団約5万などの強大な勢力を大会は代表していた。

大会代議員の党派毎の構成は、ボルシェビキ51、左翼エスエル24、メンシェビキ国際派1、エスエル10、メンシェビキ祖国防衛派4であった。議長はクルイレンコ、主要報告者はトロツキー、ラシェビッチ、アントーノフ=オフセンコであり全面的にボルシェビキの指導下に大会は実現された。

大会は、10月20日に予定されている全国ソビエト大会で新政府を樹立する方針を採択し、各ソビエトに「革命の軍事的防衛を組織するために軍事革命委員会を設置すること」を提案した。大会は、「言論の時は過ぎた。全ソビエトの断固たる、一致した決起のときが来た」と決議し、ボルシェビキ11、左翼エスエル6からなる北部地方ソビエト委員会を設置した。

もっともすべてのソビエトが蜂起に向かって動くことを決定したわけではない。農民ソビエトの影響力が大きい地方では特にそうであった。これらの地方ではボルシェビキは相対多数派ではあったが、メンシェビキ、エスエル連合勢力との力関係では彼らに一歩譲らざるをえなかった。

例えばこの日から翌日にかけてのドネツ=クリボイローク地方ソビエトでは情勢についてはメンシェビキの決議案が51対46で可決されているし、この日の東シベリア地方ソビエト第二回大会では、ソビエト全国大会の10月20日召集に反対している。しかし、全体としてみたとき、国の政治・経済生活を抑える主要拠点ではボルシェビキの方針が支持をえたといっていい。

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アナーキストの指導下にあったペトログラード守備軍第一機関銃連隊

なおこの日、北部戦線司令官チェレミッソフ将軍は、疲労した前線部隊を銃後のペトログラード守備軍と交代させよという軍隊委員会の要求を陸軍大臣に報告してきた。

このペトログラード守備軍の前線移動問題は、首都の革命的兵士に対する直接の攻撃を意味するものであり、十月蜂起の直接的引き金となった重大な政治的事件であった。

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スターリン時代に描かれた蜂起を決定したボ中央委員会の様子を再現した絵画。なぜか上座にいるスターリンと顔が隠れているトロツキー。「スターリン偽造学派」のモニュメント

この日、武装蜂起の問題を決定するボルシェビキ党中央委員会が開かれた。皮肉なことにこの会議はメンシェビキのスハノフのアパートで開かれた。スハノフの妻はボルシェビキだった。スハノフの妻は夫がその晩自宅へ帰らないように工作したためスハノフはそんな重要な会議がこともあろうに自宅で行われているなどということをまったく知らなかった。

中央委員会の21名のメンバーのうち12名が出席した。レーニンは地下に潜行して以来はじめて中央委員会の会議に出席した。彼は変装のために、あごひげをそり、かつらをつけ、眼鏡をかけて現れた。会議は延々10時間にわたって続けられ、夜ふけにまで及んだ。

スベルドロフが最初に北部戦線、西部戦線をはじめとする前線の状況について報告し、前線の革命的部隊をコサックで包囲する準備がすすめられ、新たなコルニーロフ反乱が計画されていること、前線はケレンスキーに対抗しボルシェビキを支持して決定的な行動をとるであろう等々と述べた。

それをうけてレーニンが熱情的に語った。

「大衆は言葉と決議にうんざりしている。政治情勢は熟しきっている。農民は都市を支援するだろう。前線の雰囲気はわれわれに有利だ。今や待つことはできない。いつ開かれるかわからぬソビエト大会を待つこともできない。2、3日中に反乱を開始せねばならない。反乱の技術的側面を早急に討議せねばならぬ」と。

決議はジノビエフとカーメネフの反対を除いて、賛成10票で反乱の即時開始を決議した。その決議文は次のようなものである。

「中央委員会はつぎのことを認める。ロシア革命をめぐる国際情勢(全ヨーロッパに世界社会主義革命が成長している端的な現れとして、ドイツの海軍に反乱が起ったこと、さらに、ロシア革命を圧殺する目的で帝国主義者が講和を結ぶおそれがあること)も、―軍事情勢(ロシアのブルジョアジーとケレンスキー一派が、確かに、ピーテル=ペトログラードをドイツ軍に明け渡す決意をしていること)も、―プロレタリア党がソビエト内で多数を獲得したことも、―これらすべては、農民の蜂起や、人民の信頼がわが党のほうに向くようになったこと(モスクワの選挙)と関連して―最後に、第二のコルニーロフ陰謀が明らかに準備されていること(ピーテルからの軍隊の撤退、カザックのピーテルへの派遣、カザックのミンスク包囲、等々)も、―これらすべては、武装蜂起を日程にのぼらせている。

このように、武装蜂起が避けられないものとなり、完全に機が熟したことを認めて、中央委員会はすべての党組織に、このことを指針とし、この見地からすべての実践的問題(北部地方ソビエト大会、ピーテルからの軍隊の撤退、モスクワおよびミンスクの住民の行動、等々)を討議し解決するよう提案する」。

レーニンはこの決議を子供の雑記帳を破った一枚の紙に鉛筆で書いたという。決議への公然たる反対はジノビエフとカーメネフだけだったが、10日の会議に出席していなかったルイコフとノギンも同様の立場に立っていたしミリューチンも彼らに接近しつつあった。

総じて決定されたものの一体どうやって蜂起を開始すべきか、あるいは開始すべきか否か、ということについての確信の欠如や動揺は党上層部から取り払われたわけではなかった。

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スターリニストの公認の歴史家は、トロツキーは蜂起に反対しなかったものの、ソビエト大会に合わせて武装蜂起を開始すべきことを主張した点で、レーニンの意見に反対し、実践的には蜂起をひきのばして解体させる結果を招くような意見を述べた、などと主張している。しかしこれはその後の事態の展開の真実をまったく見ることのできない誤りだと言わなければならない。

現実的には十月蜂起はソビエト大会の準備と結合することによってはじめて可能となった。大衆は、ボルシェビキ党それ自身というよりソビエトをとおしてボルシェビキを支持していたのである。そしてソビエト大会の合法的準備のキャンペーンをとおして、ソビエト大会の破壊者としてのケレンスキー政府の姿を浮かび上がらせ、ソビエトの防衛者としての公式の機関である軍事革命委員会は、大会準備の大義名分の下に蜂起の技術的諸準備を万端とどこおりなく行うことが可能になったのである。


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蜂起の指令を受けるペトログラードソビエト・スモーリヌイ軍事革命委員会本部の赤衛兵たち

ボルシェビキは「攻撃者」であったにもかかわらず、こうしてケレンスキーのソビエト破壊の挑発からの「防衛」の旗の下にグラついている大衆をも結集させることが可能になった。

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ソビエト軍事革命委員会の兵士たち

この日、予備議会からの引き上げに関してペトログラードソビエトで報告が行われた。それは「国内における革命的権力獲得のための直接公然の闘争万歳!」の叫びで結ばれた。


なおこの日、協調主義者の側からペトログラードソビエトにむかって「革命的防衛委員会」を樹立せよという動議が出された。妥協主義者の思惑は前線への兵士の移動と労働者の首都防衛の任務をスムーズに行わせるためであったのだが、ボルシェビキはこれを受諾し、この委員会を軍事情報の蒐集と、蜂起の実践的準備を公然と行うための機関に転化したのである。


こうして蜂起を指導した「軍事革命委員会」は皮肉にもそれと敵対する協調主義者の提案によって生み出されることになった。

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この日、レーニンは(旧暦)10日に予定されていた中央委員会での武装蜂起の決定に対する抵抗を予測して、中央委員会の抵抗を排しても蜂起を開始することを促すために文書を書いている。それは当初この日から行われる予定だった北部地方ソビエト大会にむけてのものだった。この北部地方ソビエト大会を基盤として蜂起を開始することをレーニンは考えていたのである。

『一局外者の助言』と題された文章でレーニンは「全権力をソビエトへ」というスローガンが事実上武装蜂起を意味することを強調し、蜂起に際しては技術的原則を重視しなくてはならないことを述べた後、具体的な蜂起のプログラムを語っている。

「かならず外部からも内部からも、労働者地区からも、フィンランドからも、レーベリ、クロンシュタットからも、いっせいに、できるだけ不意にかつ迅速にピーテル(ペトログラード)にたいして攻勢に出ること、艦隊全体を攻勢に立たせること、1万5千名から2万名(それ以上かもしれない)をかぞえるわが国の『市民防衛隊』(士官学校生徒)、わが国の『ヴァンデー部隊』(カザック部隊)、等々にたいしてはるかに優勢な兵力を集結すること。

われわれの三つの主要戦力―艦隊、労働者、陸軍部隊―を合わせて、かならず(イ)電話局、(ロ)電信局、(ハ)鉄道停車場、とくに(ニ)橋梁を占領させ、どんな損失もいとわずにそれを確保すること。

決意のもっとも固い分子(われわれの『突撃隊員』と青年労働者、同じくもっとも優秀な水兵)を選抜して小部隊を編成し、すべての最重要地点の占領にあたらせ、またいたるところですべての重要作戦に参加させること。たとえば、

ピーテルを包囲し、遮断し、艦隊、労働者、陸軍部隊の共同攻撃でこれを占領すること。これは、技術と三重の大胆さを必要とする任務である。

小銃と爆弾をもたせてもっともすぐれた労働者の部隊を編成して、全滅しても敵を通すな、というスローガンのもとに、敵の『中心』(士官学校、電信局と電話局、その他)の攻撃と包囲にあたらせること」。

さらに『北部ソビエト大会に参加するボルシェビキの同志への手紙』ではこう述べている。

「問題は、投票や、『エス・エル左派』をひきつけることや、地方のソビエトをふやすことや、ソビエト大会にあるのではない。問題は蜂起にある。蜂起を決定することができ、また決定しなければならないのは、ピーテル、モスクワ、ヘルシングフォルス、クロンシュタット、ヴィヴォルグ、レーベリである」。

こうして、「2、3日間の闘争」がロシア革命の帰すうを決定すると述べて「ぐずぐずせず」即時行動に出ることを訴えたのであった。

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1917年にアメリカの雑誌に掲載されたトロツキーの風刺画

この日予備議会の第一回会議がマリンスキー宮で開催された。

予備議会に集まった人々の関心の最大のものは一体ボルシェビキがどういう態度をとるであろうかということだった。スハノフによれば、協調派は不安の念に駆られてアウクセンチェフをボルシェビキ党に派遣して「どういうことになるのか」と質問させたという。それに対してトロツキーはこう答えた。「いやなにもおこりはしない。ただ、ほんのちょっとピストルを一つぶっぱなすだけだ」。

会議が始まってからボルシェビキは特別声明を行うために十分間の時間を与えられた。党を代表して登壇したトロツキーは述べた。

「まず第一に、民主主義会議はケレンスキーを抑制するために招集されたと考えられるが、現在政府はこの会議の招集される以前と同様に無責任をきわめている。そして支配階級の代表たちはそうする権利をみじんも持たないほどの多数をもってこの臨時評議会に出席している」

「もしもブルジョアジーが憲法制定議会を一か月半後に招集するように真に準備しているならば、彼らの指導者たちはこんな欺瞞的な代表にたいしてさえ政府の無責任を現在かくも兇暴に擁護する理由はなに一つなかったであろう。問題の本質はブルジョア階級が憲法制定会議を破棄しようと決心したということである」。

トロツキーはさらに工業政策、農業政策、食糧政策への弾劾を行った後、「革命的な首都をドイツ軍隊に明け渡そうと考え、...われわれはそれを...反革命的陰謀を促進させるための全般的政策の自然の一環であると考えるのである」と述べた。ここでごうごうたる批判と野次が浴びせられた。憎悪に満ちた怒号のなかでトロツキーは演説を次のように結んだ。

「ボルシェビキ・フラクションは、人民を裏切るこの政府や反革命を黙認しているこの評議会とは、なんら共通のものを持たないということを声明する。......臨時委員会から引き上げるにあたって、われわれは全ロシアの労働者、兵士、農民諸君にむかって、警戒せよ、勇敢であれ!と訴える。ペトログラードは危険におちいっている!革命は危険におちいっている!...われわれは人民大衆によびかける。全権力をソビエトへ!」

トロツキーが壇上を下りるとともに数十人のボルシェビキは呪詛を浴びながら会場を去った。民主主義派とボルシェビキの決定的絶縁が行われたのである。

外務大臣テレシチェンコはロシアの在外大使にむかって、予備議会の開会に関する秘密電報を打った。「第一回会議は、ボルシェビキが惹起するスキャンダルを除き、平穏裏にすぎたり」と。しかしこの「スキャンダル」が自らの死を意味するものであることについて彼らは無自覚であった。


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ペトログラードの労働者赤衛兵

前線の崩壊はペトログラードに対するドイツの脅威を切迫したものとしていた。ドイツ艦隊は海からペトログラードを直接狙っていた。

ところが支配階級はその愛国的、好戦的言辞にかかわらがペトログラードを放棄して首都をモスクワに移転する準備をすすめていた。彼らはペトログラードを失う危険よりも、ペトログラードの革命派の拠点、ソビエトやバルチック艦隊が粉砕されることのほうが望ましいと考えていた。ボルシェビキとドイツ軍をはかりにかけたとき、有産階級にとってはドイツ軍のほうがよほどましであった。

前国会議長ロジャンコはモスクワの自由主義新聞「ウトロ・ロッシイ」紙上で率直に語った。

「予は独語する。神よ、ペトログラードを助けたまえ、と......ペトログラードでは中央諸機関(ソビエトその他)が破壊されはすまいかということが心配されていた。これにたいして予はこうこたえる。もしもこれらの機関が破壊されたなら、予はどんなに歓ぶであろうか。なぜなら、これらの機関はロシアに害毒以外のなにものももちらさなかったからである」。

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バルチック艦隊の革命派水兵たち

一方、革命的労働者と兵士は真剣にペトログラードの防衛のために闘おうとしていた。それはいささかも「祖国防衛」的な見地からでなく、こうした内外の有産階級の攻撃から革命の砦を守るという問題が巌然と提起されていたからである。

「彼らは革命の防衛としての彼らの立場と帝国主義戦争への不本意な参加者としての立場との間の深刻な矛盾を、全戦線のどの部隊よりもいっそう明瞭に、いっそう深刻に理解していた。そして、彼らの軍隊内にある無線局をとおして、全世界にむかって国際的革命的援助をおくれと絶叫した。『優勢なドイツ軍によって攻撃されたわれわれの艦隊は、劣勢な戦闘において滅びゆくであろう。わが艦隊は、一隻たりとも戦闘を回避しはしない。誹謗され、悪罵された艦隊は、自己の義務を尽くすであろう...だが、それは革命の長い間の隠忍によって支配している憐れむべきロシア・ボナパルトの命令によってでもなければ...ロシアの自由の手足を鎖につないでいるわが支配者たちと同盟国との条約においてでもない...』

否、それは革命のるつぼペトログラードへの道を防衛するためである。『バルチック海の波浪がわれわれの兄弟たちの血によってそめられるとき、波浪が彼らの亡骸の上にとじるとき、われわれは声高らかに叫ぶ...全世界の被抑圧民衆諸君!反乱の旗をかかげよ!』」(『ロシア革命史』)

この日、ペトログラードソビエトの兵士フラクションは満場一致でトロツキーの提出した決議文を採択した。

「もしも臨時政府がペトログラードを防衛することができないならば、政府はよろしく和平を締結するか、または他の政府とかわるべきである」。

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モスクワを通じて加えられたレーニンの圧力はこの日の中央委員会会議においてようやく実を結んだ。それは予備議会ボイコットをめぐってであった。

すでに述べたように予備議会をボイコットするか否かの問題はレーニンの執拗なボイコット論にもかかわらず、党指導部のなかでは意見が分かれたままで統一見解は出ていなかった。しかしこの日の中央委員会は、二日後に迫った予備議会を前にしてボイコットの方針をついに決定した。それは党が全体として反乱の道へ踏み出すことを意味していた。

メンシェビキのスハノフは書いている。

「予備議会から彼の軍隊をつれだしたトロツキーは、決定的に暴力革命にむかって進路を向けつつあったのである」。

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モスクワでのボルシェビキ派兵士のデモンストレーション(17年10月)


4月のときと同様のボルシェビキ党指導部の優柔不断に対する闘いを党の地方機関、下部機関に依拠しつつ行ってきたレーニンの努力は、この日ボルシェビキ党モスクワ事務局の名でロモフによって中央委員会に報告された決議として表現されている。


9月末にモスクワ事務局はレーニンの示唆を受けて中央委員会に痛烈に反対する決議を採択し、党中央の優柔不断を非難し、反乱への明確な、決定的な道をとることを要求していた。


しかしこのモスクワ事務局の報告に対して中央委員会は討議しない、という対応で済ませてしまったのである。

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着色レーニン


この日、レーニンは「ボルシェビキは国家権力を維持できるか」を執筆。この論文はパンフレットとしてすぐさま発行された。


このなかでレーニンは、カデットやエス・エルやメンシェビキが「ボルシェビキには権力をとる気などさらさらないし、とったとしてもそれはすぐに崩壊するだろう」と述べ立てていることに一つひとつ反論し、あらゆる条件からボルシェビキは権力を奪取、維持できるし、またしなければならないことを主張した。


「正義だけでは、搾取に憤激した大衆の感情だけでは、けっしてかれらを社会主義への正しい道にみちびくことはできないであろう。しかし、資本主義のおかげで大銀行、シンジケート、鉄道、その他の物的機関が生まれているからには、先進国のきわめて豊富な経験が技術的奇跡のたくわえを積みかさねたのに、資本主義がその応用を妨げているからには、また、自覚した労働者が、すべての勤労被搾取者の支持を得て、計画的にこの機関を掌握し、これを動かすために、25万人の党に結束しているからには、―これらの条件が存在しているからには、もしボルシェビキが、おじけづかずに、権力を掌握して世界社会主義革命の勝利の日までそれを維持することができるならば、この地上にはボルシェビキを妨げる力はないであろう」と。


この日、レーニンは中央委、ペトログラード委、モスクワ委そしてペトログラードとモスクワソビエトのボルシェビキ派へ手紙を書き、ペトログラードではなく、モスクワで蜂起を開始する可能性を述べている。


レーニンは、こうしてあらゆる手段、方法をつくして武装蜂起にむけた全党の体制づくりを指導しようとしていた。

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この日、レーニンは『危機は熟した』を執筆。本文は六章構成から成り、第一章―第三章と第五章は(旧暦)10月7日の「ラボーチー・プーチ(ボルシェビキの日刊紙「労働者の道」の意)」紙に掲載された。

そのなかでレーニンはドイツにおける兵士の反乱の開始にふれ、すべての国の革命家のうち比較的多くの自由を享受しているロシアのボルシェビキこそが国際主義的任務を貫徹するためにも断固たる攻撃に打って出るべきことを主張している。

彼は農民蜂起の激発と少数民族の臨時政府からの離反に触れて、全国民的な規模で「危機が熟して」いることを訴えた。そして第六章において、特に「ここまでは印刷に付してさしつかえないが、これ以下は、中央委員会、ペトログラード委員会、モスクワ委員会、ソビエトの諸君に配布するためのもの」として、党中央の動揺を鋭く批判し、直接ソビエトのメンバーに即時の蜂起を訴えたのである。

「わが党の中央委員会と党上層部のなかに、ソビエト大会を待つことに賛成し、権力をただちに掌握することに反対し、蜂起をただちにおこすことに反対する潮流または意見があるという事実を、認めなければならない。この潮流または意見を、克服しなければならない。......そうしなければ、ボルシェビキは永久に恥をさらし、党としておしまいになってしまうだろう」。

「ソビエト大会を『待つ』のは、このうえない愚行である。なぜなら、それは何週間もむだにすることを意味しているが、いまは、何週間かが、それどころか何日かがすべてを決するからである」。

「ソビエト大会を『待つ』のは愚行である。なぜなら、この大会は、なにももたらさないだろうし、またなにももたらすことはできないからである!......まずケレンスキーを打ち破り、それから大会を招集せよ」。

「いまならボルシェビキは蜂起の勝利を保障されている。

(1)われわれは(ソビエト大会を『待ち』さえしなければ)ピーテル(ペトログラード)、モスクワ、バルチック艦隊の三地点からふいに攻撃することができる。

(2)われわれは、われわれに支持を保障してくれるスローガンをもっている。地主にたいする農民の蜂起を弾圧する政府を倒せ!というのがそれである。

(3)われわれは、国内で多数派である。

(4)メンシェビキとエス・エルは完全に瓦解している。

(5)われわれは、モスクワで権力を掌握する技術的可能性をもっている(敵の不意をうつために、モスクワで口火を切ることもできるだろう)。

(6)われわれはピーテルに幾千の武装した労働者と兵士をもっており、彼らは、冬宮をも、一挙に占領することができる。そこからわれわれを追いだすことはできまい。他方、軍隊内では、平和をもたらし、土地を農民に与える等々のこの政府とたたかうことを不可能にするような扇動がおこなわれるだろう」

「いま権力を掌握しないで『待つ』のは、中央執行委員会でおしゃべりをし、『機関』(ソビエトの)『奪取の闘争』や『大会のための闘争』にとどめるのは、革命を滅ぼすことを意味する」。

こうした強い口調で動揺する「上層部」を批判したレーニンは、さらに中央委員会にあてたレーニンの書簡が完全に無視されていることに怒りをぶちまけ「私は、中央委員の辞任願いを出さざるをえない。私はこの願いを出すが、党の下部や党大会で扇動する自由を保留することにする」と書いた。

つまり彼は中央委員会に対して下からの断固たる戦いを挑むという最後通牒を発したのである。こうしたレーニンの連日発せられる倦むことを知らぬ檄は、まず下部のボルシェビキ地区組織をつき動かし蜂起に向けた圧力を「上層部」に対して強めていった。

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17年革命直前の時期のロシア小作農民

ここでレーニンも指摘している農民の反乱について触れておこう。二月革命の後、やや遅れて、地主に対する小作料削減、土地・山林の占拠の闘いに入っていった農民たちは今や「土地を農民へ」という、臨時政府によってはまったく手がつけられようともしない約束を、自らの実力で実現しつつあった。

「9月に農業争議にまきこまれた所有地の数は、8月より30%増加し、10月には9月より43%増加した。9月と10月の最初の三週間とに、3月以来記録された全農業争議の三分の一以上の事件がおこった。だが、その断固たる尖鋭さは、その数の増大よりも比較にならぬほど急速に増大した。最初の数か月の間、さまざまな付属物の直接没収さえ、妥協主義的機関によってカムフラージュされ、緩和された契約の様相をおびていた。いまや合法的仮面はかなぐりすてられた。運動のあらゆる部門は、いっそう大胆な性格をおびた。農民は多種多様な形式と程度の圧迫から、地主の仕事のさまざまな部分の暴力的没収へ、貴族の巣の掃滅へ、領主の邸の焼き討ちへ、それどころか地主や管理人の殺害へと移行しつつあった」(『ロシア革命史』)。

こうして、伝統的な農民の政党たる社会革命党は急激にその支持基盤を喪失し、農民たちは左翼エス・エルの水路を通してではあれ十月革命の道に合流していった。

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レーニンとカリーニン

9月28日に、レーニンがボルシェビキ党中央委員会に手紙を送り、即時権力奪取を提言したところ中央委員会がそれを事実上無視し、レーニンの主張に反対したことを述べた。「ソビエト大会を待たずに」武装蜂起し、ケレンスキーを打倒することが必要であると考えていたレーニンは、中央委員会の逡巡と抵抗に対する断固たる闘いを開始した。

この日レーニンは、フィンランドソビエト議長でありボルシェビキ内最左派ともいえる主張を行っていたスミルガにあてて長文の手紙を書いた。

「いったいわれわれはなにをしているのか?ただ決議をしているだけなのか?われわれはいたずらに時を失いつつある。時日を決めているだけだ(10月20日-ソビエト大会-こんなふうにして遅延させるのは滑稽千万ではないか?)。ボルシェビキは、彼らの武装部隊にケレンスキー打倒の準備をさせる組織的な活動をやってはいない......われわれは武装反乱にたいし、真剣な態度をとるように党内で扇動しなければならぬ......それから君の役割に関しては......最も忠実な水兵ならびに兵士の秘密委員会を組織するために、彼らとこの問題をあらゆる方面から討議し、ペトログラード内外の軍隊の構成と位置、フィンランド軍隊のペトログラード輸送、艦隊の動静等々に関し、最も正確な情報を蒐集したまえ(そして君自身それを確かめなくてはならない)」

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スミルガ

レーニンはさらに「このフィンランドに駐屯しているコサック軍の間で、組織的な宣伝をおこなう」ことを要求した。「......われわれはコサックの態度に関する一切の情報を研究し、フィンランドにあるわれわれの最も優秀な水兵と兵士のうちから、扇動隊を組織して派遣しなければならぬ」と。そして最後に「正しい心の準備のために、われわれはつぎのようなスローガンをただちに流布しなければならぬ。—権力は即時ペトログラードソビエトの手にうつらねばならぬ。ペトログラードソビエトはそれをソビエト大会にひきわたすであろう。いったいなぜ戦争のため、それからケレンスキーにコルニーロフ的準備をおこなわせるために、この上さらに三週間も我慢しなければならぬのか?」

レーニンはスミルガに檄することをとおして、ペトログラードソビエトが動かないという最悪の事態を計算に入れながらフィランドのソビエト、軍隊、艦隊に依拠してペトログラードの外部から臨時政府を打倒するということまで考えていたのである。彼はここで再び、ソビエト大会前に権力を奪取して、その権力をソビエト大会に既成事実として突きつけるという考えを展開している。こうしたレーニンの提案は、直接の戦術的提起としては実現しなかったが、動揺する中央委員会に問題を極度に鋭く提起することによって一切のあいまいを許さず、蜂起の問題を実践的に煮つめていく左からの推進力となったのである。

レーニンはすでに9月17日に党中央委との連絡を密にするために極秘裏にヴィボルグに移り住んでいた。

「レーニンは孤立した地下生活において支配しうる一切の手段をつくして、党幹部に情勢の尖鋭さと大衆的圧力の力とを感じさせようとつとめつつあった。彼は個々のボルシェビキ党員を自分の隠れ家によびよせ、パルチザン的訊問にかけ、指導者たちの言動をテストし、中央委員会をして必要の前に行動し、徹底的に貫徹せざるをえないようにさせるために、間接手段で自分のスローガンを-深く-浸透させた」(『ロシア革命史』)。

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ルーマニア方面軍兵士の集会

ソビエトの急速な革命化に恐怖した協調派は、(旧暦)23日のソビエト中執委決定を早くもくつがえそうとした。彼らは10月20日の大会召集をなんとか中止したいと考えたのである。

この日の労兵ソビエト中執委事務局で、メンシェビキのダンは23日の決定に反対を表明したが失敗した。トロツキーはこの事務局会議で「もしも諸君が大会を立憲的な方法で招集しないなら、大会は革命的な方法で招集されるであろう」と演説した。それは中執委がソビエト大会をボイコットする場合は、ペトログラードソビエトか、他の地方ソビエトが共同して大会を招集し開催する、という宣言だった。

この日、前線軍での注目すべき動きとして、ルーマニア方面軍第8軍所属の歩兵第32師団諸委員会合同会議で、(旧暦)25日の第165師団の「ただちに世界的殺りくを中止するよう要求する」という決議への同調が満場一致で決定されるとともに、第165師団とともに首都へ代表団を送ること、キエフ、オデッサ、ハリコフ、モスクワ等の部隊にオルグを送ること、もしも要求がペトログラードで拒否されたなら、ただちに独自で和平交渉にとりかかるということを決めたのである。

前線はもはや「和平」を座して待ってはいなかった。


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赤衛兵たちとトロツキー


民主主義会議の後の、協調派と自由主義派のボス交の産物として現政府を拡大するというかたちで第三次連立政府がこの日成立した。


協調派では第二次連立政府に入閣していたアウクセンチェフ(内相)、チェルノフ(農相)、スコベレフ(労相)といった幹部連中が皆政府をぬけて、代りにニキーチン(郵便電信相)、グボズヂェフ(労相)、マリャントービチ(法相)といったところに代った。一方ブルジョアジーの方では、ネクラーソフ(副首相兼蔵相)、エフレーモフ(厚生相)がやめて、コノバリョフ(副首相兼商工相)、キシキン(厚生相、カデット党員)、トレチャコフ(無任所相兼経済会議議長)、スミルノフ(会計検査院長、モスクワ地方戦時工業委議長)といった有力者が入閣した。


これは最後の臨時政府であり、十月革命で打倒された政府である。その生命はちょうど一か月であった。


一方この日ペトログラードソビエトは新幹部会を選出した。議長にはトロツキーが選ばれた。新幹部会はボルシェビキ4、エス・エル2、メンシェビキ1から成っていた。同時に執行委も改選され労働者部会からはボルシェビキ13、エス・エル6、メンシェビキ3が、兵士部会からは、左翼エス・エル10、ボルシェビキ9、メンシェビキ3が選ばれた。

またこの日のソビエト総会は、成立したばかりの第四次臨時政府=第三次連合政府に不信任を表明し、来たるべき全ロシア労兵ソビエト大会は真に革命的な政権を樹立するであろう、と決議した。

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レーニンはこう書いている。

「ソビエト大会は、10月20日に延期された。ロシアの生活のテンポからすれば、これはほとんど無期延期に等しい。エス・エルとメンシェビキが4月20-21日いらい演じてきた茶番が、またしてもくりかえされている」。

レーニンは早くもこのときから、いつ開かれるかわからないソビエト大会を待たずに、即時権力を奪取すべきことを考えはじめていたようである。

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レーニンとトロツキー

この日、民主主義評議会の初会議が行われ、協調派指導部のケレンスキーへの妥協が109対84対22で承認された。早くも予備議会の真の性格が鮮明になってきた。前日に引きつづいて、レーニンはこう書いている。

「トロツキーがボイコットに賛成した。でかした、同志トロツキー!.......民主主義会議にあつまったボルシェビキ代表団のなかでは、ボイコットの立場が敗北した。 ボイコット万歳! われわれは、民主主義会議への参加を断じて容認できないし、また容認すべきでない。一会議の代表団は、党の最高機関ではない。また、最高機関の決定でも、生活の経験にもとづいて改訂しなければならない」。

「わが党の『議会的』上層部では、かならずしも万事がうまくいってはいない。彼らにもっと注意をはらわなければならない。労働者がもっと彼らを監督しなければならない。議員団の権限をもっと厳密に規定しなければならない......わが党の誤りは明白である。先進的階級のたたかう党にとって、誤りは恐ろしいものではない。恐ろしいのは、誤りに固執することであり、誤りをみとめて訂正するのをあやまって恥ずかしがることであろう」(『政論家の日記から』)

こうして、レーニンは動揺する党の「上層」に対して下からの監視と統制を強めるべきことを主張したのである。

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ミンスク・ソビエトの集会

一方、この頃ソビエト内では第二回全国労兵ソビエト大会の招集が大きな問題となっていた。6月の第1回大会では「大会は三か月に一回召集される」と決議していたので、9月末までには第2回大会が招集されるはずだった。とくにコルニーロフ反乱以降の権力問題を解決するために第2回大会を招集せよという声が急速に高まりつつあった。

レーベリ、エストニア地方、ゲリシンフォルス、フィンランド地方、トムスク、ツァーリツィン、サフトフ、ペトログラード、ミンスクなどの各ソビエトは次々にソビエト大会即時招集を要求した。協調派に支配された労兵ソビエト中執委は、なんとか大会を繰り延べしたいと考えていたが、こうした圧力に押されてついにこの日、10月20日に大会を招集することを中央執行委員会の満場一致で決議した。


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着色レーニン

民主主義会議が政権問題について何の決定も行うことができずすべてを「予備議会」に移してしまったことは、ケレンスキーやカデットと協調主義者の裏取り引きによって政権問題が決められていくということを意味していた。

アウクセンチェフ、ゴッツらの協調派幹部は、このケレンスキーやカデットの強い主張の前に、予備議会で責任内閣制を獲得するよう努力する、というところまで後退してしまった。

大衆の沸騰と革命的攻勢にもかかわらず、「二重権力」は協調派にとってはブルジョアジーに「責任内閣制」を約束してもらう、というところにまで落ち込んでしまったのである。

会議は全体で450人。うち有産階級から120人、という予備議会議員の人数枠だけを決めた。新政府の政策についての協定も結ばれなかった。「強力な安定した政権」の幻想はまたしても粉砕された。この会談では、コルニーロフ反乱に敗北したカデット派の方が協調派より攻勢的だった。ブルジョアジーとの妥協をあくまで求めるメンシェビキやエス・エル指導部は、自党内部からのカデット排除の要求にもかかわらず、結局のところカデットの要求を受け入れざるをえなかった。

予備議会がカデットとの連合をおおいかくすイチジクの葉であるということがあきらかであるにもかかわらず、(旧暦)20日の党会議で、予備議会ボイコットのスローガンを否決したボルシェビキはこの日、民主主義会議最終日の席上で、「ボルシェビキは、この新しい妥協主義の要塞の中でブルジョアジーとの新しい連合政府にたいする一切の企図を暴露するために、予備議会にその代表を送るだろう」と言明した。

リヤザノフによって党を代表して発せられたこの宣言は「非常に急進的のようにきこえるが、しかし実際には革命的行動の政策を反対派的暴露の政策にするかえることを意味した」(『ロシア革命史』)のである。

いらいらしながら民主主義会議でのかけひきを見ていたレーニンはこの日、予備議会をボイコットすべきことを主張して次のように書いている。

「一方では、新しい革命が成長しつつある。戦争はたけなわになっている。宣伝・扇動・組織する議会外の手段は巨大である。この予備議会内の『議会的』演壇の意義はとるにたりない。他方では、この予備議会は、諸階級のどんな新しい相互関係も言い現わしていないし、この相互関係に『役立つ』ものでもない。・・・予備議会の本質は、ボナパルティズム的にせものということに尽きる。これがボナパルティズム的にせものだというのは、リーベル、ダン、ツェレテリ、チェルノフらの醜悪な徒党が、ケレンスキー一派といっしょになって、このツェレテリ版ブルイギン国会の顔ぶれをお手盛りでまとめ、偽造したという意味でそうであるだけではなく、また、この予備議会の唯一の使命が、大衆をだまし、労働者と農民をあざむき、成長しつつある新しい革命からかれらをそらせ、古い、すでに試験ずみの、つかいふるしてぼろぼろになった、ブルジョアジーとの『連立』(すなわち、ブルジョアジーがツェレテリ派の諸君を道化者、帝国主義者と人民を隷属させるのを手助けする道化者に変えること)に新しい衣装をまとわせて被抑圧階級の目をくらますことであるという、もっと深い意味ででもそうなのである」

「予備議会はボイコットしなければならない。労働者・兵士・農民代表ソビエトのなかへ、労働組合のなかへ、一般に大衆のところへ行かなければならない。大衆に闘争を呼びかけなければならない。ケレンスキーのボナパルティズム的徒党と、彼のにせ予備議会、このツェレテリ版ブルイギン国会とを追いちらせ、という正しい、明瞭なスローガンを大衆にあたえなければならない。メンシェビキとエス・エルは、コルニーロフ陰謀のあとでさえ、われわれの妥協の申し入れを拒否した。すなわち、権力を平和的にソビエトにうつすのを拒否したのである(その当時には、われわれはまだソビエトのなかで多数を占めてはいなかった)。かれらは、カデットとのけがわらしい、卑劣な取引の泥沼にまたしても落ち込んだ。メンシェビキとエス・エルをたおせ!かれらと無慈悲にたたかえ。かれらをいっさいの革命的組織から容赦なく放逐せよ。キシキンらの味方、コルニーロフ派の地主と資本家の味方であるこの連中とは、どういう話し合いも、どういう交渉もしてはならない」(『政論家の日記から』)。

この予備議会のボイコットというレーニンの方針は、即時の武装蜂起による権力奪取を準備せよ、という展望と密接に結びついていた。

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シベリアの革命拠点・イルクーツク(1917年3月のデモ行進)

この日の民主主義会議では、拡大議長団会議の決定を531対244で承認した。民主主義会議から選出される機関は、「全ロシア民主主義評議会」と名づけられこれに民主主義会議の全権限が移された。その構成は市会45、ゼムストヴォ45、労兵ソビエト38、農民ソビエト38、前線軍26、協同組合24、民族団体25、労働組合21、その他46、計308であった。この評議会は「予備議会」と考えられた。

「必要なだけの比率のブルジョア代表をもって補充されたことの将来の共和国評議会、ないし予備議会は、カデット党との連合政府を是認するという任務をおびるであろう」(『ロシア革命史』)

アウクセンチェフ、ゴッツ、ツェレテリ、チヘイゼという四人の協調派指導部がケレンスキーにこの決議を通告したところケレンスキーは予備会設置とそれに政府が責任を負うことについては承認したものの正式の責任内閣制には反対した。ケレンスキーはまだ自分の手を縛りたくはなかったのである。四人の協調派指導部はケレンスキーの回答に満足してしまった。

予備議会ボイコットをめぐる論争はこの日もボルシェビキ党内でつづけられ、中央委員会内部では9対8でボイコット派が多数になった。しかしそれは未だ党指導部全体の意見にはならなかった。

この日、東シベリアのイルクーツクでは、アナキストの扇動をきっかけに三個連隊をまき込む反乱が起り、軍管区司令官が責任をとらされて政府によって解任される事件が起きている。

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タシケントでの集会(1917年9月)

前日の確認にもとづき、拡大議長団会議が開かれ、民主主義会議から恒久的な代表機関を選出すること、これにあとで有産階級代表を加えさせることを決議した。後者の決議の票決は56対48対10であった。そして政府はこの代表機関に責任を持つことを満場一致で決定した。

なおこの日、中央アジアのタシケントでは「市権力掌握」を宣言したタシケント労兵ソビエトに対して懲罰遠征隊が送られたことに抗議するゼネストが始まっている。

後に予備議会とよばれるこの民主主義会議の代表機関の問題をめぐって、ボルシェビキ中央委員会は民主主義会議へのボルシェビキ党代表と中央委員会、ペトログラード委員会の委員からなる党会議を開催した。

トロツキーは中央委員会を代表して予備議会をボイコットせよというスローガンを提案したが、スベルドロフ、ヨッフェ、スターリンが賛成したものの、カーメネフ、ルイコフ、リヤザノフの頑強な抵抗にあった。この論争の本質は、「党の任務をブルジョア共和国の発展に順応さすべきか、それとも実際に政権の獲得を直接目的とすべきかということであった」(『ロシア革命史』)。

党会議はこの論争を採択に付し50対77でボイコットのスローガンは否決された。




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