ロシア革命100年 今日は何の日?

今年はロシア革命100周年。2月革命から10月革命にいたる8カ月の「今日は何の日」を毎日アップデートしていきます。ネタ元は週刊「世界革命」(現「週刊かけはし」)に1977年2月28日号から78年1月16日号まで43回にわたって連載された「1917年2月から10月へ ロシア永久革命の勝利 ロシア革命60周年」です。

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★11.4シンポジウム★
「世界を揺るがした100年間 ~ 世界史からみたロシア革命」


◦日時:11月4日(土)13時半~18時(13時会場)
◦会場:亀戸文化センター 第1・第2研修室(JR総武線「亀戸」駅 北口)
◦資料代 1000円

★報告★
・森田成也
 世界革命としてのロシア革命――ヨーロッパ、ロシア、アジア

・中村勝己(大学非常勤講師)
 ヨーロッパから見たロシア革命

・江田憲治(京都大学教授、中国現代政治思想史、中国共産党史)
 中国革命をロシア革命の延長線上で考える―陳独秀の場合

★コメント★
・長堀祐造(慶應義塾大学教授、中国近現代文学-魯迅及びその周辺)

◦主 催:ロシア革命100周年シンポジウム実行委員会
共 催:トロツキー研究所、アジア連帯講座、東アジア研究会
連絡先:東京都渋谷区初台1─50─4─103 新時代社気付


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1917年にアメリカの雑誌に掲載されたトロツキーの風刺画

この日予備議会の第一回会議がマリンスキー宮で開催された。

予備議会に集まった人々の関心の最大のものは一体ボルシェビキがどういう態度をとるであろうかということだった。スハノフによれば、協調派は不安の念に駆られてアウクセンチェフをボルシェビキ党に派遣して「どういうことになるのか」と質問させたという。それに対してトロツキーはこう答えた。「いやなにもおこりはしない。ただ、ほんのちょっとピストルを一つぶっぱなすだけだ」。

会議が始まってからボルシェビキは特別声明を行うために十分間の時間を与えられた。党を代表して登壇したトロツキーは述べた。

「まず第一に、民主主義会議はケレンスキーを抑制するために招集されたと考えられるが、現在政府はこの会議の招集される以前と同様に無責任をきわめている。そして支配階級の代表たちはそうする権利をみじんも持たないほどの多数をもってこの臨時評議会に出席している」

「もしもブルジョアジーが憲法制定議会を一か月半後に招集するように真に準備しているならば、彼らの指導者たちはこんな欺瞞的な代表にたいしてさえ政府の無責任を現在かくも兇暴に擁護する理由はなに一つなかったであろう。問題の本質はブルジョア階級が憲法制定会議を破棄しようと決心したということである」。

トロツキーはさらに工業政策、農業政策、食糧政策への弾劾を行った後、「革命的な首都をドイツ軍隊に明け渡そうと考え、...われわれはそれを...反革命的陰謀を促進させるための全般的政策の自然の一環であると考えるのである」と述べた。ここでごうごうたる批判と野次が浴びせられた。憎悪に満ちた怒号のなかでトロツキーは演説を次のように結んだ。

「ボルシェビキ・フラクションは、人民を裏切るこの政府や反革命を黙認しているこの評議会とは、なんら共通のものを持たないということを声明する。......臨時委員会から引き上げるにあたって、われわれは全ロシアの労働者、兵士、農民諸君にむかって、警戒せよ、勇敢であれ!と訴える。ペトログラードは危険におちいっている!革命は危険におちいっている!...われわれは人民大衆によびかける。全権力をソビエトへ!」

トロツキーが壇上を下りるとともに数十人のボルシェビキは呪詛を浴びながら会場を去った。民主主義派とボルシェビキの決定的絶縁が行われたのである。

外務大臣テレシチェンコはロシアの在外大使にむかって、予備議会の開会に関する秘密電報を打った。「第一回会議は、ボルシェビキが惹起するスキャンダルを除き、平穏裏にすぎたり」と。しかしこの「スキャンダル」が自らの死を意味するものであることについて彼らは無自覚であった。


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ペトログラードの労働者赤衛兵

前線の崩壊はペトログラードに対するドイツの脅威を切迫したものとしていた。ドイツ艦隊は海からペトログラードを直接狙っていた。

ところが支配階級はその愛国的、好戦的言辞にかかわらがペトログラードを放棄して首都をモスクワに移転する準備をすすめていた。彼らはペトログラードを失う危険よりも、ペトログラードの革命派の拠点、ソビエトやバルチック艦隊が粉砕されることのほうが望ましいと考えていた。ボルシェビキとドイツ軍をはかりにかけたとき、有産階級にとってはドイツ軍のほうがよほどましであった。

前国会議長ロジャンコはモスクワの自由主義新聞「ウトロ・ロッシイ」紙上で率直に語った。

「予は独語する。神よ、ペトログラードを助けたまえ、と......ペトログラードでは中央諸機関(ソビエトその他)が破壊されはすまいかということが心配されていた。これにたいして予はこうこたえる。もしもこれらの機関が破壊されたなら、予はどんなに歓ぶであろうか。なぜなら、これらの機関はロシアに害毒以外のなにものももちらさなかったからである」。

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バルチック艦隊の革命派水兵たち

一方、革命的労働者と兵士は真剣にペトログラードの防衛のために闘おうとしていた。それはいささかも「祖国防衛」的な見地からでなく、こうした内外の有産階級の攻撃から革命の砦を守るという問題が巌然と提起されていたからである。

「彼らは革命の防衛としての彼らの立場と帝国主義戦争への不本意な参加者としての立場との間の深刻な矛盾を、全戦線のどの部隊よりもいっそう明瞭に、いっそう深刻に理解していた。そして、彼らの軍隊内にある無線局をとおして、全世界にむかって国際的革命的援助をおくれと絶叫した。『優勢なドイツ軍によって攻撃されたわれわれの艦隊は、劣勢な戦闘において滅びゆくであろう。わが艦隊は、一隻たりとも戦闘を回避しはしない。誹謗され、悪罵された艦隊は、自己の義務を尽くすであろう...だが、それは革命の長い間の隠忍によって支配している憐れむべきロシア・ボナパルトの命令によってでもなければ...ロシアの自由の手足を鎖につないでいるわが支配者たちと同盟国との条約においてでもない...』

否、それは革命のるつぼペトログラードへの道を防衛するためである。『バルチック海の波浪がわれわれの兄弟たちの血によってそめられるとき、波浪が彼らの亡骸の上にとじるとき、われわれは声高らかに叫ぶ...全世界の被抑圧民衆諸君!反乱の旗をかかげよ!』」(『ロシア革命史』)

この日、ペトログラードソビエトの兵士フラクションは満場一致でトロツキーの提出した決議文を採択した。

「もしも臨時政府がペトログラードを防衛することができないならば、政府はよろしく和平を締結するか、または他の政府とかわるべきである」。

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モスクワを通じて加えられたレーニンの圧力はこの日の中央委員会会議においてようやく実を結んだ。それは予備議会ボイコットをめぐってであった。

すでに述べたように予備議会をボイコットするか否かの問題はレーニンの執拗なボイコット論にもかかわらず、党指導部のなかでは意見が分かれたままで統一見解は出ていなかった。しかしこの日の中央委員会は、二日後に迫った予備議会を前にしてボイコットの方針をついに決定した。それは党が全体として反乱の道へ踏み出すことを意味していた。

メンシェビキのスハノフは書いている。

「予備議会から彼の軍隊をつれだしたトロツキーは、決定的に暴力革命にむかって進路を向けつつあったのである」。

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モスクワでのボルシェビキ派兵士のデモンストレーション(17年10月)


4月のときと同様のボルシェビキ党指導部の優柔不断に対する闘いを党の地方機関、下部機関に依拠しつつ行ってきたレーニンの努力は、この日ボルシェビキ党モスクワ事務局の名でロモフによって中央委員会に報告された決議として表現されている。


9月末にモスクワ事務局はレーニンの示唆を受けて中央委員会に痛烈に反対する決議を採択し、党中央の優柔不断を非難し、反乱への明確な、決定的な道をとることを要求していた。


しかしこのモスクワ事務局の報告に対して中央委員会は討議しない、という対応で済ませてしまったのである。

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着色レーニン


この日、レーニンは「ボルシェビキは国家権力を維持できるか」を執筆。この論文はパンフレットとしてすぐさま発行された。


このなかでレーニンは、カデットやエス・エルやメンシェビキが「ボルシェビキには権力をとる気などさらさらないし、とったとしてもそれはすぐに崩壊するだろう」と述べ立てていることに一つひとつ反論し、あらゆる条件からボルシェビキは権力を奪取、維持できるし、またしなければならないことを主張した。


「正義だけでは、搾取に憤激した大衆の感情だけでは、けっしてかれらを社会主義への正しい道にみちびくことはできないであろう。しかし、資本主義のおかげで大銀行、シンジケート、鉄道、その他の物的機関が生まれているからには、先進国のきわめて豊富な経験が技術的奇跡のたくわえを積みかさねたのに、資本主義がその応用を妨げているからには、また、自覚した労働者が、すべての勤労被搾取者の支持を得て、計画的にこの機関を掌握し、これを動かすために、25万人の党に結束しているからには、―これらの条件が存在しているからには、もしボルシェビキが、おじけづかずに、権力を掌握して世界社会主義革命の勝利の日までそれを維持することができるならば、この地上にはボルシェビキを妨げる力はないであろう」と。


この日、レーニンは中央委、ペトログラード委、モスクワ委そしてペトログラードとモスクワソビエトのボルシェビキ派へ手紙を書き、ペトログラードではなく、モスクワで蜂起を開始する可能性を述べている。


レーニンは、こうしてあらゆる手段、方法をつくして武装蜂起にむけた全党の体制づくりを指導しようとしていた。

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この日、レーニンは『危機は熟した』を執筆。本文は六章構成から成り、第一章―第三章と第五章は(旧暦)10月7日の「ラボーチー・プーチ(ボルシェビキの日刊紙「労働者の道」の意)」紙に掲載された。

そのなかでレーニンはドイツにおける兵士の反乱の開始にふれ、すべての国の革命家のうち比較的多くの自由を享受しているロシアのボルシェビキこそが国際主義的任務を貫徹するためにも断固たる攻撃に打って出るべきことを主張している。

彼は農民蜂起の激発と少数民族の臨時政府からの離反に触れて、全国民的な規模で「危機が熟して」いることを訴えた。そして第六章において、特に「ここまでは印刷に付してさしつかえないが、これ以下は、中央委員会、ペトログラード委員会、モスクワ委員会、ソビエトの諸君に配布するためのもの」として、党中央の動揺を鋭く批判し、直接ソビエトのメンバーに即時の蜂起を訴えたのである。

「わが党の中央委員会と党上層部のなかに、ソビエト大会を待つことに賛成し、権力をただちに掌握することに反対し、蜂起をただちにおこすことに反対する潮流または意見があるという事実を、認めなければならない。この潮流または意見を、克服しなければならない。......そうしなければ、ボルシェビキは永久に恥をさらし、党としておしまいになってしまうだろう」。

「ソビエト大会を『待つ』のは、このうえない愚行である。なぜなら、それは何週間もむだにすることを意味しているが、いまは、何週間かが、それどころか何日かがすべてを決するからである」。

「ソビエト大会を『待つ』のは愚行である。なぜなら、この大会は、なにももたらさないだろうし、またなにももたらすことはできないからである!......まずケレンスキーを打ち破り、それから大会を招集せよ」。

「いまならボルシェビキは蜂起の勝利を保障されている。

(1)われわれは(ソビエト大会を『待ち』さえしなければ)ピーテル(ペトログラード)、モスクワ、バルチック艦隊の三地点からふいに攻撃することができる。

(2)われわれは、われわれに支持を保障してくれるスローガンをもっている。地主にたいする農民の蜂起を弾圧する政府を倒せ!というのがそれである。

(3)われわれは、国内で多数派である。

(4)メンシェビキとエス・エルは完全に瓦解している。

(5)われわれは、モスクワで権力を掌握する技術的可能性をもっている(敵の不意をうつために、モスクワで口火を切ることもできるだろう)。

(6)われわれはピーテルに幾千の武装した労働者と兵士をもっており、彼らは、冬宮をも、一挙に占領することができる。そこからわれわれを追いだすことはできまい。他方、軍隊内では、平和をもたらし、土地を農民に与える等々のこの政府とたたかうことを不可能にするような扇動がおこなわれるだろう」

「いま権力を掌握しないで『待つ』のは、中央執行委員会でおしゃべりをし、『機関』(ソビエトの)『奪取の闘争』や『大会のための闘争』にとどめるのは、革命を滅ぼすことを意味する」。

こうした強い口調で動揺する「上層部」を批判したレーニンは、さらに中央委員会にあてたレーニンの書簡が完全に無視されていることに怒りをぶちまけ「私は、中央委員の辞任願いを出さざるをえない。私はこの願いを出すが、党の下部や党大会で扇動する自由を保留することにする」と書いた。

つまり彼は中央委員会に対して下からの断固たる戦いを挑むという最後通牒を発したのである。こうしたレーニンの連日発せられる倦むことを知らぬ檄は、まず下部のボルシェビキ地区組織をつき動かし蜂起に向けた圧力を「上層部」に対して強めていった。

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17年革命直前の時期のロシア小作農民

ここでレーニンも指摘している農民の反乱について触れておこう。二月革命の後、やや遅れて、地主に対する小作料削減、土地・山林の占拠の闘いに入っていった農民たちは今や「土地を農民へ」という、臨時政府によってはまったく手がつけられようともしない約束を、自らの実力で実現しつつあった。

「9月に農業争議にまきこまれた所有地の数は、8月より30%増加し、10月には9月より43%増加した。9月と10月の最初の三週間とに、3月以来記録された全農業争議の三分の一以上の事件がおこった。だが、その断固たる尖鋭さは、その数の増大よりも比較にならぬほど急速に増大した。最初の数か月の間、さまざまな付属物の直接没収さえ、妥協主義的機関によってカムフラージュされ、緩和された契約の様相をおびていた。いまや合法的仮面はかなぐりすてられた。運動のあらゆる部門は、いっそう大胆な性格をおびた。農民は多種多様な形式と程度の圧迫から、地主の仕事のさまざまな部分の暴力的没収へ、貴族の巣の掃滅へ、領主の邸の焼き討ちへ、それどころか地主や管理人の殺害へと移行しつつあった」(『ロシア革命史』)。

こうして、伝統的な農民の政党たる社会革命党は急激にその支持基盤を喪失し、農民たちは左翼エス・エルの水路を通してではあれ十月革命の道に合流していった。

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レーニンとカリーニン

9月28日に、レーニンがボルシェビキ党中央委員会に手紙を送り、即時権力奪取を提言したところ中央委員会がそれを事実上無視し、レーニンの主張に反対したことを述べた。「ソビエト大会を待たずに」武装蜂起し、ケレンスキーを打倒することが必要であると考えていたレーニンは、中央委員会の逡巡と抵抗に対する断固たる闘いを開始した。

この日レーニンは、フィンランドソビエト議長でありボルシェビキ内最左派ともいえる主張を行っていたスミルガにあてて長文の手紙を書いた。

「いったいわれわれはなにをしているのか?ただ決議をしているだけなのか?われわれはいたずらに時を失いつつある。時日を決めているだけだ(10月20日-ソビエト大会-こんなふうにして遅延させるのは滑稽千万ではないか?)。ボルシェビキは、彼らの武装部隊にケレンスキー打倒の準備をさせる組織的な活動をやってはいない......われわれは武装反乱にたいし、真剣な態度をとるように党内で扇動しなければならぬ......それから君の役割に関しては......最も忠実な水兵ならびに兵士の秘密委員会を組織するために、彼らとこの問題をあらゆる方面から討議し、ペトログラード内外の軍隊の構成と位置、フィンランド軍隊のペトログラード輸送、艦隊の動静等々に関し、最も正確な情報を蒐集したまえ(そして君自身それを確かめなくてはならない)」

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スミルガ

レーニンはさらに「このフィンランドに駐屯しているコサック軍の間で、組織的な宣伝をおこなう」ことを要求した。「......われわれはコサックの態度に関する一切の情報を研究し、フィンランドにあるわれわれの最も優秀な水兵と兵士のうちから、扇動隊を組織して派遣しなければならぬ」と。そして最後に「正しい心の準備のために、われわれはつぎのようなスローガンをただちに流布しなければならぬ。—権力は即時ペトログラードソビエトの手にうつらねばならぬ。ペトログラードソビエトはそれをソビエト大会にひきわたすであろう。いったいなぜ戦争のため、それからケレンスキーにコルニーロフ的準備をおこなわせるために、この上さらに三週間も我慢しなければならぬのか?」

レーニンはスミルガに檄することをとおして、ペトログラードソビエトが動かないという最悪の事態を計算に入れながらフィランドのソビエト、軍隊、艦隊に依拠してペトログラードの外部から臨時政府を打倒するということまで考えていたのである。彼はここで再び、ソビエト大会前に権力を奪取して、その権力をソビエト大会に既成事実として突きつけるという考えを展開している。こうしたレーニンの提案は、直接の戦術的提起としては実現しなかったが、動揺する中央委員会に問題を極度に鋭く提起することによって一切のあいまいを許さず、蜂起の問題を実践的に煮つめていく左からの推進力となったのである。

レーニンはすでに9月17日に党中央委との連絡を密にするために極秘裏にヴィボルグに移り住んでいた。

「レーニンは孤立した地下生活において支配しうる一切の手段をつくして、党幹部に情勢の尖鋭さと大衆的圧力の力とを感じさせようとつとめつつあった。彼は個々のボルシェビキ党員を自分の隠れ家によびよせ、パルチザン的訊問にかけ、指導者たちの言動をテストし、中央委員会をして必要の前に行動し、徹底的に貫徹せざるをえないようにさせるために、間接手段で自分のスローガンを-深く-浸透させた」(『ロシア革命史』)。

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ルーマニア方面軍兵士の集会

ソビエトの急速な革命化に恐怖した協調派は、(旧暦)23日のソビエト中執委決定を早くもくつがえそうとした。彼らは10月20日の大会召集をなんとか中止したいと考えたのである。

この日の労兵ソビエト中執委事務局で、メンシェビキのダンは23日の決定に反対を表明したが失敗した。トロツキーはこの事務局会議で「もしも諸君が大会を立憲的な方法で招集しないなら、大会は革命的な方法で招集されるであろう」と演説した。それは中執委がソビエト大会をボイコットする場合は、ペトログラードソビエトか、他の地方ソビエトが共同して大会を招集し開催する、という宣言だった。

この日、前線軍での注目すべき動きとして、ルーマニア方面軍第8軍所属の歩兵第32師団諸委員会合同会議で、(旧暦)25日の第165師団の「ただちに世界的殺りくを中止するよう要求する」という決議への同調が満場一致で決定されるとともに、第165師団とともに首都へ代表団を送ること、キエフ、オデッサ、ハリコフ、モスクワ等の部隊にオルグを送ること、もしも要求がペトログラードで拒否されたなら、ただちに独自で和平交渉にとりかかるということを決めたのである。

前線はもはや「和平」を座して待ってはいなかった。


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赤衛兵たちとトロツキー


民主主義会議の後の、協調派と自由主義派のボス交の産物として現政府を拡大するというかたちで第三次連立政府がこの日成立した。


協調派では第二次連立政府に入閣していたアウクセンチェフ(内相)、チェルノフ(農相)、スコベレフ(労相)といった幹部連中が皆政府をぬけて、代りにニキーチン(郵便電信相)、グボズヂェフ(労相)、マリャントービチ(法相)といったところに代った。一方ブルジョアジーの方では、ネクラーソフ(副首相兼蔵相)、エフレーモフ(厚生相)がやめて、コノバリョフ(副首相兼商工相)、キシキン(厚生相、カデット党員)、トレチャコフ(無任所相兼経済会議議長)、スミルノフ(会計検査院長、モスクワ地方戦時工業委議長)といった有力者が入閣した。


これは最後の臨時政府であり、十月革命で打倒された政府である。その生命はちょうど一か月であった。


一方この日ペトログラードソビエトは新幹部会を選出した。議長にはトロツキーが選ばれた。新幹部会はボルシェビキ4、エス・エル2、メンシェビキ1から成っていた。同時に執行委も改選され労働者部会からはボルシェビキ13、エス・エル6、メンシェビキ3が、兵士部会からは、左翼エス・エル10、ボルシェビキ9、メンシェビキ3が選ばれた。

またこの日のソビエト総会は、成立したばかりの第四次臨時政府=第三次連合政府に不信任を表明し、来たるべき全ロシア労兵ソビエト大会は真に革命的な政権を樹立するであろう、と決議した。

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レーニンはこう書いている。

「ソビエト大会は、10月20日に延期された。ロシアの生活のテンポからすれば、これはほとんど無期延期に等しい。エス・エルとメンシェビキが4月20-21日いらい演じてきた茶番が、またしてもくりかえされている」。

レーニンは早くもこのときから、いつ開かれるかわからないソビエト大会を待たずに、即時権力を奪取すべきことを考えはじめていたようである。

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レーニンとトロツキー

この日、民主主義評議会の初会議が行われ、協調派指導部のケレンスキーへの妥協が109対84対22で承認された。早くも予備議会の真の性格が鮮明になってきた。前日に引きつづいて、レーニンはこう書いている。

「トロツキーがボイコットに賛成した。でかした、同志トロツキー!.......民主主義会議にあつまったボルシェビキ代表団のなかでは、ボイコットの立場が敗北した。 ボイコット万歳! われわれは、民主主義会議への参加を断じて容認できないし、また容認すべきでない。一会議の代表団は、党の最高機関ではない。また、最高機関の決定でも、生活の経験にもとづいて改訂しなければならない」。

「わが党の『議会的』上層部では、かならずしも万事がうまくいってはいない。彼らにもっと注意をはらわなければならない。労働者がもっと彼らを監督しなければならない。議員団の権限をもっと厳密に規定しなければならない......わが党の誤りは明白である。先進的階級のたたかう党にとって、誤りは恐ろしいものではない。恐ろしいのは、誤りに固執することであり、誤りをみとめて訂正するのをあやまって恥ずかしがることであろう」(『政論家の日記から』)

こうして、レーニンは動揺する党の「上層」に対して下からの監視と統制を強めるべきことを主張したのである。

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ミンスク・ソビエトの集会

一方、この頃ソビエト内では第二回全国労兵ソビエト大会の招集が大きな問題となっていた。6月の第1回大会では「大会は三か月に一回召集される」と決議していたので、9月末までには第2回大会が招集されるはずだった。とくにコルニーロフ反乱以降の権力問題を解決するために第2回大会を招集せよという声が急速に高まりつつあった。

レーベリ、エストニア地方、ゲリシンフォルス、フィンランド地方、トムスク、ツァーリツィン、サフトフ、ペトログラード、ミンスクなどの各ソビエトは次々にソビエト大会即時招集を要求した。協調派に支配された労兵ソビエト中執委は、なんとか大会を繰り延べしたいと考えていたが、こうした圧力に押されてついにこの日、10月20日に大会を招集することを中央執行委員会の満場一致で決議した。


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着色レーニン

民主主義会議が政権問題について何の決定も行うことができずすべてを「予備議会」に移してしまったことは、ケレンスキーやカデットと協調主義者の裏取り引きによって政権問題が決められていくということを意味していた。

アウクセンチェフ、ゴッツらの協調派幹部は、このケレンスキーやカデットの強い主張の前に、予備議会で責任内閣制を獲得するよう努力する、というところまで後退してしまった。

大衆の沸騰と革命的攻勢にもかかわらず、「二重権力」は協調派にとってはブルジョアジーに「責任内閣制」を約束してもらう、というところにまで落ち込んでしまったのである。

会議は全体で450人。うち有産階級から120人、という予備議会議員の人数枠だけを決めた。新政府の政策についての協定も結ばれなかった。「強力な安定した政権」の幻想はまたしても粉砕された。この会談では、コルニーロフ反乱に敗北したカデット派の方が協調派より攻勢的だった。ブルジョアジーとの妥協をあくまで求めるメンシェビキやエス・エル指導部は、自党内部からのカデット排除の要求にもかかわらず、結局のところカデットの要求を受け入れざるをえなかった。

予備議会がカデットとの連合をおおいかくすイチジクの葉であるということがあきらかであるにもかかわらず、(旧暦)20日の党会議で、予備議会ボイコットのスローガンを否決したボルシェビキはこの日、民主主義会議最終日の席上で、「ボルシェビキは、この新しい妥協主義の要塞の中でブルジョアジーとの新しい連合政府にたいする一切の企図を暴露するために、予備議会にその代表を送るだろう」と言明した。

リヤザノフによって党を代表して発せられたこの宣言は「非常に急進的のようにきこえるが、しかし実際には革命的行動の政策を反対派的暴露の政策にするかえることを意味した」(『ロシア革命史』)のである。

いらいらしながら民主主義会議でのかけひきを見ていたレーニンはこの日、予備議会をボイコットすべきことを主張して次のように書いている。

「一方では、新しい革命が成長しつつある。戦争はたけなわになっている。宣伝・扇動・組織する議会外の手段は巨大である。この予備議会内の『議会的』演壇の意義はとるにたりない。他方では、この予備議会は、諸階級のどんな新しい相互関係も言い現わしていないし、この相互関係に『役立つ』ものでもない。・・・予備議会の本質は、ボナパルティズム的にせものということに尽きる。これがボナパルティズム的にせものだというのは、リーベル、ダン、ツェレテリ、チェルノフらの醜悪な徒党が、ケレンスキー一派といっしょになって、このツェレテリ版ブルイギン国会の顔ぶれをお手盛りでまとめ、偽造したという意味でそうであるだけではなく、また、この予備議会の唯一の使命が、大衆をだまし、労働者と農民をあざむき、成長しつつある新しい革命からかれらをそらせ、古い、すでに試験ずみの、つかいふるしてぼろぼろになった、ブルジョアジーとの『連立』(すなわち、ブルジョアジーがツェレテリ派の諸君を道化者、帝国主義者と人民を隷属させるのを手助けする道化者に変えること)に新しい衣装をまとわせて被抑圧階級の目をくらますことであるという、もっと深い意味ででもそうなのである」

「予備議会はボイコットしなければならない。労働者・兵士・農民代表ソビエトのなかへ、労働組合のなかへ、一般に大衆のところへ行かなければならない。大衆に闘争を呼びかけなければならない。ケレンスキーのボナパルティズム的徒党と、彼のにせ予備議会、このツェレテリ版ブルイギン国会とを追いちらせ、という正しい、明瞭なスローガンを大衆にあたえなければならない。メンシェビキとエス・エルは、コルニーロフ陰謀のあとでさえ、われわれの妥協の申し入れを拒否した。すなわち、権力を平和的にソビエトにうつすのを拒否したのである(その当時には、われわれはまだソビエトのなかで多数を占めてはいなかった)。かれらは、カデットとのけがわらしい、卑劣な取引の泥沼にまたしても落ち込んだ。メンシェビキとエス・エルをたおせ!かれらと無慈悲にたたかえ。かれらをいっさいの革命的組織から容赦なく放逐せよ。キシキンらの味方、コルニーロフ派の地主と資本家の味方であるこの連中とは、どういう話し合いも、どういう交渉もしてはならない」(『政論家の日記から』)。

この予備議会のボイコットというレーニンの方針は、即時の武装蜂起による権力奪取を準備せよ、という展望と密接に結びついていた。

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シベリアの革命拠点・イルクーツク(1917年3月のデモ行進)

この日の民主主義会議では、拡大議長団会議の決定を531対244で承認した。民主主義会議から選出される機関は、「全ロシア民主主義評議会」と名づけられこれに民主主義会議の全権限が移された。その構成は市会45、ゼムストヴォ45、労兵ソビエト38、農民ソビエト38、前線軍26、協同組合24、民族団体25、労働組合21、その他46、計308であった。この評議会は「予備議会」と考えられた。

「必要なだけの比率のブルジョア代表をもって補充されたことの将来の共和国評議会、ないし予備議会は、カデット党との連合政府を是認するという任務をおびるであろう」(『ロシア革命史』)

アウクセンチェフ、ゴッツ、ツェレテリ、チヘイゼという四人の協調派指導部がケレンスキーにこの決議を通告したところケレンスキーは予備会設置とそれに政府が責任を負うことについては承認したものの正式の責任内閣制には反対した。ケレンスキーはまだ自分の手を縛りたくはなかったのである。四人の協調派指導部はケレンスキーの回答に満足してしまった。

予備議会ボイコットをめぐる論争はこの日もボルシェビキ党内でつづけられ、中央委員会内部では9対8でボイコット派が多数になった。しかしそれは未だ党指導部全体の意見にはならなかった。

この日、東シベリアのイルクーツクでは、アナキストの扇動をきっかけに三個連隊をまき込む反乱が起り、軍管区司令官が責任をとらされて政府によって解任される事件が起きている。

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タシケントでの集会(1917年9月)

前日の確認にもとづき、拡大議長団会議が開かれ、民主主義会議から恒久的な代表機関を選出すること、これにあとで有産階級代表を加えさせることを決議した。後者の決議の票決は56対48対10であった。そして政府はこの代表機関に責任を持つことを満場一致で決定した。

なおこの日、中央アジアのタシケントでは「市権力掌握」を宣言したタシケント労兵ソビエトに対して懲罰遠征隊が送られたことに抗議するゼネストが始まっている。

後に予備議会とよばれるこの民主主義会議の代表機関の問題をめぐって、ボルシェビキ中央委員会は民主主義会議へのボルシェビキ党代表と中央委員会、ペトログラード委員会の委員からなる党会議を開催した。

トロツキーは中央委員会を代表して予備議会をボイコットせよというスローガンを提案したが、スベルドロフ、ヨッフェ、スターリンが賛成したものの、カーメネフ、ルイコフ、リヤザノフの頑強な抵抗にあった。この論争の本質は、「党の任務をブルジョア共和国の発展に順応さすべきか、それとも実際に政権の獲得を直接目的とすべきかということであった」(『ロシア革命史』)。

党会議はこの論争を採択に付し50対77でボイコットのスローガンは否決された。




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モスクワ・ストラスナヤ広場(現プーシキン広場)での集会に参加する女性たち

(旧暦)14日から開かれていた民主主義会議のヤマ場が最初にこの日に訪れた。権力問題をどう解決するかについての採択が行われた。

会議はまず議長団の提案によって有産階級代表との連立政府をつくることを766対688対38で否決した。エス・エル党のチェルノフ派は保留した。

次にやはり議長団の提起にしたがって、コルニーロフ反乱に加担した分子(カデットを含む)を新政府から排除することを798対139対196で可決した。チェルノフ派は賛成し、メンシェビキ国際派と左翼エス・エルは「連立反対」の観点からこの決議に反対した。ただしボルシェビキは連立そのものに反対であること宣言しつつ決議には賛成投票をした。

第三に、新政府からカデットを排除することを595対493対72で会議は可決した。ボルシェビキ、メンシェビキ国際派、左翼エス・エルは賛成投票をした。ところが最後にこの三決議をまとめてカデット党を除く自由主義者との連立政府をつくるという案を採択に付したところ183対813対80で圧倒的に否決されてしまった。この決議には主要党派としてはメンシェビキ国際派が賛成しただけだった。

ソビエト中央のツェレテリをはじめとする協調派指導部の思惑は、カデットの一部を含むコルニーロフ反乱加担者を除く自由主義者との連立政府をつくることにあった。第一、第二決議はこのツェレテリらの意図を表現するものであった。しかし、第三決議でカデット党そのものの排除が可決されたため、ツェレテリらの意図は崩壊することになったのである。なぜならおよそ「自由主義派」との連立を考える以上、カデットを排除した連立など考えることもできなかったからである。

第三決議は、「民主主義会議」という意図的に協調派に有利に仕つらえられた会議の席上においてすらカデット党への不信がいかに強まっていたかを示すものであった。かくして「カデットを除く自由主義派との連立」なるおよそ無意味な決議は左右両派からの反対にあって破たんすることになったのである。

この民主主義会議の段階でのソビエトの色分けをトロツキーは次のように述べている。

「もしも微細なニュアンスの相違を考えにおかなかったら、民主主義的会議においてつぎの三つのグループをよういに区別することができる。あえて権力を掌握する勇気はなく、連合政権に同意はするがカデットと結びたくない、広汎ではあるがしかし非常に不安定な中央派、無条件にケレンスキーを擁護し、ブルジョアジーとの連合政権を支持する微力な右翼派、ソビエト政府ないし社会主義的政府を支持するこれの二倍の力をもつ左派である」

民主主義的会議へのソビエト代表幹部協議会において、トロツキーはソビエトへの政権の移行を支持する演説をし、マルトフは同質的な社会主義政府を支持する演説をおこなった。第一の公式は86票を獲得し、第二の公式は97票をえた。形式的には、このとき労働者と兵士のソビエトの約二分の一だけがボルシェビキの支配下にあり、他の二分の一はボルシェビキと妥協主義との間を動揺していた。

だが、ボルシェビキは、全国中で最も工業的、文化的な中心の強力なソビエトを代表して演説した。彼らは、大会におけるよりもソビエトにおいて、はかり知れぬほどいっそう強力であり、ソビエトにおけるよりもプロレタリアートと軍隊における方がはかり知れぬほど強大であった。のみならず、立ちおくれたソビエトは、急速に進歩的ソビエトに追いつきつつあった。

権力問題について結局なにも決めることができないというこの協調派の破産は、トロツキーの述べたボルシェビキ派への結集の過程を決定的に促進させた。

協調派指導部は危機に直面した権力問題の解決を切りぬけるためにマヌーバーを弄し、この日のうちに諸党派代表団を加えた拡大議長団会議で問題を検討することを承認させた。

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ソビエト赤衛兵の武装デモ。横断幕に"коммунизм"(共産主義)の文字

この日、ボルシェビキ党中央委員会が開かれ、レーニンの手紙「ボルシェビキは権力を掌握しなければならない」と「マルクス主義と蜂起」が審議に付された。

ちなみに7月の第六回党大会で選出され、十月蜂起の指導部となった中央委員メンバーをあげておこう。レーニン、ジノビエフ、カーメネフ、トロツキー、ベルジン、ブブノフ、ジェルジンスキー、コロンタイ、クレスチンスキー、ミリューチン、ムラノフ、ノギン、ルイコフ、スベルトロフ、セルゲーエフ(アルテム)、スミルガ、ソコリニコフ、スターリン、ウリツキー、シャウマンである。

このレーニンの提起をうけた中央委員会の雰囲気は一口に言って困惑であった。中央委員会のメンバーたちは、権力奪取の問題をレーニンのように鋭く具体的に煮つめて考えてはいなかった。後になってブハーリンは「われわれは、ペトログラードとモスクワでは権力を奪取することに成功するだろうとは信じてはいたが、しかし地方ではまだもちこたえることができないだろう、権力を奪取し、民主主義大会を解散させても、われわれはそれ以外のロシアにおいて自己を強化させることはできないだろうと考えていた」のである。

かくして中央委員会は、このレーニンの危険千万な手紙を一部をのぞいて焼却することを6対4対6で決定したのである。手紙を焼却するというかたちで党中央委員会はレーニンの余りに「陰謀的」な提起に抵抗を企てたのである。それは4月テーゼのときにレーニンが孤立していた事態の再現であった。

情勢があいまいな形をゆるさないで党に選択をつきつけるとき、党指導部は狐疑逡巡し動揺し、激烈な内部闘争を経てはじめて決定を下すことができたのである。いかに革命的な党といえどもそれが真空に存在するものではない以上、プチブル的な気分、ためらいや臆病といった感情から自由ではありえない。そして十月蜂起に至る過程は党指導部のこうした動揺に対するレーニンを中心とする断固たる闘いを不可避としたのである。

党自身よりも大衆は左に位置しており、そして党指導部は党員よりも右であった。

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メンシェビキの隊列

この日から(旧暦)22日から「民主主義会議」が開かれた。それは前回述べたように協調派が権力問題を回避し、「連立政府」の泥沼にロシアを再び引きずりこむためにしかけたものであった。トロツキーの語るようにこの民主主義会議は、ツェレテリの思いつきによって「ソビエト政府を目標とするボルシェビキの闘争を麻痺させようと狙ったもの」であり「ソビエト大会に対抗し、その上におかれた」ものであった。

その構成は、市会156、ゼムストヴォ(ロシアのアレクサンドル2世の改革の一環として、1864年に設けられた地方自治機関)67、労兵農ソビエト163、軍隊107、その他(土地委、県執行委、民族団体、鉄道員など)206、不明351、計1050。

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地主が投票し、貴族が優先的に選出されるシステムだったゼムストヴォ

「民主主義者たちは、絶対多数を確実に獲得するという、たった一つの考えにみちびかれながら自分勝手に投票権をわりあてた。その中でもとくにおよそ非民主的なゼムストヴォは、ソビエトに比べてはるかに優勢であった」(トロツキー「ロシア革命史」)

所属のわかった677名の党派別構成は、エス・エル293(うち左派58)、メンシェビキ160(うち国際派36)、ボルシェビキ89、無党派66、その他。

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ケレンスキー

ケレンスキーは拍手で会議場に登場し、卓に座っていた人々と握手したが、彼がボルシェビキに手を差し出したとき、ボルシェビキは身を引っ込めたためケレンスキーは手をのばしたままテーブルわきを通っていくことになった。ケレンスキーはコルニーロフ主義者からも同様の態度で迎えられた。

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着色レーニン

前日に引きつづき、レーニンはボルシェビキ党中央委員会への手紙として「マルクス主義と蜂起」を執筆した。

「成功をおさめるためには、蜂起は、陰謀や政党に依拠するのではなくて、先進的階級に依拠しなければならない。これが第一である。蜂起は人民の革命的高揚に依拠しなければならない。これが第二である。蜂起は、盛り上がってくる革命の歴史のうちで、動揺がもっとも強まるような転換点に依拠しなければならない。これが第三である。蜂起の問題点をとりあげるうえでのこの三つの条件によって、マルクス主義はブランキ主義と区別される。・・・・・・・しかし、いったんこれらの条件が出そろったときに、蜂起を技術として取り扱うのを拒むのは、マルクス主義を裏切り、革命を裏切ることである」

「7月3-4日には、われわれは、政治的に権力を維持することができなかったであろう。なぜなら、コルニーロフ陰謀の起こるまえには、軍隊や地方がピーテル(ペトログラードのこと)に進撃してきかねなかったし、また進撃しただろうから。いまでは、常態はまったく違っている。......革命の前衛、人民の前衛であり、大衆の心をひこつける階級の多数者が、われわれについている」

「われわれには、蜂起が成功する客観的前提がすべてそなわっている。われわれはきわめて有利な情勢にあり、蜂起でわれわれが勝利することだけが、人民を苦しめてきた動揺、この世でもっとも苦しいものであるこの動揺を終わらせることができるし、蜂起でわれわれが勝利することだけが革命に敵対する単独講和の策動をぶちこわし、しかも、もっと完全な、もっと公正な、もっと間近な講和、革命に有利な講和を公然と提議することによって、それをぶちこわすことができる」

「われわれは、ボルシェビキ派の簡潔な声明を起草し、いまは長談義をやっているときではないこと、革命を救うためにただちに行動することが必要なこと、ブルジョアジーと完全に手を切り、現在の政府全体を完全に更迭し、ロシアの『単独』分割を準備しているイギリス=フランスの帝国主義者と完全に手を切ることが必要なこと、全権力を革命的プロレタリアートに率いられる革命的民主主義派の手にただちに移すことが必要なことを、きっぱりと強調しなければならない」

「われわれはそこ(工場や兵営)に行って、熱烈な、熱情的な演説でわれわれの綱領を説明し、問題をこう出さなければならない。会議(翌日から開かれる「民主主義会議」)がこの綱領を完全に採択するか、それとも蜂起か、どちらかである。中間の道はない。待つことはできない。待てば革命は滅びるであろう、と。......問題をこのように出し、代議員団の全員を工場や兵営に集中しておいて、われわれは蜂起開始の時機を正しく判定するであろう」

こうしてレーニンは(旧暦)14日から開かれる「民主主義会議」をおしゃべりの場としてではなく、蜂起を準備する観点に立ち切って、ボルシェビキ派を結集するために利用せよ、と主張したのであった。


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1917年10月当時のボルシェビキ党中央委員

レーニンは、ボルシェビキ党中央委員会、ペトログラードおよびモスクワ委員会への手紙として、「ボルシェビキは権力を掌握しなければならない」を執筆し、はじめて直接的な権力奪取の問題を提起した。

「ボルシェビキは、両首都の労働者、兵士代表ソビエトで多数を占めたので、国家権力をその手に掌握することができるし、また掌握しなければならない」

「人民の多数者はわれわれに味方している。(旧暦)5月6日から8月31日までの、さらに9月12日までの苦難の道は、このことを証明した。両首都のソビエトで多数を占めたのは、人民がわれわれの側にむかってうつってきた結果である。エス・エルとメンシェビキの動揺、彼らのあいだでの国際派の強化も、同じことを証明している」

「憲法制定議会を『待つ』わけにもいかない。なぜならケレンスキー一派は、やはりピーテル(ペトログラードのこと)を明け渡すことによって、いつでもこの議会をぶちこわすことができるからである。権力を掌握したわが党だけが、憲法制定議会の招集を保障することができるし、また権力を掌握したわが党は、他の諸党の引延しを告発し、この告発を立証するだろう」

「問題はピーテルとモスクワ(その地方をふくめて)での武装蜂起、権力の獲得、政府の打倒を日程にのぼらせるという任務を党にはっきりさせることである。出版物のうえではっきりと言わずにおいて扇動するにはどうすればよいかを、よく考えなければならない」

「ボルシェビキが『形式上の』多数を占めるまで待つのは、おめでたいことである。どんな革命もそれを待ってはくれない・・・・・・もしいまわれわれが権力を掌握しないなら、歴史はわれわれを許さないだろう」

それはまさに「革命のルビコン河を渡ること」をボルシェビキ党に提起するものであった。

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クラスノヤルスクでの1917メーデー闘争

西シベリアのクラスノヤルスクでも、(旧暦)6日からこの日にかけて行われた第一回中部シベリア労兵農ソビエト大会で、満場一致でソビエト権力が要求されシベリアにおいても革命派の伸長が刻印された。


協調派ではすでにメンシェビキは国際派の伸長によって党内分裂が進行し、9月になるとボルシェビキにくらがえする党員が急速にふえていたが、エス・エル党でも、党の機能の解体がすすみ、チェルノフ派が独自の動きを開始し、首都機能が左派にのっとられるようになってしまった。

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エス・エルの隊列

こうしてこの日のエス・エル党第七回ペトログラード市協議会では、カデットとの連立政府に反対し「同質社会主義政府」を要求する決議が83対7対4で可決された。新しく選出された党ペトログラード市委員会は、アルガーソフ、カムコフ、カッツ、スビリドーノヴァ、トルトフスキー、シレイジェルらの左派に独占された。

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レーニンはこの日から(旧暦)14日にかけて有名な「さしせまる破局、それとどうたたかうか」という論文を執筆。深刻なロシアの経済的破局と革命的危機にあたって臨時政府の無能を暴き出し、資本家の生産手段の没収と労働者管理による計画的な経済運営をつうじてのみ戦争と破局からロシアを救い出せることを鮮明に提起した。

レーニンはこの論文のなかで緊急に必要となっている経済統制の手段として、

①すべての銀行をひとつに統合し、その業務を国家が統制すること、すなわち銀行を国有化すること。

②シンジケート、すなわち資本家の巨大独占団体(砂糖、石油、石炭、治金などのシンジケート)を国有化すること。

③営業の秘密を廃止すること。

④工業家、商人、一般に経営者を強制的にシンジケート化すること(すなわち強制的に組合に統合すること)。

⑤住民を強制的に消費組合に統合するか、またはそういう組合を奨励し、それを統制すること。

を主張したのである。

そしてそれは「社会主義ではないか!」というありうべき反論を予想して、社会主義にむかってすすまずには前進しえない、と主張したのであった。

すでに8月から9月にかけてヘルシングフォルスの亡命先で「国家と革命」を書き終えていたレーニンは、いよいよ本格的に十月蜂起にむかって精力的な指針を党と人民に提起するようになったのである。

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ロシアの革命的伝統を体現していたペトログラード・プチロフ工場(現キーロフ工場)での集会。1500人の赤衛兵を組織していた

ペトログラードソビエトの総会がこの日開催された。すでにペトログラードでは前述したように8月31日の時点で「革命的プロレタリアートと農民の代表から成る政権」を要求する決議を可決していたが、この日の総会では、協調派の支配するソビエト幹部会を不信任し、その改選を519対414対67で可決した。

白熱した情勢の下ではソビエトのような勤労人民の意思を最も率直に表現する組織においてでさえ、現実の人民の意識や気分と代議員の投票行動の間にはズレや矛盾が存在するものであるが、首都における大衆の革命的熱気はついにソビエトの場でも協調派指導部の打倒に導いたのである。

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武装せるフィンランドソビエト

この日から(旧暦)14日まで行われた第三回フィンランド地方軍・艦・労大会でも、ボルシェビキのスミルガを委員長とし、ボルシェビキ37、左翼エス・エル26、メンシェビキ国際派2から成る新しいフィンランド地方ソビエト委員会が選出された。

またウラルのウファ―労兵ソビエトは、ソビエト大会の招集を要求するとともに、労兵ソビエト中執がソビエト大会召集を拒否するときは、大会は地方ソビエトによって招集されなければならぬと主張した。

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キエフでのデモンストレーション(1917年夏)

ウクライナの中心キエフ労働者代表ソビエトで、ボルシェビキフラクションは公式には95人だったにもかかわらず130対66でボルシェビキの決議が採択される。

同じくボルガ中流の拠点、ツァーリツィンでもソビエト大会即時招集と、「労・貧農権力」樹立要求の決議が採択された。

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1924年の京都メーデー。「労農露西亜(ロシア)万歳」の垂れ幕も

コミンテルン創設大会(1919年3月初め)にむけた「日本社会主義者のあいさつと決議」

アメリカで片山潜と親交のあったルトヘルス(片山の著書ではルトガースとなっている)は、片山の紹介状をもって1918年5月14日に来日、7月19日まで横浜に滞在し、東京・横浜の社会主義者らと連絡をとり、その後シベリア経由でモスクワに9月25日に入り、コミンテルンの活動に参加する。日本滞在中に下記の書簡(1918年7月19日付)と決議(1917年5月1日付)を託された。これらの書簡と決議はモスクワに到着したルトヘルスによって新聞に掲載され、1918年11月4日~12日の東方諸民族共産主義組織会議でも読み上げられた。その後、1919年3月2日~6日にかけて開催されたコミンテルン第一回大会においても紹介された。(『コミンテルンと日本』、川端正久、法律文化社、1982年より)


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1901年結成時の社会民主党の発起人たち。写真左から安部磯雄、河上清、幸徳秋水、木下尚江、片山潜、西川光二郎


◎ロシアの同志へ

ロシア革命の当初から、我々は、熱狂と深甚な共鳴の念をもって、諸君の勇敢な活動を注目してきた。諸君の活動は我が国民の心理に巨大な影響を与えた。

現在、我々は、あれこれの口実による我が国政府のシベリアの軍隊派遣に憤激を表している。これは、疑いもなく、諸君の革命の自由な発展を妨げている。我が国の帝国主義政府の側から諸君を威嚇している危険を防止する力を我々が持たないことを、我々は深く遺憾と思っている。

我々は、政府の激しい迫害の故に、どんなことをするにもほとんど無力である。
しかし、近いうちに革命の赤旗が全日本に翻ることを、諸君は十分に確信することができる。

この書簡と共に、我々は、1917年5月1日の会合で採択された我々の決議の写しを諸君に送る。

革命的挨拶をもって

東京横浜社会主義者団実行委員会
1918年7月19日


◎日本社会主義者の決議

我々、日本の社会主義者は、1917年5月1日、東京に集まり、ロシア革命に深甚な共感を表明し、その前に敬服する。

我々は、ロシア革命が、一面では、中世的絶対主義に反対して決起したブルジョアジーの政治革命であり、他面では、現代資本主義に反対して決起したプロレタリアートの革命であることを、認める。

ロシア革命を全世界社会主義革命に転化することは――ひとりロシアの社会主義者の仕事ではなく、また全世界の社会主義者の仕事でもある。
資本主義制度は既にすべての諸国で最高の発展段階に達している。十分に成熟した資本主義的帝国主義の時期が来ている。

万国の社会主義者は、もし帝国主義のイデオローグに欺かれることを欲しないならば、確固として国際主義の観点に立たねばならない。国際プロレタリアートの全勢力が、我々の共通の敵――国際資本主義――に対して向けられなければならない。その道を歩むことによってのみ、プロレタリアートは自己の歴史的使命を遂行することができる。

ロシアと万国の社会主義者は、戦争を終結させ、かつ、今、塹壕の向こう側の兄弟達に向けている武器を、自国内の支配階級に向け変えることにおいて交戦諸国のプロレタリアートを援助することに、全力を尽くさねばならない。

我々はロシアの社会主義者と全世界の我が同志達の英雄的精神を確信する。

我々は革命の精神の間断なき普及を衷心から確信する。

東京社会主義者団実行委員会
1917年5月1日



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モスクワの鉄道労働者で組織された赤衛兵たち


ペトログラードにつづいて、モスクワ労兵ソビエト合同総会も「プロレタリアートと革命的農民の代表から成る政権」樹立のため、「断固たる闘争」を行うという決議を355対254で可決した。ペトログラードとならんでモスクワでもボルシェビキの路線が勝利を占めたのである。


ヒンチュクを主席とする中央委員は自らの連立政権にむけた妥協の策動が公然と批判されるに及んで辞意を表明した。

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(この写真は釈放直後ではなく、1919年のものでした。お詫びして訂正します)

臨時政府は7月事件の「陰謀」の容疑で逮捕したボルシェビキ党員たちを監獄に閉じ込めておくことができなくなり、この日トロツキーは、3000ルーブルの保釈金でクレスティ監獄から釈放された。これにつづいて多くのボルシェビキたちも解放された。彼らは休むひまもなく外での活動に奔走することになる。

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ペトログラード・ソビエト

同日ケレンスキーは、「対反革命闘争委員会」の解散を命令した。しかしペトログラードの全地区ソビエト会議は、「反革命との闘争のための革命的組織を解体しない」ことを決議した。

対反革命闘争委員会の指導部は協調主義者であったが下からの圧力に押されて、解散の拒否と活動の続行を支持し、ケレンスキーの命令は反古にされてしまった。


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ペトログラード・ソビエトが置かれたタヴリーダ宮殿で演説するレーニン

この日までにレーニンは「現在の政治情勢についての決議草案」を執筆。この論文はこの日に予定されていた党中央委員会総会のためにレーニンが起草したものであった。このなかでレーニンは7月事件とコルニーロフ反乱を中心とする激動する情勢の総括を試みた後、一切の問題の解決はただ労働者階級による権力の獲得をもってはじめて達成されうることを指摘した。

レーニンはこのなかで早まった蜂起をいましめつつ、同時に、情勢は破局的な速さをもって労働者が権力を獲得せざるをえない状況に導くだろうことを述べた。


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1917年3月29日のツルクでの労働者の抗議デモ。これがフィンランドにおけるソビエト権力の確立につながった

この日、フィンランドのロシア・ソビエトの合同会議で13対700対36でソビエト政府賛成の決議が採択された。

一方、8月31日からこの日まで行われていた労兵ソビエト中央執行委、全国農民ソビエト執行委合同会議は、権力問題を論ずる全面的な激突の場となった。ボルシェビキは「労兵権力」を主張し、左翼エス・エルとメンシェビキ国際派は、「同質社会主義政府」を主張した。この「同質社会主義政府」とはカデットとの連立政府に反対しエヌ・エスからボルシェビキまで含めた「社会主義者」すなわちソビエトに結集している部分のみから成る政府、有産階級の代表を含まない政府を意味した。

しかし執行委合同会議はこうした主張を押し切って、「民主主義会議」つまり民主団体の代表を集めた会議を開いて、その場で権力問題を決めることを決定したのである。妥協派指導部はこの「民主主義会議」なるものをとおして有産階級の意向を反映させ、ソビエトをとおした大衆の意思を少しでも抑制しようと考えたのである。


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コルニーロフ反乱鎮圧に駆けつけたボルシェビキの部隊

この日政府軍は、大本営のあったモギリョフを占領し、コルニーロフ、ルコムスキー、参謀次長ロマノフスキーらを逮捕した。結局全部で約30人がコルニーロフ派との名目で逮捕され、サヴィンコフは罷免された。第一、第五、第七、第十、第十一の各軍の司令官、第七軍参謀長らが罷免された。

臨時政府によるコルニーロフ派へのこうした措置は、ケレンスキーが本心ではコルニーロフへの和解を願望していたにもかかわらず大衆の圧力がそうした反革命との「妥協」を許さなかったことの表現である。こうした圧力は、協調派の足元をも脅かし、メンシェビキやエス・エル内部の左派のイニシアチブの増大、指導部の孤立と大衆の圧力への迎合といった事態をも引き起こしつつあったのである。

地方においてもコルニーロフ反乱を粉砕するための大衆動員のなかで、ソビエト権力樹立への要求がふき出してきた。

ウラルではこの日、8月の第2回ウラル地方ソビエト大会決議にもとづいて11万人の労働者が「労働者と貧農の権力」を要求する政治ストを行った。中央アジアではタシケント労兵ソビエト執行委員会が「全権力をソビエトへ」のスローガンを採択した。

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逃亡中の変装したレーニン

この日から三日にかけてレーニンは「妥協について」という論文を執筆。コルニーロフ反乱の粉砕の成果の上に立って、ボルシェビキ党のとるべき戦術についてこう提起した。

「現在、ロシア革命にはきわめて急激な、きわめて独特な転換が起こっているので、われわれは、党として、自発的な妥協を申し入れることができる。――もっともこの申し入れは、われわれの直接の、主要な階級敵であるブルジョアジーにたいしてなされるわけではなく、われわれの身近な反対者である『支配的な』小ブルジョア的民主主義政党、エス・エルとメンシェビキにたいしてなされる」。

「われわれとしては、妥協は、『全権力をソビエトへ』、ソビエトに責任を負うエス・エルとメンシェビキの政府、という7月以前の要求へわれわれが復帰することにある。いまならば、それもいまだけだが、おそらく数日か、一~二週間のあいだだけ、このような政府をまったく平和的に創設し、その地歩をかためることができるであろう」。

「この妥協はつぎのようなものとなるだろう。ボルシェビキのほうでは政府への参加を要求せず(これは、プロレタリアートと貧農の独裁の諸条件が実際に実現されていないかぎり、国際主義者にとっては不可能なことである)、プロレタリアートと貧農に権力を引き渡せという要求をいますぐかかげることをやめ、またこの要求貫徹のための革命的な闘争方針を放棄する」

「政府党ブロックとして、メンシェビキとエス・エルのほうでは、もっぱらソビエトにたいしてだけ完全に責任を負う政府をつくり、地方でも全権力をソビエトの手に引き渡すことに、同意する(妥協が成立したと仮定すれば)。『新しい』条件といえば、これくらいであろう。ボルシェビキがこれ以外の条件を持ち出すことはないと、私は考える。というのは、実際に扇動の完全な自由があり、またソビエトの構成(その改選)やその機能に新しい民主主義がただちに実現されるなら、革命の平和的前進とソビエト内部での党派闘争の平和的克服とが、おのずから保障されるものであると期待するからである」(『レーニン全集』第25巻)。

しかし、ケレンスキーがエス・エルの無為のおかげで、協調派ぬきにブルジョアの援助のもとに、自らの地歩を固めつつある、という分析を行ったレーニンは論文に追記して、この「例外的な革命の平和的発展の可能性」が失われてしまったことを言明したのである。


この日、ドン師団の連隊委員会、中隊委員会会議が首都からの代表を交えて行われ、師団のコルニーロフ派将校全員を逮捕し、政府と労兵ソビエト中央執行委員会に忠誠を表明すると決議した。他のコルニーロフ反乱に参加した軍隊も進撃中止を決定した。かくして、ソビエトと全人民の反撃によって軍首脳部の大半を網羅した反乱はあっけなく崩壊してしまったのである。

同日、ペトログラードの労兵ソビエト総会は「革命的プロレタリアートと農民の代表からなる政権」を要求する決議を二七九対一一五対五〇で可決していた。

この日、レーニンは亡命先でコルニーロフ反乱に際してのボルシェビキの戦術転換を説明する論文を執筆している。
「ケレンスキーに対する敵意を些かも和らげずに、我々が彼に反対して言った言葉をただ一言も取り消さずに、ケレンスキーを倒す任務を放棄せずに、我々はこう言う。……現在の情勢を考慮に入れなければならない。我々は、今すぐケレンスキーを倒すことはしない。今は、ケレンスキーとの闘争の任務を、これまでと違ったやり方で取り上げる」。
「今の瞬間には、ケレンスキーに直接反対するよりも寧ろ間接に、やはり反対であるが、間接に反対して、扇動しなければならない。すなわち、コルニーロフとの積極的な、最も積極的な、真に革命的な闘いを要求するというやり方で扇動しなければならない。」(『ロシア社会民主労働党中央委員会へ』)
レーニンは、ボルシェビキ党が彼の意図するような戦術を取ろうとしていないのではないかと危惧していたのだが、それは杞憂であった。コルニーロフ反乱に対してボルシェビキは完全に一致して事に当たった。
この日、首都にはソビエトを支援する部隊が続々と到着した。と同時に、コルニーロフ軍のウスリー師団では代表がナルヴァでソビエト代表と会談し、政府と労兵ソビエト中央執行委員会を支持する事を表明した。今やコルニーロフ軍内部においても委員会、ソビエトが形成され兵士たちは将校を逮捕しはじめた。これらの軍隊は「愛国的」な部隊として信頼されていたものだったのだが、コルニーロフ反乱はこれらの兵士達をも教育したのである。敵はソビエトやボルシェビキではなく将校となった。
執行委員会は全ソビエトに向かって「コルニーロフ軍隊は完全に崩壊しつつあり」と報告した。
ケレンスキーは軍最高指令官に任命された。同時にアレケセイエフが参謀総長になった。この人事の下で、コルニーロフへの優位性を確保したケレンスキーは、またもやコルニーロフへの妥協を行おうとした。コルニーロフは「戦略的情勢に鑑みても強力な政府が樹立される事を保障されるなら指揮権を平和的に引き渡す用意がある」とケレンスキーに電報を打った。喜んだケレンスキーはアレケセイエフを大本営に派遣して、コルニーロフを押さえようとした。しかし労働者や兵士はそれを許そうとはしなかった。

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