170617たときみタイトル2   *異変

 とはいったものの、ナコは「まいったな」とぼやいた。彼に両親と呼べる人物はいない。どうにか通学資金を工面している兄のタクも、実質は薬物浸りである。
 自虐的にそんな打ち明け話をしたナコと言葉を交わすうち、トワにはすこしばかりの親近感が湧いた。これまでただ一度もそんな感情を抱いたことがなかったので戸惑いつつ、斡旋住宅はペット可だったろうか、などと考えた。
 トワとナコの間柄にそんな変化をもたらした張本人イチルは、ふたりが自分に対して向けるやや甘酸っぱく複雑な想いをまったく解することなく、とんでもない提案をした。
「学校につれてっちゃお! シンヤせんせいはやさしいから、きっとわかってくれるよっ」
 慎也に対する間違った認識もあいかわらずだし、常識に欠けること甚だしい。
 それでも何故か、もしかしてイチルになら、とトワとナコは思わずにはいられないのだった。虎猫を抱いたナコを先頭にして、三人は夜間部へと向かった。
 授業開始からしばらくは、猫はナコの膝の上で大人しくしていたし、もともと室内が薄暗いこともあり、監督の慎也にも奇跡的に気付かれなかった。
 が、三十分とたたず、猫はナコの肩や頭に乗ったり降りたりをはじめた。しまいにキーボードの上に飛び乗る。ナコがたまらず発した「馬鹿っ」という声と「ニャオ」とPCのけたたましいエラー音に、さすがの慎也もびくりとし、席を立った。
「……おい」ナコが猫を抱き上げたところでエラー音は止まったが、このありえない状況をどうにか飲み込んだ慎也は怒りを通り越して無表情だ。「君は授業態度だけは真面目だから俺としてもいろいろと優遇してやったつもりだが、今日は一体何の真似だ」
「……慎也、聞いてくれないか、これは……」
「今度は捨て猫の引き取り斡旋でも始めたのか、そこまでして、」
「話聞けよ!」暗にスラム暮らしのことを揶揄する慎也に、少年はたまらず激高する。
「聞く気は無い」慎也にも容赦する気配は皆無である。「それを連れて出ていけ」
 そのとき。
「はいはーい、せんせい、シンヤせんせいっ」離れた席のイチルが大きく手を挙げた。「愛すべき生徒のおはなしはちゃんときくべきです、これにはふかいふかーいワケが、」
「君まで絡んでいる訳か」呆れ顔の慎也は言葉を選びなおす。「というか察するに、君が首謀者な訳だな」
「せんせい、さっきのはずばり、かまって攻撃なのですっ」
「は」
「ナコが真面目にお勉強すればするほど、猫のキーボードへの敵意は高まるのですっ。猫とナコの息をのむ駆け引き、これは心理学的にもじゅうような案件となりますっ」
「なるか、馬鹿」
「ダメなんですか? ナコが授業を猫といっしょに受けたら、ダメなんですかっ、そんな校則、あるんですかっ」
「ナコだか猫だか知らんが、このクラスでは私が校則だ」
「そんなあ。シンヤせんせい、横暴教師ですぅ」
「ならば君はさながら横暴生徒だな」
「じゃあ、対決ですっ」
「は」
「先生とぼく、対決しちゃうんですっ」
「何を言っている」
「診断テストで対決ですっ! 理系と文系のミックスで問題数は無制限、十五分間でどれだけ早く正確に回答するかでスコアを算出する……高いスコアを叩き出した方が勝ちですっ」
「ほう、この俺と競おうと」
「なんなら、カーンバーグの理論に限定してもけっこうですっ」
「それはいくらなんでも君の不利に当たる。いいだろう、診断テストで対決だ。君が勝ったら、ナコと猫の同席を認めよう。その代わり俺が勝ったら、」
「トワがおうちにつれて帰りまーす」
 ……は?
 いきなり矛先を向けられたトワはイチルの隣で固まる。慎也の瞳にこれまでにない興味が宿るのも敏感に感じ取る。
「トワ、猫を飼う気なのか」
「あ、いや、ボクは」
「……」フッ。慎也は吹き出し、いったい何処に合点がいったのか、次にはニヤリと笑った。「面白い。はじめよう」
「ようしっ」イチルはぴょんとスツールから立ちあがった。「ぶっちぎりで勝たせていただきますっ」
「画面を二分割して対戦形式に設定する。君は2プレイヤー側の問題を解きたまえ」
 慎也はスクリーン左側のユニットを操作しながら、手短に告げる。まもなく読み込み中のバーが数秒間表示されたのちピポと音が鳴り、ぱっと『Q1』の画面が左右二通りあらわれた。
「ええと」
「……」
 ピコン、ピロリン、ピポ。回答送信、正解アラーム、次問の出題の順でまずは二人とも快調に音を鳴らした。そして双方、にわかに一連の動作を加速させる。ピコン、ピロリン、ピポ。ピコン、ピロリン、ピポピコン、ピロリン、ピロリンピロリンピロリン……。イチルはすぐに前回と同様、正解アラームより先に送信ボタンを押すという速度まで達した。
 慎也も負けてはいない。イチルの驚異的な速さではないが、いかにも楽しんでいると見せつけるかのように、リズミカルかつ着実にキーを叩いている。
 互角だった。スクリーンには教室内すべての視線が熱く注がれている。
 しかし――。五分経過時、そのまなざしの多くは後方の席のイチルへと移っていった。
 回答が早いからでも、その正確性からでもない。イチルは――
「ん?」異変を察した慎也が手を止めて少女のほうを伺った。
 しん。静寂が広がる。
 イチルは――回答を止めていた。ひかりを失った瞳にモニターの青色光を煌々と映してただ立ち尽くしている。
 ぱっ、ぱっ、ぱっ。スクリーンの右半分に、どれかキーを押すように催促する点滅信号が出る。しまいに『Time out』とサインが出、次の問題に移行した。
「どうした」
「……えっ?」はっと少女は顔を上げ、まばたきを繰り返す。「えっ、なんだっけ?」
「随分と余裕だな。手を抜いていいと言った覚えはないが。……何のつもり、」
「あ、れ」すらりとした身体が揺らぐ。「わたし、なんか……へん」
 すうっと、眠りにつくときのようにイチルはゆっくりと瞳を閉じ、そのまま真横に崩れ落ちた。
「イチルっ?」トワはとっさに少女を抱きとめようとしたがそれは叶わず、かろうじてしなやかな上体を支えながらフロアに膝をつく。「イチル、イチルっ」
「おい」慎也が血相を変えて駆け寄ってくる。「しっかりしろ、イチル君、イチル」
「いち……る?」肩を揺すられ、少女は舌足らずな声でのろのろと返事をする。「へんなの、わたし、イチルなんて名前じゃ、ない、よ」
「何?」
「おにいさん、だれ。ここ、どこ?」
「――誰か」慎也が低く鋭い声を発する。ふたたび目を閉じた少女の肢体をトワから奪い取るようにさっと両腕で抱き上げた。「医務室、いや、医務局へ通報しろ、早く。校舎口まで俺が連れていく」
 まもなくエマージェンシーサイレンとともにレスキューカーが到着し、慎也は医務室から飛んできた由良とまたもや顔を合わせることとなった。医療チームの当直リーダーとその部下たちにてきぱきと指示を出している。完全に医務課スタッフの顔だ。
「慎也」青年は移動するストレッチャーに付き添った教員に、無機的とも言っていい調子で尋ねた。「倒れたときの状況は」
「俺にもわからない。突然気を失って……いや」
「何です」
「倒れる前後に記憶の混濁がみられた」
「記憶……」由良はにわかに顔を曇らせたが、次にはもとの冷静な表情を取り戻した。「わかりました。ご協力、感謝します。医務局へは私が同行を」
「頼んだぞ……由良」
 ――。慎也を追いかけて校舎口まで出たナコとトワは付き添うことも許されず、ただ呆然とレスキューカーが遠ざかってゆくのを見ていた。

 車内。眠りに落ちた少女に、由良は静かに語りかけた。
「お帰りなさいませ。……お嬢さま」

つづく
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