170617たときみタイトル2   *水曜日のミカサ様

 二十一時を回るのを待って慎也は手短に解散を告げ、慌ただしくどこかへ消えていった。もちろん猫云々の話では無くなってしまった。
 トワと猫を抱いたナコは、言葉少なに帰り道をとぼとぼと歩いていた。
「なんで、ついてくるのさ」
「方向が同じだからだ。文句あるのか」
「ないけど、」
 文句は無いが、ひどい違和感だ。ナコとこうして連れ立って下校するなど、一週間前なら考えもしなかった。それもこれもみんな……
「なあ、あいつ、どうしちまったんだ。どうなっちまうんだ」
 そう、今の状況は何もかもイチルに由来する。それなのにイチルはここにいない。
 トワは弱々しく返事するしかできなかった。
「わからないよ……」
「どこか悪いのか? 病気、だったのか?」
「わからないったら」
「なんでそんな無責任なこと言うんだよ!」
「わからないんだっ!」
「あ?」
 ナコは突然大声を出したトワに驚いた様子だった。トワは立ち止まり、今にも泣き崩れそうな勢いで言葉を発した。
「ボクはイチルのこと、なんにも知らないんだ。知ろうともしなかったんだ。いつも何かを与えてもらうばっかりで、それでいい気になって。たぶんイチルのほんとうの気持ちだって、なんにもわかってなかったんだ!」
「そんな言い方、するんじゃねえよ」
「きみに何がわかるっていうんだ!」
「わかんねえよ、わかんねえけど」ナコはまるで弟に対するような口調でトワを諭す。「どう考えてもあいつはお前を選んだんだ。お前がいちばん側にいたんだぜ、少しは自信もてよ」
「……っ、」
 熱いものが、溢れて止まらなくなった。
「泣くなって」
「泣いてない!」
「めちゃめちゃ泣いてるぜ」
「泣きたいんじゃない、ウイルスのせいだ!」
「アホなこと言うなよ。俺だって泣きてえよ」
 ぽん。華奢な肩に、早熟で伸びやかな手が乗る。猫を抱いていたからだろう、とても、とても温かかった。
「なんかお前、変わったな」子どものように涙をこぼすトワの顔はあえて見ずにナコは言った。「悪くないぜ」
「……、」トワは急に恥ずかしくなって、急いで両手で顔をぬぐう。
 そのときナコの手から解放され道路に降り立った猫が、ニャオと親しげな声で鳴いた。
 ひとつ先の青い街灯の下に誰かがいる。
「ねえキミたち」白衣のポケットに両手を突っ込み、ひどい猫背の青年はゆらりと青い光の輪から出てくる。「その猫、どこで拾ったのかなぁ? もしかしてアカデミーの検体を無断で持ち出したりしてないよね」
 ……! 痛みに痛んだアフロの金髪。時季外れのマフラーは、ピンクとブラックのストライプ。トワはハッと息をのむ。覚えている、いや忘れるはずも無い。
「お、まえ、」ナコも同じような反応をしている。はっきりと青年の名前を口にした。「ミカサ、か?」
「俺? そうそう俺俺、ミカサ様だけど」幾重にも巻いたマフラーに顔をうずめてミカサは神経質そうにキシシ、と笑う。「困るんだよねぇ。たったの猫一匹でも、いなくなっちゃったらもみ消すのに大変なわけ。俺こう見えても院生なわけで、いつもすっごく忙しいのにすっごく運悪くて、今日も今日に限って検体管理のシフトだったわけ、そんでさあ、……あ、おいでおいで、猫ちゃんほらほらミカサ様だよー」
 猫は軽い足どりでミカサのほうに近づいてゆく。その邪悪ともいえる見た目と口調に、まったく警戒心を抱いていない。ミカサも長い片腕をすっと出し、慣れた手つきで猫を抱いた。
「いいよ、猫ちゃん、イイ子イイ子でちゅねー。……でさぁ」
 ぎん。一重だがまぶたは薄い、特徴的な目が少年たちを射る。
「大っ嫌いなわけ。オマエらみたいに、ぬくもりってあったかいよね? とかイノチって貴いよね? とかベタベタつるんでキレイ事並べてぬっくぬくしててしかもまだガキでとかありえないわけ」
「おい、ミカサ」さすがのナコも恐怖に声を震わせている。「何、する気だよ」
「とりあえずごくろうさーん、ナーコちゃーん」
 ――ギャッ。猫が悲鳴を上げた。突然青年がやさしく抱くのをやめ、首根っこを捕まえてぶらりと片手に吊り下げたのだ。空いた左手にはキラリと光る、ペン型の注射器。
「注射器が一本、消えました。猫も一匹、消えまーしたー。さあどうして? どうしてだか解る?」
「ミカサ、やめろ、やめてくれっ!」
「模範解答! 俺が実験に使ったからでーす。これで計算、ぴったしだし」
 ミカサは注射器を逆手に持ち替えると親指でぴん、とキャップをはじき飛ばし、ぴたと猫の首へセットする。
 ぱしゅ。ごく小さな音がするのと、ナコの「やめろ!」という叫び声が重なった。
「せーの、ナコちゃんパース!」
 ミカサは弛緩した猫の肢体を無造作に放り投げる――。
 ナコは反射的に前方へ飛び、それを全身で抱き込みながらキャッチした。止まりきれずに煉瓦の外壁へ激突する。顔を苦痛にゆがめながら、必死で腕の中の猫を揺さぶった。
「おい、うそだろ! 起きろよ、猫っ、起きろよっ!」
「――ナコ、……っ?」
 思わず駆け寄ろうとしたトワの肩を今度は後ろから何者かが強く掴んで引いた。
「待て、行くな」
「…………し、」
「お前たち、ここで何をしている」
 慎也は走って追いかけてきたとみられ、荒い息をついている。ミカサが悪さをしているとみるやたちまち口調を強くした。「見慣れない顔だな、何だ、お前は」
「オマエこそ何、」聞き返したミカサだったが次の瞬間にはぶるぶると犬のように頭を振った。「あああ、いい、自己紹介とかいいって。もうね、出会った瞬間からキライ系の匂いプンプンでーす」
「奇遇だな、俺もだ、クソ餓鬼」
「あれえ、俺様が子供に見えるってことは、オマエ、オッサン決定なんだけどそれでオッケー?」
「無論オーケーだ、くだらない質問をするな」
「俺、子どももオッサンもだいっきらいなの、ああ、やだやだオッサン伝染りそう」
 カラン。ミカサは使用済みの注射器を投げ捨て、今度は医療用のメスをポケットから出してちらつかせた。「だいっきらいだからスパッといっちゃう? ガード外すと俺、スイッチ入っちゃうけどそれもオッケー?」
「お前、そいつの持ち出しも逐一もみ消している訳か? ずいぶんとご苦労だな」
「あーこれ? これはさあ」白衣のポケットを愛しげに撫でるミカサ。他に何本も所持しているとほのめかしている。「医務課からかっぱらい放題よ、だって俺、チーフだし」
「何の」
「オッサン、デリカシー無いし。そこはやっぱり守秘義務だし。空気読んでよ」
 と、ナコの腕の中で死んだように動かなかった猫が、ギャーッと異様な声を上げた。
「痛っ!」顎のあたりをひっかかれたナコが思わず顔を背ける。「どうしたんだ、俺だよ、わかんないのかよっ!」
 ミカサの神経質な笑い声が不気味に響く。
「あ、効いてきちゃった? 過剰投与で凶暴化の恐れありまくり。これよこれ、これの研究チーフ、ミカサ様よろしくー」
「――そうか。破壊の色、か」
「あー。バレちゃったからオッサンまじ殺すしー」
「ナコ、押さえていろ」ミカサの間延びし放題な声をよそに、慎也は鋭く言い放つ。「助けたいなら絶対に手を離すな。その手の薬物の血中濃度はさほど持続しない。頑張れ」
 慎也……? 思いがけないひと言にナコは一瞬あっけにとられ呟く。だが次には目を剥いて暴れる猫をその腕いっぱいにきつく抱きしめた。噛まれないようにちいさな頭を自分の肩口へ押しつけたものの、激しく動く細いしなやかな手足はそう簡単に捕まえられない。鋭い爪に何度も何度も引っかかれ、少年の顔は痛みに歪んだ。
「トワ」今度こそ駆け寄ろうとしたトワを慎也がふたたび阻む。「お前には抗体がある可能性大だ。絶対に寄るな」
「抗体があるなら助けられるんじゃ、」
「そんな簡単なものではない。言うことを聞け」
「いやだ!」
「馬鹿、内輪もめしている場合か! 命令だ、そこを動くな」
「ボクだけが見ているだけなんていやだっ!」
 思い余った少年はナコのほうに大きく一歩踏み出した。そこで突然ミカサが距離を詰めてきたのは完全に誤算だった。ヒユッと耳もとで刃物が空を切る音がする――。
「トワ……!」
 どん! 少年の身体に激しい衝撃が走った。慎也に突き飛ばされたのだと認識する間もなく頭から路面に叩きつけられる。――! 一瞬、視界が白くスパークした。
 ……。
 目の奥で血の匂いがする。トワは必死に起き上がろうとしたが、体が言うことを聞かない。脳震盪でも起こしたようだ。ぽつ、ぽつと大粒の雨が降ってきて地面を濡らし始める。
「……だから言ったろ、オッサンのバーカ」
 ミカサの口調が少し変化している。
 トワの眼前には慎也が立ちはだかっていた。大きく右腕を広げ、突き飛ばしたときの格好のまま静止している。
 ぽつ、ぽつ、ぽつぽつぽつ、雨がまた滴る。
 ――いや、雨では無い。少年は息をのみ、慎也の足もとからどうにか視線を持ち上げる。
 慎也は吹き出す血液をトワに見せまいとするかのように手首を返し、至ってつまらなそうに内腕部の傷口を眺めた。いつもの癖でシャツをまくっていたため、もろに静脈を裂かれている。
「自分で言うほど使い慣れていないな。だが、俺を本気で怒らせた」
 無造作に左手で黒のタイを解く。
「お、オッサンが悪いんじゃん。そんなガキ、庇ったりするから」
「黙れ」慎也はタイで上腕を縛って手早く止血し、ミカサを見た。
 ――うっすらと、笑っている。
「……間近で見ると、その反抗的を通り越して死んだような目が割と好みだから特別に六秒間だけ待ってやろう」
「そんなこと言ってると、目もやっちゃうからね」
 ミカサは腕をまっすぐに伸ばし、血で染まったメスを慎也の眼球寸前まで突きつける。
 慎也はぴくりとも動かない。薄い笑みを浮かべたままカウントを開始した。
「かまわんぞ、つぶれたらまた新しい眼球を移植すれば良いだけだ、六」
「な、によ、それ、」
「医務課で世話になっていて判別できないのか。これは人工眼球だ。涙は出ないし痛みも感じない。遠慮するな、五」
「……、まじで、」
「どうした、手が震えているぞ、そんなことではメスは預けられないな、四」
「……、本気なわけ……?」
「俺の態度が冗談に見えるのか? お前こそ空気を読め、三」
「……アンタ、超、クレイジー、」
「お前に言われたくないな。二」
 ざっ。慎也は大きく足を一歩踏み出す。ミカサはひっと声をあげ、同じ歩幅ぶん後退する。ぴたりと眼球につけていたメスのきっ先が大幅にぶれた。
「……ッ、来る、なっ」
「一。時間切れ、だ……!」

 パアァン!

 乾いた音が響く。慎也がミカサの頬へ力いっぱいの平手打ちを浴びせたのだ。見かけはまさしく単なる『平手打ち』だったが、それにしては相当な衝撃だったらしく、ミカサはぎゃっと動物のような悲鳴をあげながら吹っ飛び、無様に路上へと崩れ落ちた。
 ……。さすがに傷に響いたのか、慎也は顔をしかめ数秒黙った。しかしふたたび深緑の瞳を開いたときには、いつもの加虐的な光を取りもどしていた。
「さて、どうするか」
 うずくまって何事かわめいているミカサを助け起こそうとでもするかのように、片膝をつく。血に濡れた右手で今しがた打った青年の頬を撫でた。
「悪いな、痛かったか?」
 愛撫した、といってもいい。
 ヒャッ。パニックを起こしていたミカサが我に返る。
「やめっ、てください!」
「何だ、まだ何もしていないぞ」新たな雫は絶え間なく流れ出ていて、乱れたストライプのマフラーを、白衣をぽつぽつと染めてゆく。「お前みたいな生意気な子どもには、一から教えてやらないとな。やさしくしてやるか、その逆か、どうする、選ばせてやってもいいが……」
「……ッ!」
「もうすぐ二十三時か、ああ、タイミング的にも申し分ないな。お前は明日も仕事か?」
「……そうですっ、さ、さようならっ……!」
 ミカサは這いつくばりながら慎也から後ずさったのちふらふらと起きあがり、夜道を蛇行しながら全力で逃げていった……。
「ナコ」腕に巻き付けたタイをきつく締め直しながら慎也は立ちあがる。「大丈夫か」
「……」
「ナコ……」
 少年は泣いていた。
「慎也、遅えよ、もう、動かなくなっちまったよ……」小さな子どものようにしゃくりあげ、泣き顔を隠そうともしない。「変態アホ教師、どうせならもっと早く来いよ、馬鹿野郎……まだ名前も、決めてなかったのに、馬鹿野郎……馬鹿野郎っ!」
 ナコは、猫を力いっぱい抱いたまま、そのしなやかな肢体が冷たくなっても動こうとしなかった。

つづく
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