170617たときみタイトル2*今日の終わりはとても残酷で

 猫をどうしても連れ帰るというナコに、慎也は朝になったら保健衛生課へ通報することを半ば力尽くで約束させた。そして少年が確実にスラムの自宅へ向かうのを見届けると、今度は当然のような顔をしてトワの斡旋住宅までついてきた。
 八階に到着するまでの間、慎也はエレベーターの壁にもたれて固く目を閉じていた。傷が痛むか、貧血を起こしかけているか、あるいはその両方だ。
「……医務局に行くべきです」
 トワが見かねてそう声をかけると、
「ああ、明日な」と相変わらずどうでも良さそうな返事がかえってきた。
「でも、傷、」
「血管には触れたが断裂はしていない」
「でも、出血が」
「寝室に救急箱があったな、それで問題無い」
「……」
 慎也は、強い。あらためてそんな事実を突きつけられたような気がして、トワはくちびるを噛んで黙るしかなかった。ナコや慎也に比べてボクは、ボクは……。
 部屋にたどり着くと慎也はまず、キチネットの流水で傷を洗い流した。肘から手首にそって斜めに十二、三センチメートル、幅は深いところでは二センチに達そうかというほどぱっくりと開いている。沈痛な面持ちで立ち尽くすトワに、「見なくていい。救急箱を取ってこい」と早口で指示した。
 救急箱の中には頭痛薬や胃腸薬といった基本的な医薬品の他に文字通り『救急セット』が入っていた。止血帯や三角包帯、パッケージされたアルコールコットンやハサミ、ピンセット――次々に取り出して丸テーブルの上に並べた。
「馬鹿、大げさだ」
 水を止めてやってきた慎也はちいさく笑う。やや難儀そうにスチールの椅子に腰掛けると、トワが並べたセットには目もくれず、普通のバンドエイドだけを箱から選び出し処置にかかった。
 バンドエイドを六枚、真ん中から順に傷と垂直に、微妙な加減で引っ張りながら貼り、開いた皮膚をぴたりと寄せてゆく。縫合と原理は同じだ。トワは思わず慎也の指先に見入っていた。
「なれて、いるんですね、」
「そう見えるか?」
「……はい」
「そうか」何故か自嘲的に微笑んだ慎也である。「俺のもともとの専攻は医学だった。研修医になり立ての頃、事故に遭ってな、目を駄目にした。人工眼球では医者は務まらない。それで心理学に転向した。ついでに恋人も失った」
「……昼間、言ってた、」
「そう、杏樹だ。俺は精神的に荒れてな、とてもお前には話せないような事も犯した。つまり……、由良が言ったのもあながち間違いではない、そういう事になる」
「……」
「包帯を取ってくれ。あれば圧迫包帯がいい」
「あ、はい、ええと、」
「なるべく伸び縮みしない方だ。ああ、それでいい」
 白い包帯を厳重に巻きつけ、トワの差し出した専用のクリップは無視して歯と左手を使って手早く端を裂き、結び目を始末する。まくっていたシャツを引っ張ろうとして、それが無残にも血まみれになっていることに気付き、やめた。
「……クリーニングに出せば、四時間後には……」
「ほう、泊まっていけと」
「……い、いえ、」
「冗談だ。すまない、助かった」
「え、」
 ほっと息を吐いた慎也の何気ない言葉が、痛く心に刺さった。そしてそれはすこしだけ、少年の心を良くも悪くも素直にした。
「……ボクのほうこそ、すみませんでした」
「気にするな。お前の体に傷を残すことは避けたかった、個人的な感情だ」
「そんな怪我をしてまでボクを庇う必要なんかなかったんだ」
「くどい。必要は無くとも俺はそうしたかった、それだけだ。お前がどう思おうと関係ない」
「ボクには……だれも、守ることもできない。最悪な気分だ」
「お前、いつからそんな風になった」
「なにがだよ」
「俺は、お前のためならどうとだってできるぞ。人権保護違反で医務課を訴えてもいいし、そうだな、お前を養子や配偶者にしてもいい、そうすれば監察官は必要無くなる」
「いみがわからない」
「誰も、とはナコのことか。それともイチル君のことなら、もう関わるのはよせ」
「そんなこと、あんたに指図されたくない」
「本題に入ろう。怪我を負ってまでここに来たんだ、聞いてくれるだろうな」
「……っ」
 気にするなとさっき言ったばかりではないか。本当に、横暴そのものだ。
 二の句が継げないでいるトワを尻目に、慎也はリストウォッチの端末機能を起動し、薄暗い部屋の壁に投影させた。
「まず先日と今日の診断テストのことだ。一問目だけ俺の専門分野にすり替えておいた。ちなみに大学院の修了レベルだ。おまけに引っかけ問題になっている。これまでの生徒、いや、学生たちの正解率はおよそ五パーセントだ、それを二種類もクリア。まぐれにしてはどうにも合点がいかなかったので、俺は独自にあれの調査をすることにした」
「そんなの、彼女にちょくせつ聞けばよかったじゃないか」
「俺はお前の口から聞きたかったが、どうもお前にすら素性を明かしていないようだ、そうだな」
「……う、」
「見ろ、裏で入手した住基リストだ、本来載っていない人間まで網羅されている」
 ピッ、ピッ、ピッ、慎也は無表情でサーチウインドウにアルファベットを打ち込んでゆく。
 i-chi-ru……cannot find。
 i-chi-lu……cannot find。
 i-ti-ru……cannot find。
 i-ti-lu……cannot find。
「他にも思いつく限りの綴りで検索した」やけに平坦な口調で慎也は言う。「結論から言おう。この街にイチルなどという少女は存在しない」
「……慎也、まてよ……」
「だが」ピピッ。今度はイチルのパーソナルヒストリーとみられる文書が長々と投影される。「転入時には学歴以外の詳細なデータが機関から送られてきた。何が言いたいのか解るな?」
「機関が、イチルを、でっちあげたっていうの、」
「正解だ、奴らも案外、雑なことをする」ピピッ。また画面が変化する。「そして、このフェイクのデータへ頻繁にアクセスしているのが、この人物だ」
 ピッ。慎也は膨大な量のアクセスログをわざわざ拡大表示させ、トワにしめしてみせる。
 トワの口から、思わず「……うそだ……」と消え入りそうなつぶやきが漏れた。
 きみどり色に光るアルファベットの羅列は、残酷に、少年の瞳を射ている。

 ――Yu-ra、Yu-ra、Yu-ra、Yu-ra、Yu-ra……。

つづく
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