410*あの頃のように

 ユキサトの都合した会場は、通称『赤い教会』と呼ばれる運河のほとりの礼拝堂だった。
 管理もろくにとどいていない古びた建物だったが、なによりコハク、カズイ、マヒロの三人を喜ばせたのは、階段状になっていてちょうど舞台のように見える正面の祭壇部だった。
 羽根の生えた魚が赤と金で描かれた丸天井は街じゅうどこの劇場よりも高く、おかげで音が良く響いた。響きすぎる、というカズイの苦情は、「君たちには分相応だ」というユキサトの身も蓋も無い言葉でねじ伏せられた。
「やるからにはちゃんと働いてもらうからね!」と念を押したユキサトの言葉通り、出演者だというのに三人は連日大忙しだった。礼拝用の長椅子を詰め、ヒスイ嬢の手まで借りて隅々を磨き上げ、これは相当難儀したようだがカズイの仲間たちを集めてピアノを運び込み――まだまだ春も遠くにひそむ街は、誕生祭の最終日を迎えた。
 アヲイトウワの娘の凱旋公演というふれこみと、おもにマヒロの地道な努力により、彼らの演奏会はその日の目玉として街じゅうに知れ渡ることとなっていた。

 ちょうど舞台袖にあたる祭壇わき。
「袖のレースは、ピアニストには邪魔だったかしら」ブラシや手鏡やらを抱えたヨナが真剣な顔で聞く。「腕を上げてみてもしきゅうくつなら、ボタンを外すといいわ」さきほどからかいがいしく世話を焼いてくれる。
 彼女の縫いあげたナチュラルベージュのワンピースをまとい、コハクは「平気」と顔をほころばせた。絵に描いた母親のようだ、と思う。
 襟と裾にはコハクの選んだみどりのチェック柄の布があしらわれ、紅茶染めの布花が丁寧に縫い付けられている。豪奢なロングドレスは好みではない。ヨナは採寸に採寸を重ねて短すぎない程よい丈を導き出してくれた。
 小さな仕立屋はマヒロたちの住むアパートメントの一階にあった。お針子ヨナは飛び入りの注文にもいやな顔ひとつしなかったばかりか、コンサートの衣装と聞いて大はりきりだった。今日もまた、お昼の差し入れをたずさえて教会に姿を見せてから、ずっと皆の仕事を手伝っている。
「おっと、よろしいかなお嬢さん方」ユキサトが照明や座席の手配図を持って入ってきた。
 コハクは照れくさそうに「にあうかな」と両手を広げてみせる。
「うん、うん、普通の女の子みたいに見えるよ」
「……よろこぶべき?」コハクはヨナに聞いた。
「怒るべきね」ヨナが笑う。
「そうそう!」マヒロが焼き菓子を食べながら顔を見せる。人目を盗んでさぼっていたところを女ふたりに見つかり、追い出されていたのだ。「そんなんだからヒスイさんに冷たくあしらわれちゃうんですよ、先生は」
「ぼくの父親代わりで手をうつ? せんせ」
 ユキサトはやれやれとため息をつく。この子はもう大人の女性といってもよい年頃なのに。こういう、わざとなのかと疑いたくなるような自己への無頓着さへはますます拍車がかかったようである。
 幼い頃はいつも長く編んで垂らしていた髪を切り、鮮やかな色の服も、もう好まないようで、だがこうしてみるとやはりコハクである。
 大きな帽子を目深にかぶり、少年のような格好で帰ってきた彼女を見、ずいぶん驚いたものだ。『これは夢? あなたはほんとうにユキサト?』酒のせいで熱を帯びた瞳には、夢見がちというより時間の迷子のような危うさがあった。
 あの時はひどく不安になった。
 トウワの失踪後、身勝手を承知でコハクをひとり北方都市へ送ったのは自分だ。それが最善だと考えたからだ。だがこの子は、いちど囚われた幻想という狭い箱庭の中から抜け出せなかったのではないか、と。
 ――言いだしたのはぼくだけど、演奏に勝ちも負けもないじゃない、ほんと、馬鹿なんだから。
 ユキサトが、カズイとコハク、ふたつのグラスが重なるのを止めなかったのは、不敵ともとれるコハクの笑顔に、幼い頃の面影を見たからだ。
 カズイらとともに、細々とした下準備に、昼間の魔法屋を貸し切っての練習に、堂々めぐりの議論に励むうち、コハクはみるみるうちにかつての快活さを取りもどした。
 と。
「……なんだあいつは、」
 いつもの着古した白シャツに細身の黒タイ。不機嫌な面持ちでカズイが現れる。その大きな手に洒落たリボンの花束が握られているのを見て、コハクとマヒロは盛大に吹き出した。なんだかあまりに不釣り合いだ。
 その大柄な青年が、ブーケをコハクに差し出し「お前に」と言い出すにあたって、とうとうふたりは大笑いをはじめた。
「なあに、それ、余裕のつもり?」
「そうだぞお前、なんのの真似だ!」
 ――そう。ユキサトは思った。まるであの頃のようだ、コハクとトキと……
「何がおかしい! 誰が俺からと言った!」柄にもないと本人も気づいていたらしい、最高に決まり悪そうな表情でカズイは怒鳴り返す。

 コハクの存在は、幸福の証だった。あの頃は、確かに。
 あの幸福が幻想だったというなら、いっそ想い出は想い出のまま、途切れた物語として忘れられていけば良いと思っていた。
 それもやはり、身勝手だったのだろうか。

つづく
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