412*あるいは弟

 その後はどこからともなく現れたユキサトの指示で事なきを得た。カズイの出番はすべて後半に回し、急遽もうけた休憩時間をはさみ、演奏会は再開されたのだった。
 マヒロの度胸も案外なかなかのものだった。古い恋の詩篇歌を、コハクの伴奏が後押しし、ある時はリードし、完璧ともいえる調和のもと聖歌隊仕込みのテノールは普段と変わらず伸びやかに響いた。
 気がかりだったのは怒り心頭といった様子のバイオリニストだったが。
 ――こんなこと言いたかないけど、もともとお客の半分はカズイ目当てだったんだ。あいつだってそれは承知しているよ。だから、大丈夫。
 友人の言葉どおり、無伴奏の曲ばかりで組まれたカズイのプログラムに入っても、そこで退席する無礼な客はいなかった。謎の老人もさることながら、さすが芸術都市の民と言うべきか。
 だが。
 コハクは動揺していた。
 マヒロの伴奏を終えたとたん慌ただしくいつもの帽子とポンチョに着替えて教会を抜け出し、あてもなく、トキの姿をさがした。

 ほんのすこし癖のあるやわらかで綺麗な白い髪、相変わらず細くて上品な体つき、あれは紛れもなくトキだ。あんな――
 チリチリと耳障りな音を残して教会じゅうに響き渡った声を思い出す。
 ――俺はお前らを、たとえこの街ぜんぶ壊せたとしても、ゆるさねえからな!
 子供じみた呪いの言葉を吐き、逃げるように舞台を駆け下りる間際、少年は今にも泣き出しそうな顔をしていた。暗い絶望の焼きついた瞳が誰かに助けを求めるように、ついとさまよったのを忘れることができない。
 なにが悪魔ごっこだ。あんな悪魔がいるものか!
 もう夜半に差しかかろうという頃だった。結局なんの手がかりも得られぬまま大通りに入り、魔法屋の前にやってきた。看板の文字が、ビールジョッキの落書きが、いつものように月明かりに踊っている。
 地下が酒場、一階がユキサトの住居兼事務所、二階はユキサトが仕事場と呼ぶ物置。コハクには三階の南側の部屋があてがわれていた。日当たり良好、清潔なベッドとひととおりの家具のほか、ひと昔前まで貴族の子弟に人気だった小型のピアノまでそろう。なぜ間借り人がいないのかと首をかしげるくらい良い部屋だ。本当に、家主様々なのだが。
 今夜ばかりは、笑顔でただいまと言う自信は無かった。
 そもそもここ二週間のあいだ、疑問に思っていたのだ。
 どうしてユキサトはトキのことを口にしようとしないのか。いつものようにコハクが問うのを待っているだけなのか。はたまた今回の騒動は、大仰に仕組まれた冗談なのか。
 そんなはずはない。自分がたったひとりの弟をどんなに想っていたか、あの男は知っているのだから。コハク、トキ、砂銀、鮮やかな思い出の風景の片隅にはいつも自分がいたことを忘れているはずがないのだから――
「だからって何も聞かずに行かせたわけか!」
 不意に、地下への入り口あたりから、まろぶように出てくる人影がある。
「悪いかよ、あの子だって……!」大柄な方をひっぱるようにして息を切らしていた青年が、あっと目を丸くした。「コハク!」
「マヒロ。……なに、してるの、」
 途中で姿をくらましておいて、われながらあんまりな言葉だ思った。
「何ってね、きいてくれる?」それなのにマヒロはまったく気分を害するようなことはない。傍らの大男を指さす。「こいつが無茶苦茶に騒ぐもんだから、ヒスイさんに追い出されたんだよ! まったく、正直置いて帰」
「どこへ行っていた」
 カズイが掴みかかりそうな勢いで詰め寄ってくる。声は怒りに凍っている。
「どこへ行っていたのかって聞いてる」
「……ねえ、どうしてそんなに怒るの。きみの曲は無伴奏だし、とくに問題は無かったはずでしょ。だからマヒロだってぼくをとめなかったんだ」
 まさか何か失敗を? マヒロのほうをうかがおうとすると、それさえ許すまいとするようにカズイは怒鳴った。
「悪魔を追いかけたなんて答える気なら殴るぞ、てめえ、どれだけ心配したと思っている!」
 コハクはますます混乱した。青い街を歩きどおしで冷えきっていた体に、熱い色が流れ込んでくるような気がしたのだ。それは意外にも、憤りではなくほんのり心地よい温度だった。あたたかい。
 本当は演奏会の終わりとともに訪れていたはずの安堵感がじわじわと満ち始める。
「きみには」息が震えるのを抑えられない。「黒い鳥がみえたのかな……」
 泣き笑いの顔で、やっと訊いた。
 その様子に驚いたカズイから怒りが引いてゆく。そして、
「鳥だと?」いたって真面目な問いだと察したのだろう、怪訝そうに眉をひそめた。
 それだけで充分だった。
 黒い鳥を従える悪魔、やはりあれは音を見る能力があるコハクだけに映っていた光景だったのだ。
 よかった。
 全身から力が抜ける。思えば朝から気を張り詰めたままだった。
「悪魔なんて、いないよ。トキは、ぼくの弟なんだ」ようやく笑う。「この街にいるはずで、ずっとずっと、会いたいと思っていたの。だから追いかけたんだ。勝手なことをして、ごめんなさい」
 何? とつぶやく青年に、マヒロは呆れて額を抑えた。「何、じゃないだろ、何度説明したと思ってる! 心配するより怒るより、人の話を聞け、お前は!」


 酒場『魔法屋』ほかあらゆる種の店が連なり、あらゆる音と光に満ち、あらゆる類の人間が行き交う大通りを抜け――旧市街へ入る。道の左右にはこぢんまりと、あるいは細長くひしめくレンガの家々が増え、石畳は角のとれた古いものに変わった。
 狭く入り組んだ路地のひとつひとつに、歌姫のためいき、画家のたそがれ、詩人の休日……と粋なのか不景気なのかわからない名が付く。
 それらが交差する場所に、貧乏な芸術家や学生連中の集まる一角がある。
 三人はそこをめざし、月のやわらかなみどりに照る、静かな路をゆく。
 コハクは歩きながら弟のことを語り出した。
「ある日ぼくは父さんから、きょうだいみたいに育ったトキが、ほんとうはこの街の王子さまなんだって聞かされたの」
「王子、か。そういえばそんな話があったな。王のもとに突然現れた王子殿下の噂だ」
「父さんの言葉だけで、ぼくは納得したんだ」
 トキは自分の片割れとは思えないくらい綺麗だったからだ。
 いつも息を殺して、隣で眠るトキの作り物のような寝顔を眺めていた。父に言われなくたって、コハクにはわかっていた。きっとこの子は自分のもとに遣わされた、自分などよりもっと、高貴な存在なのだと。
「なんというかお前は……」
 変だな、よくわからん、とカズイが言った。
「なんとでも言ってよ。子供の考えることなんだから」コハクは照れくさそうに、困ったように笑った。
「――それからすぐに迎えが来て、トキをお城に連れて行った。ひとりで眠るようになってしばらくは、とても寂しくて……。その頃は、大きくなったら宮廷楽師になって、まいばん、王子トキのためにピアノを弾くんだ、なんて考えてた」
 まあ、子供だったし。とコハクはまた念を押す。
 あからさまに興味なさそうなカズイの顔面をひらひら追い払うような仕草をし、
「コハクちゃんは一途なんだね」とマヒロが笑った。
「やめてよ……でも、ほんとうにあいつは、悪魔なんて柄じゃないの。何年かして、学校で再会した時も、それは変わってなかった。ガキとは思えない嫌味むき出しでへつらってくるやつにも、ばかみたいに優しかった。そんなんだから遠巻きに嗤われるようになっても……ひどい時には妾腹の子だとか言ってはやされても、ぜったいに手を出したりしないんだ。――そもそも、あのなりだろ、喧嘩もめっぽう弱かった」
 なるほど。今度はカズイが訳知り顔でうなずく。「そいつらを片っぱしから蹴散らすうち、こんな可愛げのない男女になったわけだな、お前は」
「……そこまで殺伐とした日々は送ってない」コハクは顔をしかめた。図星だったのかもしれない。「あの頃は、本当に楽しかったよ。ほかに、仲間もいたしね」
 ――悪がきの目に笑顔で砂を入れるような、お茶目な仲間が。
「ちなみにその頃、ユキサトは学院に研究室を持ってた」
 ひゅうとカズイが口笛を吹く。「学者くずれのエリートだって噂は本当なんだな」
「うん。そんなふうには見えなかったけどね」
 あの時分から白髪まじりだったとはいえ、さして歳も違わないように見える学生たちを大勢したがえるユキサトは、コハクたちにとって格好の標的だった。わざわざ、難しい顔で熱弁を振るっているところばかりを狙い、さまざまな悪戯を仕掛けた。
「ぼくたちはユキサトが大好きだったよ」とコハクは結ぶ。「で、そうこうするうち、ぼくは北方都市へ行くことになった」
「どうしてだ?」
「そりゃあ、アヲイトウワの血を引くなら当然だろ」アンテはそのあたりの、コハクが知らない事情にも通じている。「この街は今でこそ芸術都市なんて言われてるけど、有名な音楽家はみんな北方の音楽院で学んでるのさ。ま、二流の俺には縁遠い話だけどねえ」
「お前は三流だろ」とカズイ。
「だからはっきり言うなって。俺の歌はどうせぼんぼんの道楽ですよ!」苦い顔で舌を出すが本当のところはわからない。それで、と律儀に続けた。
「十年経って帰郷すると、再会を心待ちにしていた王子殿下は悪魔を名乗り、俺たちの演奏会ではた迷惑な悪ふざけをやらかした、と。うーん」
 ね、混乱するでしょう? コハクは首をかしげて笑う。
 付属学校時代いつも一緒だったもうひとりが、砂銀であること。そしてユキサトが王子付きの教師でもあったことは、黙っていた。
 わからないことが多すぎる、わけではない。十年の間に何があったのか、彼らに尋ねればすむ話だ。ただちくりと、淡くかがやく思い出の地図に縫いとめられたように、それを躊躇しているだけだ。
「そういうことなら話は終わりだ」カズイも言う。「詳しいことはとっつかまえて吐かせるしかないだろう、その時は俺に任せろ。悪魔どころか只のハッタリ野郎だというなら、恐るるに足りず、だ」
 本物だったとて問答無用で殴りかかるであろうに、よく言う。
 何度か通ったヨナの仕立屋が見えてくる。波乱含みの演奏会ではあったが、成功には違いない。ここの上階、カズイの部屋で遅い宴の予定だ。というよりこの若者三人は、なんだかんだで飲む口実が欲しいだけともいえる。とりわけコハクは、保護者が酒場オーナーのくせに割と口うるさいので、なおさらだ。
 おのおの疲れてはいたが、気がつくとようやく冗談を言えるような心持ちになっていた。
 そういえば、とコハクがマヒロを見あげる。
「約束を守れなかった。悪魔からきみを助けるっていう」
「あぁ……」
「なんだそれは」
「いつも損な役回りを演じる俺へのごほうび!」
 へっ。カズイは最高に感じの悪い笑みをした。すでに明かりの消えた仕立屋の扉を顎でさす。「何を格好つけてる。素直にお願いすればいいだろう、ここのお針子との恋を実らせてくださーい! ってな」
 通りじゅうに響きわたるほどの声だったので、マヒロはぎょっと目を剥いて押しとどめようとしたが、コハクまでが「なら今度はそれを手伝おうかな」などと言うので諦めたようだ。
 カズイがさらに追い打ちをかける。
「というわけで、俺の家は残念ながらここの屋根裏だが、若き天才の苦労はのちに美談となること請け合いだ。いいか六階だぞ。階段は暗いからな、心してのぼれ」
「おぉい、だれの部屋の話だぁ?」
「俺、たちのだな」
「……正確には、心優しいマヒロ様のお部屋だ、馬鹿!」
 ガキども、黙りやがれ――! どこかで眠りを妨げられた住人が怒鳴るのが聞こえ、三人は大慌てで古アパートメントの真っ暗な階段を駆け上がった。

つづく
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