413*黒と黒

「ねえ、素敵だった? コハクの演奏会」
 コハク。いつも自分を守り、導き、だれよりも強かったあいつが遠い異国でどんな日々を過ごしたかなど知るよしもない。じぶんが凍える街と、青ざめた悪夢との行き来をくり返している間、あいつがどうしていたかなど、知りたくもない。
「トキ」とたとたとやってきた人形は、寝台の足にもたれて冷たい床に座り込んだあるじを見て、不安げに顔を曇らせた。
「怒っているの? わたし、ちゃんとお留守番していたのに、どうして?」
 トキは答えない。まばたきを忘れ、暗く虚ろな瞳で宙を見ている。
 ほんのお遊びのつもりだったのだ。
 ちょっと驚かせて、あの高慢な顔に少しでも怯えの色が浮かぶなら、願ってもないことだと思っていた。そうして、コハクなど取るに足らない存在だとあらためて認識したかっただけだ。
 それなのに。それなのに――
 ――愚かな子だ。
 よりによってあの声を、ふたたび耳にすることになろうとは。
 覚めた世界の産物ではないはずの死神の鐘が、今もジグ、ジグと耳の奥で鳴りひびく。
「トキ?」人形はあるじの傍らにひざまずいた。病的に床のタイルを繰り返しひっかく指先がすっかり冷えきっているのを知って、ちいさな手を重ねる。「トキ、大丈夫よ。わたし、きょうもあなたといっしょにおなじ夢をみるわ、だから大丈夫よ、ね?」
「……、」
 トキは華奢な両腕を伸ばし、赤子よりも軽いからだを力いっぱい抱き寄せた。
 人形は、決してひとのようなぬくもりを持たぬ。それでも、あたたかいと思わずにはいられない。これはもう、じぶんの一部だ。誰にも取られてなるものか。
 夢。恐ろしい夢。狂った物語のように、うつつにまで侵食してくる夢。
 このまま悪夢と同じように、ジグジグと体にしみこむ冷たいものが、黒いぼろを纏う死神の手の温度だと気づいて、叫び声をあげたなら。ジグ、ジグとしみ込む一音一音が、やつらのステップが奏でる骨の音だと気づいて叫び声をあげたなら――
 あげたなら、どうなるというのだ。
 ここはもう、夢の中ではないのだから。
 トキは人形を、手折れ壊れよとばかりにますます強く、強く抱きしめる。
 そうしてシャンパンゴールドの髪の毛に顔をうずめ、少年はようやく掠れた息で「寒い」、とだけ言った。
 
   *

  あたたかな暖炉の火を背に、カズイはバイオリンを奏でつづける。
 男ふたりの殺風景な部屋は、差し入れを持ってあらわれたヨナのおかげで一変した。
 一体どんな無理をして手に入れたのか、隅には新しい薪の束も積まれ、床におおきく広げた毛織物の上に、ありったけの皿と、盆がわりの楽譜や本が並ぶ。
 色とりどりの野菜を巻き込んだハムや、粉砂糖をふった菓子、まだあたたかい肉のパイ。ワインや、ビールや、ラベルのない果実酒の瓶――
 それらと一緒に異国のキャラバンよろしく座りこみ、三人はカズイの音楽に身をゆだねる。マヒロは、コハクがお針子に余計なことを吹き込みやしないかと気が気ではなかったろうが。

 カズイの音は――黒。
 あつくあつく塗った、油絵の具のような黒。
 バイオリニストの顔を盗み見るようにしながら、コハクは思った。ユキサトが、音が見たいというカズイを咎めるようにしたのは何故なのだろう。青年は冗談半分でも天才と呼ばれ、酒場という名の吹き溜まりとはいえ、多くの客を集める。
 もしコハクと同じような能力があったなら、彼はオーケストラを超越するような音を知り、奏でることが可能になる――そうは考えないのだろうか。ひょっとして、我が子の奢りを恐れたアヲイトウワのように、カズイが自らの音楽に対する創造欲求に見合う技術を有するバイオリニストへと成熟するのを待っているのだけなのか。
 いや、それとも――。
「そういえばお前」
 音が止んだ。コハクの胸の奥に湧いたひやりとしたものも、とたんに消え去った。
「サギンってのは知り合いか、」
 カズイはバイオリンを構えたまま弓を器用に左手へ預け、ポケットをがさがさやりはじめる。
 見せびらかすように掲げられた砂色のカードが、暖炉の火に煽られて鈍くかがやいた。
「それ……」コハクは言葉を失う。
 黒い鳥を従えた悪魔の絵が、これ見よがしに描かれていたからだ。
「昼間の花に入っていたんだが、もちろん、お前宛てだ」
 コハクは立ちあがって青年の手の中をのぞき込んだ。
 ――親愛なる同志へ。これは招待状。トキがきみに会いたがってる。
 馬鹿馬鹿しいメッセージに苦い笑みがこぼれた。トキ? トキだって? 従順な弟? 綺麗な王子さま? それともやっぱり……悪魔? 砂銀はどのトキのことを言ってる?
「ね、もしぼくが悪魔の手先なら?」コハクは小さく首をかしげ、手を伸ばす。
 予想外の反応だったのだろう、カズイは何? と言ったきり黙る。
「相手にとって不足はない、そうだよね」
「ほう」
 たちまち不敵な笑みを取り戻したカズイだったが、カードを掴もうとしたコハクの手をひらりとかわし、一瞬悩み、結局渡した。「全くその通りだ」
 その言葉をマヒロの溜息が遮る。
「そのくらいにしとけって。この際、共闘あたりで手を打てばいいだろ? いい楽師ふたりが勝負だなんだって、生産性無いことこの上ないっての! それにだいたい」彼は続けてまたもや余計なことを言った。「お前の機嫌が一日中悪かったのはそのカードのせいだろうが」

 狭く暖かい部屋。殴るカズイと逃げるマヒロのどたばた騒ぎに、ヨナの笑い声がくわわる。またもや響く近隣からの怒鳴り声に感情を逆撫でされ、あろうことかカズイは窓を全開にして賑やかなワルツを弾きだした。
 黒い音につつまれながら、コハクはもうひとつの黒のことも思った。頼りない蜉蝣のひとみのような、置き去りにされて泣きじゃくる子供の声が響く暗闇のような、憎しみと絶望を綴った終わりなき詩篇のハトロン表紙のような黒を。

つづく
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