415*不協和音

 ――コハクはたまごが好き。けど今日は、たまごは無いんだよね。トキは魚がきらいだから、魚も無いや。
 ――じゃあお肉ね!
 ――コハクはトキのきょうだいだから、みかけによらず、案外たべる。
 ――たくさんつくらなきゃ!
 ――そんなことよりトキの頭をなおしてあげてよ、すごい寝ぐせ!
 上機嫌で繰り広げられる砂銀と人形のおしゃべりが遠ざかってゆくと、部屋はしんと静まりかえった。
 本当は物置などではないのだろう。火の入った形跡の無い豪奢なシャンデリアが小さくみえるほど広い。壁際には古典的な絵画や書物、古くなった食器などが整然と積まれていた。掃除だけは行き届いているらしい。カーテンのない窓から無職の陽光が差し、あたためられた空気からは骨董屋のような、時を経てもなお澄んだ匂いがした。
 かつて三人がかりでも上蓋を開けるのに苦労したおおきな古いピアノは、変わらずそこにあった。めずらしいブラウンの塗装に猫足、前の持ち主のこだわりが見てとれる。
「さわっても?」
 ピアノの蓋に手をかけ、コハクが振り向く。
 骨董ともども遠巻きに、あいかわらずだるそうな姿勢で壁にもたれていたトキが、ああ、とぶっきらぼうにつぶやく。
 ――駄目だと言ったところで、どうせ勝手に触るんだ。昨日の今日だってのにのこのこ現れる奴だ。俺の悪ふざけなど取るに足らないと、そういうことか。
 今はじぶんよりも小柄な背中を見る。いつも長く編んで垂らしていた髪は、いまは短く切られているけれど。気性の激しさを見せつけるような鮮やかな配色の服も、もう着ないのかもしれないけれど。
 ――コハクは、コハクだ。あの頃も、いまも、これからだってコハクだ。
 あたりまえだ。不穏なむずがゆさを振り払おうとする。それなのにどうしてこれほど苛々するのだろう。ここが物置だからか。じぶんが過去に触れていたものたちに、不吉な何かを呼び起こされそうだ。一斉に、何かを問い詰められている気がする。こんな部屋、嫌いだ。
 コハクのことだって、そうだ。
「あの子、名前は?」
 コハクがこちらを見ている。はっとして、眉間にこもっていた力をいっそう強くする。
「……無い」
「おどろいたなあ。あの子が人形だっていうのは、ほんとうのほんとうなんだね」コハクは目を丸くした。「ひょっとしてきみの恋人がわり?」
「冗談はよせ」いくぶん慌てたようにトキは早口で答える。「置いてやってるだけだ」
 続いて、……ああみえても料理はそこそこうまい、とつけくわえる。
「そう」コハクはくすくすと笑い出す。どういうわけか残念そうに。
「……なんだよ、」
「今の今まで、幻想芸術の正体かあの子だったらいいのに、なんて思ってた。あの子に名前を呼ばれると、とても不思議な感じがするの」コハクは照れたようにトキへ背を向けた。形の良い耳に、すいと薄茶の癖っ毛をかけながら。
 背後の少年がジグ、とわいた冷たいむかつきに喉を詰まらせているというのに、あっけらかんと言うのだった。
「でもよかった。本当にそうだったら、またきみの大切なものを奪うところだった」
 ――何だと?
 不意に、赤と金がゆるく明滅する光景が頭の中を支配した。煌々とあたたかな綿雪のなか、厳かに舞うひとびとや羽根のある魚たちを従えたコハク。熱い拍手と賛美の声を堂々とまとったコハク。
 なんだ、これは――!
 とまどいに翻弄されながら、しかし、トキはまた思った。
 ――コハクは、コハクだ。あの頃もいまも、これからだって。では……
 では俺は、誰だ――!
「――お前、いつもそうだったよなぁ」
 無気力だったトキの口調が一変した。声高に、どうにも我慢できないというように、卑屈な息を吐いて神経質に笑う。
 その声が頭の中でキィンと反響し、コハクは身をすくませた。忘れていたいやな音。
「欲しいものは平気で奪い取る。それがどんなに相手にとって大事なものでも」
 いつのまにか背後に忍び寄っていた少年のしなやかな手がコハクを抱くように回り込んできて、ゆっくりと白い鍵盤をなぞる。次の瞬間、トキは腕にありったけの力をこめ、バァンと不協和音を鳴らした。
「――っ!」
 コハクの眼前にはおびただしい量の真っ黒の羽根があらわれ、爆発するように舞い散る。あまりに唐突で、信じがたいほどの憎しみを帯びた邪悪な色をしていて――少女は衝撃のあまり全身の力が抜け、その場にくずおれた。
 王子さまは悪魔になったのさ! また砂銀の言葉を思い出した。
 バァン。トキはふたたび鍵盤を叩く。バァン、バァン、バァン、何度も、何度も。
 腐ったような黒の羽根は次から次へとわいてきて、コハクに降りそそぐ――。
「やめて! ねえやめて! やめてっ!」
 少女は耳をふさいでうずくまった。
「許せねえんだよ」トキの声音がまた変わった。こんどは不気味な低い声でつぶやくように言う。「生まれてからいままで、美しいものだけを見つづけてきたかのような、まるで穢れなんか一片たりとも知らないかのような、平気でそんな音楽を奏でるお前がな」
 ようやく少年は鍵盤から手をはなす。脱力して動けないコハクを満足そうに見下ろした。
「……う」悪夢のような光景が去ると、遅れて頭痛と吐き気が襲ってきた。気持ちが悪い。
「つらそうだな、砂銀を呼ぶ?」
 優しい言葉とは裏腹に、トキは恐ろしくヒステリックな声で笑った。「呼べば? 使いっ走りにして馬鹿にしてた砂銀を呼んで、助けてもらえば?」
「……どうして、」
 コハクはよろよろと立ちあがった。努めてまっすぐに、トキの薄い碧眼を見つめる。少年はちらと少女のアンバーの瞳を睨んだだけで、一歩身を引いた。
「たしかに、子どものころは横暴なふるまいもした。きみを何度も傷つけた。でもぼくたちは、いつもいっしょだった。たのしい想い出、たくさんあった。ぼくは忘れていないよ。そんな話がしたかった。だから、」
「わたさねえよ」
「え、」
「お前にはこれいじょう、何ひとつわたさねえ」
「なに、言ってるの」
 はっとした。トキの大切なもの。
「まさか、」と口走りながら、コハクは確信した。「あのときの石は……」
「そうさ」少年の瞳が真剣なものになる。「あの鉱石人形の心臓になったのさ。ユキサトの、最後の最高傑作。俺に残された、たったひとつの宝もの。だからな、もうここへは来るな。俺たちのことは放っておいてくれ。……二度と姿をあらわすんじゃねえ!」
「……!」
 残酷な拒絶。
 ぽろ。コハクの瞳から涙がこぼれた。
 次の瞬間、少年を押しのけて、部屋の外へ向かって全速力で駆け出していた。


「コハク、まってよ、コハクっ!」
 逃げるように屋敷を後にしたコハクを、砂銀がどこまでも追いかけてくる。「もしかして、もしかしなくても、トキが、何か気に障ることを、」
「気にさわるもなにも!」
 街の城壁の手前、かつては見張り番の詰め所か何かだったのだろう、屋根のない石造りの廃墟のところまで来て初めて、小さな背中は立ち止まった。もう、頭のなかがぐちゃぐちゃだ。そしてじぶんでも奇妙な問いをしていた。
「あれはほんとうにトキ?」
 あわくかがやく想い出が、どんどん崩壊してゆく。涙がとまらない。
「そんなことを言いだしたらきりがないでしょう?」砂銀は困った顔でコハクに近づき、冷たい涙をぬぐおうとした、が、拒まれるのを懸念したのか弱々しく手を下ろした。
「きみだって、ほんとうにコハクなの、」
 ……そうだね。泣き笑いを浮かべるコハク。もう招待状の意図もどうだってよくなっていた。どうせ、『だってきみはトキに会いたかったんでしょ?』と本当のことを言われるだけだ。
 早く帰ろう。ひんやりと青い、うつくしい町に。
 じゃあ、と曖昧な言葉をかけて手を振ろうとすると、引き留めるように砂銀が言うのだった。
「トキはね、いまでもあの石がないと眠れな」
「きいたよ。ユキサトが鉱石人形に仕立てたんでしょ、それでいいじゃない」
 憎しみが荒く溶け込んだ激しい不協和音を思い出しそうになったコハクは、思わずぴしゃりと遮った。
 睨まれて、砂銀はちいさな声でごめんと言った。
「きみを呼んだほんとうの理由、黙っていてごめんよ。トキが嫌がりさえしなければ、きみに――あの男のところへなんか帰らずに、ずっとあの家にいないかって言うつもりだった」
 またつまらない冗談を。コハクは思い切り意地悪く笑おうとする。
 だが砂色の瞳は冗談にしてはあまりに思い詰めたもので、コハクはすぐに『あの男』というのがカズイではなく、ユキサトのことを指したのだと気づいた。
 どうして? ぼくたちは、あんなに彼のことを慕っていたのに。
「誤解しないで」砂銀は寂しそうに笑った。「僕は今でもユキサトのことが大好きだよ。それにきみとおなじで、ほんとか嘘かなんて大した問題じゃあないと思ってる。でも……、でも、少なくともトキは信じているんだ」
 砂銀が語ったのは、三文オペラのような、しかし信じがたい筋書きだった。
「じぶんが実の父親、アヲイトウワによって王さまに売られたのだって。――それを手引きしたのが、ユキサトだって――」

つづく
つぎのおはなしへ
前のおはなしへ
もくじへ