こんにちは、オフィスHの伊藤です。
初詣を兼ねて、2011年元旦に気ままに散歩した、埼玉県和光市の白子(しらこ)を紹介します。

白子には、江戸時代の川越街道の宿場。それ以前から農耕集落があり、ちょっとした市場も立っていたとか。
白子宿は下宿、中宿、上宿とあり、中心部には本陣、旅籠などがあって、本格的な宿場街だったのですね。

「白子」の呼称起源は、朝鮮半島からの渡来人と伝えられています。
埼玉県には、曼珠沙華の群生が日本一の「巾着田」で有名な日高市高麗の他に、朝霞市の隣の「新座市(にいざし)」、和光市の「新倉(にいくら)」など渡来人縁の地名が残っています。
「白子」も新羅(しらぎ)の転化だそうです。
新座(にいくら→にいざ)も、新倉も、新羅の転化と伝わっています。

白子川という荒川水系新河岸川支流が流れていて、古くから農耕に適した土地だったようです。
しかも、武蔵野の台地のハケ(段丘の縁端の崖)から湧水が豊富に流れ出ています。
今でも"滝"があり、ちなんだ地名が残っています。

新倉の農家出身の方に聞くところによると、「自分の家で飼っていたニワトリが卵を産むと、白子の市場に売りに行った」そうです。
白子は、東上鉄道(現東武東上線)の開通で中心部が移動して廃れたと言われていますが、戦後も高度成長期くらいまでは、そこそこの賑わいがあったのでしょう。

いざ散歩へ!
地下鉄東京メトロの地下鉄成増駅から出発。
川越街道旧道 下り坂の途中に、新田坂の八坂神社。氏子の皆さんが初詣客を迎えている。
白子川を挟んで、手前が新田宿、向こうが白子宿と呼ばれたと。
往時の新田宿には、魚屋、造酒屋が並んでいた。
成増を過ぎた辺りは切り通し。旧道の右側(東上線寄り)は成増台地の端が緩やかに下っている。

白子川を越え、信号を左ヘ進む。
白子ノ熊野神社1数軒の商店の先、右手に白子ノ熊野神社参道。
縁起物を持つ人通りがなければ、見過ごしてしまいそうな小さな参道入口。
ランドマークの大銀杏がわずかに黄金色の葉を残す。
初詣の人々で賑わう境内。
白子ノ熊野神社2
白子ノ熊野神社3

長蛇の列に参拝を諦め、社殿の左奥へ回る。
神社建築に詳しくないが、本殿、拝殿を構える本格的な造り。
白子台地の雑木林に囲まれて、不動の滝。ハケからわき出る地下水が滝となって落ちている。
白子ノ熊野神社5

その上に、神瀧山清龍寺不動院
白子ノ熊野神社9

不動の滝で滝行もおこなわれるとか。
"開運利益洞窟めぐり"ができる。これは次の散歩のお楽しみ。

再び車通りに戻り、川越街道を背に進む。
左手に滝坂の標識。熊野神社の背面は急な斜面林に覆われていたが、滝坂周辺は一面の宅地。小さな一戸建てとマンション・・・
滝坂の標識に誘われ左に曲がるが、すぐに右手に折れる。道なりに進むと、左手に鐘楼が見えてくる。
地福寺10

東上線・有楽町線で通るたびに見る鐘楼。瑞應山地福寺の到着。比叡山延暦寺を総本山とする天台宗のお寺で、関東百八地蔵第七番札所。
東上線から見事なイチョウの黄葉を見るたびに「山寺みたいだなぁ」と旅愁に誘われた。
山門を入ると、左手にお地蔵さん。
地福寺01

正面の立派な本堂前には、除夜の鐘の参拝客のためのかがり火の後。
地福寺23
地福寺19


寺域の斜面は数多くの墓石。
地福寺12

本堂周辺には雑木林が残る・・・
地福寺06

周辺は物の見事に宅地化。
地福寺07
地福寺09

左写真の奥は東京都の光が丘。
白子台地の上にはマンションがせり出す・・・日当たりいいもんねぇ。

地福寺の大イチョウ(和光市HP)
地福寺17境内に、フクロウがかわいいベンチあり。








地福寺25地福寺横を通過する東上線。











地福寺を後に、白子川まで戻り、東上線の橋架を潜ると左方に曲がる。
白子川と東上線橋架

東上線の線路を挟んで、地福寺と並んであるのが、成田山神護寺。千葉の成田山の末寺。
成田山神護寺1

寺域は小さいものの、交通安全の成田山にあやかり初詣客が多い。
成田山神護寺8
成田山神護寺7

立派な桜の大木があるのだが、昨春に枝落としをして、寒々とした感じに。
成田山神護寺5

こちらも、たき火が参拝客を迎える。温い火の先に東上線が通過する。

神護寺横の急坂を登ると、東上線・東京メトロの4つの線路が見えてくる。いつもここを通過してるのねぇ・・・
東上線3

地福寺方面を望む。寺の背後の雑木林・・・片鱗。

笹目通りに出る手前に、滝坂の標識を再び発見。坂の下にあった滝坂の登り口。
滝坂1滝坂3








なんとまぁ急な坂。往事は雑木林に覆われて、追いはぎでも出たかも知れない。

笹目通りを横断し、和光市駅へ。昔は大和町と呼ばれた駅。地下鉄乗り入れで近代化した駅舎となり、駅名も改変。畑に囲まれていた周辺も一気に宅地へ変貌。
駅から北東、東方面が新倉の開墾地。台地を下ると、新河岸川、荒川の河川敷の肥沃な土地。戸田方面まで田んぼが続いていたんだろうな。
わたしが住む朝霞を含む、この界隈は将軍様の鷹狩り場だったと聞いたこともある・・・
新倉も宅地化が進む。

武蔵野台地のハケには豊かな湧水(湧き水)があります。
日本の軟水は優しく、日本茶にぴったり。
日本茶が体に良いと言われるのは、茶葉が持つ効能もあるが、軟水が体に優しいからでもあるんでしょうね。
ちいさな散歩を終え、家でお茶を楽しんだ元旦。
ゆっくりと太陽が、秩父山系がくっきり見える西方に沈んでいきました。


以下、Wikipediaにあった記事もご参考に>>
■白子川沿いの台地には縄文期の遺跡が発見されている。隣接する成増地区にも同様に遺跡があり、台地上に集落が築かれていたと思われる。現在、その集落跡には寺社が建てられているケースが多い。
■古墳時代から奈良時代にかけて、渡来人の移住があったとされる。その理由として白子(シラコ)は新羅(シラギ)の、新倉は新座(すなわち新羅)の転化とする説や、百済王子の住んだとされる牛房城伝説があるが、考古学的には実証されていない。ただ江戸時代中期までは新倉は「新座」と表記されており(読みは同じ"にいくら")、志木市や新座市にも同様の渡来人伝説があることから、単なる伝説ではないと考えられている。
■いずれにせよ、かなり古い時代から白子台地には集落が築かれており、現に寺社も多く、その中心地は現在バス停に名をとどめているだけだが「市場」辺りだったらしい。
■戦国期には白子台地上で上杉勢と北条勢の争い「白子の戦い」があった。
■江戸期には川越街道の宿場として白子宿が栄えた。当時の街並みはほとんど残っていないが、当時の中心地だった熊野神社周辺には旧家が残っている。中でも花火を稼業とした富沢家は中心的役割を占めており、現在も富沢姓の旧家が多い。また、江戸時代には新河岸川を通る水運も盛んであり、新倉には河岸が設けられていた。
■鉄道が敷かれ、川越街道のルートが変更されると、白子宿や新倉の河岸は寂れた。白子宿周辺では豊富な清水を利用して魚の養殖、水車営業も行われたが、市の中心地は駅周辺に移って行った。以前の白子には湧水が盛んに沸き出ており、明治9年(1876年)には白子村の熊野神社境内に日本最初の養魚場ができ、明治23年(1890年)に養魚場は閉鎖された。又、近くには、以前湧き水が流れ落ちていたため、滝坂と呼ばれる坂が現在でもある。