ここ数十年、
葬儀の中心部分のひとつである「儀式」の主権を握ってきたのは
宗教者(お寺)でした。

だから、葬儀社は
お寺が仕切っている「葬儀式」に関しては
何も口を挟む事ができませんでした。

しかし、よくよく考えてみると、
参列のみなさんに背中を向けて、
分けのわからない歌のような漢文をよんでるのを
延々40分も聞かされて、
それで数十万円を持っていくなんて考えれない。
という発想が出てきてしまいました。

この、古い人から見ると
一見罰当たり的な発想が
今では主流を占めています。

その間、葬儀社はどんな努力をしてきたのでしょうか?

戦後の教育の中で宗教は切り離されて
宗教心が何もないと言っても過言ではない
新しい世代の人達。

こうなる事はわかりきっていたのに
何も手を打つ事なしにしてきた葬儀社にも
大きな責任はあります。

今から8年前の2000年のころ
「無宗教の葬儀は沖縄のはるか南方で発生した
 台風のようなもの」と言った人がいます。

「やがて大きな嵐となって本土に上陸する」と言っていたのです

しかし、無宗教の葬儀は
掠める事はあっても
上陸できませんでした。

しかし、その代わりに
葬儀の規模の縮小化の嵐が
日本全国で吹き荒れています。

この家族葬の嵐は
葬儀社にとっては
台風のようなものでは済まされません。

旧約聖書の「創世記」に出てくる
ノアの方舟の大洪水のようなものになってしまっています。

今になって私は思うのですけど、
あの無宗教の台風の時に
もっともっと葬儀社は自分達の立場を見つめて
いろんな対策を練っておくべきだったんです。

葬儀式の儀式に関しても
もっと勉強するべきだったのでしょう。

消費者が仕方なく、選択されていた供養品も
もっといろんなアイテムがあったはずです。

他にも自分達こそが葬儀の健全化を計れる唯一の立場である事を
知るべきだったのです。

その時にした怠慢(何もしなかったこと)が
今になって家族葬の大洪水どころか
葬儀不要論に至ってしまっています。

しかし、今、私たちが家族葬専門で葬儀をしていても
日本人の心のどこかには
宗教の必要性が十分に残っています。

死者に対しての尊厳や思いは
もしかすると家族葬の方が多いのではないかと思う事も
しょうっちゅうあります。

かえって、お寺を呼んで今までどおりの葬儀を行なうことの方が
死者に対しては粗末だったりしているのです。

そういう考え方で家族葬をもう一度見直していただくと
家族葬の良さがわかっていただけると思います。