2012年11月
瀬戸大橋を目線の高さで見れる素敵な現場です。
で、、、いい写真が!
新しいNikon。いい仕事するね~
ホント、現場スタッフはご苦労様です。
何せ屋根高約30m。作業場所へ行くのも登山並みに一苦労。
この工事工法は「ゼロディールーフ(スレートカバールーフ)」。古い屋根を剥がさずにそのまま新規屋根をカバー葺き。
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前 後
完成までもう少し。強風と落下に気を付けご安全に!
ここはうどん処・香川県坂出市。職人さんたちは毎日昼飯が「讃岐うどん」
ウルトラ羨ましいじゃか!
使ってたパナソニックのデジタルカメラ LUMIXのディスプレイがパンク!
ナントか勘で使うが・・・無理!!!
最近のカメラはファインダーがないので、どこ撮りゆうかわからん???
あわててカメラ屋に走るが、そこで見つけた強者。
んんん・・・Nikon???
い~じゃないか。
老舗のカメラメーカー。 レンズが違う(らしい?)
気品あるボディーの質感。そして、いい仕事をしそうな重量感と¥16.000の値札に眩んで、3秒で決定。
なかなか所有感にあふれる。いい買い物をした。
外回り中、さっそくいい被写体を見っけ!
ナント!!!11月にも入ってめっきり秋めいた中、何かすごく楽しそうだった伊野町仁淀川橋下。
この後、岩の上の彼らは飛び込みました。
思いで作りか?青春だな~♪
んんん?伊野中か??? ありゃーウチの長男達じゃか?
何やっとんでい!
年に一度、全国の「GSX-R」乗りが集まり、ミーティング(ツーリング宴会)。
今年は天空の白鷲「姫路城ー平成の大改修」。
改修工事費28億。その半分の14億が仮設費だそうです。わおお!!!
鹿島建設のHPに修理概要やその仮設工事の動画があります。ここ⇒
明治初期、ボロボロで廃棄寸前の姫路城を宿毛出身の陸軍省中村大佐が「貴重な名城は後世に残すべき!」と、軍の費用を使って修復したそうです。(高知県人はスゴイ!とガイドさんにお褒め♪)
そして太平洋戦争姫路空襲時、B29-60機の爆撃から被災を免れた。
後世、当時のパイロットに「やはり文化財だから爆撃しなかったのか?」と聞くと「姫路城はただの沼地にしか見えなかった。」との答え。
見事、戦時中市民による「城の黒塗り作戦」でカムフラージュに成功。
焼け野原にそびえたつ姫路城に、街の皆が復興への勇気をもらったそうだ。
歴史を勉強した後は、全国の仲間と羽賀温泉で「おきゃく」
いや~いいリフレッシュになりました♪
先月、元請建設会社の業者旅行で「GUAM(グアム)」へ。
苦手な航空機に3時間も乗せられて・・・
そしてバス観光。
途中のガンビーチにて旧日本軍の高射砲。
70年前の造りとは思えない造形美。
その後ろにはナント・・・
米軍上陸時の機関銃の跡
無数の穴がまさにそれ。
そして、太平洋戦争記念館へ
たった15分だったので、ほとんど走り見。
その後、ガイドさんの解説で、ここグアムの戦場は当時、凄まじかったことを改めて聞かされる。
サイパンやグアムは激戦地だったことは知ってはいたが。。。
次の日。リゾートの気分になれず、どうしても当時の戦争をもう少し詳しく知りたくて、得意の一人行動へ!
しかし「足」の手段がなく身の危険を感じながらもレンタカーを手配。
マスタングのオープンと行きたいトコロだが、
カロ~ラ♪ で、我慢。。
初めての海外での運転、カローラにて右車線をひとり孤独に走る。
脇下に大量の汗をかきながら。。。
まずは、太平洋博物館へ。
館内は外人だらけ。心細いが股間気合を入れて見学。
この館長さん。優しく、片言の日本語交じりの英語で送ってくれた。
「サンキュー」と手を振ると「アリガトウ」だって。あらら・・・(笑
そして、昨日来た太平洋戦争記念館に再び。
ここはアメリカなので当然アメリカから見た戦争観となっている。
係りの女性が親切に解説してくれ廻ったが英語は???
しかし、日本語解説があったので2時間近く見学。
まわりは外人ばっか。めちゃ不安やったけど、隣がU.S.Navyなので大丈夫と自分に言い聞かす。
そして、太平洋国立歴史公園があるアサンビーチへ。
公園内には当時の米軍爆弾が展示。(セルフシャッターが間に合わず。)
ビーチを散策する。
70年近く前のここでの激戦を想像しながら・・・
1944年7月21日。アメリカ軍55000人に対し、日本軍は18500人
戦艦からの艦砲射撃、艦載機とB29による3日3晩の昼夜を問わない猛烈な爆撃で、
この海岸は地形が変わり、そして爆破の熱で海岸付近の海水は沸騰状態だったそうだ。
夜が明けるとこの海岸からは水平線が見えなかったそうだ、米軍の船で。
その猛烈な攻撃の為、日本兵は一切睡眠をすることができず、精神状態も限界。しかし、それでも戦った。
水際作戦で必至に食い止めるが、アメリカの物量には当然勝てず。
激しい白兵戦やバンザイ突撃で食い止めるが、
部隊はばらばらとなり、最終的に島の北に追い込まれ、日本軍は全滅となった。
当時、島への輸送船(食糧・弾薬・物資・医療品)はことごとく米軍の潜水艦に叩かれ、激戦当時日本軍は
兵糧攻めとなっていた。
結果、日本軍戦死者 18000人。負傷者 485人。
自分と同じ歳くらいの方、ずっと若い方。それぞれの人生があり、家族や生活があっただろう。
塹壕でどんな気持ちで敵を迎えていたのか。
当時の兵士の事を考えながら海岸を歩くと自然と涙が・・・
今の平和と幸せに感謝し、手を合わす。
そして自分の日々の生き方を改めて考えさせられた。
小笠原孝彦
株式会社オガサ製工 代表取締役
1970年 高知市生まれ
金属屋根の製作施工と遮熱技術で高知の屋根を快適にしています。南海地震対策として金属軽量屋根を推進しています。(雨漏り修理も専門分野)
一般社団法人 地震倒壊死から命をまもる建築専門家協会(地命協) 代表理事
近年必ず起こる「南海トラフ地震」発生時に、建物倒壊による悲惨な圧死・窒息死を少しでも減らし、また速やかに避難することで津波や火災から命を守れる情報を建築専門家が発信しています。