2015年05月19日

あめふれアジサイ

雨の音がしてきました。
カーテンを閉めているので、見えません。
ポツポツとしはじめたら、すぐにサーッと、一連の音で、雨が降り始めました。

車谷長吉が死んだよって、ひかりちゃんからメールがきた。
あー、そうか、亡くなったのか。

『赤目四十八瀧心中未遂』を初めて読んだのは、大学生の頃。
一時期は車谷さんの本ばかり、読んでいた。ヒリヒリとして、孤独で、怖かったのにずっと読んでいた。
生きて、いくことはなんと恐ろしいことなんだろうかと、20歳やそこらの私は渦巻くような中へ、引っ張りこまれるように、読んでいた。

遅くに結婚した車谷さん。割れ鍋に綴じ蓋、と言っていた。嫁はんが百日も家を空けるのが恐ろしくて、行きたくもない世界一周の船旅に出ることにした車谷さん。知ったことかとたんかをきる車谷さん。どことなくユーモアのある、人生相談にのる車谷さん。嫁はんより絶対に早く死にたかった車谷さん。

知らない人、会ったことのない人、だけど、死んでしまってさみしいな。
しばらくは車谷さんの本をポツリポツリと読み返してみよう。

余談ですが、奥さんの高橋順子さんが、車谷さんを「連れ合い」とよんでいて、いいなあいい言葉だなあ、と初めて思いました。
連れ添う、連れ合う、縺れ合う、寄り添う、繋ぎ合う、ね。

さらに余談ですが、ここのところ読んでいた『飛ぶ教室』の翻訳がどうも合わなくてイライラします。私には釈然としない翻訳であります。




ogasawara1981 at 00:22|PermalinkComments(0)TrackBack(0)

2015年04月26日

むぼうなたたかい

賭け、である。
ギャンブル、である。
わたくしはいま、むぼうなたたかいに挑戦しております。
みなさま、お元気ですか?小笠原です。

「面白きことは良きことかな!」とは、下鴨"偽右衛門"総一郎の言葉であります。
かの、京都狸界きっての大物、烏丸のビルの上を飛び回る天狗達ですら感服する偉大なる狸。狸柄は春風駘蕩無欲恬淡、慈悲心に富み、無類の酒好き将棋好き、嫌ったものは不味い酒とちんけな縄張り争いだったそうな。
人間なんぞよりも、ずっと粋でかっちょよい雄狸!狸味溢れるいなせな狸。
あれやこれやのよもやまや、のっぴきならない事柄なんぞも「阿呆の血のしからしむるところ」と鷹揚に受け止め、面白がる。
嗚呼、憧れの偉大なる偽右衛門!!

しかして、わたくしは人間ではありますが、下鴨総一郎氏の狸柄にバチコーーンと胸撃たれ、まったくもってままならない様々に右往左往している自分をかえりみて、やはりこれも「阿呆の血のしからしむるところ」なのかもしらないわ。なんて思いながらの春の日々。

勝つ見込みのない戦いに果敢に挑戦する所存。負けがこむようであれば潔く撤退、もしくは降伏だって辞さない姿勢で挑むのです。
もはやこれが戦いなのかなんなのか分かりませんがね。勝とうが負けようが、実は戦いではなかったなんてことも、その実其れはどうでもよかったりもします。だって、右往左往することに意義があるのですもの。

そんなこんなの意味の分からないブログ。
そうです、森見登美彦、有頂天家族読んだのよ。楽しいのよ、面白いのよ。
なんともかんとも、面白いことは良きことかな!!!!!
ね、みなさん!




ogasawara1981 at 23:37|PermalinkComments(0)TrackBack(0)

2015年04月19日

君思う

突然片思いになったかのようです。
急に見も知らぬ人を好きな人と設定され、告白の日取りまで決まり、
行ったら行ったで、好きになってもらおうとあれこれやってみる、、、

そして、告白の結果を待つ。

告白の感じが良い感じだろうと悪い感じだろうと答えがくるまでは少しソワソワします。
いや、全然気にしてませんけど?
みたいな、フリをしていても、心のどっかには、あーー、告白したんだよな、どうなったんかな??どうせ無理なんだろうよ、どうせ。とか思いつつ、やっぱりオッケーしてくんねえかな、みたいな淡い期待もあったりして、もーーーー!なんつう面倒くさいものでしょうかっっ!

そんな感じのここ何日かです。
まあ、つまりオーディションがあったよ、てな話です。

今日はこれから別件での衣装合わせです。
なんどもなんども片思いして告白するんですねーーまったく!



ogasawara1981 at 10:40|PermalinkComments(0)TrackBack(0)

2015年04月15日

ぽっさん興奮、リズムに拍車。

タイトルは西加奈子さんの『円卓』の一文です。
これを読んで私はこの本が大好きになってしまいました。
なんて素敵なリズム! ぽっさん興奮、リズムに拍車。 わあ!

小学三年生のことこちゃんが主人公です。
ぽっさんはことこと同じ団地に住む幼なじみの男の子。
吃音があって、独特のリズムで話します。ことこはそんなぽっさんのリズムが格好いいと憧れて、そのリズムを会得しようと練習までしていました。
ぽっさんが興奮して話し出すと、そのリズムは加速します。 
ぽっさん興奮、リズムに拍車。
映画化もされたようですが、この文体、このリズム、そして突っ込みの目線の暖かさによって描かれる世界を映画化するなんて、どうやったんだろう。

ぽっさんというあだ名が、まずいいです。
ぽっさん。少しふくよかで聡明で独特のリズムで話す男の子が浮かびます。
福禄寿に憧れてランドセルには大きく「寿」という文字。
好きだ。ぽっさん。いいぞ、ぽっさん。

ことこは8人家族の末っ子、愛されて可愛がられて暮らしています。
だけど「孤独」とか「病気」とか「ものもらい」とか、
特別な何か、に心強く惹かれている女の子です。
それはことこの暮らす団地の居間にでーんと構える深紅の円卓、それを囲む暖かくのほほんとした家族の日常の、対極にあるかのようなものたちです。

子供の頃、私の毎日は今よりも漠然としていました。
体感して使える語彙が少ない分だけ、想いもそれによる行動も漠然と、それでいて衝動的だったのだと思います。その言葉が無ければ、知らなければ、その感情は分からない、なんてことはよく言われますが、正にそういうことです。
大人になればなぜ今自分がこんなに憂鬱なのか、まあある程度なんとなく説明ができます。
そもそも憂鬱、という言葉を知っているので、今、自分は憂鬱なのだと認識できます。
だけど、子供の頃は憂鬱という言葉を知らないので、どうしたものかなんなのか、よく分からないままに、その理由もはっきりとしないままに、私の気分は暗くなっていきました。
例えば、私に無い物をきちんと持っている人には、憧れと尊敬とそして嫉妬もしたりします。
嫉妬!そんな気持ちをはっきり言葉で自覚したのは一体いつなんだろう。
きっと幼い頃の私も、沢山感じたのだろうけど、これが嫉妬という感情だとは露知らず、ともかくも嫌なもやもやとした気持ちが巻き起こり、それは自分の中で膨らみ、腹立たしく、大人のように「あらやだ!これは嫉妬だわ。嫉妬だなんて嫌になっちゃう」なんつって自分を抑える事もままならず、その怒りに身をまかせ、膨らんだその怒りに泣いてしまう、というような。

今、理屈や言葉や色々なことで整理されてきている世界を、小さな頃の私はもっと漠然と受け止めていたんだなって、この本を読んで思い出しました。
そこには理屈だけの世界ではないので様々なものが迷い込んできます。
訳の分からない恐怖や、いつもの帰り道がいつもと違うように見える時。
今だったら沢山の言葉で説明が出来て、それは訳の分かるものになり、いつもの帰り道に戻ります。
だけど。
夜中に目覚めて、怖い夢を見た訳でもないのに、ものすごい恐怖にかられ父親の布団に潜り込んだあの時、私はきっと今は見えない感じられない何かを大きく大胆にすくいとっていたのかもしれないなって、そんなことを思います。

ぽっさんがことこが怖い思いをしたその日に、一緒に居られなかった事を心から悔やみ、謝る時、私は心からじーーーんとしてしまいました。
この二人の形を、何というのかなんて分からないけれど、
ぽっさんから出た「ひ、ひとりにして、す、すまんかった。」という言葉には
なんだか本当があるように思えたからです。
歳を重ねて、二人が大人になり、恋だ愛だ出てくると関係性を名付けてそこに組み込まれたりもするけれど、そんなのどーーーでも良くて、誰かを大切に思えたり、心から謝れたり、相談したり、頼ったり、それがあるってのは、なんていいものなんでしょう。

ことこちゃんは、どんな大人になるんだろう。
この日々を、ぽっさんを、朴くんを、香田さんを、月の下での会話を、鹿を、舞い飛ぶ雪のような紙切れを、覚えていたらきっときっと。以外と案外悪くない世界だと思えていたら、いいなあ。
これは私の希望ですけども。



ogasawara1981 at 22:32|PermalinkComments(0)TrackBack(0)

2015年04月04日

天パなさんにんぐみ

お花見しましたか?
タイトルはトミー・ウンゲラーの『すてきなさんにんぐみ』から拝借。
私の所属する劇団兄貴の子供の山ちゃんが、昨日から舞台をやっています。
はえぎわ。 ノゾエ征爾さんのところです。
はえぎわ。 羨ましいぞ!もちろん、私も観にゆきます。とても楽しみにしています。
ご興味ありましたら、ぜひ。下北沢のスズナリです。

はえぎわ「飛ぶひと」

山ちゃんももちろん楽しみですが、大好きな川上ゆりさんを観るのもとっても楽しみです。
川上さん、、、面白いんだよな。好きだな。普段も、面白いんだよな。

私は相変わらず森見登美彦を読んでいます。今は『恋文の技術』を読んでいました。
ある人物の書簡集、という形の本です。つまり手紙ですね。
手紙を書いている人物、まあ主人公ですね、が片思いの女の子に書いた、出せなかったラブレターがもう面白くて、ケラケラ声に出して笑ってしまいました。
ラブレターの後に反省と次回書く時への考察をしているのですが、それも含めて本当になんかもう、どうっしようもなくて、ああしかし、どうしようもないから恋なのだな、と。
恋って狂ってる。と、ほとほと感心。気狂いだわーー。
そこには相手が居るようで不在で、不在だから自分の中でどんどん膨らみ、とどまるところを知らず。どんなに綺麗な言葉でも情熱的でも、そんなもん、他人から見ればバラ色の気狂いでしかないかもしれません。誰にだってきっとあるものでしょう?抱きしめたいですね、そんな自分。
『恋文の技術』読んでいたら、私もなんだかラブレターを書きたくなりました。
相手を思っているようで、その実まったく見えてないやん!相手!みたいな。そんな気狂いのラブレターを書いて、やっぱり出せなくて、そんで数年後に見つけて悶絶。
なんて考えて、いやいや待て待て、本の主人公は大学院生だが私は33歳、落ち着け落ち着けと戒めました。怖い怖い!

皆様も気をつけて、夜は人を無駄に詩人にします。暇は人を文学的にしてきやがります。
頭と身体、一緒に持ってどーんとぶつかっていきましょう。私も頑張ります。何を?ってね。

ともかく、山ちゃんの芝居が始まりましたよっていうお知らせと、『恋文の技術』と、ラブレターのお話でした!さらば!




ogasawara1981 at 10:37|PermalinkComments(0)TrackBack(0)

2015年03月28日

毎日がファンタスティック

森見登美彦を読んでいます。
森見さんは京大生だから、私の通っていた大学よりも南、ずっと町中の人です。
私の大学は叡山電鉄で鞍馬にゆく途中にあり、友達は大体一乗寺や修学院から北、に住んでいました。毎年秋には始発の叡山電鉄にそれぞれの最寄り駅から乗り込み、真っ暗な鞍馬山に登り紅葉に燃える鞍馬山を楽しむ、というのをやっていました。始発の叡山電鉄は貸し切りで、車掌さんが「マイク使っていいよーー」と言ってくれたので、修学旅行よろしくはしゃいだものです。
鞍馬にはつとむくんという友達が住んでいて、鞍馬の火祭りの時につとむくんのお家で頂いた甘酒が本当に美味しくて、あの甘酒は今でも私の人生のベストオブ甘酒です。ふんどしでたいまつを担ぐかっちょいい男達の姿に、鞍馬女子が「わあ!○○先輩、帰ってきてるよ!」なんて色めいているのも、とても素敵だなって思いました。
私は地下鉄烏丸線の北山駅近くに住んでいました。かつては京都の代官山になろうとして失敗し、BEAMSが撤退したビルには当時ヴィレッジヴァンガードが入っていました。
夜遅く、ヴィレヴァンで立ち読みをし、その横のカフェでお茶をしたりもしました。
北山通にはパン屋とカフェがいっぱいで、でも一本奥に入ってしまえばもう畑だらけの、そんな街でした。5分もしない近くには、仲良しのしんぺいが一人暮らしをしていました。
しんぺいは家にご飯を食べにきて、三合炊いたご飯を平らげたりもする、心優しい純粋な馬鹿でした。私はしんぺいの純粋さに心底驚き、そして救われたこともあります。とても大好きな友達です。幸せであれ。

森見さんの本は京都の色々な場所が出てきます。
通りの名も、建物も、そのままに。
読んでいると、その情景がまざまざと思い出され、そして大学時代の出来事や人がぶわあっと蘇るようです。京大生の森見さんはやはり東山界隈や四条、それに出町柳に下鴨、百万遍などがよく出てきます。京都は大学生がとにかく多い街ですから、そこで学生生活を送った人であればともかく懐かしい思い出のいっぱい詰まった場所です。
北山に住む前、私は下鴨神社の近く、北大路に住んでいました。その当時の私のお気に入りの場所は下鴨神社の糺の森でした。小さな川とも言えない川が流れ、鬱蒼とした森は夜は不気味でありましたが、それでも偉大な下鴨神社に守られた、しんしんとした清々しさがありました。
近くには京都の学生に人気の宴会場所、鴨川デルタがあり、私も例にもれず、花見、月見、薫製パーティーなど集まったりもしたものです。
百万遍のすぐ近くには、仲良しのマリ人の教授であるサコさんが住んでいたので、そこにも本当によく遊びにゆきました。近くにはイタリア会館や有名な金平糖屋さんなんかがありました。
サコさんちで夜明けまで遊んでチャリで帰る。朝まで遊んで修学院のアメリカか?みたいなカフェに連れていってもらって朝ご飯を食べる。
吉田神社のほど近くには仲良しの女子が三人暮らしをしていて、当時なぜか「ポッポハウス」という気持ちの悪い名前で呼ばれておりました。
大島弓子を初めて読んだのもそこの家でした。落語を教えてくれたのも、その家のセンスの塊みたいな女の子でした。彼女は今や人気染色家であります。月日の流れは早いものですが、センスの良さは今も昔もまったく変わりません。

京都に暮らしていた時、お酒はよく飲んだけれど、居酒屋で飲む、という習慣はありませんでした。
飲む、といえば、大学の敷地か河原か人の家。そういうものだと思っていました。
だって私たちの唯一にして最強の交通手段はチャリでしたから、夜中でもなんでもかんでも呼び出されればチャリでゆき、帰りたい時に帰る。そういうものでした。
卒業して何年かしてから居酒屋で飲んだ時に「大人になったなああ」と思ったものです。
なので、東京に暮らし始めて、東京の大学生と居酒屋で飲んだり、その子達が終電を気にしたりするのが、ひどく新鮮で驚きを感じました。あと、お金持ちだなって思いました。
京都の大学生は、安上がりでそして自堕落でぐうたらでした。
まさにモラトリアム!

そんな私の大学時代の思い出のいっぱい詰まった街を舞台に、森見さんの本は退屈で鬱屈した日々とファンタジーが交差してゆきます。あたかも当然のように、糺の森には狸の家族が暮らし、彼女の夢には叡山電鉄が走り、ぐうたらな探偵が居て、狸の怪人が活躍します。
私のモラトリアムの世界の横にも、もしかしたらあったのではないかと思ってしまいます。
私が徹夜明けの頭と身体でチャリを漕いでいた百万遍で、毎日かけおりていた深泥池で、梅を見た御所の横で、ピクニックに行った大文字山で、あったんじゃないかって。
なんてことはない、世界を変えるようではないファンタジーが、あったんじゃないかって。
というか、このなんでもない日々の中にはそういうことだってあるのかもしれないって思うのです。そんなことないって、大人の私は知っているけど、だけど私の見ている世界はたったの私が見ている世界でしかないので、私の知らないところで、この代わり映えのしない、なんてことない日々の少しだけズレた所でそんなことがあったって、なんの不思議もありゃしないじゃないって、思う気持ちが抜けきれないのですが。森見さんの本を読んでますますその気持ちに拍車がかかり、そして熱を帯びた気持ちで久しぶりに長い長いブログを書いてしまいました。
また本に戻ろうと思います。
春ですね、桜咲いて、出会いと別れの季節ですね。ひかりちゃんちの紡も卒園と入学だそうです。
沢山のさよならと沢山のはじめましてがあるんですね。
花粉症の皆様、お大事になさって下さい!


ogasawara1981 at 20:10|PermalinkComments(0)TrackBack(0)