初夏だった。

出演映画の舞台挨拶に向かう私の携帯がブルルと震えた。
事務所の社長からだった。

『大変なことになった。明日、事務所にきて。』

―あの電話から怒涛の1年が始まった。




その頃の私は、Vシネでの主演やメイン所、舞台、イメージビデオ、雑誌のグラビアなどの活動をしていて、濡れ場を得意とする女優、なんて通り名まで頂いて(笑)AVをやらずとも、なんとか地位を確立しようともがいている時期だった。
しかし、ルックスの利点を生かせるであろうアダルト業界からの誘いは何年も前から後を絶たず、更に、無名の脱げる役者とAV女優さんとのネームバリューの計り知れない差というもので、幾度となく悔しい思いもしてきていた。
私もいい歳だ。いつまでも鳴かず飛ばずのこの状況を続けていくわけにもいかない。
少なくとも、親に援助を受けず自分の稼ぎの中で生活していかねば、という焦燥感にかられていた。
(家族関係に関しては後述する)

広い広い芸能界。
何をせずとも売れる人なんていない。支えてくれる大人の力もさることながら、話題になって名前を知ってもらわねばオーディションを受けられる機会ですら回ってこない。このネット社会では、悪評ですら話題になりかねるのに、私はスキャンダルが出ても、脱いでも、本当に話題にならない芸能人もどきだった。

ただ、昔からアダルト業界からの評価は高かったのだ。





幼少期、NHKのおかあさんといっしょに出るためにNHKのレッスンに通い、ひょうちえさんと並んで2パターンの太極拳を収録したのを覚えている。
それから、目立ちたがり屋が高じて演劇少女になった私。中学高校では、誰に聞いても『演劇馬鹿』と言われるほど演劇にのめり込み、現役で入った大学の入学式前には、母から『演劇禁止令』が出されるほどだった。
結局、2年の冬に初めてチケットを売る舞台に立ち、アマチュア役者の仲間入りを果たすのだが、禁止されていた分熱が再燃してしまい、演劇部の顧問になりたいと、当時の大学を中退を決め(20歳の誕生日に両親に直談判したのを覚えている)その月に慌てて大学受験をしたところ、受かってしまい晴れて翌年度から教育学部生と相成ったわけだが…。
学部の実習などで演劇教育論を謳い、何につけても演劇的な手法を使う私は同級生にも教授方にも異質な存在であったと思う。





やがて、3年生の時に社会人劇団に所属し始めた。

―ここが大きな転機となる。

この劇団が後に芸能プロダクション化をするということで、本気で将来に於ける演劇との付き合い方を考え出したのだ。
この当時から現在に至るまで、過去関わった『プロの役者』を目指しているという人たちの稽古場で、どうしても理解できなかった行動がある。それは、バイトを理由に稽古を休むこと。生活のためだから仕方ない、と容認している演出家さんや制作さんも疑問だった。
あなたたちの本業は何なんですか?芸能をやりたいんじゃないんですか?趣味なんですか?
そして私は決めた。

私はプロのエンターテイナーになる。

私の『プロ』の概念はここだった。
バイトではなく芸能の仕事優先。勿論、稽古も仕事。他の仕事をしながら、稽古をする役者を私は許せない。だから、自分はそうはならない。趣味ではなく、これを仕事にする。


私はプロダクションに入り、自分の信念に基づき大学を辞めた。





さて、ここで語らねばならないことがある。
何故、グラビアを始めたのか。

私は小学5年生で、Bカップあった。初めて着けたブラジャーがBカップだったのだ。
中学高校では『ホルスタイン』、バイト先では『メロンちゃん』、大学の他学年には『おっぱいの子』というあだ名で呼ばれていた。
そして不思議なことに、大きい胸に反して、身体はむちむちではあるが何故かケアもしていないのにナイスバディを保っていた。
なんだか変な人に付きまとわれたり、怖い思いや嫌な思いをしたことも沢山あったが、結局のところ、大きな胸は自信が全くなかった私の最大のコンプレックスであり、アイデンティティでもあった。
良い意味でも悪い意味でも、私の胸は目立っていた。笑
しかしこれは芸能を始める上で、この上ない自信へと変わったのだ。

自分が目指す役者というのは、今も昔も変わらず『味のある脇役』である。私は映像映えはしないので、映像での主役タイプではないのは知っていた。ただ、自分が脇を固められるほどの芸達者な役者であるとも思っておらず、それでは実力で登ってゆくのは難しいとふんだ。まぁ、なんともネガティブな考えだと改めて思うが、今でもその考えは変わっていない。
それでは第二案。一世風靡といかずとも、知名度をあげて脇に落ち着く方法を考えた。それには、胸を使うことが必要不可欠に思われた。胸以上に、私が持っている魅力はないと信じていたからだ。そして、自分の体が一番綺麗に見えるのはヌードの状態であることも信じて疑わなかった。

後に私はVシネで前張り一丁での濡れ場を披露し、雑誌の表紙・巻頭グラビアでヘアヌードを披露することになるのだが(撮影になって初めて、ヘアヌードだと聞かされた時はびっくりしたが)その時も然程抵抗はなく、私の良さを最大限に生かせる仕事だと信じてやまなかった。
確かに、中高での友人や母校など、捨てなくてはならないものも沢山あったが、その中でも私を理解してくれている数少ない友人や先輩が去らずにいてくれることに感謝し、仕事への誇りを忘れずにいた。





しかしながら、箱にきつきつに詰められた様な、世間知らずの嬢ちゃんには厳しい世界だった。
実家が金持ちだからとギャラも払って貰えず、勝手に方向性を変えられたり、騙されて、騙されて、助けてくれる大人なんて誰もいなくて、自分がどれだけ守られた世界で生きてきていたかを思い知った。
お嬢様学校に中学から通い、その中でも平均以上の家庭で何不自由なく育ってきた私。
両親が敷いてくれたレールから飛び出し、勘当宜しくで家まで飛び出したのに、数々の裏切りに毎回心を壊し両親に助けられてきた。
今まで『持病』という言い方ではぐらかしてきたけれど、実は元々、幼少期のトラウマから躁鬱病と解離性同一性人格障害、少し前まではPTSDも患っていた。
そのため、病気の療養になるのなら、と両親は芸能活動をしぶしぶ了承してくれていたのだが、実際のところ、きっと両親共、脱ぎ仕事には大反対であったと思う。
中学からの親友も同様で、私が何か物事を決めると頑として曲げないのを知っているため、両腕を挙げての賛成ではないにしろ、応援はしてくれていた。





話は最初に戻り…。





晩春。

私は悩んでいた。

業務提携先としてアダルト色の強いプロダクションにお世話になり始め、イメージビデオでの面接に伺ったにも拘らず、AVでのオファーとして返ってくることもあったからだ。
Vシネを通して、数名の仲の良いセクシー女優さんもでき(大の仲良し・辰巳ゆいちゃんもこの頃出会った)、AV女優という職業にもつ偏見も薄れていたのも一因だ。

私はAV転身した方が良いのだろうか?

この頃には、芸能界にも信頼できる仲間ができており、彼らに日を替え人を替え相談してみた。
結果。

今、脱ぎ女優として地位を確立しかけている。AVに出なくてもやれるんだ。例えば、芸能人専門レーベルのMUTEKIから声をかけてもらえたら話題性もあるし考えるけれど、他のメーカーからだったらAVデビューの話は受けない!

そういう結論に達した。





その間もなく、先ほどのオファーである。





『MUTEKIからオファーがあった。』





私は愕然とした。
この前、相談した面々に『AVやらずに頑張るよ!』なんて言ったのに、どんな顔してこの話をしよう?なんて暢気なことも思った。

当然、やるからには身元がバレるのも承知せねばならない。むしろ、バレる程話題になって頂かないと困る。笑

改名や誕生日や出身地の変更の話も出たが、少し調べたらすぐ分かるし、プロフィールを変えて気付かれない程度の活動しかしてこなかったとは思っていなかったので却下した。私は今までがあってこのオファーを受けているのだし、本名でもなく考え抜いてつけた芸名、ファンの方々に愛されてきた芸名、及び、出身地が同じだから、誕生日が同じだから、とファンになってくれた人もいるプロフィールを変えることは、芸能人専門レーベルを謳うメーカーの出演者として間違いだと思ったのだ。

そこで最初に不安になったのは、父の会社のことだった。

ご存知の方も多いだろうが、私の父への敬愛の念は計り知れない。どんな人かと言うと、ONE PIECEのトムさんみたいな人である。(トムさんのモデルなんじゃないかと思うほど似ている)

この不景気に、昇り調子の父の会社の勢いに水を差したくない。
中学時代より、私はこの会社を継ぐつもりであった。だから私自身、会社への愛情は大いにあったのだが、父が一代で築き上げたこの会社にかけてきたものも知っているし、そんな仕事人間の父が出来損ないの娘である私の所為で批判されてしまうのは避けたかったのだ。





『前向きに検討します』
と言い残し、事務所を去った。

事務所のエントランスを抜け、すぐに大学時代の親友に電話をかけた。OLさんである彼女は出なかった。
次に中学からの親友、これも仕事中で応答なし。
そりゃそうだ、と思い、芸能でできた友人に連絡。
大事な人には、自分の口からきちんと伝えるべきだと思ったのだ。
それも、面と向かって伝えられるならそれに越したことはない、と思った。
私の頭は、物凄くクリアだった。
これを決断するタイミングだったんだ、と悟っていたからだ。

一人、一人、大事な友人・先輩に連絡を取った。

忙しい中、わざわざ時間を作って会ってくれたり、電話してくれた皆に感謝している。

反対、賛成、私が決めたなら応援すると言ってくれた人、様々だった。
出会って初めて喧嘩した親友もいた。
断固反対の友人もいた。
皆が皆、真剣に聞いて、私のことを考え、発してくれた意見だった。
あの日から約9ヵ月、全く先の見えない道を挫けず走ってこれたのは、この時の皆がいてくれたからだ。
この場で改めてお礼を言いたい。有難う。





そして、父にも話した。

面白いことに、我が家では自分の要望や夢などは父にプレゼンし、父がGOサインを出したら決定なのだが、今回も同じようにプロダクションの形態、メーカーの説明、MUTEKIレーベルの価値、今後の私の活動への影響などを語った。
父はひとつひとつメモしながら聞いていた。

『品よくやること』

それを条件に父は許してくれた。
が、あの時の父の気持ちを思うと涙が止まらない。
どんな気持ちで聞いていたのだろう。
あの場に来る前に、許そうと決めていたのだろうか。

父の寛大さ、そして愛情に感服した。

後日、事務所でその話をしたら大変驚かれたのは言うまでもない。

上記の懸念も伝えたが、父には全く取るに足らないことであったようだった。社員さんへの信頼を感じた。





そんなわけで、デビュー作撮影までに大がかりな準備が始まった。
守秘義務があり、発表まで水面下で動かねばならなかった。
人生初めての痩身エステ。
撮影前日の小顔矯正。
準備は約1ヵ月半ほど費やした。





其の間、幾度となく不安になり、終にはストレスから身体を壊し今日に至っている。
しかし、周りの支えのお陰でこうして今日を迎えることができている。
ただただ、感謝である。





蝉時雨も止んだ晩夏だった。
緒川凛AVデビュー作はこうして撮影の日を迎えたのだった。





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