フォーダーの発表は、英国人心理学者デイヴィッド・マーの視覚についての研究5によって引き継がれる。自身のアプローチを規定するため、マーは次の3つの課題を提出する。すなわち「視覚を成り立たせているタスク、情報変換、ついでこのプロセスを可能にするアルゴリズム、そして最後にこのアルゴリズムが脳内組織で実行される仕組みを究明することである6。」結局のところ、マーとフォーダーはプログラムをややこしくしてしまった。ジャン=クロード・ミルネールがが強調していることは正鵠を得ている。このアプローチは器官というものの新たな定義を生み出したというのである。「マーによる、高次機能理論théorie sophistiquéeを例証してみよう。{・・・}一般常識でも,哲学でも、科学でも、伝統的な考え方によれば、視覚の器官は眼以外にあり得ないし、逆にいえば、眼の最良の定義は視覚の器官だといえる。しかしながら、マーの理論では、器官は眼ではなく、解剖学的な個々の装置の総体が場とはなにかという問いに答えを与えてくれる、となる。この装置は多数の互いに異質のものからなり,それらの個々のものが、モジュールとして、この問いへの的確な解答の一要素となっている。言い換えれば、身体的アプローチは分散的な多様性しかもたらさないし、器官の定義となりうるユニットは機能的な説明しか与えられない。こうして場とはなにかというアリストテレス以来繰り返されてきた問いは視覚機能のもって回った定義の仕方にすぎなくなる。視覚機能との関連のなかだけにおいて、視覚器官はそのものとして特定される。機能にしかユニットは見出されないのだ。この結果、視覚という語は曖昧ながらも器官でもあり機能でもあるということになる。{・・・}こうして眼というユニットの物質的装置はみかけ上のものとされてしまう。それなのに、視覚器官のユニットとはなになのかは問題視されていないのである7。」

 

5. D. Marr, vision, San Francisco, Freeman, 1982.

6. D. Andler, A. Fagot-Largeault, B. Saint-Sernin, Philosophie des sciences, 同掲., p. 307.

7. J.-C. Milner, introduction à une science du langane, Paris, Le Seuil, 1989, p. 207.

 

 以来モジュール論のパラダイムは広まっていった。認知に関するこの新しいパラダイムにより、モジュールの数は増大する一途となり、その分モジュールが住まう器官の数も膨れ上がった。今やなにもかにもがモジュールなのである。そして器官はおよそ自閉的に機能するものとされる。この新しいパラダイムについて、フォーダー自身、「モジュール論は狂ってしまった」8と言うまでに至った。

 

8. A. Fodor, «Modules, frames, fridgeons, sleeping dogs, and the music of the spheres» in J. Garfield (dir.), Modularity in knowledge representation and natural language understanding. Cambridge (MA), MIT Press, 1987, p. 27. 同様に、J. A. Fodor, L’esprit, ça ne marche pas comme ça, Paris, Odie Jacob, 2004, p. 272-275