別の視点から、2004年、一人の研究者がモジュールが、身体からすべての『志向性』をとり払い、モジュールによるコンピューター・モデル化を計る計画を明らかにした。モジュール・アプローチの熱心な提唱者でありながら、かれは、このアプローチの限界を認めることとなる。人間身体間の相互作用というものがあり、そこには説明不可能な事象が残される。『社会的相互作用』の説明が求められるのである。「一方では、知覚、記憶、思考、言語活動、行動の計画化の扱いが精密にモデル化されてゆくにしたがい、志向性はコンピューター的すなわち非志向的なメカニズムに席を譲ることになるが、{・・・}他方、{・・・}人類とは社会的な類でもある。{・・・}成人が他人と身体的交わりといった営為をなすとき、かれはその相手に志向性を認めない訳にはゆかない。素朴な心理学的実験研究からも、わたしは以下のような推論を導くことになる。すなわち、人間同士の相互作用にかかわるかぎり、志向性といった概念を抜きにした認知メカニズムの科学的研究は不可能であろう。この推論は経済理論の展開を追えば、確証できるように思える。いかに経済理論を定式化できたとしても、経済行為をする主体たる人間に志向性を認めざるを得ない。相手の予測、相手も同じように信用しいているとするとする信用、欲望についての信用,欲望についての欲望,信用についての欲望、等々といった具合にである9。」

 

9. P. Jacob, L’intentionnalité. Problèmes de philosophie de l’esprit, Paris, Odile Jacob, 2004, p. 272-275.

 

 こうして、一時期を境に、認知科学において少しずつ、パラダイムのずれが生じていった。初期のサイバネティックから、人工知能、チョムスキーの古典的理論、高次機能理論、そして志向性の自然化・

とその理論の破綻、となぞってゆくことができよう。パラダイムが塗り替えられる度に、込み入った論争が沸き起こった。しかしながら、その都度成立してくる新たなパラダイムのどれをとっても、何らかの認知行動療法の技法や臨床上の事象に依拠しているものは皆無である。チョムスキーはといえば、行動主義の観点そのものが科学的視点からすると馬鹿げたものであり、このことは1971年のかれの論文10ではっきりと表明されている。チョムスキーにとってはおそらく、認知という用語と行動理論でいう模倣とを結びつけることは、人間の言語能力を説明するにあたって、奇抜でもあり無用であったのであろう。

 

10. N. Chomskky, «The case aginst B.F. Skinner», The New York Review of Books, 30 décembre 1971 ; http: //www. chomsky. info所収

 

 認知療法の代表的な提唱者のひとりは最近、この療法の技法について質問を受け、言葉少なめではあるが次のように告白している。この技法は説得の効果をもつのだと。ということは暗示の効果をもっていると言い換えてもよかろう。この技法のもと治療を行なうにあたって、認知プログラムはまったくといって不要である。それどころか、身体をモジュール・器官の総体と看做す理論とそこからはみ出した志向性の理論の調和をもった結合を計るうえで、暗示は障害物にさえなる。‹他者›が暗示のもと行使する支配は、『精神の理論』の認知的解読の次元においては位置づけることができない。端的に言おう、認知プログラムにおいて暗示そのものは居場所がないのだ。