不安一般の治療についても新たな対処術がこれに加わる。すでにテレビであるいはアダプター付きのものでヴァーチャル・リアリティーを構成することが出来る装置を購入できる。これを使えば、ひとは思いだにしない状況に自分自身を置くことができる。ハリウッド映画にみる進歩主義にその基を窺うことができる。伝統的な考え方では解決困難な課題につねに身を挺して向かってゆくという姿勢である。1940年代は離婚。1960年代はヒッピーとヴェトナム戦争に対する反戦行動であった。1970年代に入ると再構成家族の問題が持ち上がる・。今日では、異なったいくつかのシナリオに基づいて、ライフ・サイクルの問題、とくに思春期の延長、異なったコミュニティーの共存、ゲイ、レスビアン、異性愛の混在、サバービア・の家族の価値観あるいはSex and the City・における大都市で生活する独身女性についての問題、等々辿ってゆくことが出来よう。同様に人生をアクション・ヒーロー映画のシナリオに置き換えることも要請される。ただ、現実吟味の役割を果たすものとして、ほんの少しばかりコミック的要素を付け加えることも必要だ。この役割についてはフロイトが『機知ーその無意識との関係』で既に述べていることではあるが。レーガン主義の神話のなかにおけるランボーの役割については言い尽くされた。既に、悲劇と喜劇というふたつのジャンルは渾然一体となっている。カルフォルニア州をみてみよう。このハリウッドを擁する地では、エネルギー危機と地方行政の麻痺に見舞われながら、巨大な経済を支える電力資源の確保のため、州知事にひとりのアクション・ヒーローを招聘したのである。

 ヴィデオ・ゲーム産業は映画産業と肩を並べるにまで成長した。発売予定のゲーム・ヴィデオのうちに占めるサイコ関連のカテゴリーがどれほどのものか注目したい。不安を持つ患者が一日中、あるメディアから別のメディアへと死にものぐるいに追い求めている様は異様であるが、かれらが求めているものとは「ゲームからはなれて生活する」ことなのであろう。そうすることによって、自分を冷静にみつめ、自分の人生をその人生の外から見ることができるような生活が成り立つからである。このような患者の要求demandeをかなえてあげること、それは想像的幻想fantasme imaginaire・の入り口の鍵を手に入れてあげることであろうが、ラカンはこのこような技法は、治療の方向性を見失い袋小路に嵌る危険性ゆえ糾弾している24。同様にラカンは、集団意識に関して、ヴァーチャルな世界の氾濫について、1974年のパノラマ誌とのインタヴィユー(ル・マガジーヌ・リテレール誌に再掲)において、次のように締めくくっている。「色情狂の氾濫は宣伝的効果そのものなのです。{・・・}セックスが時の話題となり街に氾濫している、あるいは性的場面があたかもなんらかの癒し効果があるかのごとくテレビで次々に映し出されていますが、こうゆうものにご利益を期待しても無理です。わたしはこれが悪いことだと言っているのではありません。不安やその他メンタル面での問題を癒すのに、こうゆうものでは駄目だと言っているのです。これは流行の一種で、見せかけの解放であり、いわばお上お墨付きのプレゼントですが、いわゆる放任主義の賜物でしょう25。」

 

24. J. Lacan, Le Séminaire, livre V : Les Formations de l’inconscient, Paris, Le Seuil, 1998, p. 472. 〔邦訳 : ジャック・ラカン『無意識の形成物』【下】佐々木孝次、原和之、川崎惣一訳、岩波書店、331頁〕

25. 同上。«Il ne peut pas y avoir de crise de la psychanalyse»『精神分析の危機などあってはならない』, Le Magazine littéraire, no 428, févirer 2004, p. 29.