ところで、内部で、いうならばそれが伝達する様式は、同様のものではありません。この伝達の概念は最初のメッセージにおいて問題になるものでして、これにより化学的物質が準備されるのであり、これは別のマターです。別のマターなのでして、ですから、そこに懸隔を設けなくてはならないのであり、記号signesが特権的経験において与えられ、そこにはある命令が、他からは区別されるべき命令、現実界の命令ではなく現実界における命令がなにものかと連繋して組織化され、いわばわれわれの意志には構わず、生命とは折り合い悪く排除され、これがわれわれの解らないところで起こるのです。この問題に今年のセミネールにおいてわたしは主張し続けるのですが、生命はこれに巻き込まれているのでして、いうならば、想像的に巻き込まれているのです。アリストテレスが同様な説に与してきたことに注目してしまいますが、それは個体しか問題にできず、というのは、そうとは気づかず、個体は享楽をそこに想定しているからです。そしてこの個体の‹一›をなすものは、あらゆる記号のうち - 先ほどわたしが述べたような意味のものではなく、分析において位置づけた特権的体験が与える記号として忘れてはならないものですが - 移動、行動において、この個体が享じていることの記号があるのです。そしてそれに関してアリストテレスはやすやすとひとつの倫理学をつくりあげたのです。というのは、かれはヘドネーを想定しているのです。ヘドネーがこの意味をもつのは晩年になってからですが、アリストテレスはこのヘドネーをエピキュリアンたちから借用しています。このヘドネーは(人間の)肉体を享楽に属す流れの方向へと導くものです。アリストテレスはそうせざるを得ないのはかれ自身が特権的位置に属しているからですが、この特権的位置に気づかないのです。というのも、かれは主人のクラスに属していることから享楽について考えるのですがそのことに気づいていないからです。ともかくも、それを欲することのできる者が倫理を身につけると言うことになるのです。
Cette jouissance est évidemment liée bien plus qu'on ne le croit à la logique de la vie. Mais ce que nous découvrons, c'est que chez un être privilégié, aussi privilégié qu'Aristote l'était par rapport à l'ensemble de l'humain - chez un être privilégié, cette vie, si je puis dire, se varie, ou même s'avarie, s'avarie au point de se diversifier, dans quoi ? Eh bien, c'est de ça qu'il s'agit justement : il s'agit des sèmes, à savoir de ce quelque chose qui s'incarne dans " lalangue ". Car il faut bien se résoudre à penser que " lalangue " est solidaire de la réalité des sentiments qu'elle signifie. S'il y a quelque chose qui nous le fait vraiment (p178->) toucher, c'est justement la psychanalyse. Qu' " empêchement " comme je l'ai dit dans un temps dans mon séminaire sur l'Angoisse dont je peux regretter qu'après tout il ne soit pas déjà là à votre disposition - qu' " empêchement ", " émoi ", - " émoi " tel que je l'ai bien précisé : " émoi " c'est retrait d'une puissance - qu' " embarras " soient des mots qui ont du sens, eh bien, ils n'ont de sens que véhiculés sur les traces que fraye " lalangue ".Bien sûr, nous pouvons projeter comme ça sur des animaux ces sentiments. Je vous ferai remarquer seulement que si nous pouvons, " empêchement ", " émoi ", " embarras ", le projeter sur des animaux, c'est uniquement sur des animaux domestiques. Que nous puissions dire qu'un chien ait été ému, embarrassé ou empêché dans quelque chose, c'est dans la mesure où il est dans le champ de ces sèmes, et ceci par notre intermédiaire.
この享楽はもちろん生命の論理に思った以上に密接に結びついているのです。しかしわれわれ分析家が発見するもの、それは、特権的存在、アリストテレスが人間に対して同様に扱ったような特権的存在においては、この生命は、いうならば、変化をこうむっており、損傷を受けていさえするのです。損傷を受けてどのようなかたちで多様な変化が起こるのでしょう。さて、そこですよ。そこで意味素というものが問題になって来るのです。つまり『ララング』に体現するなにかです。というのも、こう考えれば話が纏まるからです。すなわち、『ララング』はそれが呼び起こすsignifie感情の現実la réalité des sentimentsと連繋しているからです。われわれが真に感動するとすると、そこには精神分析が行われていることになります。『袋小路』empêchementについては「不安」のセミネ―ルで説明しましたが、みなさんがこのセミネールのテキストをお持ちでないのが残念です。『袋小路』 - そして『動揺による萎え』émoiについてはその意味を明確に説明しました。émoiとは力の萎えなのです - それに『当惑』embarras、これらの語※※は『ララング』を介してしか意味をもち得ないものです。もちろんわれわれはこれらの感情を動物に投射することもできます。ご指摘したいのは、動物に『袋小路』、『動揺による萎え』、『当惑』といった感情を動物に投射できるとしても、それは家畜にのみ言えることなのです。われわれが犬がなにかに対してémuだとかembarrasséだとかempêché言えるとしても、それらが意味素の領域にある限りであって、つまりわれわれを介してのみそう言えるのです。
Cette jouissance est évidemment liée bien plus qu'on ne le croit à la logique de la vie. Mais ce que nous découvrons, c'est que chez un être privilégié, aussi privilégié qu'Aristote l'était par rapport à l'ensemble de l'humain - chez un être privilégié, cette vie, si je puis dire, se varie, ou même s'avarie, s'avarie au point de se diversifier, dans quoi ? Eh bien, c'est de ça qu'il s'agit justement : il s'agit des sèmes, à savoir de ce quelque chose qui s'incarne dans " lalangue ". Car il faut bien se résoudre à penser que " lalangue " est solidaire de la réalité des sentiments qu'elle signifie. S'il y a quelque chose qui nous le fait vraiment (p178->) toucher, c'est justement la psychanalyse. Qu' " empêchement " comme je l'ai dit dans un temps dans mon séminaire sur l'Angoisse dont je peux regretter qu'après tout il ne soit pas déjà là à votre disposition - qu' " empêchement ", " émoi ", - " émoi " tel que je l'ai bien précisé : " émoi " c'est retrait d'une puissance - qu' " embarras " soient des mots qui ont du sens, eh bien, ils n'ont de sens que véhiculés sur les traces que fraye " lalangue ".Bien sûr, nous pouvons projeter comme ça sur des animaux ces sentiments. Je vous ferai remarquer seulement que si nous pouvons, " empêchement ", " émoi ", " embarras ", le projeter sur des animaux, c'est uniquement sur des animaux domestiques. Que nous puissions dire qu'un chien ait été ému, embarrassé ou empêché dans quelque chose, c'est dans la mesure où il est dans le champ de ces sèmes, et ceci par notre intermédiaire.
この享楽はもちろん生命の論理に思った以上に密接に結びついているのです。しかしわれわれ分析家が発見するもの、それは、特権的存在、アリストテレスが人間に対して同様に扱ったような特権的存在においては、この生命は、いうならば、変化をこうむっており、損傷を受けていさえするのです。損傷を受けてどのようなかたちで多様な変化が起こるのでしょう。さて、そこですよ。そこで意味素というものが問題になって来るのです。つまり『ララング』に体現するなにかです。というのも、こう考えれば話が纏まるからです。すなわち、『ララング』はそれが呼び起こすsignifie感情の現実la réalité des sentimentsと連繋しているからです。われわれが真に感動するとすると、そこには精神分析が行われていることになります。『袋小路』empêchementについては「不安」のセミネ―ルで説明しましたが、みなさんがこのセミネールのテキストをお持ちでないのが残念です。『袋小路』 - そして『動揺による萎え』émoiについてはその意味を明確に説明しました。émoiとは力の萎えなのです - それに『当惑』embarras、これらの語※※は『ララング』を介してしか意味をもち得ないものです。もちろんわれわれはこれらの感情を動物に投射することもできます。ご指摘したいのは、動物に『袋小路』、『動揺による萎え』、『当惑』といった感情を動物に投射できるとしても、それは家畜にのみ言えることなのです。われわれが犬がなにかに対してémuだとかembarrasséだとかempêché言えるとしても、それらが意味素の領域にある限りであって、つまりわれわれを介してのみそう言えるのです。
※※これらの語については、小生のセミネール『不安』の(1) 1962 11 14の解説を参照してください。