♯抑うつ気分 悲哀感、孤独感、虚無感、絶望感といった言葉で言い表すことができますが、ある患者さんは次のようにも言います、「悲しいとか辛いとかいった感情とはちょっと違うのです。むしろ悲しい、辛いといった感情が全然沸いてこないのが苦しいのです」と。  ♯抑制 仕事、学業に対しても趣味に対しても関心、興味がもてなくなり億劫になります。  ♯不安、焦燥感 しばしば不安神経症とかパニック・ディスオーダーといった診断がつけられた患者さんがいらしゃいますが、そのうちの何割かはまぎれもなくうつ状態であり、短期間の治療で寛解することもあります。  ♯自責的 ドイツ語のSchuld(罪、責任、負い目、義理、借金などの語義がある)ほど「うつ」に根源的にかかわっている言葉はありません。大組織のなかで働く中間管理職で昇格が決まったとき、主婦が念願かなって新居に移り住むことが出来たとき、もしかれあるいはかの女が自責的になっているとしたら、まずうつ状態であるといって間違いはないでしょう。  ♯睡眠障害と日内変動 夜間覚醒、早朝覚醒、「熟睡感が得られない」、「床離れが悪い」、「午前中すっきりしない」といった症状がしばしばみとめられます。  ♯身体症状 頭痛、頭重感、めまい、耳鳴り、肩こり、胸内苦悶感、心悸亢進、食思不振、悪心、嘔吐、便秘、下痢、腰痛、四肢関節痛、筋肉痛、月経異常、リビドーの減退、盗汗等々多彩です。 付)ティープス・メランコリクス(Tellenbach)について日本人の「うつ」を語るにあたっても極めて重要な病前性格論です。笠原グループはメランコリー型を基本類型とすることによって他のうつ状態をそのサブグループとみなして分類していますが、今尚このグルーピングは価値を失っていません。Tellenbachの人間学的なアプローチは時代遅れだとみる向きもあるでしょうが。かれの『メランコリー論』(1961)は日本での反響に比べるとフランスや英米では一寸見当違いな書評も書かれたりして、あまり注目されませんでした。この差はプロテスタントとカトリックの違い、それぞれが形成するイデオロギーの差異によるものではないでしょうか。いずれにせよDSM- IVと日本(人の病)はいくつかのミスマッチが散見させます。アングロサクソン的なシステムはグローヴァル・スタンダードとはなり得ないということに注意すべきではないでしょうか。一方で日本人の細やかな精神性を台無しにする可能性、もう一方で日本的イデオロギーを規定している所謂権威主義的パーソナリティーを見えにくいものにしてしまう可能性(日本人にはこのふたつの軸を見据えて精神療法を行っていくことが肝要)があるからです。    reproductionが行なわれなくなった日本    depression といえば、テレンバッハという精神病理学者が唱えたティープス・メランコリクスという性格類型にあてはまる方、仕事熱心で責任感が強く協調性を尊び、年齢でいうと中年以降、大企業では中間管理職クラスの方で、たとえば仕事ぶりが評価されて昇格するといった状況因が加わり、さらなる責任を背負いこみ、あるいはそのように先取りすることにより、Schuld(負い目、借金、罪といった語義があります)にとらわれつつ発病するといったケースを中核に据えて考えてゆくことが多かったのですが、最近の日本のdepressionは、ひとことで言うと、人を選ばなくなってきています。 とくに以前はあまり見られなかった働く若い女性の患者さんが急増しています。男女雇用機会均等法の施行に呼応した女子の保護規定の撤廃、変形労働、裁量労働制の導入、労働者派遣法の相次ぐ改正によるこの法の適用されるセクターの拡大等々により、男性に劣らず勤労女性の労働条件はますます過酷なものとなりつつあります。 労働価値説には異論があるとしても、ロボットが人間の行なってきたあらゆる作業を一手に引きうけてくれるようになる技術革新でもなされないかぎり、人間の Existenzの再生産(=繰り返し維持されること)、さらには社会システムの再生産のためには、労働が必要でしょうし、労働(力)の再生産がなされなければなりません。『資本論』の時代の英国でも、健康な成人男子はたとえば朝、定刻に起床し、朝食を取り、工場に出かけ、過酷な労働条件のもとで長時間働き、ぐったり疲れて帰宅(プロレタリアートである以上家はかれの資産ではなかったのでしょうが)するが、そこには家族団欒があったでしょうし、少なくともそこそこの栄養補給と睡眠により、翌朝は復活して工場に出かけ……といった再生産がなされていたはずです。また、労働者の子供も成長して父親を引き継ぐかたちで労働者になり、いわば世代を超えて再生産は行なわれていたといえます。 ところで、reproductionは生殖という語義をももっています。「日本において、reproductionが行なわれなくなった」という言辞は両義的なのです。ontogeneticなレベルで過労により勤労の再生産が出来なくなった人間(もちろん男女とも)にとっては同様にセックスをする余力もありません。phylogeneticなレベルにおける事実、少子化の事実も符合しているではありませんか。(H.12.9.21)