どのセミネールでも最初のセッションは重要です。たいていの場合、その年度のセミネール全般を概観していることが多いからで、『不安』のセミネールもこの例外ではありません。ラカンはまず3つの図を黒板に描きます。図1、図2、図3。 図1はこの最初のセッションで説明がなされるだけです。後ほど触れます。図2は繰り返して出てきますし、空欄になっているところが埋められてゆきます。図3は欲望のグラフですね。 まず、1953年以降のセミネールを振り返り、それぞれの主題がこの年のセミネールの主題、「不安」にどのように結びついているのかをラカンは次のように語っています。 不安はあなたたちの望んだ、これまでのわたしの話のすべてがあなたたちを待ち受ける約束の地点ですし、いくつかの術語のあいだでこれまでそれらの結びつきがはっきりしなかったものが集結する場所なのです。この不安の地で、互いに密接に結びつくことができれば、これら術語がそれぞれの本来の居場所がどこなのかはっきりしてくるのをみることができますでしょう。 (V. M. p.11 ; V.A. p.11) これらの術語とは欲望、<他者>の欲望、対象、幻想、享楽等々です。 そしてここで欲望のグラフと前年度から導入した曲面のトポロジー、とくに射影平面(クロス・キャップ)との関連性を暗示しながら次のように言います。 昨年、かなりの時間を割いてこの小さなトポロジー的な曲面について、胎生学を学んでいたとき、各胚葉が折りたたまれたような形態をなしていたことや大脳皮質の構造を連想されたかたもいらっ しゃるでしょうが、このグラフがふたつの面をもち、方向づけられた内部交差による結び目 をもつnouée d'intercommunicationée特性について、太陽神経節を連想した人はいますまい。もちろん、わたしはそのことで種明かしをしようなどというつもりはありません。しかしながら、この興味をもたせる類似性がうわべ上のこととしては片付けられないし、不安についてのお話をするにあたって気に留めておいていただければと思いまして。 ここでラカンが言っているグラフとは、クロス・キャップ(射影平面)のことなのか欲望のグラフのことなのでしょうか。おそらく両義的なのでしょう。だがこのセミネールではこの両者を結びつけるような説明は以後現れてきません。欲望のグラフはその端緒をセミネール3巻のポアン・ドゥ・キャピトンに見ることができ、以後セミネール4, 5, 6巻で様々な展開が施され、エクリ所収の『フロイトの無意識における主体の転覆と欲望の弁証法』Subversion du sujet et dialectique du désir dans l'inconscient freudienに集約されていますが、その後もセミネールにおいて、折に触れ,援用されています1)。 1)Henry Krutzenによれば、「グラフ」に触れている箇所を1974年のセミネールにまで散見でき、1968-69年の『<他者>から他者へ』では、再検討がみられます。v. Jacques Lacan, Séminaires 1952-1980, Index référentiel, Anthropos. 曲面のトポロジーが現れるのは、前年度のセミネール『同一化』l'Identification、1962年3月7日からです。当初はトーラスについて,この曲面が要求、さらに欲望とによって切断された場合、どのような立体になるのか,あるいは図形になるのか2)が示されます。クロス・キャップについては、コンパクト曲面(切断することにより平面図形となりうる曲面)を列挙するなかで、同年4月11日のセッションで予告されますが、ラカンが本格的にとりくむのは同年5月16日のセッションからです3)。 2)要求による切断はふたつの穴をもつ球面、欲望による切断は円筒といった曲面、要求と欲望とによる同時の切断では長方形といった図形ができあがりますが、さらには内部の8による切断では1/2X4回転のメビウスの輪ができます。 3)5月2日のセッションにおいては、ト-ラスの切断の切り口の軌跡から三つ葉の結び目が得られ、またメビウスの輪を帯の正中線に沿って切断した場合は絡み目がえられること、さらにはボロメオの輪についても言及しています。しかしながら、結び目およびボロメオの輪についての理論が本格的に展開されるのは、1973年まで待たなくてはならないのです。 この年のセミネールでは、また、逆転移の問題も重要視されます。後日マーガレット・リトゥル、ルシー・タワー、バーバラ・ロウといった女性分析家の症例研究についての批判がなされますが、最初のセッションでは、「有り難いことにですが、すこしでも分析家の素質が備わっているとするなら、実地に入るに際して、寝椅子の上の患者との最初の関係を築くとき、すこしばかり不安を感じるはずです」と述べています。 〈他者〉の欲望désir de l'Autreについては、『同一化』(1962年4月4日のセミネール)でも触れているエピソードについて語っています。これはラカン自身が見た悪夢なのでしょうか。かれはマスクを被らされますがどんなマスクかはかれにはわかりません。古代壁画に描かれている半獣半人のようにですが、おそらく雄のカマキリの仮面を被らされ立っているのでしょう。というのも四つ足の、かれと頭の位置が同じレヴェルにあるほんものの巨大な雌のカマキリが近づいてきます。眼球そのものが鏡の働きをすることについては後日語られますが、この雌カマキリの眼球には,当然のこととしてかれ自身の顔は映っていないのです。ラカンの女性恐怖的な側面が顔をのぞかせます。女性といっても、例えば『ハムレット』のなかに出てくるオフェーリアなどにはぞっこんなのです。『欲望とその対象』(1958-59年のセミネールです)では、『ハムレット』を欲望のグラフを使って分析していますが、これは『ハムレット』/ハムレットの分析ではありますが対象であるオフェーリア頌ともいえます。小生としては、けっしてテクステュエルな分析とはいえませんが、ラカン自身の身の上を考えて想像してしまいます。このセミネールの年、ラカンにとって分析家のステータスをめぐって厄介な問題がもちあがってきました。SFPは1953年の発足当時からIPAに加盟申請を求めつづけてきたのですが受理されないまま、ストックホルム総会(IPAの-1963年7月)では、SFPがラカンを教育分析者のリストから外すことを条件でIPA加盟の道が拓かれるといった決定的な採択が行なわれたのです。IPAはラカンにとって、他の分析家にとってと同様、<他者>です。欲望のグラフにおいては主体のベクトルはシニフィアンの連鎖と交差するに際して<他者>に遭遇し、<他者>の欲望をお伺いしなければなりません。カゾットの小説『恋する悪魔』から借りてきたChe vuoi ?は主体が<他者>に「汝なにを欲する」と問いかけているのであり、フランス語では、Que veux-tu ?となりますが、ラカンはこれを変形しQue me veut-Il ?という文にします。ここでのmeは間接補語なのか直接補語なのか曖昧なままになっています(Ilは<他者>です)。もしmeが間接補語ならば、「<他者>は自分にどのようにして欲しいのか」という意味になり、これは欲望の主体が現れる契機となる問いです。しかしmeを直接補語と解釈するならば、ラカンが言うには、「この自分がいる場所について<他者>はなにを欲するか」となります。自分がいる場所といっても、それは<他者>の場所ですし、このふたつの場所は近親関係にあるといってよいでしょう。日本語には近親愛とか近親憎悪ということばがありますが、近親不安とか近親恐怖ということばもあっていいはずです。この場合、主体はグラフの下位にある迂回路m-i(a)、自己愛的な同一化の回路に閉じ込められます(V. M. : p.14 ; V. A. : p.12)。 ところで、どの地点で不安は生ずるのか。このように問いを発した後、ラカンはいわゆる実存主義哲学の歩みを概観します。Kierkegaard, Marcel, Chestov, Berdiaevとこの思想は低落傾向にあると喝破します。以後このセミネールにおいてラカンは、Kierkegaardをしばしば援用し、Sartreとはつねに対決姿勢を崩さず、Heideggerに対しては、いつもながらの特権視です。もっともHeideggerについてはこの日のセッション以降話題に上ることはありません(12月19日のセッションで、Sorgeとの関連で触れますが、話の展開は見られません。)。さて、不安が現れる特異的な点は、日時計の設計horographie(V. A. p.13 ; V. M. p.15ではorographieとなっている)に倣うべきだとラカンは述べていて、これはちょうど図1で示した図に符合します。soucisとはHeideggerの『存在と時間』でキーワードとなっているSorge「憂慮」でsérieuxとはSartreの『存在と無』で出てくる「生真面目」です。それぞれ重要なタームですけれども、ラカンはこのふたつのタームに対して期待attenteという語を用意していて、単にこのattente反対方向に不安があるとしてながら、憂慮と生真面目を異なる二方向のベクトルで示す一方、期待については方向性をはっきり示しません。それゆえ不安についても、どこから発しどこに向かうのか未定のまま、それ以上この図を展開しません。 次いで、ここでやっとですが、フロイトの制止、症状、不安が出てきます。しかしながらラカンは、フロイトの『制止、症状、不安』には、不安を捉えることができる網はないとし、このテキストには不安以外のすべてのことが書かれている、と極端なことを言います。ですからラカンは制止、症状、不安という3つのタームだけを頼りに、網(セイフティー・ネット)なしで綱渡りの冒険を試みます。 図4のように左上から右下に斜めに制止、症状、不安、水平軸で左から右に「困難」のベクトル、垂直軸で上から下に「運動」と書き込みます。あとは空欄を埋める作業です。  制止がブレーキがかかって動かない状態だとすると、その右隣は…ラカンはここにEmpêchement(仮に「袋小路〔に嵌ること〕」と訳しておきます)という語を入れます。Etre empêché、これは症状です、inhibéこれは博物館入りした症状ですが … とラカン節です。次いで語源学的な考証に頼ります。ラテン語impedicareは「罠にはまる」という意味です。そして罠とは自己愛的籠絡のことです。ついでV. M.では次のように続きます。    … 自己愛的籠絡によって対象への備給が究極のところまでゆくと、つまりファロスが自己 愛的に備給されたままの状態にあると、鏡像にに現れてくる裂け目が、本来はこの像の支え  でありこの像のシニフィアンの分節の素材となるはずの、他の領域、象徴界では去勢と呼ば れる事態にまで侵してしまうのです。袋小路に嵌るとは、主体が享楽に向かうときと同様な 運動の回路に入ってしまうことです。つまりは、かれからはもっとも離れたところに向かい  ながら、そこで内なる裂け目に出会うわけです。道なりに行き着いたところが自己像、鏡像 というわけです。罠とはそうゆうものです(V. M. p.19-20)。 inhibition, empêchementと来ました。その右隣はなんでしょう。embarrasでした。再び語源です。imbaricareという綴りをラカンは提出しますが、いったいこれは何語なのでしょうか。少なくとも小生が持っているHachetteのF. GaffiotのDictionnaire Latin Francaisにはこのような動詞は見つかりません。impelloという動詞が同様の語義をもっていますが ・・・ イタリア語でimbarcareという動詞がありますがフランス語のembarquerとほぼ同義で「乗船する」、「搭乗する」等々の語義になります。いずれにしてもラカンが言うには、この語はbarre(sujet barréのbarre)が関係しており、日本語でも「壁に突き当たった」状態にあることです。さらにラカンが言うのが正しければ、スペイン語のl'embarazada, フランス語ではembarrasserの過去分詞の女性形形容詞の名詞化l'embarraséeと同等な語ですが、妊娠している女性のことをいうようです。また軽い不安を当惑と謂う、といえば日本語でも通じますね。 今度はmouvementの軸です。inhibitionの下、symptomeの左はémotionが来ます。éは「内から外へ」といった方向性を示す接頭語です。motionはmouvement運動であり、Goldsteinにしたがえば、jeter hors「外に投げ出す」、hors de la ligne du mouvement「脱線して」であり、réaction catastrophique「カタストロフィックなリアクション」へということになりますが、やや修正が必要です。というのも、Goldsteinはこのリアクションを「不安の現象」として述べておりヒステリー発作や怒りといった現象にもこのréaction catastrophiqueという術語で説明していますから。 émotionの下は(つまりangoisseと同じレヴェルです)というと、émoiです。ラカンは語源上の蘊蓄をまさにここに傾けてきます。Blochとvon Wartburgの登場です。かれらによれば、émoiは言語学者の直観だけで、émouvoirと関連があるとされているが、これは大間違いであるとのことです。émoiは13世紀において、esmayerという語の存在が確認されており、esmai, esmoiというかたちで16世紀には一般化したとされています。動詞esmaierは「動揺させる」「おびえさせる」の語義がありますが、さらに口語ラテン語であるesmagare(「力を萎えさせる」の意)とも関連があり、これはゲルマン語に派生し、magen という中高ドイツ語、ゴシック語として用いられており、現代ドイツ語のmögenとなります。ラカンは裏覚えでイタリア語でsmagareという語があるように言いますが、これはラプシュスでしょう。因にsmagliareという動詞があり、これは「連鎖を断ち切る」、「編み目を解く」という意味があります。たしかにesmagarというポルトガル語はラカンがいうように「たたき壊す」という意味です。FreudのTriebregungのフランス語訳émoi pulsionnelが不適切だとするのも、émoiとémotionとのレヴェルの違いからどしています。émoiまでになると障害、力の衰えが現れるて来るというのです。Regnungは刺激で、混乱へのアピール、騒乱émeutへのアピールです。ある時代までは、ちょうどBlochとWartenburgがémoiという語が定着した頃ですが、émeutはémotionの意味で使われていたのです。臣民の反体制運動という意味が付与されるのちは17世紀に入ってからなのでが … (図5)(V. M. : p.22 ; V. A. : p.17)と。つまり、Triebregungをémeute pulsionelleと仏訳すべきということでしょうか。はっきり言って強引です。でもラカンなのですから。   さて、問題は不安とはなになのかです。émotionではありません、affectです。でもaffectはなにかと単刀直入には切り込めません。affectではないものを押さえていって、最後にaffectに辿り着こうというのがラカンの作戦です。ただはっきりしていることといえば、affectそのものは抑圧されないということです。これはフロイトも言っていることですが、箍が外されると、affectは道を外し、狂った動きをし、逆さまになり、代謝されてしまうかもしれませんが、けっして抑圧はされません。抑圧されるのは、affectをつなぎ止めるシニフィアンなのです(V. M. : p.23 ; V. A. : p.18)。 いましがた、不安を捉える網がないぞ、だからセイフティー・ネットなしに綱渡りをするぞ、と意気がっていたラカンはこの日のセッションの最後に、自分で網を張ります。アリストテレスの修辞学(弁論術)に倣ってpassions(複数です。というより網によって複数となるのでしょう)を網によって捉えようとする。黒板に描いたシニフィアン(複数)こそこの網です、とラカンは言います4)。 4) ここでは、Heideggerの『存在と時間』の邦訳(細谷等訳、理想社)上巻、234-235頁を引用しておきます。 …情念についてもっとも古くから伝承されている体系的に周到な解釈が「心理学」の枠内で論述されたものでないことは、偶然のことではない。すなわちアリストテレスはpathe(情念)を、彼の『修辞学』の第二巻で考究している。この『修辞学』は ー 修辞学の概念をなにかある「学科」というようなものを念頭において考える伝統的見地に反して ー 相互存在の日常性の最初の体系的な解釈学として受けとられなくてはならない。世間の存在様相としての公開性(筆者)は、ただ一般に気分をもっているだけでなく、気分を必要とし、また自分で気分を「かもし出す」ものである。そして演説者はその気分に投じ、かつその気分に乗じて語るのである。それゆえ彼は気分をうまく呼び起こし、それを操るためには、さまざまな気分の可能性についての理解を必要とするわけである。  情念の解釈がさらにストアはで継承され、またそれが教父神学とスコラ神学をつうじて近 世に伝承された経緯は、よく知られている。いまだに注目されずにいることは、情念的なも の一般の原理的な存在論的解釈がアリストテレス以来、ほとんど言うに足るほどの前進をと げえずにいるという点である。それどころか、情念と感情は主題としては心的現象に一括さ れ、たいていはそれの第三類として、表象および意志と同列の役割をあてがわれるようにな る。それらは、たんなる随伴現象の地位に下落したのである。 そしてラカンはpsycho-logieではなく、érotologieを展開しようとします。érotologieとは欲望の実践学のことです。 (2007/08/31)