レヴィ=ストロースの『親族の基本構造』において示されている婚姻の法がまさにこのことを示しています。そこでは主体は、大文字のファロス、Φのもとに、交換において疎外されているのです。女性の交換のもとに隠されているのは、この女性たちを満たすファロスなのですから。だが、このファロスこそが重要なのだと見てはならないものです。見てしまうと不安が現れます。
ここからラカンは去勢コンプレックスの問題へとはなしを展開させます。複合の去勢(実際ラカンはla castration, du complexeと言っています)は去勢ではありません。自慰にふける男児に対し「そんなことをしているとそいつを切ってしまうぞ」といった文言の威嚇は幻想的威嚇menaces fantasmatiquesです。去勢はファロスへの自己愛的同一化を禁止するたものものだからです。
割礼における切断に話が及びます。Nunbergやその先代にあたる分析家は、割礼は、男性性を独立のものとして強化すると同時に、少なくともその不安を伴う出来事のもとで、去勢コンプレックスの効果を引き起こすとしています。ラカンは、ハンス少年の幻想(ラカンは夢と言っています)を例証として(GW. VII, p.300, 333 ; 邦訳 : 著作集, 216頁、242頁)、まさにこの去勢威嚇とされている親によるファロスの切断の言説を契機として、当のファロスは共有の対象objet commun、交換可能な対象objet échangeableとして現れてくるとしています。「錠前屋がやって来て浴槽のねじをはずす」、「錐でハンス少年の腹部に穴をあけこのねじを対象として取り付ける」といったテーマです。
ハイデッガー(最初のセッションの解説で、この日のセッション以降話題に上ることはありません,と書いてしまいましたが、読み落しです、すいません)の『存在と時間』、第一部(ご存知のように『存在と時間』の第二部は結局書かれないままでした)、第一編、第三章「世界の世界性」A ?環境性と世界性一般の分析?において、対象は「用具性」Zuhandenheitにおいて捉えられています。道具は世界を世界として開示はしません。その道具が使用不可能であることがわかったとき、あるいはなくしてしまったり、壊してしまったり、つまり手許にない状態Unzuhandenheitにおいて、その対象は道具としてのものを強く主張します。このZuhandenheitからVorhandenheitへの変容こそ道具連関が閃き現れるaufleichtenのであり、世界の閃き現れAufleuchten der Weltの契機となるものです。
精神分析の対象を論じるとき、やむなく発生論的になってしまいますが、ラカンに即して述べてゆくと、鏡像段階として、まず最初に一次的同一化が来ます。主体の、鏡像に対する、その全体像への最初の誤認が生じます。ついで想像的他者、かれのsemblableとのあいだに起きてくる移行的な段階がやって来ます。小文字の他者への同一化という解決の糸口が見つからない状態です。そこにみんなが欲しがる対象un commun objet、競合的な対象といった媒体が入ってきます。この対象のステータスは帰属といった概念から生まれます。… は君のものか僕のものかです。この次元においても、二種の対象が存在します。分有できるものとそうでないものです。分有できないものも分有の方向に向かいます。他の対象が選ばれるわけで、そのステータスは依然として競合に基づいています。この競合は曖昧なものであり、ライヴァル的でもあり和解でもあります。ここでの対象は相場に出すことが可能な対象、つまり交換可能な対象です。
ファロスという対象をラカンはまず挙げましたが、これは去勢とかかわるからです。しかし他の対象もあります。ご存知のように、ファロスと等価の、ファロスに先立つ対象、糞便、乳首があります。これら対象が自由に出回りもっぱら交換という領域で現れるとき、不安は対象のそのステータスの特異性を信号として知らせるのです。
フロイトが『性欲論三篇』で述べている、前駆快感とオルガスムスとの関係(ラカンは後者が<他者>の機能の介入によってのみもたらされる、としていますが、このような読解は『草稿』における<他者>に担われる役割についての読解となんら変わりありません)について、さらに『愛情生活の心理学』Beiträge zur Psychologie des Liebeslebensでの娼婦をと関係する男性のかれの母親との関係、ファロスの等価物が支えとなっている他の愛情関係について一寸触れた後、再びラカンは図23の説明に戻ります。
あるいは、愛の対象の選択における選ばれるエレメントとして機能するものはここ[A](つまり平面鏡の位置)、フロイトがいう自我のメカニズムに基づくEinschränkung制限によって画定される枠組みの次元において現れてきます。この視野champの制限はその都合に基づいて、あるタイプの対象を除外します。それはちょうど、母親との関係が影響している対象です。(自我の)ふたつのメカニズムは、お解りでしょうが、最初のセッションでお見せした図の斜めの線の端に当たる制止と不安です。このふたつのメカニズムを区別するのは性的事象においてこのふたつが上から下へと介入してくるのを掴んでいただきたいからです。
ここでラカンはこの「上から下へ」との表現について、転移と呼ばれている精神分析上の経験もそこに含ませます、と付言していますが、これはなんのことでしょう。転移については、1951年11月、パリで開催された14回フランス語精神分析学術会議で、ダニエル・ラガーシュの発表に対する質疑(そこではラカンは、相互主観的な転移の解釈をするラガーシュに対して、転移における、死の欲動がもたらす反復強迫を軽視していると批判を加えています)、1960-61年のセミネールとどこかで繋がっているのでしょうか。ドラ、シドニー・シラク(女性同性愛者の症例)についてはアクティング・アウト、行為化passage à l'acteとの関連で後日述べることとなりますが、Maurice Bouvetの同性愛的転移の夢については『無意識の形成物』(前掲)下、第XXIVおよび第XXV回目のセッションを参照してください。
図24の説明には、クロス・キャップを切断するプロセスを明らかにしておかねばなりません。前年度のセミネール『同一化』の第XXIII回目のセッションで射影平面を切断するに際して、まず曲面上に線を描いてゆくと前面の外面、前面の内面、後面の内面、後面の外面と4つの面にまたがることが確認されます(図25)。貫通線を一度横切ると、再度貫通線を横切ってゆかねばこの線自身によって輪を閉じることはできません。よれゆえこの線の軌跡は必然的に内部の8になりますが、軌跡は図26の(1),(2),(3),(4)に分類できます。前面の外面をα、後面の内面をβ、後面の内面をγ、後面の外面をδとするとαγ, αδ, βγ, βδおよびその逆行の軌跡だけが可能であり、たとえばαからβに行くにはγかδを経由しなければなりません。経由網は図27に示されます。左右どちらからの経由も可能です(non orienté)が、順序を踏まないとなりません(ordonné)。貫通線を挟んでαγとβδのカップルができます。こうして(1)はαγ、(2)はαδαγ、(3), (4)はαδβγといった軌跡を辿ることになります。
この日のセッションに話を戻します。図24の1は花瓶の首と口(穴)が描かれていますが、重要なのはこの穴の縁です。2は首と縁が変形されています。
ここから、昨年来わたしが言い続けてきた、同一化の機能に関するトポロジー的な考察について出番が回ってきました。昨年はこう説明しました、それは欲望の次元における同一化であり、同一化に関するフロイトの記述(邦訳 : 『集団心理学と自我の分析』VII 著作集6)では3番目のタイプ、ヒステリーに多く見られるタイプの同一化です。これらのトポロジー的考察の及ぶ影響と射程をお話しいたしましょう。長いことお待たせしてきましたが、対象にはふたつのものが区別されることは、クロス・キャップをみて直観的にお解りいただいているでしょうが、ひとつはaであり、もうひとつは鏡の関係から造り出される対象、対象一般、まさしく鏡像です。… 鏡像がそれがとって代わるものと区別されるのでしょうか。右の像が左の像になり、その逆になる所以がそこにあるのですが。視点を変えて言いましょう。フロイトが定式として述べていることを文字通りに解釈することが報われるとするならば、自我は曲面であるが、かれはこう言っています、曲面の投射である、と。純粋に曲面の術語で、トポロジー的にですが、問題を規定すべきです。鏡像はそれと重なり合う像との関係において、ちょうど右手の手袋が左手のそれに移行することですが、これはひとつの曲面上では、手袋を裏返しにすれば得られるものです(V. A. p.77)。
花瓶の上に載せられた対象である射影平面に記された切断に先立つ線の軌跡も(identificationでの分類では(1)に当たります)内部の8であり、これはメビウスの輪の縁と同一のものです(図28)。この線に沿って面を切断すると図29のように切痕を残した射影平面と円盤状のものが切り取られます。この切片をラカンはセッション中、聴講者のあいだに回して(それはどのような形をしたものだったのでしょう。少なくとも直観的には捉えることのできない対象なのですから)、これはaでありホスティアとしてあなたたちに捧げます、と言います。また
これはこのような切断によってもたらされるものです。切断が帯になされたものだとされようと、割礼の結果切り取られた包皮であるとされようと、その他どのような名を与えようとも。切断の結果、その切断がどのようなものであれ、メビウスの輪と比肩され得るなにかであり、鏡像をもたないものです(V. A. p.78)。
図23において、i(a)に対してi'(a)は鏡像で、理想自我にあたり、対象一般を成り立たせているものです。図28はこのi'(a)にXの位置にクロス・キャップのかたちを描き、その一部を切り取り取り、「それがあなたたち(聴講者)が手にしているものです」とラカンは言います。後に残された花瓶はその口がメビウスの輪となります(図24が示しています)。鏡像は奇妙な、分身が侵入してくる像となります。モーパッサンの『オルラ』に出てくる分身のようにです。分身に遮られて主人公は自分の姿を鏡に映し出すことができません。分身は背を向けているのでかれには見ることができません。分身が振り向くと、それは主人公の姿なのです。(2007/10/29)