『エクリ』所収の『ダニエル・ラガーシュの報告「精神分析と人格の構造」についての考察』において、光学装置は、ブアスの原図の場合は、視点OがB´を頂点とし、母線であるB´β、B´γ円錐の内部に位置していないと、錯覚は生じない(邦訳『エクリ』III 126頁)。ラカンによる凹面鏡と平面鏡との組合わせの装置(同、128頁)においては、眼は、やはり実線で示された円錐の内部で、また凹面鏡の延長として示される破線の楕円の内部に位置しなくては、花瓶のなかに入った花の像を見ることができない。

図36に記された花瓶の縁と平面鏡の上限から引かれた直線がその境界を示しています。この境界内に映し出されるものが、世界という錯覚であり、この錯覚は、承認の錯覚を生み、さらにはラカンがいうシーンも錯覚のシーンなのです。そしてこの境界はpoinçonあるいはlosangeによって表されるのです。

錯覚により映し出されるものは理想自我です。眼の位置をずらすことにより、錯覚が錯覚であることが解る訳です。自我理想は像の在-不在の象徴的取り込みにより成立してくるものです。因に像i(a)と理想自我、自我理想との関係については、ラカンはナルシシスムとの関連でとり上げることが多いのですが、一次性ナルシシスムのとり扱いについては時代によってさまざまです。


Les écrits techniques de Freud 24 MARS 1954

narcissisme primaire(ラカンはここではpremier narcissismeと言っている)は、au niveau de l'image réelle de mon schéma, pour autant qu'elle permet d'organiser l'ensemble de la réalité dans un certain nombre de cadre préformés (p.144)としている。

また
Chez l'homme par contre, la réflexion dans le miroir manifeste une possibilité noétique originale, et introduit un second narcissisme (p.144).

さらに、
L'autre, l'alter ego, se confond plus ou moins, de son les étapes de la vie, avec l'Ich-Idéal, cet idéal du moi tout le temps invoqué dans l'article de Freud. L'identification narcissique - le mot d'identification, indifférencié, est inutilisable - celle du second narcissisme … (p.144)

溯って
Les instances que Freud élabore ne doivent pas être tenues pour substantielles, pour épipheénoménales par rapport à la modification de l'appareil lui-même. C'est donc par un schéma optique que doivent être interprétées les instances (p.142).

XIV- La logique du fantasme. 1966-1967
15 Mars 1967 のセッションはどうゆうわけか、André Greenがラカンに代わって、喋り続けます。以下Greenの説明です。
 因って、一次性ナルシシスムの投げかけるものとしての主体の統一性の問題は、以下のように結論することができるでしょう。ラカンは他の分析家が言う融合fusion説には批判的であり続けました。わたしもこの批判には同意見です。思うに、ラカンが指摘する統合する一 (Un)と数える一との違いは重要です。また、回路を閉じるといった営為においてこの違いがわれわれに示されます。数の連鎖の支えとしてこの回路を閉じることが必要なのです。そのなかで、あらゆる意味において、ゼロを数え上げることができ、このゼロは子供にとって一次性ナルシシスムのゼロであり、母親の一へと統合されるのです。

XXIII-Le sinthome. 11 Mai 1976

Joyceにおいてはボロメオの輪に欠陥があり(つまり、無意識が現実界と結ばれており〔p.154〕)、RとSの輪は絡み目となっているため、Iの輪はそのままでは、抜け落ちてしまう(図、p.151)。これはエクリテュールにおけるラプシュスlapsus calamiに基づいているものです。Iの輪とR, Sの輪が離れないように、矯正的なエゴego correcteurが挿入される(図p.152)。

現実は、ちょうどエゴにかかわるものによって説明されますが、つまりは、快感-自我Lust-Ichは一次性ナルシシスムという段階があり、この段階の特徴としては、そこには主体は存在しないということではなく、内部と外部が関係を持たないということが挙げられます。
 

次回のセッションの導入がなされます。ドラの症例に続いて、「若き女性同性愛者の一例」として知られる、実名Sidonie Csilagの自殺企図(ウィーンの鉄道が通っている溝渠に身を投じたのですが、フロイトはこの行為をniederkommenという動詞を用いています)、6)行為化passage àl'acteの導入ですが、ラカンは女優であり高級娼婦であったLéonie von Puttkamerへの一途の愛は宮廷風愛amour courtoisに匹敵するものであり、相手はDameであり、かの女に花束を贈り続ける行為はまさに騎士chevalierのそれであり、現実に、Epel社から刊行されているInes ReiderとDiana Voigt(Thomas Gindeleの仏語訳)、Sidonie Csillag-homosexuelle chez Freud Lesbienne dans le siècleにはかの女の「バラの騎士」の衣装に身を包んだ、写真が掲載されています。Jean Allouchは"Ombre de ton chien- Discours lesbien"と題する書物のなかで、Dameに身を捧げる騎士道的愛をla chiennerie amoureuseと形容しています(ここでは犬chienあるいはchienneは哀れなものではありますが、愛における無償の忠誠の象徴です。マタイ伝のなかに出てくる犬もペジョラティフな意味でキリストの口から発せられますが、その実、神への忠誠を体現しています)。かの女の父親(ラカン曰く、かの女の父親に対する愛は大文字のPhiであったのですが)がInes Reiderと街角ですれ違ったときの嫌悪感をこめた一瞥、かの女に弟が生まれたこと、二人に対する町中の後ろ指を指すような蔑視、そしてフロイト自身の無理解と責任放棄、passage à l'acteは起こるべくして起きたといえましょう。しかもFreud自身、niederkommenという語を深く追究していませんでした。ラカンはル・モンド紙に"l'héroïne de UN métier de chien"という記事を書きました。ヴィクターの「蓄音機の朝顔から主人の声を聴くワンちゃん」のイメージを思い起こさせます。


6) Séminaire IV, séance VI, VII, VIII (邦訳、『対象関係』上、117-188頁)を参照してください。
最初のセッションの図2に戻って、embarrasは父親の視線が向けられることに対する同意(かの女は街なかで白昼堂々とLéonieと一緒に居ることを、ことさら父親に見つかるように行動していたのですから)と実際はrejetあるいはdéjetを含意している視線との落差で覚えるものであり、émotionとは、Léonieと一緒に居合わせているこのシーンにかの女自身がいかんとも対応できないことを示すもので、passage à l'acteは言わずもがな患者のaへの同一化、自殺企図です。acting-outとの関連については次回のセッションで明らかにされます。喪と対象との同一化についてもラカンは触れますが、時間がありません。いわゆるdéfenestrationとの関係について、一番最後のセッション(1963年7月3日)で問題となりますので、小生もそこで説明します。
 いずれにしても、次回のセッションで、passage à l'acteとacting-outとを若き女性同性愛者とドラの症例において取りあげられますので、先送りします。(2007/12/20)