KOIDEさんが、8月26日、9月26日に発表したもののレジュメの後半部分です。
9月です。コンパクト性の話を始める前に位相空間論の準備をしなくてはいけません。よってBousseyrouxもそこから話を始めています。
女性のトポロジー:そこでは有限は無限を超え、他者は存在することなく数えられる
ここではトポロジーといっても結び目のトポロジーの話ではなく、位相空間論について述べられています。ここで開集合と閉集合、つまり空間に位相を入れるための代表的な集合が、極限limiteとの関連で引き合いに出されています。また。制限された全体と制限されていない全体、極限を含む閉集合と極限を含まない開集合が対比されています。Bousseyrouxは、大文字の他者(以下の他者はすべて大文字です)は開かれている空間である、つまり極限が排除された集合、内部(数学的には開集合のことでしょう)と同一視できるもの、ゆえに原抑圧の穴であると言っています。
ついでラカンが参照した参考文献として、ブルバキの『一般位相空間論』や、カルタンのフィルター(収束の概念を抽象的な空間、例えば距離のない空間にまで広げたものです)にまで言及されていますが、この本は数学に不慣れな人が読んでもほとんど分からない代物です。ですからもう少しイメージが可能で、普通の解析学の教科書にも書かれているユークリッド空間の位相で考えてみればとりあえず十分だと思います。ブルバキはボレル・ルベーグの公理によってコンパクト空間を特徴づけていますが、ここでは話を単純化してユークリッド空間で考えれば十分ですので「ハイネ・ボレルの被覆定理」を使って我々は考えていきましょう。この定理によれば、任意個の開区間で覆われている閉区間が有限個の開区間によって覆うことができればコンパクトである、要は数直線上の有界閉区間はコンパクト集合なのです。一点集合はその特別な場合なのでやはりコンパクトである、このことを念頭に置いておきましょう。
ラカンの『アンコール』によれば(といってもBousseyrouxの解説です)、phalliqueな性的享楽は縁づけられ、閉じているがゆえにコンパクトなのです。コンパクト空間は、ラカンが亀裂と呼んでいるところの極限=集積点を含み、またこの亀裂は逆説的にもコンパクトなのです。他者の身体との出会いの極限Φとして、この「少なくとも一つの集積点」は例外の機能を果たす、とBousseyrouxは述べています。さらにゼノンのパラドックスについても触れられていますが、アキレスと亀の話の一つの数学的定式化としてのコーシー列と収束列の違いについては認識しておくとよいでしょう。収束列はコーシー列になりますが、コーシー列は必ずしも収束列になるとは限りません。簡単な反例は位相や解析の教科書に載っています。このような数学的な注意点は繊細の精神を養うためにはうってつけなので、ラカンを通して数学を勉強しようとする人は、一度は自分で確かめてみるとよいでしょう。
さてつぎのパラグラフに書かれている図では、数直線上の一点Φが有限個の開集合で覆われていることが示されています。Bousseyrouxはボレル・ルベーグの公理、我々は「ハイネ・ボレルの被覆定理」で考えていますが、この定理の特徴は任意個、つまり無限個から有限個への跳躍にあると私は考えています。一度は定理の証明も追ってみるのもよいでしょう。証明の構造を見てみると、数学的思考が有限と無限の間をどのように動くのか典型的な論法を見てとれるからです。さてBousseyrouxは、phalliqueな無限性はUnsやUnesの有限性によって「乗り越えられるsur-passable」と述べています。この後にブルバキによる有限の定義や『ドン・ジョヴァンニ』の歌の話が入ってきます。そして一人の女性une femmeについて大切なことは、「存在することなく数えられる」ことである、というラカンの言葉を引用してきます。これが最後の節につながっていきます。
人々が信じ、かつ存在しないこの身体
この節はボロメオの輪について述べられていますが、中途半端なまとめという感じなので省略します。
グッドスタインの定理と−1の機能
この節でBousseyrouxは「グッドスタインの定理」に言及しています。この定理について詳しく知りたい人は、例えばWikipediaなどを参照してください( http://en.wikipedia.org/wiki/Goodstein's_theorem)。なぜなら有名な数理論理学の教科書には載っていない定理なのです。特に日本ではあまり知られていないのではないでしょうか。とにかく重要なことは、この定理に出てくるアルゴリズムである数列を作っていくと、途中で巨大な有限の数(宇宙の原子の数に相当するような数!)が出てきても、−1という計算をするステップ(−1という機能)のおかげで、このグッドスタイン列という数列は結局0に収束してしまう、ということにあります。巨大な有限数が絶妙なタイミングで入る−1という計算のおかげで、0になってしまうというのはやはり驚きです。この定理はペアノの公理系からは証明できない定理であり、ゲーデルの不完全性定理の具体的な一例となっています。この定理は1981年にKirby & Paris (1982)によって証明されました。Bousseyrouxはこの結果を大変高く評価しており、ラカンが『アンコール』で言ったLe reel en jeu(賭けられている現実界、とでも訳すのでしょうか)の数学的定式化であると述べています。そして、数に入る一人の女性、−1として数に入る一人の女性、ゆえに線を引かれた他者として数に入る女性、この女性こそが計算されるarithm-etrisableことなしに数えられるのだと断言して論文を締めくくっています。
Bousseyrouxの論文は、ラカンの ”le pastout” の問題点を指摘し、かつ位相空間論や数理論理学の新しい結果も使いながら整理・解明を試みようとしていますが、よくわからない点があるのも確かです。アナロジーとしての数学は適切なものなのか考えさせられます。とにかくラカンのセミネールの言葉に沿いながら考えていくしかないのでしょう。
9月です。コンパクト性の話を始める前に位相空間論の準備をしなくてはいけません。よってBousseyrouxもそこから話を始めています。
女性のトポロジー:そこでは有限は無限を超え、他者は存在することなく数えられる
ここではトポロジーといっても結び目のトポロジーの話ではなく、位相空間論について述べられています。ここで開集合と閉集合、つまり空間に位相を入れるための代表的な集合が、極限limiteとの関連で引き合いに出されています。また。制限された全体と制限されていない全体、極限を含む閉集合と極限を含まない開集合が対比されています。Bousseyrouxは、大文字の他者(以下の他者はすべて大文字です)は開かれている空間である、つまり極限が排除された集合、内部(数学的には開集合のことでしょう)と同一視できるもの、ゆえに原抑圧の穴であると言っています。
ついでラカンが参照した参考文献として、ブルバキの『一般位相空間論』や、カルタンのフィルター(収束の概念を抽象的な空間、例えば距離のない空間にまで広げたものです)にまで言及されていますが、この本は数学に不慣れな人が読んでもほとんど分からない代物です。ですからもう少しイメージが可能で、普通の解析学の教科書にも書かれているユークリッド空間の位相で考えてみればとりあえず十分だと思います。ブルバキはボレル・ルベーグの公理によってコンパクト空間を特徴づけていますが、ここでは話を単純化してユークリッド空間で考えれば十分ですので「ハイネ・ボレルの被覆定理」を使って我々は考えていきましょう。この定理によれば、任意個の開区間で覆われている閉区間が有限個の開区間によって覆うことができればコンパクトである、要は数直線上の有界閉区間はコンパクト集合なのです。一点集合はその特別な場合なのでやはりコンパクトである、このことを念頭に置いておきましょう。
ラカンの『アンコール』によれば(といってもBousseyrouxの解説です)、phalliqueな性的享楽は縁づけられ、閉じているがゆえにコンパクトなのです。コンパクト空間は、ラカンが亀裂と呼んでいるところの極限=集積点を含み、またこの亀裂は逆説的にもコンパクトなのです。他者の身体との出会いの極限Φとして、この「少なくとも一つの集積点」は例外の機能を果たす、とBousseyrouxは述べています。さらにゼノンのパラドックスについても触れられていますが、アキレスと亀の話の一つの数学的定式化としてのコーシー列と収束列の違いについては認識しておくとよいでしょう。収束列はコーシー列になりますが、コーシー列は必ずしも収束列になるとは限りません。簡単な反例は位相や解析の教科書に載っています。このような数学的な注意点は繊細の精神を養うためにはうってつけなので、ラカンを通して数学を勉強しようとする人は、一度は自分で確かめてみるとよいでしょう。
さてつぎのパラグラフに書かれている図では、数直線上の一点Φが有限個の開集合で覆われていることが示されています。Bousseyrouxはボレル・ルベーグの公理、我々は「ハイネ・ボレルの被覆定理」で考えていますが、この定理の特徴は任意個、つまり無限個から有限個への跳躍にあると私は考えています。一度は定理の証明も追ってみるのもよいでしょう。証明の構造を見てみると、数学的思考が有限と無限の間をどのように動くのか典型的な論法を見てとれるからです。さてBousseyrouxは、phalliqueな無限性はUnsやUnesの有限性によって「乗り越えられるsur-passable」と述べています。この後にブルバキによる有限の定義や『ドン・ジョヴァンニ』の歌の話が入ってきます。そして一人の女性une femmeについて大切なことは、「存在することなく数えられる」ことである、というラカンの言葉を引用してきます。これが最後の節につながっていきます。
人々が信じ、かつ存在しないこの身体
この節はボロメオの輪について述べられていますが、中途半端なまとめという感じなので省略します。
グッドスタインの定理と−1の機能
この節でBousseyrouxは「グッドスタインの定理」に言及しています。この定理について詳しく知りたい人は、例えばWikipediaなどを参照してください( http://en.wikipedia.org/wiki/Goodstein's_theorem)。なぜなら有名な数理論理学の教科書には載っていない定理なのです。特に日本ではあまり知られていないのではないでしょうか。とにかく重要なことは、この定理に出てくるアルゴリズムである数列を作っていくと、途中で巨大な有限の数(宇宙の原子の数に相当するような数!)が出てきても、−1という計算をするステップ(−1という機能)のおかげで、このグッドスタイン列という数列は結局0に収束してしまう、ということにあります。巨大な有限数が絶妙なタイミングで入る−1という計算のおかげで、0になってしまうというのはやはり驚きです。この定理はペアノの公理系からは証明できない定理であり、ゲーデルの不完全性定理の具体的な一例となっています。この定理は1981年にKirby & Paris (1982)によって証明されました。Bousseyrouxはこの結果を大変高く評価しており、ラカンが『アンコール』で言ったLe reel en jeu(賭けられている現実界、とでも訳すのでしょうか)の数学的定式化であると述べています。そして、数に入る一人の女性、−1として数に入る一人の女性、ゆえに線を引かれた他者として数に入る女性、この女性こそが計算されるarithm-etrisableことなしに数えられるのだと断言して論文を締めくくっています。
Bousseyrouxの論文は、ラカンの ”le pastout” の問題点を指摘し、かつ位相空間論や数理論理学の新しい結果も使いながら整理・解明を試みようとしていますが、よくわからない点があるのも確かです。アナロジーとしての数学は適切なものなのか考えさせられます。とにかくラカンのセミネールの言葉に沿いながら考えていくしかないのでしょう。